Ⅵ
洋一はホテルの部屋の天井を見ていた。
軽井沢に来る前に優子とほんの些細なことで言い争いをした。正確には言い争いではなかった。優子は来年就職の予定だった。美術大学で美術史を専攻していた優子は美術の教員になるか一般企業に勤めるかしか選択肢はなかった。優子の父は教員になることを薦めていたが優子は全くその気はなかった。もっとも、教職の単位取得は今からでは間に合わない。その優子が一般企業に勤めることもしたくないと言いだしたのだ。特に直接言われた訳ではないが、就職して嫌な人達と付き合うぐらいなら、洋一と結婚して家庭に専念するそんな気持ちがうっすらと優子から読みとれた。洋一は優子と結婚したくない訳ではなかったが、優子には一度、社会に出てほしかった。洋一は自分が就職で迷っていた時に恩師に言われた一言が今でも自分の背骨になっている。それは「まずモラトリアムを卒業して一般社会に出て、お金を稼ぐということは、どの社会にも属さず、そのまま自由に働き始めることとは大きく意味が違う。それは人間の一生の背骨になる。どんな組織でも組織を知らなければ所詮ひとりよがりのままで終わってしまう。だから、どんなに短くても、どんな会社でも良いから組織に入ること、これが君には必要だと思う」
洋一は優子にそのことをなんとなく伝えようとしたが、優子には上手く伝わらなかった。
逆に洋一は優子に好きでもない仕事をしていると批判された。確かに思っていた仕事とは違っていたが、洋一はそれなりに仕事を楽しんでいたし、全ての人が自分の目標通りになるわけでもない。そして物事は変化するのだからと考えたが、洋一は優子にそのことを話すことはせず、そのまま飲みこんでしまった。
洋一はホテルのメインダイニングで前菜を食べながらすでにワインを2杯飲んでいた。うっすらと顔が火照ってきた洋一の前にメインの子羊のローストが運ばれてきた。ミディアムレアに綺麗に焼きあげられている。皿には生のローズマリーが添えられていた。肉を切ると中からうっすら赤いものがみえるがすぐ消えてしまい、皿には落ちない。肉をほぼ食べ終える頃、洋一は麗子と会った今日の事、そして今頃麗子たちはどんな夕食を取っているのか気になった。今日、麗子の別荘の室礼を見た洋一だったので、最初頭に浮かんだ手の込んだフランス料理を押しのけて、ここに戻る前に別荘の書架に見つけた本に出ていた一品を想像した。料理は白州家の長女が執筆したもので次郎や正子の食卓によく出されていたシンプルな料理だった。
洋一はワインをもう一杯飲み干すと、明日この事を尋ねてみようと白いクロスをテーブルに置きゆっくりと席を立った。