吉田戦車の漫画で喫茶店の入り口で店の人に向かって、何故か「うどんください」という作品が頭から離れない。良くも悪くも「饂飩」と言う漢字を頭のなかに刷り込んだのだから。
群馬県はうどん県である。小麦の消費が多いということだろうが、戦後、小麦は安価な食料だったのだろう。小麦を使った食品も多い。
今ではうどん、イコール讃岐のように、ツルツル、シコシコのあの讃岐うどんがうどん王国の代表として広く人口に膾炙しているが、私の生まれ育った街のうどんはそんな代物ではなかった。屋号の最初に番号のつく山本といううどん屋が市内にいくつもあった。稚心に暖簾分けという仕組みを初めて知った。番号が変わるから暖簾は使えないのにと思ったことを覚えている。そんな店で出されるうどんは製麺機で作った何の変哲もない中庸なうどんだった。味も覚えていない。ただ、「ひもかわ」という、のっぺらで薄く伸ばした別のうどんがあった。物心がつくかつかないかというころ水上の鹿野沢というロープトウがひとつあるだけの小さなスキー場に初めて連れていかれた。食堂で母に何が食べたいのか聞かれ私は「ひもかわ」と答えた(つもりだった)。しかし出てきたのは、きなこにたっぷりまぶされた「あべかわ」で、私はたいそうガッカリしていたそうな、そんな思い出もこの「ひもかわ」にはある。
私の家から徒歩3分、自転車で1分のところに次郎長といううどん店が出来た。小学校の高学年の頃だった。手打ちというだけあってコシがあり、ツルッとしていて今までのどのうどん店のものとも違っていた。それ以来我が家はここ次郎長のうどんが定番となった。
中でも私のお気に入りは力うどんだった。少し濃い目の東京風の出汁にほうれん草と天カス、そして焼き餅がのっていた。中学の時、あの厳しいバスケの練習を乗りきれたのもこのうどんのお陰かもしれないと今は密かに思っている。
長さ90センチもある麺棒、のし台、麺きり包丁も持っている。私は手打ちうどんに凝っていた時期がある(過去形??)。 コシを出すことはさほど難しくない、良い小麦を使い、塩と水の塩梅を加減し、しっかりと踏んでやればいいのだ。だから出汁がなければ麺としてほぼ完成したが、出汁となるとこれがまた難しい。いりこやアゴで出汁を取ってみるが中々、麺との相性が上手くいかない。この相性というのが曲者である。自分の打つ麺が何者なのか分からぬものに、それにあった出汁をひけるはずもない。このところ半ば諦め、用具一式は押入れの肥やしになっている。
そうそう喫茶店でのうどんの話。実は桐生にはうどんを売っている喫茶店がある。喫茶店やスナックでうどん下さいと言うと、ちゃんとうどんが出てくるのだ。ただし、それは出汁のない焼きうどんです。