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2014年8月18日月曜日

夏休み

子供の頃、夏休みが待ち遠しかった覚えがあります。私の父は勤め人ではありませんでしたが、高度経済成長の波に乗り遅れた人で家の家計はいつも火の車、母といがみ合ってばかりいました。

父はそんな母を避けるかのように作陶に没頭し、家を離れ窯場で一人寝食をすることが多かったのです。そんな事情ですから夏休みに家族旅行に行くどころか遊びに連れて行ってもらった記憶さえありませんでした。傍から見るとそんな可哀想で憂鬱な夏休みでも小学生の私には待ち遠しくなる理由があったのです。

それは大好きな祖母が東京から遊びに来てくれるからでした。
祖母は杉並の叔父の家を出て、渋谷で銀座線に乗り換え浅草に着くと、必ずそこで舟和の芋ようかんと松屋デパートのお好み焼きを買ってきてくれました。舟和の和菓子は今でも有名ですが、お好み焼きは地下街の名もない店で味の方はパッとしませんでした。母がいつも買ってこなくても良いと言っても祖母はそれでも買ってくるので、私たちはとうに言うことを諦めていました。

そんな祖母とも1.2日遊べば飽きてしまうのが子供です。あとは学校のプールや近くの雑木林での虫取りなど日が落ちて真っ暗になるまで遊んでいました。

祖母も東京に帰り、今日で夏休みも終わろうという日のことです。茜色に染まる西の空を見上げると銀色に光る物体が筋をつけながら西陽に向かっていきます。はやる心を抑えながらその事を母に告げると飛行機か人工衛星じゃないのと素っ気ない答えが帰ってきてがっかりしたものです。

次第に群青色に変わっていく空を眺めながら妙な寂寥感に包まれたものです。
それは夏休みが終わることへの寂しさというより、もう二度と同じ夏休みが来ない事を予感する寂しさだったような気がします。

それから半世紀近く経ってもあの夏休みの終わりに感じたメランコリックな気持ちは変わりません。それは子供が生まれ、育ち、その子供が結婚して子供が出来て私のまわりの環境は行く川の水のたとえ通り変わることがあの時感じた同じ夏がないことの確認作業でもあるからです。

去年いた愛犬も今年の夏休みにはもういませんでした。二匹と海で遊んだ記憶は心の中の頁に格納され、恐らく来年もそして再来年も全て違う一度きりの夏となることでしょう。

自分が最後に記憶の頁に格納されるまで、一度きりの夏を楽しむことにしましょう。