このブログを検索

2010年12月28日火曜日

心のお土産

やっと来客の足が止まりました。来ていただいた方に失礼ながら正直そんな気持ちです。

その中で、あるお客様からとても良い言葉を教わりました。

心のお土産」です。招かれて行ってもただ食事やお酒を飲むだけでは人は本当に満足しないというのです。帰るときに「来てよかったな」と思える「心のお土産」が必要なのだということです。

ひとを招くとは全人格的に人を招くのであって、その人の周りに如何に人を引き付ける魅力があるか問うているというのです。

なるほど考えさせられます。ですから自分に自信のない弊社はこちらからお客様を呼んでの集まりは開催できません。(単なる理由づけ?)

帰るときに「心のお土産はありましたか?」聞くと、ニヤッと笑ってそのまま階下に姿を消していきました・・・・・・・来年も宜しくお願いします・・・・

坂の上の雲

先日も誰かが「坂の上の雲」について「どうなの?????」という感想が聞こえてきました。

確かにステレオタイプの明治維新という側面はあります。日本海大海戦は映画そのものですし、東郷平八郎はあのままのヒーローです。

そしてここまでどうして間延びさせるのというのが本音でしょう。いくらなんでも3年は長すぎます。

しかし、これからが見ものなんです。個人的には。日露戦争に勝利して昂揚する国民戦果とはうらはらに兄の好古は元帥の推薦を辞し、下野して郷里の校長に降格する件は、どのような心境だったのか、はたまたそれをどのように描写するのかとても楽しみです。

真之が50歳で逝去するのに対して、好古は71歳まで暮らします。当時としては長命だったはずです。

蛇足ですが参議院議員の大石尚子さんが真之氏のお孫さんと知っていました??

出不精 人嫌い

30日まで仕事です。ちょっとうんざりしています。昨日も建築会社、金融関係等の挨拶回りで来客が絶えません(私の基準ですよ)今日も午前中から予定が入っています(当たり前か)いやこの頃人と会うのが中々面倒くさいんです。極力、アポを避けていても仕方ない場合もあります。

私は基本的に人と会うのが好きじゃありません。しかし好き嫌いにかかわらず多くの人と会わざるえません。ほんとうは誰にも会わずに一人で犬と一緒に本を読んでいるのが好きなのです。

当然出不精です。頭の中で空想旅行することは好きですが、出掛けて行って観光すると言うのは最も苦手の部類です。

しかししかしです。好き嫌いに関係なく多くの人の間にビジネスが存在することも事実です。

年末の嘆息です。

お泊り ロイ君とシェリーちゃん

ロイ君とシェリーちゃんは(犬の名前しかしらない)はご子息が全国高校ラグビー出場のため今日からあざみ野のホテルでお泊りです。




東京は国学院久我山と本郷、神奈川は桐蔭と慶應です。息子さんのポジションはウイングですから得点に絡む花形です。

お初天神のシュウマイ屋さんの名前が出てきませんでした。正式には「阿み彦」です。梅田にもあるようです。外パリッパリの中ジューシーです。ビールとあいまんなー!!!



私のように高校のラクビー部の人数が足りないというので、バスケ部から集められた素人とは違い、このクラスのスピードとパワーは半端じゃありません。

天賦の才能 パンのための学問はするな

内田先生がブログで面白い事を書いていたのでご紹介します。私もそう思うからです。

ー中略ー

天賦の才能というものがある。



自己努力の成果として獲得した知識や技術とは違う、「なんだか知らないけれど、できちゃうこと」が人間にはある。


「天賦」という言葉が示すように、それは天から与えられたものである。


外部からの贈り物である。


私たちは才能を「自分の中深くにあったものが発現した」というふうな言い方でとらえるけれど、それは正確ではない。


才能は「贈り物」である。


外来のもので、たまたま今は私の手元に預けられているだけである。


それは一時的に私に負託され、それを「うまく」使うことが私に委ねられている。


どう使うのが「うまく使う」ことであるかを私は自分で考えなければならない。


私はそのように考えている。


才能を「うまく使う」というのは、それから最大の利益を引き出すということではない。


私がこれまで見聞きしてきた限りのことを申し上げると、才能は自己利益のために用いると失われる。


「世のため人のため」に使っているうちに、才能はだんだんその人に血肉化してゆき、やがて、その人の本性の一部になる。



そこまで内面化した才能はもう揺るがない。


でも、逆に天賦の才能をもっぱら自己利益のために使うと、才能はゆっくり目減りしてくる。


才能を威信や名声や貨幣と交換していると、それはだんだんその人自身から「疎遠」なものとなってゆく。


他人のために使うと、才能は内在化し、血肉化し、自分のために使うと、才能は外在化し、モノ化し、やがて剥離して、風に飛ばされて、消えてゆく。


長く生きてきてそのことがわかった。


豊かな天賦の才に恵まれた多くの若者を見てきた。


彼ら彼女らは若くからはなやかな業績や作品を生み出し、高い評価を受け、すてきなスピードで社会的なプロモーションを果たした。


彼らは自分の才能の効率的な使い方については十分に知っていたが、「才能とは何か?」という一般的な問いを自分に向けることはあまりなかったようである。


なにしろ、生まれたときからずっと才能があり、才能がいきいきと活動している状態が天然自然なので、あらためて自分の才能の構造や機能について省察する必要を感じなかったのである。


それも無理はないと思う。


でも、ある程度生きてくれば、現在自分の享受している社会的なアドバンテージのかなりの部分が「自己努力」による獲得物ではなく、天賦の贈り物だということに気づくはずである。


それに対して「反対給付義務」を感じるかどうか、それが才能の死活の分岐点である。


ー中略ー
 
全部お読みになりたい人は先生のブログを見てください。http://blog.tatsuru.com/
 
そうなんです、「パンのための学問をするな」と私が言っていた事はこのことなんです。
 
私が内田先生のシンパであるのは先生もキチンと物質文明との親和性を持っておられるようだからです、ワタシャ聖人君子とはお付き合いできませんから(笑)

村上春樹  内田 樹


内田樹先生のこの2冊の村上春樹論は村上春樹シンパの私としては大賛成であります。

1冊は最初の本にさらに肉付けした内容になっていますが、思考論理は一貫しています。

個人的には村上文学を一通り読みこんだ後、今度は春樹氏が訳している英訳本を読むことをお勧めします。内田先生が言っている「世界的」の意味が良く分かります。

閑話休題

先般、パーティの席上、商社志望の学生でさえ日本の大学生が海外に行きたくないという話が出ていました。その原因は海外留学組が歯車の一部や英語屋として軽んじられていることを、学生たちが薄々知り始めた事が一端ではなかろうかと・・・・・確かにその傾向は歪めません。

ただ、ふと思ったんですね。そのときこの村上春樹氏のことを・・・・彼の訳本を読んでいると単なる翻訳者としての本とは違い、小説家の矜持が感じられます。そして単なる筆者の統一的世界観を押し付けるのではなく、クラウドの現在にマッチしたパーソナルな原体験を感じさせる奥深さを持っているのです。

私など海外留学の経験はありません。だからとやかく結論は言えません。

もちろん社会人として海外に出る場合には企業人として海外に行くのですからそのバックボーンに日本を背負っているのは当然です。しかし、学生や研究者の中でもこの傾向が強く、本当に海外で何して来たのという輩が多い気がします。

極端な例かもしれませんが、海外に行っても日本人学校に通い、街中の危ない所には近寄らず、日本人とのみ接していたような人に海外の文化を観察できるのでしょうか?これじゃ目の悪い人がプールで目を開けた位の景色しか見えないのではないでしょうか・・・

結局、村上文学が出来るようになるまでの彼の長い緻密な分析と収集があったと感じるからです。

これと同様の事が日本文化史においても感じられます。西欧人の日本文化論は「基督教的」「一元的」と揶揄されることが多いのも事実です。しかし、それ以上に日本人の海外文化論はチープで薄っぺらです。それに比べて最近出版されたジョン・ダワーの「昭和」など俯瞰的に見事に歴史をとらえています。



何が言いたいの・・・そう、若い人はどんどん海外に出るべきです。そう、「村上春樹流」で・・・というのが結論です。