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2012年12月20日木曜日

本緒子 堅田 魚清楼


本諸子(もろこ) 堅田 魚清楼
 

この諸子に至っては数えるほどしか食べていないし、その初体験だって50歳を過ぎてからであるから、このように文章にすること自体、滸がましいとお叱りを受けるのを重々承知でそろりそろりと書き始めている。

そもそも私は川魚を食べたことが無かった。母親方ははっきり言って魚嫌いである。魚とみれば生臭いといい敬遠する。幼き頃に食卓に上がったのは塩鮭と秋刀魚くらいのものだった。もっとも当時の北関東は海から離れていて、今のように陸上路が発達していなかったから海の幸にあり付けなかったのは当然と言えば当然かもしれない。ところがである街の外れまで自転車をころがせば嫌というほど川魚は捕れた。鮎、山女、鰍、そして渓流の王様岩魚までも捕れた。しかし、それらを食べたことはなかった。

何故食べなかったのか、切れそうなあやふい記憶の糸をたどりながら考えてみる。私の住んでいた家のすぐ裏手には渡良瀬川が流れていた。そう森高千里の歌に出てくるあの川である。当時の渡良瀬川は足尾鉱山の鉱毒はたれ流しされなくなったものの、生活排水はドバドバと遠慮なく捨てられていた。近所の屠殺場では豚の絶命の叫びとともに皮をなめす際に使われる溶液があぶくを立てながら流されていた。そんな姿を見たからなのか、川で捕った魚を食べようとは一度も思ったことはなかった。

そうは言っても人間と言うのは贅沢なものである。一度美味しいと味をしめればまた食べたくなる。私は若い頃赴任した岐阜で美味しい川魚に邂逅したのである。

長良川には皇室に献上する特別な場所があってそこでとれる鮎は絶品であった。脂ののり、身の柔らかさ、どれも今まで食べたどの鮎より美味しかった。特になんとも言えない肝の苦味も上品で奥が深かった、あの鮎以上のものには未だお目にかかっていない。郡上八幡近く美濃白鳥でごちそうになった雨子も最高だった。身は適度に締まっていて弾力があり口の中でかすかな甘みとともに爽やかな香りが鼻腔を抜けて行く、素晴らしい魚だった。最後には岩魚の骨酒ならぬ、雨子の骨酒である。

一昨年、妻から琵琶湖の湖岸に美味しい鴨と諸子を食べさせる旅館があると聞いた。その情報源は妻の友人であったが、その方のご主人は、ドクターでありながら日本の国際貢献のため世界中を飛び回っている賢者である。さらに奥様も同業であり、経済力と経験と言う力技と小技を取り交ぜたこのお二人の言う事だからと大いに期待して出掛けたのである。

京都駅から湖西線というローカル電車に乗り換える。文字通り琵琶湖の西湖岸を走るのである。日本史に出てくる大津京はここだったのかと思う間もなく、雄琴駅を通過する。世の男性の多くはこの2文字に特別な感情をお持ちかもしれないが、私は初めてこの駅を見た。(妻の手前などではありません。本当に)大都市近郊の観光地の例にもれず近年は訪れる人も少なく、一大歓楽街も今や風前の灯かと見紛う寂れ方であった。電車は堅田という駅で停車して私達はその駅で降りた。駅前のロータリーはどこにでもありそうなガランとしたものだった。タクシーで行先を告げるがまだ予約した時間には早い。一度店の場所を確認して辺りを散策した。このあたりは比叡山の荘園だったようで歴史のある寺が多く、対岸と行き交う橋の無かった頃にはその通行を荘園が管理し、徴税していたという。

店の隣には景勝地「浮御堂」がある。建物の基礎はコンクリートで補強され昔の名残はないが、近くに葦原が広がり、鴨が羽を休めて浮かぶその情景は千年以上前の平安人が見ていたそれとそうかわらないのかもしれないと一人感慨にふけっていると、隣で妻が「あの鴨食べるのかな」と言うので一辺で興が冷めた。

店は旅館であるが泊らないで食事だけすることもできる。平日のかつシーズンオフでもあったのでお客は私達だけだった。

浮御堂の隣の角部屋に通された。窓の外には先程の鴨が無数に浮かんで見えた。仲居さんが言うには鴨はここで捕って食べるわけではないらしい。契約している猟師さんに別の猟場で捕ってきてもらうとのことであった。一安心した。もっとも先程、鴨と言っていたのはカイツブリのことで、鴨ではなかったらしい。メインは鴨鍋なのであるが、先に諸子が運ばれてきた。

私が初めて諸子を食べたのは建仁寺に近い「丸山」という料亭だった。ここは豪快な日本料理を提供する。伝統的な日本料理ではあるのだけれど料理人の旬と同時に力を感じる料理だった。その時はあと2日もすれば蟹の解禁の直前ということでピンチヒッターとして琵琶湖の本諸子が供された。身は淡泊だが脂はのっている。軽くあぶった諸子を三杯酢で軽く締めてあるそれは絶品だった。一人に二尾の諸子はあっという間に胃袋に消えて行った。

仲居さんは慣れた手つきで諸子を軽く炙り、最後に頭を網に刺して焼いて行く。そうすると余分な脂が頭に落ちて、頭はカリッと香ばしく焼ける。いや絶品である。なにせこの貴重な本諸子を一人8尾も食べたのだ。大きさも形も公魚と似ているじゃないかと思っている方に申し上げる。全くの別物です。本諸子は本諸子、他に似た魚はありません。

鴨鍋ももちろん絶品であるのだけど最初にこんなウルトラ―スーパー難度の技を見せられると、後は霞んで見えるのはご愛敬でしょう。寒くなるとまた行きたくなるそんな店である。今度は10尾にしようと心に決めて・・・・
 

 

1981年のゴーストライダー Caper2  Ⅲ



 チェックインの時間にはまだ少し早かったので、洋一は小さなボストンバックをホテルのフロントに預けて薄手の鐡紺のダナキャランのナイロンコートを羽織って道路に出た。

 この辺りの街路樹は常緑樹が多い。常緑樹と言っても一年中同じ色をしているわけではない。初冬のこの季節になると盛夏のそれとは緑の勢いが違っていた。しばらく常緑樹の続く小道を抜けると辺りが明るくなった。ここは洋一郎の会社で計画しているリゾートハウスの建設予定地にとても近い場所だったが、林に遮られその場所は直接は見えない。さらに進むと街路樹が広葉樹に切り替わる。既に木々の半分の葉が落ちていた。残っている葉は黄色とオレンジ色に奇妙に区分けされ力なく枝にぶら下がっている。
 そんな葉脈の向こうに小さな建物が見えた。建物はログハウスのようでもあったが、やけにガラスの部分が多く、そのガラスは手作りなのか湾曲しているように見えた。そのガラスの細い珊の間から中の様子が見えた。建物の中では女性が本を読みながら何かを飲んでいた。建物に近寄って見ると小さな木製の看板に「Michael」と描かれていた。昔からある喫茶店のようだった。洋一はガラスの嵌めこまれた木製のドアを押してその店に入った。
 店内は思っていたより明るく、落葉して明るくなった子楢の林に囲まれている。洋一は後で知ったのだが、この店は洋一の生まれる前から別荘族に愛されてきた喫茶店であった。先代のご主人はロシアから日本に移住し、結婚してここに移り住んだと聞く。そして誰もがここのロシアンティーと自家製のピロシキを愛していた。今ではそのご主人は亡くなったが、妻が後を継いでいる。洋一はピロシキと並ぶもうひとつの名物であるチーズケーキとコーヒーを注文した。

洋一はポケットから一冊の本を取りだした。

 チューホフの短編集だった。チューホフと言えば「かもめ」「三人姉妹」「ワーニャ叔父さん」「桜の園」などの戯曲が有名だが、洋一は短編集にあった「犬を連れた奥さん」という小説を読み始めていた。まだ冒頭の部分だったが、その犬がポメラニアンであることを頭にインプットしたばかりだった。洋一はページの中のポメラニアンという単語を探して、読みかけの途中のページに追いついた。

 数ページ読みおえた頃、コーヒーとチーズケーキが運ばれてきた。コーヒーは群青色の花柄が大きく婀しなわれ薄いブルーで縁どりされたカップに丁度良い分量の液体が注がれていた。コーヒーの表面から立ち上がる水蒸気が、わずかに揺れる湖面と朝靄のように見えた。

 チーズケーキはとても上品だった。焼いていないケーキの上にはブルーベーリーが掛けられていた。甘さは抑えられ、かすかにレモンの酸味が効いている。これならコーヒーでなくウィスキーとも相性が良いと洋一は思ったが、その考えは頭の中に戻した。

 窓の外に目をやると、リスが木々を駆け回っている。鎌倉で見るそれより一回り小ぶりで体の体幹にそって縞模様がある。洋一は目が慣れてきたのか、先程まで涸れ樹にしか見えなかった木々のあちこちにリスが居ることに気付いた。店内に視線を移すと、先程の女性が中腰になって、床を見つめていた。

 女性はグレーのフランネルのスカートにエンジ色のスウェーターとカーディガンのアンサンブルのニットを着ていた。落ち着いたその恰好からか洋一より年上に見えた。

 洋一はその女性に向かって何をしているのか声を掛けた。すると女性は洋一を見るでもなく床に目を見据えたまま、「コンタクトレンズ」とだけ答えた。洋一と麗子の出会いだった。
 
 
 
 

AM11:00 Sunday

AM 11:00 Sunday

美佐子を乗せた浩一郎のカーボンブラックのBMWは第三京浜を横浜に向かって走っていた。浩一郎はときに大きな図面を使うこともあり荷質の広いワゴンタイプの車を乗り継いできたが、この車も同様だった。浩一郎は慣れた手つきで左手で頭上のスイッチを押し、初夏の日差しを室内に取り込むようにガラスサンルーフを開けた。

雲が流れるように美佐子の上を通過していった。美佐子は浩一郎から昨年のクリスマスにプレゼントされたフォーナインの赤く縁取られた大きめのサングラスを掛けなおし、浩一郎の横顔をみた。浩一郎の横顔は40歳を超えるとは思えないほど無駄がなくシャープだった。それはやせ過ぎて頬が出て身が窪んでいるそれではない、ちゃんとあるべきところに筋肉が付き、大人の男の表情を作っていた。

車は横浜公園で高速を降りて横浜スタジアムを迂回するように港の方角に直進した。中華街に右折する車をするりと交わして浩一郎のBMWは地下の駐車場に車を停めた。

美佐子の息子はこの一週間姉のところにいる。美佐子が家を離れたのと同じころに姉は実家を出て結婚した。姉には息子と同じ年齢の女の子と男の子の双子が居た。姉は田園調布に暮らしていた。夫はもともとコンピューターのプログラムの仕事をしていたが、ふとあるきっかけで友人と一緒に起業した会社が開発した公開鍵暗号の特許を取得した事でマスコミの脚光を浴びビジネス的にも大成功をおさめた。姉は美佐子のことをずっと気遣っていた。

美佐子が前夫と離婚する際にも自分のことのように美佐子を守り保護した。美佐子側の弁護士は夫の同級生だった。そんな経緯もあり、浩一郎と付き合い始めた最初から、美佐子は姉に浩一郎を紹介した。

姉は紹介された自由が丘の洒落たイタリアンレストランで浩一郎を見るなり、リーデルのグラスに並々と注がれたシャルドネを飲み干し、美佐子にそっとウィンクして微笑んだ。ワインの銘柄はカリフォルニアのコングスガードの「JUDGE」というワインだった。
浩一郎と美佐子は駐車場の階段を出て表通りに出た。浩一郎と美佐子はマリンタワーの正面に建つ白い建物にドアマンに導かれて美佐子に続き浩一郎も軽く会釈をしながら入っていった。