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2010年6月29日火曜日

サッカーWカップ  朝青龍


予選が始まる前から優勝国の予想をしていました。スタッフのT氏はブラジル、私と妻はアルゼンチン、両国とも残っています。

別にマラドーナやメッシのファンということではありませんが、マラドーナを見ていると一番日本では嫌われるタイプだなあと思うのです。

西欧(南米もヨーロッパという認識)ではああいう、超肉食系のリーダーが求心力を持って変革することが多いのですが・・・・・・・

そこへいくとこのアジアの辺境の国は相撲には「国技としての品格が必要だ」とかいう訳の分からない倫理観を吹聴するどこぞの横綱審議員のU女史ではありませんが、超保守的な訳です。スポーツの品格なんて分かりませんよ

しかししかしですよ、超保守的というのは良いことも悪いこともおしなべて内向的にし、全体で覆い隠そうとかるのは自明なことなのです。今回の騒動は起こるべくして起こっているのです。

品格はダメで、犯罪はよろしい?おかしくありませんか?角界のことは随分前から色々と噂されていました。知り合いの相撲で有名なK大出身の人は「角界も反社会的勢力も同じ穴の」だと言っていました。さらに角界出身でこの反社会的勢力に入り込む人も多いと聞きました。



テレビのコメンテーターを務める角界出身のR氏が「反社会的勢力が狼なら、私達は虎だと」ぬけぬけ申しておりました。こんな意識なのですからその有りようは推測されるものです。

私には大相撲がなくなってもちっとも困りませんから

世界一高いプール  マリーナベイサンズ



シンガポールに渡航した時「世界3大ナンチャッテ」のひとつマーライオン像の向こう岸に見えていた「マリーナベイサンズリゾート」がブレオープンしたようです。

オープン初日はカンファレンスの最中に停電したり、有線が混線したりと散々なオープンだったようですが、このリゾートの売りは世界一高いプールとカジノです。プールはパリのインターコンチと同じ海と繋がるホリゾンタルスタイルです。

世界一高いプールはどうでもいいとして、カジノ構想を時間を掛けて話し合っている内に元気な東南アジアにこれもまた先を越されました。これじゃ益々日本はオイテけぼりです。

ユトリロ展 東郷青児美術館


美術好きの土地家屋調査士のO先生より、ユトリロ展のチケットを戴きました。

O先生は美術好きで、以前、板谷波山の高島屋の美術展も勧められて観に行った記憶があります。

ユトリロは私の好きな作家です。鶴川にある西山美術館にもユトリロを観に行きました。

ユトリロにはいくつかの時代により作風が異なりますが、いずれもパリの街角を切り取った風景に特徴があります。モンマルトルの好きな私には懐かしい暖かい画風です。

サクレ・クール寺院やテルトル広場、ラパン・アジルなど見慣れた風景です。

ここの美術館にはゴッホのひまわりも常設されています。ゴッホは気にいると同じ題材で何枚も同じ絵を描いたことでも有名です。このひまわりも世界のあちこちで見受けられます。

ロコモコ丼


今日の夕餉はパスポートを妻と一緒に取りに行ってたまの休日だった娘が作りました。

ロコモコ丼とロミロミサラダ、アボガドのディップです。

前にも書きましたが本当に美味しいのです。お店をオープンしたらレギュラーメニュー決定です。

朝餉はあさげ、夕餉はゆうげ、では午餉は?確かにひるげとも読みます。正確にはごしょうです。
マメ知識でした。

いささか白ワインが効きました。もうお休みのサインです。

パラグアイ戦 sanpaku 

今日のパラグアイ戦まで起きている自信がありません。これなら3時キックオフのほうがどれだけありがたいことか。

日本には善戦を期待するのみです。

マイケル・フランクスのフェイバリットアルバムの中に「sanpaku」という曲があります。

この曲には「サンタクルーズ」が何回もリフレインされます。

確かパラグアイのCFは?????


海女の家  蜑戸

以前東北地方を旅行した時に海辺に海女の小屋が並んでいました。今時の「美しすぎる海女」はまだこの世に生を受ける前の時代です。

私が尋ねるとこの小屋を「蜑戸」と呼ぶのだと地元の漁師が教えてくれました。

蜑民とは中国のボートピープル(家がなく舟で生活している人のことを差別的に言う)のことだと思っていたので、この東北の人がそういうのを聞いて不思議でした。

大学の恩師であるS先生はは私達が学生の頃、よく素潜りで蛸やさざえを取っていたことを思い出しました。

本日の午餉は磯の香りのする「江の島丼」にでもするかもしれません。しかしながら鶉衣の私ですからそうとはいきません。おとなしく事務所で済ませます。

正義とは マイケル・サンデル考

マイケル・サンデルのハーバードでの講義録がユーチュープにあったので確認してみた。

彼の論理構成は多元的思考から出発するのではなく、学生に二者選択を迫る。この方法自体、コミュニタリアンと思える。

確かに、「国家の役割を増やすこと自体、自由への脅威で考える」といったハイエクの主張や、ノージックのいう「自分が正しい手段で獲得した富を平等や集計最大化の名のもとに徴収されるされることを拒絶する」リバタリアンの主張は正反対だとしても、J・ロールズが主張する「あらゆる人が平等の権利を持ち、他の人々の同様な自由と両立しうる限りにおいて、最大限広範囲にわたる自由でなければならない。社会経済的不平等を認める場合の条件はそれらの不公平が最も不遇な立場にある人の期待便益を最大化すること。【マックス・ミニ原理】すべての人に開かれている職務や地位に付随するものでしかないこと。【機会均等原理】 )というリベラリストの論理を俊駕してまでの理論ではないと感じる。

確かに国家に最大の仕事を任せるべきでないことは同感ながら、自由主義を制約するサンデルの思考は私には受け入れられない。社会平等化とはいきつくところ共産主義思想となる。

共産主義はその本質的要素から成就しえないことは周知の史実である。