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2013年3月13日水曜日

小泉構造改革とは何だったのか


小泉構造改革とは何だったのか

今ほど民意が失われた時代はなかったのではないか。当時の小泉首相が郵政民営化を訴え国民的支持を集めたのは周知のとおりであるが、その後の自民党はその謳い文句さえぐずぐずだらだらとひっくり返して郵政民営化を白紙にしてしまった。子供の日直のように目まぐるしく首相は変わり、長期的政策は何一つ行われてこなかった。その結果、国民は自民党に嫌気がさした。そこで民主党を支持した。しかし、その民主党はそもそも寄せ集めの党であるから、政策の違い、いやいや政策ならまだしも己たちの権益の確保のため同党内で相克した。その後の国民は安部首相を支持したのではない。自民党を支持したのではない。他に投票できなかったのだ。ところがどうだろう、ブレーンが変わった途端に日経平均が上昇し、円安が加速した。アベノミクスの効果だろうか?いやいやそんな事はない。結果論。レーガノミクスの時もそうだった。その前から伏線はあったのだ。新自由主義は小泉首相同様、結果批判の対象にされている。フリードマンをはじめとするこの手の経済政策の騎手はボロボロである。経済学の分野でも公共経済学や厚生経済学という言葉がよく使われる。しかし私は反グローバル主義を掲げる経済学者を信用しない。日曜日の朝番組に出演しているK氏や彼と同学のJ氏など声高にこの事を訴えている。彼らは息子の学校の先輩ではあるが何故か静的思考だ。どうみても日本がスェーデンのようになれるわけがない。レーガノミクスの時に言われ続けてきた大企業が利潤を生めば、そこで働く社員の消費も拡大し効果は循環的に及ぶとしたトリクルダウン理論は後で嘘だった事が分かった。そもそも、そんなに調子の良い事があるわけがない。はじめからレトリックだったのだ。

グローバル主義は好き嫌い関係なく、すでに始まっている。私達がユビキタスの社会を目指したときからはじまっているのだ。宇宙の膨張と同様に附加逆的でその進行を止めることはできない。水が高いところから低いところに流れるごとく、富のその流れはきまっている。大きなイノベーションの渦中にいるとその事が分からない。今まさにその流れの中にいるのではないか。19世紀のパックス・ブリタニカから20世紀のパックス・アメリカーナの国家の時代は21世紀の今終焉しようとしている。民族、国家、政治、宗教我々には多くの壁があった。この壁によって安全や利便性を享受してきたし、一方で様々な活動を阻害してきた。その壁が今崩れようとしている。鈴木健氏によればその後の社会はなめらかな秩序を特徴とするらしい。前述した国家、政治、軍隊などは敵となる。鈴木健氏はサルガッソーなる集団を率いる。サルガッソーとは魔の海域バミューダトライアングルのこと。サルガッソーというホンダワラの一種が海に漂って行く手を阻む。この海域は表面にはプランクトンがおらず海底に集積していと言う。透明度は60メートルを超える。

話が脱線した。

小泉構造改革が失敗だったのは唯一途中で止めたことだという人とがいる。私も同意だ。

この改革により格差が拡大し、弱者が輩出されるのは制度的問題だという。そうだろうか、制度と言うより社会そのものをひとつの細胞に例えるならアポトーシス(apoptoisis)が始まりかけている。自身による内部崩壊の一歩手前まできているのではないか。それを制度的問題に置き換えるのは経済学者の浅はかさだ。

数年前、三浦展氏が「下流社会」を上梓した。下流社会は流行語にもなった。

この下流化の現象は今も進んでいるのだろうか。答えはイエスでもありノーでもある。情報というものが簡単に手に入れられるようになった。しかしこの事はテレビのニュース漫然として眺めているような訳にはいかない。自分で関係性を成立させ、積極的に情報を掴んでいかなければならないからだ。その意味においてそうしているものとそうでないものの情報格差がそのまま経済格差に繋がる。情報貧乏が存在するのだ。

もちろんグローバル化を止める唯一の方法がある。それは鎖国だ。お隣の国のように国際社会は関係ないとばかり、一切の門戸を閉ざしてしまえば良い。でもそんなことしたら国内で暴動がおこることは必至である。人間は一度便利さを手に入れたらそれを簡単には手放さないのだ。



 

落ち着きのない子供



子供の頃よく落ち着きのない子供だと言われた。今でも変わらないと思う。何分、キファーサザーランド主演の24を倍速で観るくらいだから・・

もうひとつ、お前は普通の事が出来ないのかと言われた。でも普通って何だろうとその時も今も思っている。

普通の話はさていおき、そのような性格の訳だから、この歳を過ぎてもとにかく興味がある事が多すぎる。

音楽にしても一貫したものがない。あれこれとその日の気分に合わせて見繕ってしまう。

その道を極めた人に言わせればお前はサーフェイスだと言われると思うし、それでも仕方ないと思っている。

今日も運転していて突然スティーブマックイーンの邦題「栄光のルマン」を思い出した。同時にポールニューマンとロバートレッドフォードの「明日に向かってうて」をイメージした。あの映画は最初スティーブマックイーンが演じる予定だったのを辞退して、彼の奥さんがレットフォードを薦めたと言われているから。頭の中は映画で使われたバートバカラックの「雨にぬれても」が木魂し始めた。そうそう歌っていたのはBJ・トーマス、当時の彼はマイケルフランクスみたいな髪型だった。あの当時はあんな髪型が流行っていた。今見るとちょっと強面がジャックニコルソンみたいだけどニコラ・コンテのような明るく伸びのあるあの歌声は健在だ。

でも彼の歌声だけじゃちょいとこの春空の良い面しか見えてこない。物事の反対の側面だってあるはずだ。ならばブラジルの国民的マルチタレントのイヴィッチ・サンガーロの陰のある歌声のデュエットでどうだ。今朝のスターターが決まった。二人のデュエットする「イパネマの娘」。

子供の頃は裕福とは言える家庭ではなかったが、母は無理をして色々やらせてくれた。ピアノは先生が教えようとしても手を押さえて勝手に弾くので2回で辞めさせられた。絵の教室には通っていた。中学になるまで真剣にその道に進もうと思った。

中学になって美術教師に「お前の絵は枠をはみ出していて駄目だ」と言われた。それから描くことが嫌いになった。あの教師の名前も今は覚えていない。

人間は所詮、一言で表せるものではない。良い面も悪い面も必ず存在する。せっかちだという半面、悠長な部分もある。だから大人が子供を断定することは絶対にしてはいけない。

子供の頃、私が人生で一番嫌いなプレゼントをもらった記憶がある。人生最悪のプレゼントとは小さな木製の盾。当時、地方の土産物屋に行くと根性とか忍耐とかまるでスポコンアニメのセリフのような、多くは2文字の漢字で書かれた小さな木製の盾が売っていた。私はこれをもらった。盾には忍耐と書いてあった。すぐに捨てた。

人間も音楽も同じだと思う。聞きたい時もあれば聞きたくない時もある。良い部分もあれば悪い部分もある。玉石混交。今日会う人の良い面を見つけよう。