子供の頃は河がすぐ近くだったがまともな釣り道具など持っていなかった。もっぱら手づかみがその頃の近所の子供達の習わしだった。運悪く刺のある魚を掴むと2.3日腫れが引かなかった。
大人になって釣りに誘われても船に弱い私は船に乗らず、漁港近くの寿司屋で帰船まで時間を過ごしていた。
その人は釣りが好きだった。当時は好きというより、そうでもしなければ自分の居場所が無かったのではないだろうか。その人は専門書の出版の仕事をしていてそれなりに名のしれた会社だったが書籍離れの世間の逆風はそのままで、所有する資産の担保を条件に社長に推された。結局、職を辞し家に戻った。家では母親が寝ていた。癌で助からないと知りながら日めくりカレンダーの紙を剥がすごとく死へのカウントダウンを数えなければならなかった。あるとき私がその人の様子を見に行くと、本人は釣りに行って留守にしていると家人が言う。場所は大体想像がついた。運河沿いのその場所につくとその人は寂しそうに背中を丸めて釣り糸を垂らしていた。私は何も言わずその人の横に座り、知らぬ間に竿を伸ばしていた。それが私の最初の鯊釣だった。
その人とはその後何回も鯊釣に出かけた。私が船に乗れないことを知ってかいつも鯊釣だった。
鯊釣の仕掛けはとても単純なものだった。延べ竿という、するすると中から筒が伸びていく和竿の先につり糸を括りつけ、天秤にハリスを仕掛ける。
その針先に餌のジャリメをちょこんと付けて海の中に放り込めば良い。
ところがこの鯊釣も奥が深い。鯊が深みに行ってしまえばこの竿では釣れない。陸から釣をするのは限られた時期だけになる。そしてその日の海の状況によって全く釣れないこともある。
いつだったかお台場の先でバケツいっぱい鯊が連れたので、翌日も大漁とばかり息せきこんで出かけたは良かったが全く釣れないこともあった。
小坪の漁港でもよく釣った。私が逗留していると今から行くと電話が入る。東京から原付バイクで乗り付けて一緒に釣りをした。
ここの鯊は東京湾の鯊とは種類が違う。幾分、小さく色が薄い。地元では岩鯊と言っていた。
考えてみると小坪と葉山はすぐ隣り合わせである。葉山では御方がこの鯊の研究をしていたくらいだからさぞ種類も豊富だったのだろう。
その人は釣った魚を無駄にしなかった。小指ほどの鯊でも天麩羅にして食べた。大きな鯊が釣れれば、刺し身にして、その肝も和えて食した。
その人が亡くなって一年がたつ。もう一緒に釣りはできないが、その人への感謝気持ちで今年の夏は釣り糸を垂らしてみようか。いや、もう少し大きくなったら孫に鯊釣を教えてやろう。釣りは老人から学ぶのが粋なのだから。