分袂のラーメン
だいぶ昔の事になるが、私は某組合の嘱託の仕事をしていた。組合員数3000名以上と都内でも有数の規模を誇った。毎週開催される無料相談が私の主な仕事だったが多い日には4.5組の相談を受け持たなければならなかった。開催されるのは土曜日と決まっていたからこの頃の私には少なくとも土曜日は休日ではなかった。
その組合は戸越銀座にあった。この周辺は物価が安かった。当時でも破格の鮮魚店には黒山の人だかりで私は近づく気にもならなかった。
この頃の私は猪突猛進宜しく何事も体当たりだった。建築主事に詰め寄り但し書きの適用を求めるため近隣の住民の著名活動を行ったり、1週間以上連続で許認可のため建築課に通い続けたこともあった。もちろん無給で。
次第に組合がどのような仕組みでそしてどうして成り立っているのか、勘の悪い私でも次第に分かってきた。そうなると人々の言葉が空々しく感じて嫌悪感は一気に膨れ上がった。
組合の構造は崩壊したソヴィエトの官僚主義のそのものだった。見返りを求めずただ人のためになるという一点で働いてきた私はそれまで蓄積された疲れがどっとタールのように全身にのしかかりもはや再起不能になっていた。もはや今まで通り続けることなど出来なかった。
そんなとき一杯のラーメンが私を救った。隣の荏原中延の駅前にあった「多賀野」というラーメン店である。今は有名店で行列が絶えないが、その当時、純東京風のラーメンが逆に新鮮だった。
店内に入るなり女将さんの優しい声が嬉しかった。醤油味のあっさりしたスープは奥行きがあって実に折り目正しかった。チャーシューも部位の違うものをそれぞれ用意し、しっかりと自己主張してやわではないがバランスを壊していない。煮卵にいたってはそのスープとの相性まで拘り全て完成していた。麺はもちろんこしがあって喉越しが良い。カンスイは少なめだ。スープを最後の一滴まで飲み干して、私はどんぶりを置きながらその嘱託を辞する決心をしていた。
人生にはこうした心に響く食べ物がいくつかある。私の場合はこの折り目正しい一杯のラーメンによって救われたと言うべきか、それとも反故にされたというべきか結論は持ち越している。いずれにせよ分袂のラーメンだった。その味が今も変わっていないことに正直ほっとした。