バジリコスパゲティ
1970年代も終わろうとしていた時、田舎から上京した若者は六本木の外れでアルバイトをしていた。東京の右も左も分からぬまま都会の魔法陣の真っただ中で一人うつむきながら来る日も来る日も皿を洗っていた。
その日は珍しく早く終わって駅に向かう途中だった。ビルの谷間に夏の風が匂いを運んできた。何の匂いなのか分からぬまま、ただ生ぬるい夏の風は人々の欲望と快楽をひとからげにして街を彷徨っているようだった。まるで死者のように。そして夜の帳が重く滓のように重なっていく。
青年が働いていた店の近くに高級外車が夜な夜な集まり、派手なドレスを着た女性たちが降りたつ店があった。その店は地下にあった。青年は灯りに誘われた虫のように初めてその店の細い通路のような階段を下りて行った。店の中には先程のドレスの女性たちが談笑している。相手の男性は誰もが瀟洒な身なりで青年とは違っていた。女性のドレスは赤、青、黄色と原色の花のようだった。赤い口紅とマスカラが同じでどの顔も同じように見えた。ただ女性たちの目は笑いながらも、肉食獣が獲物を前にして舌舐めずりする鋭い眼光が奥に潜んでいた。男性の顔は見えなかった。照明が逆光になりところどころ照らされてはいるが全体が掴めない。青年は何とか見ようと目を細めてみるが見ようとすればするほど全体が分断されていく。最後には断片となった鼻、目、口、耳がバラバラと崩れて行く。ゲシュタルト崩壊。青年はすんでのところで店に入らずに済んだ。
それから20年、青年は歳を取り、家庭も持った。子供も生まれた。そしてあの店のテーブルに座っている。周りの人の顔がよく見える。メニューにあるバジリコのスパゲティと白ワインを注文した。運ばれてきたスパゲティの上にバジリコの葉が添えられていた。バジリコ以外にもパセリと大葉が使われていたが、傍目には分からない。あの時顔の分からない男性が食べていたものがこんな味だと20年経って初めて知った。店を出ようと会計を済ませるとまだ年端の行かない若いジーンズ姿の青年が驚いたように目を見開きこちらを見ている。青年はふと我に返ったように足早で階段を駆け上がって行ってしまった。
出店 飯倉片町「キャンティ」