子供の頃から何事にも飽きやすかった。いつもまわりの大人に一つのことをずっと続けなさいと言われた。忍耐が足りないとも言われた。でも私にはどうでもいいことの基準が違っていた。
北関東の外れの街には小さな動物園があった。キリンや象もいた。子供たちは躯体の大きくて目立つ動物の前で画用紙を広げてスケッチをしていた。私は暗い日陰の小さな檻の前である動物を眺めていた。その動物は猫くらいの大きさで昼間は巣穴の中に閉じこもっていた。時折、暑さを凌ぐためかコンクリートで出来た四角い無機質なプールに淵からするっと水に入り、一周りしてまた巣穴に戻っていく。魚臭いその場所は人気がなく、檻の前にいるのは私だけだった。水生動物のぬるっとした湿った質感が気に入っていたのだろうか、今でも何故好きなのか分からない。戦前、毛皮用として日本に持ち込まれたヌートリアが野生化している。一度、近くの川で見たことがある。葦の水辺から顔を出したヌートリアはつぶらな瞳でこちらを見ていた。
4.5年前、苔に夢中になった。苔のことについて書籍を買い求め色々と調べた。苔の種類も千差万別で本当に興味深い。水生動物と同じように苔の持つ質感に惹かれた。芝生の緑とは違う、毒々しいまでの緑色。私はスコップとバケツを持って人気のない神社の境内に行って苔を拝借してきた。ところが自分で繁殖させようとするととても難しい、ほとんど育たなかった。もう無理だと思い放っておいたら、花壇のまわりが苔だらけになってしまった。
好きなものを見つけるともっと知りたくなる。それは人間の本質的欲求ではないか。ひとつのことを深く掘り下げ研究することも大切だと思う。研究には時間と経験が必要だからだ。一方で新しい知識というものは最初ほど吸収が良いように感じる。そう、乾いた砂漠に水が吸い込まれるように自身に取り込まれていく。
昨日、東大紛争の裏側を当時の人達が証言するドキュメンタリーを見ていた。紛争のずっと後になって大学生活を逢える私たちはあの紛争が何だったのか知ろうともしなかった。むしろ知ることが憚られたのだ。しかし、学生たちが大学に突きつけた「何のために学問をするのか」という問は今も生き続けている。
今の大学は良い職業につくための専門学校のようだと言われている。学問とは明治の頃から「いつ役立つかわからない。そんな程度のもの」として甘受できる大きな風呂敷が必要なのではないかと思う。