今日は二十四節気の一つ清明です。春の清らかな気が満ち、草木が萌え出る様子です。
今日はとても清々しい気持ちです。何故かというと、昨日、一杯の中華蕎麦を食べて心も体も満足したからです。料理の美味しさもさる事ながら、その店主の師弟の関係や発展も含めて素晴らしい正の循環を垣間見る事ができたからです。
私たち人間は生まれた時には自我がありません。成長するに従い社会的適合性を持つために自我が発達します。これは必然です。しかしながら、行きすぎた自我というものがあり、仏教ではこれを強く戒めています。
自分と他人を分けるのは仕方ない事です。何を今更と言われかもしれませんが、この分け方が問題なのです。自分にとって都合良い事ばかり優先して、他人は別と言い切る。
私の知っている家族で自分の家の前の道路しか掃除をしない人がいます。雪かきも同じですね。その人に言わせると「フランスでは道端に犬が糞をしても取らない。何故ならそれを職業としている人を失職させてしまうからだ」と。そうでしょうか。
親は子供を育てるのに見返りを求めていません。求めているとしたら既にいびつな親子関係と断言します。その見返りを求めないのは、自分と子供がいわば一心同体だからです。
子供の痛みは親の痛みでもあり、子供を救うためなら自らの命さえ厭いません。
それが何故家族を超えると急に他人として分け隔てをして、利己的に振る舞うのでしょうか。
先ほど仏教の話をしましたが、自分も他人も繋がっていてそれを「縁」というのです。
何気ない他人との交わりが結局「縁」となって自分に返ってくるのです。そう分かると何事も関係ないじゃなくて、すべて繋がっていると理解できるのです。
さりとてこの事ばかり意識したのでは、自分のための他人への行いになってしまいます。
偽ボランティアに他なりません。
震災の時にマスコミに取り上げられた偽ボランティアの多かったことか。彼らは自らの主張をこの時ばかりと利用して、本当に他者のために無償の救済をするためにしているのではないからです。その証拠に偽ボランティアは今は何一つ残っていません。
NHKのニュースキャスターをしていた女性が先月末退局しました。
彼女の散り方は実に清々しく、その応対に私は驚かされました。
道元の言葉に「捨てば手に満ちて」というものがあります。多くを持ちすぎたり、引きずりすぎると新しい何かが手に入らない。いつも心を軽やかに清くいることでまた戻ってくるというものです。まさにその言葉通りです。
今までの経験や肩書き、プライドなど何にもなりません。あるのは心軽やかに清々しくいることです。清明の日にふさわしい事ではないでしょうか。