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2012年11月20日火曜日

Oscar Emmanuel Peterson オスカー・E・ピーターソン

ジャズファンてなくてもオスカーピーターソンの名前は聞いたことがあるだろう。

代表曲「酒とバラの日々」は名曲である。彼は超絶技巧で有名でもあり演奏には全ての鍵番を使ったとも言われている。それにより「鍵番の皇帝」の異名をとった。いやはや大そうな名前である。

今や国産ピアノメーカーに吸収されてしまったが、かの有名なベーゼンドルファーを愛用していた。

ジャズピアニストでは珍しいかもしれない。

彼のアルバムをいくつも持っているが、1980年代に発表された一つのアルバムがある。

それがこの「night chaild」

私はレコードを持っていたが引越しの時になくしてしまった。

それ以来CDになるのを待っていた。

しばらく前にやっとCD化されたので購入した。

アルバムはそんなに長くはない。実験的な試みとして電子ピアノで演奏している。それが今聞いても古くない。

真夜中にこのCDを聴くと、夜のしじまにすうーっと吸い込まれて行く。そんなアルバム・・・

嫌いなはずがなかろう・・・・・






1981年のゴーストライダー Ⅹ



優子の父親は50歳を少し過ぎた物静かな男だった。若い時はラクビー部の主将を務めた程のスポーツマンでその体躯はがっしりしていて背広を着ていなければサラリーマンとは思えない容姿だった。父親は金融機関に勤めていたが、金融機関というのはもっぱら「早上がり」と呼ばれるように定年よりもずっと前に本体の金融機関の子会社など出向させられることが多い。優子の父もご多分にもれず、その金融機関の融資先の建設会社に出向させられていた。この建設会社はバブルのころは海外のリゾート開発を進めるなど大きく手を広げたものの、その後は多額の負債を抱え複数の金融機関主導により再建中の建設会社であった。

洋一は優子の家の居間の時計に目をやった。その時計の針は秒間をチッチッと音をたてスキップしている。クオーツ式の時計だ。洋一はこの手の時計を見るたびに連続した時間を無理やり分断し、無理やり繋ぎ合せ自分の生きているこの世界とは違う世界を再構築されている気が落ち着かない。時間が連続しなくなったならばそれは何を意味するのだろうか。

洋一は得も言われぬ恐怖を感じた。

しばらくすると玄関のチャイムが鳴り、父親が帰ってきた。洋一は自分の家に帰るのに何故チャイムを鳴らすのか分からなかった。しかし、その儀式が外界と内界を結ぶ儀式の一つだと知ったのはずっと後のことだった。

父親が着替えに二階に上がっていると、母親が料理の準備を始めた。洋一に向かって「お腹空いたでしょう?何か飲む?」と優しく話しかけてきた。

 優子の母親は父親より一つ年上のいわゆる姉さん女房というやつである。趣味のテニスのせいか一年中日に焼けているのは優子と似ていた。ショートヘアでいつも小綺麗にしていてとてもその歳には見えなかった。洋一にはいつも優しかった。

 洋一は母親にお父さんが席に着くまでは飲み物を遠慮するとやんわり断りながら、居間に飾られた家族の写真を眺めていた。その写真はどこかに旅行に行った時のもののようだった。家族4人がお決まりのピースサインをして笑っている。優子はまだ小学生だ。父親も若い。写真の後ろに岩肌と煙の様なものが見えたが、山の形が以前写真で見た外輪山にそっくりだったのでその場所は阿蘇かもしれない。

 もう一枚の写真には洋一が見たこともない人が写っていた。ずっと年上のその一は女性だった。着物を着ている。洋一は着物について詳しくはなかったが、その着物が高級品である事は分かった。その着物は浅黄色をしていて微妙な光沢があった。凛としたその女性の目鼻立ちは優子に似ていた。洋一は優子から聞いていた祖母のことを思い出した。脚が悪くなる前は茶道の師匠をしていてお弟子さんも多く抱えていたと聞いたことがあった。

その証拠に優子の家には今では物置になってしまった茶室がある。炉は閉じられ使われなくなってしまったが、その室礼は紛れもなく茶室である。

 父親が二階から降りてきた。父親は洋一に軽く手を挙げ何か飲むかと尋ねた。洋一は自分が車で来ていることを告げ遠慮したが、父親は一杯だけならと言って琥珀色のビールの栓を抜いた。テーブルには母親が作ったと思われる料理がところ狭し並べられていた。洋一が好物といったハンバーグはいつもの通りだが、今日はそれに海老フライ、ポテトサラダ、お刺身、ローストビーフそれに父親が大好きな枝豆が添えられていた。

 父親は洋一のグラスにビールを注いだ。泡が多くなりすぎて調整しようとしたが旨く出来ず、結局、泡だらけの白いグラスで乾杯した。父親は左手に枝豆を5.6本持ちながら器用に豆を口に入れ、ビールを流し込むように飲んでいた。突然「今日の豆は塩気が足らんな」といひとり言のようにつぶやいた。母親は「塩分の取りすぎは体に良くないらしわよ、このくらいでいいのよ」と相手を見るわけでもなく、料理の飾り付けをなおしながら会話している。こうしたときに優子は会話に加わらない。今日もテーブルに置かれた新聞の広告を眺めていた。

 父親は上機嫌だった。いつにもなく饒舌だった。優子の家族は洋一の就職活動が一段落し、内定をもらったことを知っていた。今日はその内祝いのようなものかもしれない。1週間前から今日は開けておくように優子に言われていたのだ。

 母親の作るハンバーグ本当に美味しい。この味ならお店が開けるのではと思うほど美味しいハンバーグである。普通のハンバーグのように鉄板で焼いたものではなく、一度焼いたハンバーグをスープの中で煮込むのだ。和風と洋風があって和風は醤油ベーススープに大根おろしが添えられている。洋風はトマトスープにブーケガルニで香りづけしてある。洋一はどちらも好きだった。

 父親は洋一と話す度に笑顔を見せるがその笑顔はどことなく寂しそうだった。優子は洋一と同じ年齢だが一浪しているので学年は一つ下である。来年、4年生になる優子であるが今はアルバイトを時折しながら、家から学校に通っていた。学校はお茶ノ水にあり、優子の家からは時間が掛った。優子は出来るだけ授業をまとめた日に受けるように工夫し、だから学校に行かない日はほぼ丸一日スケジュールは空いていた。

 食事が終わり、父親と洋一はテーブルからソファに場所を移した。父親はテレビを付け、チャンネルを巨人対阪神の試合が行われているプロ野球にセットした。父親の出身地は兵庫県の夙川である。もちろん熱烈な阪神ファンである。洋一は阪神ファンではなかったがアンチ巨人という点では一致していた。
 
 
 

餃子 アムールの虎


餃子 アムールの虎

餃子は我が家では定番メニューである。何故なら、我が家の餃子より美味しい餃子はそうそうないからである。とまあ空威張りしても食べて見なければ分からないのは当然といえば当然である。

私の父は中国語を流暢に話した。話している言語は北京語だそうである。父は戦前、大陸に長いこと暮らしたようである。家には5.6人の家政婦がいたというからそれ相当な暮らしぶりだったようだ。軍の関係の仕事もやっていたようで、ドイツのルガーという細身の拳銃も所持していたというから、危ない仕事だったのかもしれない。臨終の床に就きながら父は紛れもなくアムールの虎を見ていた。それが父の輝かしい記憶だったのだろう。

父は私が幼い頃、時折、料理を作ってくれた。

当時私が住んでいた街では今のように中華料理に使う専門の調味料など手に入らなかった。父は有り合わせの物を使って工夫して作っていたようだった。

よく作る料理はジャージャー麺、豚挽き肉と牛蒡の炒め物、そして餃子だった。ジャージャー麺にいたっては手にいれにくい中華麺を使わずにどこでも売っているうどんで作る。もっとも我が家では今でもジャージャー麺はうどんと決まっている。

牛蒡の炒め物はものすごい量を作って食した。あちらでは年末にこの料理を食べて腸をすっきりさせて新年を迎えるとか言っていたが、確かにお腹の具合はすこぶる快調になる。

 父が作ってくれた餃子はにんにくを入れず韮を沢山いれたものだった。豚肉と椎茸、キャベツに韮のシンプルなものである。キャベツは茹でずにそのまま入れていた。それを母親と私がせっせと包んでいくのだった。

今の我が家の餃子は大分アレンジされた。まず、キャベツは茹でてよく水を絞る。春雨と筍も加える。韮はいれるがにんにくは入れない。あとは下味をつけていく。

我が家では餃子といえば100個以上作る。餃子の日は餃子しか食べないのだ。軽くご飯一膳程度空けておくつもりでも餃子でお腹いっぱいになってしまうのだ。

宇都宮だの浜松だのご当地餃子花盛りであるが、未だに我が家の餃子を上回る餃子を食したことがない。もしかしたら、我が家ではDNAの中に餃子DNAなるものが組み込まれ、その味でないと味憶の中枢が覚醒しないのかもしれない。

娘から妻にメールが来た。餃子を作って送れという指示である。妻は早速、冷凍品を入れるタッパウェアを調達し、餃子皮を5袋と材料を買いに走った。娘と旦那とお腹の子にDNAを送るためである。
 
少し焦げ過ぎた感の歪めないのは私が本にうつつを抜かしたからである。それにしても旨い・・・ビールはもう4本目か・・・・・