コウシンソウ
少年は怖い夢を見た。べとついた真っ赤な大きな口をあけたナニモノかに飲みこまれる夢だった。少年は必死に助けを求めるがその声は聞こえない。次第に少年はそのナニモノかに飲みこまれ体の半分が溶けたところで、風の音で目が覚めた。
生ぬるい湿った夏の風が建てつけの悪い木製の窓からするりと抜けて室内に入り込んできてカーテンを揺らしていた。月の光も雲に隠れてあたりは真っ暗だった。
少年は明日、両親とハイキングに行く約束だった。少年はあまり乗り気ではなかった。
少年は長い夏休みを実家から1時間以上離れたこの山奥で暮らさなければならなかった。父親はこの山奥で作陶していた。窯はレンガで高くドーム状に積まれ少年が手を伸ばしても届かないほどのものだった。そのドームの形をした窯の周りには燃料の薪が同じように高く積まれていた。その薪の中からコオロギの声が毎夜聞こえた。少年はその薪の小さな隙間が嫌いだった。コオロギに限らず多くの森の魑魅魍魎が住み着いているからだ。コオロギはまだ良い。後ろ脚が異常に長くて体が縞模様の虫がいる。カマドウマという虫。少年はこの虫が薪に潰されたところを見たことがある。その死骸は胴体を真っぷたつに潰され、ドロドロした体液と一緒に無数の寄生虫が這い出していた。それ以来、この虫を触る事も見る事もできなくなった。
この窯のある建物には畳敷きの部屋があった。玄関が別に設けられこの部屋で食事や睡眠をとることが多かったが、徒歩5分程のところに土台が石で積まれた別の家を持っていた。父親がここで窯業を始める条件として街が与えてくれ町営別荘だった。その建物がある場所がマムシ沢と呼ばれて人が近づかない場所であることはずっと後で知った。
少年は別荘に泊ることがさらに嫌いだった。トイレは室内になく一度外に出なければならない。別荘の後ろの山の上には大きな岩が飛び出ていて、落ちてきたらひとたまりも無かった。夜になると山の中から無数の昆虫が僅かな家の光を求めてガラス窓にぶっかってくる。大きなスズメガは、バチンと虫ではないような気味の悪い音をたてる。少年はカーテンをしめて窓から出来るだけ離れた場所で寝ようとしたが寝つけるものではなかった。
翌朝、父親の白いファミリアに3人が乗り込み庚申山へ向かう。
非力な車はぜいはあと白い煙を出しながら砂利道を走っていく。庚申山は南総里見八犬伝にも登場する信仰の山だと言う事は子供ながらに知っていた。行く途中、カジカ荘という簡素な国民宿舎で昼食をとり、歩いて庚申山に向かった。
昼の森の中はうって変わって陽気だった。木々の間から光が漏れ、明るかった。頂上につく手前で、小さな花が群生している所を見つけた。両親ともその花の名前は知らなかった。ただ、薄紫色の花弁の色とその形から菫の仲間ではないかと口を揃えた。
夕刻に家に戻った少年は持ってきていた植物図鑑を開いた。その花はこのあたりにしかない花で「コウシンソウ」と書かれていた。少年はその花が「ムシトリスミレ」という食虫植物である事をその時知った。