我が社のスタッフA女史が私の薦めた本を寝る前に読むとお腹が空いて困るというのである。
幸せな気持ちにはなるがどうにもこうにもお腹が空いて終いには読んだことを後悔するのだそうだ。
それは困った。確かに平松洋子女史の文章は平易でしかも写真付きであったりするので目からすっと胃の中に収まってしまう。
ならばと私が用意したのは開高健氏のエッセイである。
日本の文壇において氏の食と釣りに関するエッセイは三指に入ると思っている。氏は生前、物書きたるもの筆舌に尽くしがたいなど言語道断、筆舌に尽くすのだと言っている。
氏は同時に物書きたるもの筆を錆びさせることは出来ず、味覚をペンでなぞることは勉強になると言っている。
この辺りを勘案すると氏は自分の好きな釣りと食のエッセイを書くことで、本業の小説のためのアイドリングをしていたのではないかと私は睨んでいる。
ヘミングウェイも同様だ。ただ、彼は本業の小説の中に己の好きなことを挿入し楽しんでいる。海流のなかの島々であそこまでマーリンの種類や生態を細く書き連ねる必要もないのに嬉々として書く。
しかし、人間このアイドリングをしている間はストレスがなく(好きなことをしている)自由な発想が次から次へと浮かんでくるのではないか。
この最後の晩餐とて初めは食のことを書いていたかと思えば、話はカニバリズムから秦の始皇帝に飛び最後はもうお腹いっぱいとペンを置く。
これならば読者は食べ物の妄想にとりつかれるしまもなく読了してしまうだろう。
ただし頭の中がメリーゴランド宜しくクルクル周りマリ・アントワネットやマザーテレジアがしおからやなれずしを食べ、エスコフィがブルーストにアブ社のリールで釣り上げたあんこうのパンパンに張り切った肝を蒸し器で蒸し上げ食べるのを見て、心性のの内幕に潜む徹底的なアナキストの影に怯えていたのだとして眠れなくなっても知らない。
土桜の名刺がしおり代わりなのはいただけない。