広く人口に膾炙している「何々らしさ」という言葉を聞くと、私の中の天邪鬼の虫が騒ぎ出すから言うわけではないが、何か違和感を覚える。
例えば日本人らしさと言うと、多くの人は控えめで、勤勉で実直であるなどと表現される。本当にすべての日本人がそのような筈はないのに強制的にタグを付けられている気がする。
家守の仕事は街と直結している。その街の中で仕事をするのだから当たり前といえば当たり前なのだが、ここでも「らしさ」が顔を出す。「銀座らしさ」「渋谷らしさ」とは何だろう。高級でハイセンスなことが銀座らしさなのだろうか。109に代表される若者のファッションが渋谷らしさなのだろうか。
「らしさ」がひとり歩きした街を一つだけ知っている。原宿の竹下通りである。まさにあの街は「らしさ」の凝縮である。どこをとっても金太郎飴のように同じ「らしさ」が顔を出す。
私の働く中目黒も20年前には飲食店も物品販売店も無かった。目黒川沿いには小規模な工場や倉庫が軒を並べていた。20年前の中目黒らしさはそんな光景だった。
もちろん「らしさ」を全否定するつもりはない。ある漫画家が自分の好きな家を建てると言って奇抜な家を建てようとして住民から非難されたように、あまりに場違いなものは敬遠される。
あるボストン在住の都市計画の専門家と東京について話をしたことがある。彼は東京はニューヨーク、ロンドン、パリとも違う特異な街だと言っていた。私がニューヨークやパリのように長い年月を掛けて熟成されるような街づくりを手本とするべきではないかとの意見にきっぱりノーと言い放った。東京こそスクラップ&ビルドを続けなければならないと。そうしなければこの街は衰退していく運命にあると続けた。
飲食店のまね事をしているときに15年いやそれ以上続けて老舗にしたいと思っていた。後になってその考えが誤っていたことに気がついた。老舗とは変わらず立ち止まっている訳ではない。絶えず社会の変化を受け変質している。ただ、その変質を最小限に止めようと莫大な労力を使っているのだ。
「らしさ」とは時代を映す鏡である。あまりに「らしさ」を追求すると流行を追いかけるのと同様、流れている川の水をひと掬いするのに等しい。そして流れは私たちを置いていく。
先般もとある建物の企画でこの「らしさ」をという言葉を耳にした。もちろん悪気はないし、前述した街と乖離しない程度の常識的「らしさ」を指してのことであろうが、やはり私には「らしさ」を必要とするのは幼児化した頭と功利に目が眩んだ商人だけだと思うのだが如何であろうか。
建物にもいつの時代でも残るかっこよさは必ず存在する。いや、そう思いたいとの願望でもあるのだ。