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2013年6月15日土曜日

癖になる味

癖になる味

このところ昼飯時になると事務所を飛び出し、山手通り沿いの「香家」に入ってしまう。
目的は汁なし坦々麺である。今までも数回色々な店でこの手の坦々麺を食べたが気に入ったものは無かった。結論、どの店も中庸。
この「香家」の汁なし坦々麺は最初食べるとその鮮烈な山椒の辛さと、唐辛子を練り込んだ麺のダブルパンチで口がしびれて味が分からなくなる。
2回目に食べると、多少耐性が出来たのか唐辛子の甘みのようなものが感じられる。
そして3回食べると不思議な事に辛さに慣れてくる。
この店はいつも直球勝負なのだ。変化球など投げてこない。ずはっとインハイをついてくる。そこまで辛いものは駄目だと言う人にも、ちゃんと中速や低速のボールも用意してある。ただ、私は三振してもインハイの高速球を思いっきり振り切りたいので一番辛いものにさらに香菜をタブルで頼む。全てを器の中で良くかき混ぜて混然一体となった麺を口に入れる。間違っても啜っては駄目だ。辛さが喉にはりついてしまうから。梅雨の晴れ間の続く今日、また飛び出してインハイの直球を振りに出かけるか・・・


出店 中目黒「香家」



考えるということ

考えると言う事

以前から日本人のメディアリテラシーの弱さを訴えてきた。新聞を始めとするマスコミの多くの情報に流される。尤、明治以降土着の宗教心は悉く分解され再構築されているのだから仕方がないと言えば仕方がないのだが、もう少しましにならないか心配になる。
イトイさんがとても良い事を言っていた。何かを調べようとするとき、その筋の専門家には聞いてはいけないということである。これはその通りだと思う。最初に聞いたその専門家の意見がベースになってしまう。そうするとスタートの時点で左右上下の座標軸が動いてしまう。調整しようとしても中々上手くいかず、結局公正な判断にならないからだ。
そしてもうひとつそうして実感として手に入れたものでない知識は役に立たないことだ。
暗中模索、手探りで壁にぶつかりながら、方向を変え、様々なアンテナを働かして何かを得る知識は例え、専門家のそれとは違っていてもその道程が意味を持つ。
考えるとはそういうことだと思う。
インターネットの出現によって解消されるのかと言えば、答えは否である。解消どころかインターネットによって玉石混交の情報はさらに分離、独立し系統性を失う。ひとつのジャンルの情報だけではもはや関係性を見出す事は不可能なのである。
では何が必要なのだろうか。ひとえに多くの情報を俯瞰して見抜く目である。そう鷹が上空高くから、獲物とそうでないものを見抜くように、人間も情報の詰まったカプセルを瞬時に見抜き、関連させていく作業の事である。
なあに難しそうに見えるが慣れれば簡単な事である。どの情報とどの情報が関連しているのかパズルを解くように分かる。これを勝手に脳が判断していく。
例えば、アベノミクス、株安、円高、長期金利の上昇、米中対話、トルコのデモ、こうした情報を脳の篩にかけて再構築する。そう全ては密接に繋がっているからだ。この世の中関係の無いことなど実はないのだ。ひとつのゆらぎが宇宙を作ったように、この世に実在する現象の全ては関係性を持つ。
ある専門家が株価は2万円になると言っていた。それはそれでいい。その専門家はそう思っているのだから。
しかし、そこで私は考える。情報のカプセルを俯瞰して、そうなることの必然性を探して見るが、見当たらない。そう考えるとはそうした作業の繰り返し、積み重ねなのである。