檸檬 画翠
少年にとっての都会の入り口が浅草だったならば、その道程はお茶ノ水だった。
高校1年生の夏休みに予備校の夏期講習で上京した時の事だ。
叔父の家は杉並にあった。多くの下職を使いながら建築関係の仕事をしていたその家は朝から晩まで人の出入りがある賑やかな家だった。二人の子供はまだ幼く少年とはだいぶ歳が離れていた。
少年はひと夏叔父の家に居候させてもらった。少年はその叔父の家から予備校まで毎日通った。叔父の家は五日市街道沿いにあり少年は近くのバス停からバスに乗り中野駅に向かった。街道は区画整理の前で、大きなバスは軒先をかすめながら猛スピードでカーブを曲がっていった。関東バスの運転が荒いのは有名だった。
少年は夏休みに入る前に担任の国語教師から言われた事がずっと気になっていた。
本を読まないものは自分の言葉しか持たないものと同じで、入試に出るような文章を理解できるわけが無いといって30冊近くの小説の名前をあげ生徒に指示した。
少年はそのほとんどが読んだことが無かった。
予備校の入学手続きを終えた少年はお茶ノ水の大きな書店で20冊の文庫本を買った。
予算はそれ以上でもそれ以下でもなかったから。
少年は20冊の文庫本を抱えて、駅前の喫茶店に入った。少年は初めて檸檬をレモンと読むことを知った。大きな黒い鞄やイーゼルを持った美大生と思しき人たちで店内は一杯だった。少年はアイスコーヒーを頼み、クリームを一杯に入れてかき混ぜもせず、またたくまに飲みほした。少年はもちろんパリいったことも見た事もなかったが、パリには学生で賑やかなカルチェ・ラタンと言うところがあり、さしずめこの辺りが日本のそれだと友人から教えられたことがあった。
賑やかな学生たちを見ていると何となくそんな気がした。
少年はその揺れるバスの車内で吊皮につかまりながら行き帰りで1冊の本を読み終えようと決心した。最初は全然できなかった。それより今考えるとよく車酔いしなかったと不思議である。それでも1週間もすると目が慣れてきて1冊を読みおえる事が出来るようになった。
授業が終わったある日、誰が誘った訳でもなく仲間とすずらん通りのパチンコ屋に入った。しばらく球の行方を追っていると、一番背の低い仲間が警官から質問を受けていた。歳を聞かれても正直に言わないように暗黙の了解をしていたつもりだったが、警官から干支を聞かれあっさりばれてしまった。結局、仲間全員、交番に連れて行かれた。
当時は東京の警官はさすが機転が効くと驚いていたが、学生運動のさなか高校生が煙草を吸い遊興所に出入りすることが多くなり、警察全体でそうしたことが一つの決まり文句として一般化したと後で知った。一人の警官の機転ではなかった。
その夏はあっと言う間に過ぎ去った。夏期講習の午前部は色々な学校の生徒がやってくる。少年の様な田舎の県立高校生からみれば麻布や開成といった高校は全く別次元だった。
授業のテストで難問の数学の時間があった。クラスの最高点は確か30点だった。もちろん満点は100点である。隣の麻布の生徒の答案は25点だった。その生徒はこれでは親に見せられないと苦虫をつぶしたような顔をしていた。
少年の点数は7点だった。その夏、理系へ進学することは諦めた。
夏期講習を終わり実家に戻る頃には幾分涼しくなっていたが、少年の腕には日焼け跡が残っていた。何故なら休みの日は叔父の建築の仕事を手伝っていたので結構日焼けした。
自由が丘の現場だった。公園の横の瀟洒な家だった。叔父たちと一緒に大木の根を掘り起こす仕事で球の様な汗を噴き出しながら泥だらけで仕事をしていた時の事だった。施主のトイレを借りようとしたら、施主から汚いからと断られた。
少年は大人の事が少しわかったような気がした。
電車が新桐生の駅につく頃には少年は大人になっていた。その秋、バスケットの部活を辞めた。仲間ともほとんど交際しなくなった。そして翌年の春2年生を迎えた。