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2015年10月20日火曜日

お肉についての一考察

先日STEAK REVORUTIONという美味しい肉を求めて世界中を飛び回るというロードムービーを見てきた。NYのブルックリンにあるピーター・ルーガーステーキハウスや世界中のステーキハウスが紹介されていた。日本でも築地さいとうが紹介されていた。

 ただし、いささか日本の和牛についての考察は薄っぺらである。鎌倉東急の駅前にあるH商店をして、日本の和牛はおかずとしての要素が高く、厚く切って食べないのですき焼きやしゃぶしゃぶが向いているので、脂身の多い和牛が最適だと言わしめていた。この店など鎌倉に在住する人なら既知の事であるけれどこ゜く普通の肉屋だった。その店は最近、トレンドを意識して高級感のある店構えになったが、本当なら大町のK牛肉店や葉山のA牛肉店を取材して欲しかったが、それでは映画の構成にならないと脚本家が意識したのだろう。

 確かに松坂牛や神戸牛のランクはサシの多さで等級が決まるのは昔からの習わしで仕方ないが、中勢以中店を取材しておきながら、赤身と熟成肉に触れないのは片手落ちである。特に最近はこの赤身と熟成肉に注目が集まっているのに残念である。
 そもそも、日本のステーキハウスの代表として取材された「築地さいとう」は鉄板焼きのお店である。 確かに鉄板焼きもステーキの一つであろうが素材や趣向も違うので同じ目線で評価するべきではない。もちろん日本のステーキハウスはこの店のように鉄板焼きステーキの店が多い。しかし、それがイコールサシの多い和牛を志向すると言うのは思い違いである。

 それともうひとつ、この映画が鼻をついたのは、まずエコロジーありきで始まっている。配合飼料はダメで、自然放牧が最高だと決めつけている。それが地球環境にやさしいからだと。そんな事を言われたら山がちで狭い国土の我が国など牛肉は庶民の口に入らなくなる。仕方なしに、オーストラリアやアメリカから輸入すれば長い距離を運ばれてくる燃料コストを考えてエコロジーになるのであろうか全くもって内容が陳腐である。内容も知らされず好相で映画に出演していた松坂の農家の方が可哀想である。

 肉の味が濃ければそれが旨い牛ということになるのであろうか。若い牛は若い牛なりの、年老いた牛は年老いた牛なりの旨さや調理法があるはずだ。

 映画の冒頭で硬そうな肉にエシャロットと仕上げにヘーゼルナッツオイルを掛ける料理はこの映画では番外となるが、硬い肉だって味付けと調理法で旨くなるという良い例なのにとても残念である。

えっ、それを食べたことがあるかって?
もちろんあります。日本のBLTステーキハウスでランチメニューとして提供しています。因みに肉は前足の肩の部分です。

2015年10月
https://www.facebook.com/masahiko.sugihara


2015年9月8日火曜日

うなぎクライシス2
 私の育った街は川に囲まれていた。家のすぐ裏手には渡良瀬川が流れていた。当時は悪名高い足尾の鉱毒こそ流されなくなったものの、様々な生活排水が流れ込み綺麗ではなかった。魚といえばハヤ(私達はそう呼んでいた=ウグイ 鯎)や毒魚のギギなどしかいなかった。それでも少し足を延ばし支流に行けば山女や岩魚をとることもできた。
両親の友人一家が引っ越していった郊外の住宅地にも小さな川が流れていた。その川にはイモリやうなぎがいた。うなぎといってもお腹に斑点がある八つ目うなぎである。この八つ目うなぎを獲る時に使う魚篭(びく)は入口に返しがあり、魚が逃げない工夫がなされていて、その一番奥に石で潰したタニシを布に包んで入れていた。一晩経ってその魚篭を上げてみるとまんまとうなぎや川ガニが入っているという訳である。私はこの八つ目うなぎを一度も食した事がないし、たぶんこれからも食すことはないと思う。生活に近すぎた食材というのはこんなものである。
話は変わるがうなぎの卵が遠く北マリアナ海溝で見つかったとテレビで放映されていた。うなぎは稚魚(シラスウナギ)を河口で捕り、これを養殖させるわけであるが、うなぎの生態は未だ詳しくは解明されていない様子である。また近年、天然の稚魚が激減しているという。稚魚の値段がうなぎ昇りだと。うなぎが食べられなくなったら困るので研究の一早い実用化を望むところだ。
私が幼いころ、本当に偶にであるが、両親がうなぎを食べに近くの店に連れて行ってくれた。その店は家からそう遠くない(当時の私にはとても遠く感じたが)ところにあった。群青色の暖簾に白抜きで「うなぎ」と書かれていたその店のうなぎは本当に旨かった。
うなぎが好きな人と嫌いな人が分かれると言う。あの姿が苦手だと言う人もいれば、美味しいうなぎを食べたことが無いという人もいる。直木賞をとった四国出身の男性作家は後者で大人になって初めて美味しいうなぎを食して好きになったと本に書いてあったが、私の場合は少し違う、つまり原体験は美味しかったのだ。子供にうなぎの味が分かるはずもないと叱責されそうだが、あのうなぎは確かに美味しかったのだ。
上京してうなぎを食す機会が無かったわけではない。しかしながら貧乏学生、薄給のサラリーマンの食べられるそれはどれも身は硬く骨っぽく、表面には水飴の様なベットリしたものが付いていた。かくして私は暫くうなぎからは遠ざかることになったのである。
関西は腹開き、関東は背開きという。私にはどうでもよい。それより、うなぎを蒸すか蒸さないかは重要であった(過去形)
私はつい最近まで関東風の蒸した柔らかい鰻が好きだと思っていた。東京で食べるうなぎの殆どがこの作り方であるからだ。ところがある御仁からそれは関西風の美味しいうなぎを食べた事がないからだと指摘された。味のわかるその御仁のご高説もっともである。ならばと、娘の住む岡崎に向かい駅至近の「はせべ」という店で食した。待つこと30分、運ばれた白焼きと鰻重を食べた瞬間、私の浅はかさを恥じたのである。旨い。外はパリッとしていて中はふっくら、タレも甘すぎること無く、完全に私の想像を超える旨さである。。それ以来、蒸す、蒸さないで判断することはしないことにした。
関西と関東の違いは何からくるのであろうか。色々な本で調べてみると、うなぎそのものが一番の理由だったようである。例えば産卵のために川を下るうなぎと上るうなぎではその肉身は違うであろうし、四万十川のうなぎと利根川のうなぎでは違う。そこで背開きや腹開き、蒸さないうなぎ、蒸すうなぎと調理方が別れたようである。地産地消が一番ということらしい。
しかしながら、江戸前の蒸すうなぎが嫌いになった訳ではない。それはそれで美味しい店がある。東京もさることながら鎌倉の由比ガ浜通りにある「つるや」、辻堂の分かりにくい住宅街にある「うな平」は三指に入る旨さだ。特に「うな平」の肝吸いは素晴らしい。
豊橋に「丸よ」という店がある。豊橋はどうやら関東風と関西風の境界らしい。この店のうなぎは特別に美味しいということから別品=別嬪、べっぴんと呼ばれ、時代と共に意味が拡大し美しい女性を別嬪と呼ぶようになったと聞くが、なんともうなぎが転じたとは面白い。ここのうなぎは裏返して並べられる。何でもそのほうがタレがしっかりと掛かっていると見えるということらしいが、やはり見た目も大切、私はこれには賛同いたしかねる。
一度だけ海外でうなぎを食べたことがある。日本式のうな重である。食べたのは高級ブティックが立ち並ぶパリのサントノーレ通り。お昼時を過ぎたそのお店は比較的空いていて私たち以外に数組の客がいただけだった。東麻布に本店があるその店はガイドブックに載っている有名店である。日本と同じように三十分以上待って恭しく運ばれてきたうなぎを食して愕然とした。まるでゴムのようである。噛み切れない。たれやご飯は普通に美味しいのにうなぎが全然違う。あたりを見回すと、金髪を肩のあたりまで伸ばして指には数カラットもあろうかと思う宝石を身に付けた日焼けしたマダムが何も言わず美味しそうに食していた。あとで分かったことなのだが、どうも欧州のうなぎは日本の物とは種類が違うらしい。
うなぎには綺麗な水が必要といわれる。うなぎの臭みを抜くために一、二日その綺麗な水の中で活かしておくことが必要らしい。老舗のうなぎ屋には必ず井戸があってその水が大切な役目を果たすようだ。三島は富士の伏流水が市内至る所に流れていてこの水を利用してうなぎ屋が多いことでも有名である。偶然にも銀座からこの三島に終家(居だけでなく事務所も)を移した弁護士の先生がいることもあり、三島に出掛けることがある。というよりこのうなぎを目当てに仕事を無理やりつくっていると勘繰られそうであるが、私は三島広小路の「桜屋」が好きである。ここのうなぎはふっくらしている。そして臭みが例によって綺麗に消されている。店の裏手を覗くとこれから調理されようとしているうなぎが水色のプラスチックの大きな籠の中で元気に動いている。それを若い職人が数匹選んで調理場に持っていく。
世の中に天然もの礼賛の流れがあるが、私はこれに異を唱えたい。既出の東麻布の店でもまた横浜の某店でも天然うなぎを提供するが、恐ろしく値段が高い割上に脂が無かったり硬かったりとバラつきが多い。
渋谷に「うな鐡」という店がある。今は区画整理され綺麗になってしまったが、井の頭線の出入り口に程近い大衆店である。私の様な薄給のサラリーマンでも何とか食べられる店だった。この店はうなぎを水に付けて焼く、それによって無駄な脂が程良く落ちて、よく蒸したうなぎに近い味の物を提供する。千円で食べられるうな丼、今はどうなっているのだろう。
うなぎ懐石なる店がある。フランスのタイヤメーカーのランキング本にはこの手の店が星を付けて載っているが私に言わせればうなぎはうなぎである。邪道以外の何物でもない。
数十年前に私の車の師匠でもある翁に帝釈天の参道にある「川千家」に連れて行ってもらった。焼き方、蒸し方、タレ全てが私の好みだった。一辺で好きになった。小一時間待たされるのはご愛敬である。
老舗のうなぎ屋の中には予約の中々取れない店もある。浅草にある店もそうである。予約が取れないのは仕方ないにしても、あの無愛想な電話の応対は如何なものであろうか。人柄の良いご主人が焼くうなぎは辛口でさっぱりしていると、かの作家も書いていたのに残念である。神田明神下にある店も食わしてやるという気持ちが見え見えである。ごめん被りたい。
本店は神田にある「菊川」も好きである。近いので用賀の店に行くことが多いが、この店は最初から「うちは味の不安定な天然ではなく吟味した養殖物を使う」と明言している潔さも良しとしたい。特にお薦めは白焼き。
あーあ、お腹が空いてきたまだ九時だ。今日は墨田区に行く所用がある。帝釈天も程近い、よしと思う横から今日は時間がないと言われた。言われれば言われるほど食べたい。それがうなぎである。曼の意味を持つ、「つやつやのふっくらしたうなぎ」こそ「うなぎ」=鰻なのである。
最後に私が幼かった頃食べていたうなぎは「蒸さないうなぎ」だったことを補記したい。


2015年9月改訂




2014年12月4日木曜日

好きこそものの上手なれ

 我が社のスタッフA女史が私の薦めた本を寝る前に読むとお腹が空いて困るというのである。
幸せな気持ちにはなるがどうにもこうにもお腹が空いて終いには読んだことを後悔するのだそうだ。
それは困った。確かに平松洋子女史の文章は平易でしかも写真付きであったりするので目からすっと胃の中に収まってしまう。

 ならばと私が用意したのは開高健氏のエッセイである。

 日本の文壇において氏の食と釣りに関するエッセイは三指に入ると思っている。氏は生前、物書きたるもの筆舌に尽くしがたいなど言語道断、筆舌に尽くすのだと言っている。

 氏は同時に物書きたるもの筆を錆びさせることは出来ず、味覚をペンでなぞることは勉強になると言っている。

 この辺りを勘案すると氏は自分の好きな釣りと食のエッセイを書くことで、本業の小説のためのアイドリングをしていたのではないかと私は睨んでいる。

 ヘミングウェイも同様だ。ただ、彼は本業の小説の中に己の好きなことを挿入し楽しんでいる。海流のなかの島々であそこまでマーリンの種類や生態を細く書き連ねる必要もないのに嬉々として書く。

 しかし、人間このアイドリングをしている間はストレスがなく(好きなことをしている)自由な発想が次から次へと浮かんでくるのではないか。

 この最後の晩餐とて初めは食のことを書いていたかと思えば、話はカニバリズムから秦の始皇帝に飛び最後はもうお腹いっぱいとペンを置く。

 これならば読者は食べ物の妄想にとりつかれるしまもなく読了してしまうだろう。

ただし頭の中がメリーゴランド宜しくクルクル周りマリ・アントワネットやマザーテレジアがしおからやなれずしを食べ、エスコフィがブルーストにアブ社のリールで釣り上げたあんこうのパンパンに張り切った肝を蒸し器で蒸し上げ食べるのを見て、心性のの内幕に潜む徹底的なアナキストの影に怯えていたのだとして眠れなくなっても知らない。

 土桜の名刺がしおり代わりなのはいただけない。




2014年6月19日木曜日

チャーハンのこと

一週間前から頭の中がチャーハン、チャーハンを連呼していた。

鎌倉に居るときには自転車で羽深さんに食べに行けば、お望みのチャーハンにありつけるのであるが、この中目黒周辺には中々安定した「街場の中華屋さん」が無いのである。

この「街場の中華屋さん」というところが大切なポイントである。まず価格は1000円以内、どんなに美味しかろうが1000円以上するものは「チャーハン」ではなく「炒飯」になってしまう。

そんな訳で昨日、スタッフを無理やり引き連れ目黒と不動前の中間あたりにある店に出掛けた。テレビでも紹介されている有名店である。店内には雑誌やテレビで取り上げられた紙面が所狭しと貼り付けられていた。

芸能人の色紙は別としてこの手の店で美味かったことが無いので、少し心配になった。

合席で待っていると餃子が先に運ばれてきた。焼き方は良いものの、普通の味である。羽深さんの方が美味しいと心のなかで思っていたが、チャーハンが来るまで答えはお預けにしておく。

餃子が食べ終わって暫くするとまずスープが運ばれてきた。濁っていて味噌汁のようだ。これを一口飲むと妙な酸味と甘味が舌先に残り、レンゲを置いてしまった。

肝心のチャーハンは五目チャーハン880円を頼んだのだが、これがまた可笑しくなってしまうほどチャーハンと具材がバラバラでエビやホタテもあしらわれているが、味に一体感がないのである。

ホタテなのにこれ蒲鉾と間違う程、食感も悪い。エビに至っては味がしない。お米はパラパラだが他の具材の味が薄く、またつややかなコーテイングがなされていないので口の中でパサツキ感が増す。

そして何より一人でテンパっている店主が従業員を怒鳴りつけている。後味の悪さを残して早々に店を切り上げのは言うまでもない。

その後、私はどんなチャーハンが好きなのか自分なりに考えてみた。日本中の美味しいと言われるチャーハンをブログにしている人のコメントも参考にさせてもらったが、私が探しているものとは違う。

私が大学生の頃、肉体労働のアルバイトをしたことがある。叔父の手伝いだった。

場所は自由が丘、小綺麗な店は沢山あるが、叔父はいつも汚れた作業服でも嫌な顔をしない店を選んでいた。当日は真夏で着ていたTシャツは絞るほどの汗だった。

叔父が選んだのは中根の信号から少し駒沢公園よりに下った中華屋さんだった。

店の名前は別れたが、テレビで高校野球を中継していた事を覚えている。私はチャーハンと餃子を注文した。

記憶は残念ながらそこまで美味しかったかどうか覚えていない。でもそんなことが思い浮かぶのだからマズかったとは思えない。そうだ。その店を探してみよう。まだあるか分からないが、もしやっているようなら嫌がるスタッフほ無理やり連れて確かめてみよう。「街場の中華屋さん」の正統派チャーハンであるかどうかを・・・・







2014年4月2日水曜日

アスパラ

私はアスパラほど明るい野菜を知らない。レタスにしてもキャベツにしてもこのアスパラの明るさの前ではたじろいでしまう。それほどアスパラには明るさがある。春に採れる野菜は多いがアスパラほどそのパワーを蓄えた野菜を知らない。ネーミングもいい。蕗の薹や菜花では寒い日本の冬を耐え忍び、やっと芽吹いた春を感じさせるが、アスパラはそんな苦労とは無縁に突然春を運んでくる。そして唐突に春になる。

昔は八百屋にはアスパラが無かった。初めて食べたのは缶詰のホワイトアスパラだった。ぶよぶよのフニョフニョ、全然美味しくなかった。

当時は外貨獲得のため貴重な輸出品の一つとして栽培されていたようだ。だから生のホワイトアスパラは私たちの口には入らなかったのである。

暫くして、八百屋にグリーンアスパラが並ぶようになった。それでもまだ高価だった。サラダの中に2.3本のアスパラが盛られていればそれは高級なサラダだった。
パリのレストランでひょろひょろと細長いアスパラがフォアグラのステーキの横に添えられていた。察かに私たちが知るアスパラとは違う。ワイルドアスパラガスと言ったが、味の方はマイルドで美味しかった。

日本では北海道で多く栽培されている。春先まず採れるのがグリーンアスパラガスで少し暖かくなってホワイトアスパラガスという順になる。

アスパラは採りたてが一番うまい。時間が経つにつれ、アスパラの清明な香りが消えてしまう。アスパラを食べると頭が冴えるような気がする。気のせいだと思っていたが、アスパラの成分であるアスパラギン酸は脳内物質に反応し、中枢神経を刺激する機序が認められているから私一人のあながち思い込みばかりとも言えまい。

オースチンパワーズというナンセンスコメディの映画がある。主人公は小便小僧の横で頭像と同じカッコをして、敵から逃れるシーンがある。結局、アスパラを食べた主人公のおしっこの匂いで見つかってしまうのだが、ヨーロッパではアスパラを食べるとおしっこが臭くなるというのは広く膾炙されているようだ。

アスパラのことをつれづれ書いていたら玄関先に十勝平野で朝採れたアスパラが送られてきた。早速、梱包を解き、アスパラの匂いを嗅いで見る。切り口から水分が滲み出ている。新鮮な証拠だ。色々な食べ方があるがさっと湯がいて、オリーブオイルを掛けて塩コショウにレモ汁少々で食べるに勝る食べ方はない。




2014年3月31日月曜日

生ハムのお話

 家で人をもてなすときに出来る限り食材を探し求めて、私自ら調理することを建前としているので色々なことを勉強しなければならない。ワインもその一つだが生ハムも同様である。

 この所イベリコやハモンといったスペイン産の生ハムを毎年交互に購入して食べてもらっていた。もちろん高級なのはイベリコのベジョータという黒豚のどんぐりのみを食べさせたものであるが、毎年食べていると少し塩辛い気がする。白豚はそれに比べるとあっさりしているがやはり塩気が強いのは変わらない。
世界三大ハム(本当にそう呼ばれているのか不明ではあるが)といえばスペインの生ハムと金華ハムとパルマ・ハムである。このパルマは極力塩気を少なくしてつくる。つまり腐敗との追いかけっこである。当然、開封したら出来る限りはやく食べなければならない。そしてそうした繊細の味のハムとなると厚さと切り口が問題となる。イベリコの時には薄く切れない。切り口もギザギザになってしまう。写真家の西川治氏が十数年前のブルータスでイタリア食材の特集をやっていたのを思い出した。あの写真のハムはどれも薄く、艶やかにしっとりしていた。

となれば今回はシンタマのみを使った幻のハム「フィオッコ」という選択肢もある。因みにパルマ・ハム協会ではスライサーを使うことを薦めている。家人には内緒で業務用のスライサーがもうすぐ家に届くことになるだろう。



2014年3月28日金曜日

台湾料理

 友人が新幹線を彼の地に定着させるべく各企業体の代表選手として数年間台湾で仕事をしていた。その完成と単身で頑張ってきた友人を労うため、仲の良い数家族で台北に旅行したことがある。

 父にとって台湾は第二のふるさとのようなものである。父は晩年を台湾の山奥で陶芸の指導に心骨を捧げていたからだ。父が話すのは北京語だった。不思議な事に台湾は北京語が通じると言っていた。ご存じの方も多いと思うが、台湾では日本統治時代より後になって中国大陸から移住した人を外省人といい、それ以前から住んでいた人を内省人と呼ばれている。現在ではこうした区別は薄れては来ているが年輩者の多くは今でもこの事を意識している者も多い。

 台北に行って驚いた。台湾料理という看板の店は一つもないのである。友人から聞いて膝をたたきなるほどと思ったが、要するに中国全土から色々な料理が持ち込まれ、さらに台湾で昔から食べられていた料理と混血した家庭料理のことを台湾料理と呼ぶことを初めて知った。

 ツバメの巣や熊の手、フカヒレはあまり美味しいとは思わないが、この地で食べる中国料理はとても優しく私の舌に合っていると思った。
そういえば客家は流転の民としても有名だ。その客家が多く住む県が台湾にある。妻の好きな大根餅もその一つだ。父が大陸より台湾が好きだった理由も今は何となく分かる気がする。






2014年3月26日水曜日

あわない奴

 私は人と合うときに先入観に引きずられないように出来るだけその人の良い面を見ようと努力することにしている。学歴や職歴など些細な事は聞かない。なんていうと偉そうに聞こえるがそうではなく、普通の人以上にバイアスに引っ張られる傾向があることを知っているからである。聞くことは一つ今何に熱中しているのか尋ねる。それでも半数以上は熱中しているものがないと答えが帰ってくる。そういう人とはあまり親密にはならない気がするが、これとて長い年月という押し蓋にかかれば馬の合う人となりえるかもしれない。事実、学生時代、こいつとだけはウマが合わないと思っていた男と30年以上付き合い、今では一番の相談者だ。

 なぜあわないと思ってしまうのだろうか。考え方が反対だからとも言えまい。逆に似ているからか、それもそうとは限らない。なぜなのか手繰ってみると、その時々であわないものが違うことに気がつく。例えは難しいが、その時々の自分の価値観の相克とでも呼べば良いのか分からぬが、そうなってはいけないと自分に言い聞かせる心の叫びに似ている。

 あわない奴が嫌いとかそういうのではなく、あわないただそれだけのことだ。カレーやラーメンについて執筆しているIKという人がいる。行ったことはないが横浜にあるカレーミュージアムの初代館長にもなったことがあるようだが、この人とはとにかくあわないのだ。この人が好きとか嫌いとか抜きにしてとにかくあわない。彼がプロデュースするカレーを食べたが違う意味で鳥肌が立った。カレーで食べられないこと自体珍しい。

 その人が絶賛していた湯島の親子丼を食べた。例えあわないと分かっていても乾坤一擲その努力は惜しまないのである。しかし食べてみて何で絶賛していたのかやはり分からない。玉子は極端に硬くなっているか生かどちらかで、鶏肉は塩辛い。丼というのはひとつの宇宙である。宇宙の中ではそれぞれが混ざり合ってひとつの宇宙を作らねばならぬのに、一つ一つがバラバラ別の方向を見ている。これでは丼もの失格である。やはりあわなかった。会わない奴と理解し、調停しようと試みる訳であるがこれがなかなか難しいのである。


2014年3月7日金曜日

和食について


 和食がユネスコの世界文化遺産に登録されたと聞く。なんだかしっくりこないのは私だけだろうか。
そもそも和食と言われて多くの人は何を想像するのだろうか。京料理に代表される懐石料理のことなのか、それとももう少しカジュアルな割烹のようなものか、はたまた江戸前の握り寿司を思い浮かべるのか分からないが、蕎麦やうどん、ラーメンやカレーだって言い換えれば和食なのだからその裾野はかなり広いと思うのだ。
海外に行って和食を食べようとすると似ているが和食ではない店が多い。今や誰もが口にしたことはあるカリフォルニアロールだって和食といえば和食なのだ。
パリで1つ星を獲った和食のレストランに息子が出かけた。その店の主人はパリの魚事情があまりに酷く、自分が魚屋をするつもりで流通ルートから開拓すると意気込んでいたが結果は京都の和食店には遠く及ばぬものだったらしい。結局壁を乗り越えられなかったということか。またもや和食の星は当てにならぬ事を証明した。
そもそもその壁の考え方が間違っているのかもしれない。日本の和食をそのまま持ち込むことが本当に素晴らしいことなのだろうか。その土地にはその土地の気候がある。とれる食材も当然違う。だからカリフォルニアロールだって生まれたわけだ。日本と同じ和食を海外でつくろうとする行為こそ、間違っているのではないだろうか。
私たちの舌はそんな狭量ではない。その時時に応じて食べ分けることが出来るのだから。
因みに我が社のT君は日本に帰るとラーメンが一番食べたくなると言っていた。



2014年3月3日月曜日

我が家の味

我が家では毎年ひな祭りの時に妻がチラシ寿司を作る。娘が生まれてからなので28年になる。岐阜に住んでいた時にデザイナーズブランドのテナントより貰った赤いノートに作り方と写真が貼られている。紙は黄ばんであちこちに沁みがあるが作り続けてきた勲章のようでもある。

一度、手抜きして作ったことがある。家族全員から「アレ?今年の美味しくないね」と見透かされた。それ以来、レシピに忠実に作っている。
私は外ではチラシ寿司を食べない。我が家のちらし寿司が世界一美味しいと思っているからだ。例え、専門の職人が最高の素材を集めて作るちらし寿司があったとしても我が家のそれを選ぶ。それが我が家の味だからだ。

妻はこの料理の時ばかりは気合の入れ方が違う。いつもは目分量なのに計量カップや秤で重さや分量を測り、タイマーを使って正確に調理する。
もっともその日のために前日の体調管理まで行うのだから普段の姿からは想像出来ない。

今年もそんな季節がやってきた。娘も嫁にいき長年の我が家の風習も終わりを告げるのかと思いきや、嫁に行った娘達も里帰りした。パリに行っている息子からもちらし寿司の催促がきた。よって妻は徹夜で9つのお重をチラシ寿司で満載にすることになった次第である。


2014年2月6日木曜日

ハンバーガーとの和解

私と同じ年齢の人でも東京や大阪など都会に住んでいた人と北関東の外郭の街に住んでいた私のような人間とでは年月にして6.7年、時間にして6万時間も遅く現代(イマ)がやってくる。流行語にもなった「今でしょう」だってシンコペーションのように一呼吸置いてやってくる。どうりで福島生まれの細君の祖母と話があうわけである。だが、こうして現代とズレた人間を一般には田舎っぺというそうだ。この歳になれば田舎っぺ大いに結構、それだけ昔の時間を長く体験させてもらったのだから有難いというべきだ。

私の家が水洗トイレになったのは小学校の高学年であったし、薪の五右衛門風呂がガス式に変わったのは中学生になる頃だった。よく雀が煙突に間違って巣を作ってひなが落っこちてきた。洗濯機が自動になったのはもっと後のことで、ハンドルを回してクシャクシャの洗濯物を干すのも一苦労だった。
ファションにして都会で流行っている垢抜けた洒落感を出そうと思っても、田舎の質実剛健、長持ちが一番が顔を出す。何かしら都会のそれとは違う。
食べ物だってそうだ。ハンバーガーと初めて邂逅したのはミミズクという高校の正門近くにあった自販機だった。サラミソーセージのような薄っぺらな肉が中途半端暖められたフニャフニャベトベトのパンの中に見えないように入っていた。ただ、有無を言わさず辛子だけが異様に沢山入っていた。

こんな風にハンバーガーとの出会いが悲劇的だったから、その後もハンバーガーとの相克は続いた。何故、美味しいのか分からない。だから、上京してからもハンバーガーショップには目もくれず、ひたすらガツン系の食堂に足が運んだ。

ハンバーガーと和解したのは結婚して2.3年後だった。娘を始めて海外に連れて行ったグァムでのことだった。タモンビーチにバドワイザーのロゴをでかでかと車体に入れたトラックがハンバーガーを売りに来ていた。数枚のドル紙幣でハンバーガーを2つ買った。お腹が空いていた事もあるのだが、牛肉に変な手を入れずただ炭火で焼いたシンプルなそれは太平洋の夕陽のように私のお腹を満足させてくれた。

それ以来、ハンバーガーとの仲は不仲ではなくなった。時折、何千円もするハンバーガーなのに美味しくないものに遭遇することがある。そんなときはあのミミズクのハンバーガーの霊が財布の淵当たりにうろついているような気がする・・




2013年12月26日木曜日

饂飩ください

吉田戦車の漫画で喫茶店の入り口で店の人に向かって、何故か「うどんください」という作品が頭から離れない。良くも悪くも「饂飩」と言う漢字を頭のなかに刷り込んだのだから。

群馬県はうどん県である。小麦の消費が多いということだろうが、戦後、小麦は安価な食料だったのだろう。小麦を使った食品も多い。

今ではうどん、イコール讃岐のように、ツルツル、シコシコのあの讃岐うどんがうどん王国の代表として広く人口に膾炙しているが、私の生まれ育った街のうどんはそんな代物ではなかった。屋号の最初に番号のつく山本といううどん屋が市内にいくつもあった。稚心に暖簾分けという仕組みを初めて知った。番号が変わるから暖簾は使えないのにと思ったことを覚えている。そんな店で出されるうどんは製麺機で作った何の変哲もない中庸なうどんだった。味も覚えていない。ただ、「ひもかわ」という、のっぺらで薄く伸ばした別のうどんがあった。物心がつくかつかないかというころ水上の鹿野沢というロープトウがひとつあるだけの小さなスキー場に初めて連れていかれた。食堂で母に何が食べたいのか聞かれ私は「ひもかわ」と答えた(つもりだった)。しかし出てきたのは、きなこにたっぷりまぶされた「あべかわ」で、私はたいそうガッカリしていたそうな、そんな思い出もこの「ひもかわ」にはある。

私の家から徒歩3分、自転車で1分のところに次郎長といううどん店が出来た。小学校の高学年の頃だった。手打ちというだけあってコシがあり、ツルッとしていて今までのどのうどん店のものとも違っていた。それ以来我が家はここ次郎長のうどんが定番となった。
中でも私のお気に入りは力うどんだった。少し濃い目の東京風の出汁にほうれん草と天カス、そして焼き餅がのっていた。中学の時、あの厳しいバスケの練習を乗りきれたのもこのうどんのお陰かもしれないと今は密かに思っている。

長さ90センチもある麺棒、のし台、麺きり包丁も持っている。私は手打ちうどんに凝っていた時期がある(過去形??)。 コシを出すことはさほど難しくない、良い小麦を使い、塩と水の塩梅を加減し、しっかりと踏んでやればいいのだ。だから出汁がなければ麺としてほぼ完成したが、出汁となるとこれがまた難しい。いりこやアゴで出汁を取ってみるが中々、麺との相性が上手くいかない。この相性というのが曲者である。自分の打つ麺が何者なのか分からぬものに、それにあった出汁をひけるはずもない。このところ半ば諦め、用具一式は押入れの肥やしになっている。

そうそう喫茶店でのうどんの話。実は桐生にはうどんを売っている喫茶店がある。喫茶店やスナックでうどん下さいと言うと、ちゃんとうどんが出てくるのだ。ただし、それは出汁のない焼きうどんです。





2013年12月24日火曜日

味の大関

子供の頃の私はいつも腹をすかせていたような気がする。あの頃はいくら給食をたくさん食べても放課後のバスケットの練習ですぐにお腹が空いていた。家に帰っても誰もおらず、その空腹を満たすのは煎餅だった。前にも書いたが、隣の家はパチンコ屋に景品を届ける仕事をしていた。時折、洗剤やらお菓子を頂いた。その中に煎餅が混じっていたのだ。煎餅の名前は忘れたが、袋には国定忠治と赤城山が描かれていた。醤油味のその煎餅は一枚でも十分な大きさだったが、空腹の子供には一袋食べるのは朝飯(夕飯)前だった。とっておきは冷蔵庫からバターを取り出して、せんべいに直接付けて食べるのだ。これが醤油の香ばしさと相まって最高のご馳走だった。ただ、母に見つからないように煎餅の跡のついたバターをならしてそっと冷蔵庫にしまっておかねばならなかったが。

家と中学校の中間あたりに商業高校があった。高校の前にインスタントラーメンだけを食べさせる店があった。店の名前は忘れたが、色々なインスタントラーメンの名前が壁に書かれていた。それぞれ料金が微妙に違った。当時、カップに入ったラーメンは発売直前でまだ見たこともなかった。暫くして同級生の一人がこのカップラーメンで家を新築したとクラスで公言していた。話によるとカップラーメンを発売したN製粉の株を持っていたそうで、株が値上がりして大変な儲けになったようだったが、株にも家の建て替えにも縁のない私はうわの空でその話を聞いていたのを覚えている。
その店で私が頼むのは決まって「味の大関」というインスタントラーメンだった。他のラーメンより10円近く安かったからだ。インスタントラーメンにも地方色があるということをこの時知らなかった。このラーメンはあまりメジャーではなかったようだ。たまたま工場が同じ県内にあり、輸送も簡単だったため流通していたのだろう。後になって東京の人に聞いても何それと知らん顔をされた。近年ではこのメーカーのカップ焼きそばが売れてテレビでもCMを流すようになり、その名前も知られるようになったが当時は無名のメーカーだった。
ラーメンの器にはラーメンとスープ以外何も入っていない。玉子どころかキャベツのキャの字も見当たらない素のラーメンだった。
時間まで働いている母を労るというより、己の食欲を満たすため少しでも早く夕飯になればと自分に出来ることはしていた。お米を研ぎ、水に浸し、そしてコメをざるにあげておく、味噌汁の出しまでとっておく。その程度まではいつも済ませていた。お陰で一人になっても自炊は苦にならなかった。

醤油味のお煎餅と味の大関、あの当時も私の胃袋の最強のリリーフピッチャーだった。










2013年12月20日金曜日

今こそ主役  目玉焼き


今でも卵料理が好きだ。数多ある卵料理の中で目玉焼きというのはいつも脇役、カニ玉のように宝塚歌劇団のような豪華絢爛さも、おでんの玉子のような、しみじみとした郷愁を誘う演歌の風情もない。ただ私達のそばにいつもいる。
あるときスタッフのA女史が「美味しい目玉焼きってどうやって作るんですか?」と私に訊ねてきた。いやはや、そんな質問を待ってたのよーんとばかり、内心、心躍る興奮を悟られぬように「ん、まず焼き方だね」とコホンと咳の一つもしながら冷静沈着を装い説明をした。
実はテレビのある番組で有名な料理評論家が日本一美味しい目玉焼きの作り方を披露していたからだ。目玉焼きの名誉のために断っておくが、世の多くの目玉焼きは心をこめて作られてはいない。おいしい目玉焼きをつくろうと思って作られる目玉焼きが果たしてこの日本にどれぐらいあるのだろうか。
フライパンは中火、熱くなったら少量の油を入れる。私は、なたね油にした。油をフライパンにまわして、真ん中に玉子を割り入れる。パチパチ音がして、周りがカールしそうになったら弱火にして、箸で白身をつついてフライパンに白身の新しいトコロを触れさせる禁断の儀式だ。その時、間違っても蓋をしたり、水を入れてはいけない。黄身が白く濁って白内障(白内障の人ごめんなさい)のようになってしまう。ここは辛抱が肝要。そして黄身に薄い透明の膜ができて、こぼれないようになったら出来上がりだ。白身のまわりは香ばしくうすい焦げが出来ていれば完璧だ。私は出来たてに白胡椒と塩少々をお好みで用意する。間違っても黒胡椒であってはならない。




2013年12月19日木曜日

イカ人参と阿左美沼

私の生まれ育った街は内陸で海や大きな湖、運河があるわけではないのに競艇場があった。恐らく全国でも沼でボートレースを開催しているのはここくらいではあるまいか。その沼を阿左美沼といった。

私の家からは橋を渡り隣町にあるその沼まで徒歩では30分以上掛かる。沼の淵には葦が生い茂り冬になると渡り鳥もやってくる。沼には鯉や鮒、げんごろうや蛙もいて、子供には格好の遊び場だったが、何故か子供の姿を一人も見かけることはなかった。それもそのはず競艇場内で事故があっては大問題と官民挙げての厳しい規制線が引かれていたからだ。

私が高校に進学した頃、我が家は困窮していた。父のやっていた窯業が理由は分からないが取りやめとなって、作陶していた窯を追われた。その後に窯を継いだのは父の使用人だった。父は自暴自棄になるわけでもなく、他人を恨むでもなく、さっさと自らの好気の目を他に向けていた。よって父は家を空けることが多く、収入は不安定だった。
私が幼い頃、母は内職をしていた。織物の街らしく当時は刺繍の仕事もあったが、その頃には繊維業を斜陽になり、家にあった工業用の刺繍ミシンはとても安く買いたたかれて業者に引き取られていた。

母が競艇場に出納のパートの仕事があると聞いて通うようになったのはその頃である。当時、スイトウと聞いて、スイトウとは何ぞやと考えた。水筒では繋がらないし、何となくお金を扱う仕事だと感じていたが些細が分かるはずもない。
母まずカブを買った。蕪でも株でもない、ホンダのスーパーカブのことだ。母は雨の日も風の日もこのカブで競艇場に通った。ここはからっ風で有名な上州である。東京の北風なんて風じゃないと思われる砂埃の北風が渡良瀬川の上を吹き降ろす。商業高校のグラウンドの砂が高く舞い上がり、橋の上では視界も効かない。母はいつも手袋を二重にしてマスクの上にさらにマフラーと帽子をかぶって出掛けて行った。

そんな母がある日、競艇場から袋いっぱいの人蔘を持って帰ってきた。一畳ほどの狭い台所に母は立ち何も言わず何かを作っている。出来上がったそれは人蔘とイカだけの見た目はいただけない代物だった。母に聞くと同じ職場に通う、福島出身の人がこの料理を山ほど作ってきて皆で試食させたそうだ。母の口にあったのか、美味しいと言うと、人蔘を分けてくれたそうである。その人の嫁ぎ先は農家だったので人蔘には事欠かない。特に冬のそれが美味しいということであった。

イカ人蔘を食べるとなんともほろ苦いあの頃を思い出す。からっ風はないけどね。






2013年12月18日水曜日

肉々ひい肉 茄子の蒲焼き 仙台麩

肉じゃないのに肉であると主張する食材がいくつか存在する。私の育った隣街(戦前は中島飛行機の製作、戦後は自動車で有名になった)にはとんでもない、うな重が存在する。色形、匂いまで鰻そっくり、蓋を開けてもやや太めの鰻と見紛うものが重箱の真ん中にドーンと置かれている。箸をつけ持ち上げるとタレを含んだその身は鰻より重たい。口に運べばよく蒸した鰻のようではあるが、あまりにフニャフニャで柔らかい。噛んでみるとそれは鰻とは別物だ。だって茄子だもの。

我が家では筍の季節になると仙台麩を用いて煮物を作る。筍というヤツは季節が少しでもずれると市場から全くなくなるのに、その一時期には貰い物が集中する。色々なところから4.5本も頂くとエグみが出ないうちに調理しなければならないから大変だ。最初の頃は刺し身や若竹煮で崇められ食べていてもすぐ飽きが来る。そうすると我が家ではこの仙台麩とのコラボレーションの登場となる。

仙台麩は長い木に巻きつけ焼き上げる。焼き上げた麸を何と容赦なく油で揚げてしまうのだ。麸の神様がいたに叱られそうだが、この傍若無人の行為によって、麸は肉に変わるのだ。少し濃い目に味付けされた仙台麩はまさに肉である。肉より、肉々ひい肉・・





2013年12月16日月曜日

サケ缶の思ひで

スーパーに並ぶ缶詰の中でも鮭缶は買わない。ツナ缶は買うのだが鮭缶は買わない。中には北海道のどこそこでとれた鮭とブランドをうっている高級品もあるが、別に味がどうのというのじゃないから、私は鮭缶を買わない。鮭缶を買わないのには理由がある。

小学校の頃、サカタくんという近所の友だちがいた。彼の家は私の家のような市から払いさげられた粗末な住宅ではなく、和瓦の立派な家だった。確かご両親は教師をしていたと思う(たぶん)

彼の家の庭には柿の木があり私達はよく登って柿をとったがその柿は渋くて食べられなかった。彼の家には猫がいた。何匹かいた。両親とも共働きで平日の昼間はサカタくんと猫達しかその家にはいなかった。主人のいないその家で一番偉そうにしていたのはサカタくんではなく猫達のほうだった。

サカタくんは猫達に食べ物をあげるといい、台所に立った。猫達は見慣れぬ不審者を暫くじっと凝視し、またフンとそっぽを向いた。

サカタくんが台所から持ってきたのは赤い鮭缶だった。こたつの上に鮭缶を置くと、猫達は集まってきて、その鮭缶を食べ始めた。

しばらくすると猫達は食べることに飽きたのか、こたつから身を翻し、引き戸の隙間から外に出て行ってしまった。するとサカタくんは残った鮭缶に指を入れ、鮭の身をつまんで口に運んだ。唖然として見ている私に「食べる?」と聞いてきた。

それ以来、鮭缶はどうしても買う気になれない。それとも思い切って鮭缶を購入し自らの手で口に運んで「食べる」と息子に聞き返してみようか。鮭缶に妄想が膨らむ。