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2012年6月9日土曜日

ゼノフォーブ 生活保護問題

片山さつき議員が指摘したことに端を発した生活保護問題を取り上げるマスコミと彼女に関して妙な違和感を持っていた。もっとも彼女の場合、そうすることが次の選挙のための施策の一つであり、劇場化するマスコミをうまく煽動していると思うが、喉の奥にツッカエタ骨のように気分が悪い。
2チャンネルに跋扈する反日、在日のように誰かを悪者にして自己弁護するそんなナチス的偽善も感じていたところに、内田先生がなるほどという論を説いている。レビィナスの専門家としての一面からも相互扶助を推考しているので是非皆さんにも読んでいただきたくここに紹介します。

以下・・内田 樹氏のブログより

相互扶助と倫理について

片山さつき議員による生活保護の不正受給に対する一連の批判的なコメントが気になる。
「相互扶助」ということの本義に照らして、この発言のトーンにつよい違和感を持つのである。以下は朝日新聞の報道から。

人気お笑いコンビ「次長課長」の河本準一さんの母親が生活保護を受けていたことが、週刊誌報道をきっかけに明らかになった。4月12日発売の週刊誌「女性セブン」が最初に匿名で報じた。「推定年収5千万円」の売れっ子芸人なのに母親への扶養義務を果たさないのは問題だ、と指摘した。翌週にはインターネットのサイトが河本さんの名前を報じ、今月2日に自民党の片山さつき参院議員が「不正受給の疑いがある」と厚生労働省に調査を求めたことをブログで明かすと、他の週刊誌や夕刊紙が相次いで取り上げた。
報道を受け、所属事務所よしもとクリエイティブ・エージェンシーは16日、コメントを発表。河本さんの母親が生活保護を受けていたことを認めたが、「違法行為はない」とした。 同社によると、母親が生活保護を受け始めたのは河本さんの無名時代の12年ほど前から。
同社の担当者は朝日新聞の取材に「収入が年によって増減し、将来も安定的に援助できるか見通しが難しかった事情もあるが、認識が甘かった」と話す。
親族間の扶養義務は、民法730条に次のように定められている。
「直系血族及び同居の親族は、互いに扶け合わなければならない」
自治体は生活保護の申請を受けると、扶養義務のある親族に扶養の可否と年収を尋ね、受給開始後も毎年調べる。しかし、調査に強制力はなく、回答の真偽を検証する手立てもない。
自治体の担当者からは、調査権限の強化を求める声が上がっている。
「親族に尋ねても『余裕がない』と断られるケースが大半だ」
「これまでは『親に生活保護を受けさせるのは恥』の意識があったが、『もらわないと損』の感覚が広がれば、法改正の必要があるかもしれない」
生活保護法では、親族から援助を期待できるかどうかは、生活保護を受ける際の要件ではない。高収入の子供がいるからといって、不正、違法となるわけではない。
だが、扶養義務の調査を厳正化すると、生活保護を受けるべき人たちが申請を控える事態を招きかねない。
専門家は「扶養は法律で強制するのでなく、当事者の話し合いで解決するよう導くのが本来の行政のあり方だ。生活保護を減らすには、就労支援など、先にすべきことがある」と話す。(朝日新聞5月25日による)

複雑な問題である。
It’s complicated というのは「簡単には説明できない事態」について、相手に判断の保留を求めるときのシグナルである。簡単に理非正邪の判定ができないことが私たちの社会にはある。
そういうときには、「とりあえず座って、お茶でも一杯」してから、長い話を始めるというのがことの手順である。
複雑な問題には、複雑な解決法しかない。
「複雑な問題」に「簡単な解決法」を無理に適用する人は、「散らかっているものを全部押し入れに押し込む」ことを「部屋を片付けた」と言い張る人に似ている。
そのときは一瞬だけ部屋は片づいたように見える。だが、そのままにしておけば、押し入れの中はやがて手の付けられないカオスになる。
生活保護の問題は「相互扶助」という複雑な問題にかかわりがある。
複雑な問題に簡単な解決法は存在しない。
弱者の処遇についての考え方は、単純化すれば二つしかない。
(1)社会的弱者は公的な制度が全面的にこれを扶助する。
(2)社会的能力の多寡は本人の自己責任であるので、公的制度がこれを扶助する理由はない。
「大きな政府」論と「小さな政府」論も、「コミュニズム」と「リバタリアニズム」の対比も論理的には同型である。
私たちが経験的に言えることは、「落としどころはその中間あたり」ということである。
ある程度公的な支援を行い、ある程度は自己努力に頼る。そのさじ加減はときどきの政治状況や景況や、何を以て「弱者」と認定するかについての社会的合意にかかわる。
社会的弱者を支援する事業を行政が専管するというのは、いいことのようだが、長期的には問題が多い。
べつに金がかかりすぎるとか、そういう野暮な話ではない。
もし、政府が弱者を実効的に救済するシステムが機能していれば、私人は弱者救済の義務を免ぜられるということである。
目の前に、飢え、渇き、寒さに震え、寝る場もない人がいても、「行政で何とかしてやれよ」と電話一本すれば済む。たいへんけっこうな社会のように思えるだろう。だが、そのような社会に住む人々はいずれ「目の前で苦しんでいる人を救うのは、他ならぬ私の仕事だ」という「過剰な有責感」を感じなくなる。
これは人間として危険な徴候である。
「世界を一気に慈愛深いものにしようとする」企ての挫折をレヴィナスはスターリン主義のうちに見た。
「スターリン主義とはつまり、個人的な慈悲なしでも私たちはやっていけるという考え方のことなのです。慈悲の実践にはある種の個人的創意が必要ですが、そんなものはなくてもすませられるという考え方なのです。そのつどの個人的な慈愛や愛情の行為を通じてしか実現できないものを、永続的に、法律によって確実にすることは可能であるとする考え方なのです。スターリン主義はすばらしい意図から出発しましたが、管理の泥沼で溺れてしまいました。」(エマニュエル・レヴィナス、『暴力と聖性』、国文社、1991年、p.128)
この世の中を少しでも手触りの暖かい、住みやすい場所にしようと思ったら、「永続的に、法律によって」それを確実にできると考えない方がいい。
レヴィナスはそう教えている。
慈愛の実践のためには制度だけでなく、「個人的創意」の参与が不可欠である。
「正義がさらに義であるように」「社会的公正がさらに公正であるように」するためには、生身の個人が、自分の身体をねじこむようにして、弱者支援の企て関与することが必要である。
けれども、「個人的創意」ばかりを強調すると、今度は「公的制度による支援は無用」というリバタリアンのロジックに歯止めをかけることができなくなる。
苦しむものは勝手に苦しむがいい。それを見ているのが「つらい」という人間は勝手に身銭を切って、支援するがいい。オレは知らんよ。
今回、一部の政治家たちと一部のネット世論が求めている「生活受給条件の厳正化」は、ある意味でリバタリアン的である。
親族による扶養を強調しているが、その趣旨は「相互扶助」ではない。
問題になっているのは、「いかにして、孤立した弱者を救うか」ではなく、「身内のことは、身内で始末しろ(他に迷惑をかけるな)」という、弱者(とそれを親族内に含むものたち)の公的制度からの「切り離し」である。
なぜ「親族間の扶け合い」をうるさく言い立てる保守派が、その舌の根も乾かぬうちに「公的制度にすがりつくな」というリバタリアン的主張をなすことができるのか。
これは矛盾しないのか?
もし「相互扶助」ということの大切さを言いたいのなら、公的制度を介しての「相互扶助」の必要も指摘すべきではないのか。
でも、彼らは「親族間の扶け合い」は人間として当然のこととして求めるが、公的支援は「本来ならやらずに済ませたいこと」という表情をあらわにする。
というのは、リバタリアンにとって、「公」というのは国家や地方自治体という非人格的な行政組織のことであって、それ以外は全部「私」に分類されるからである。
そして、親族は「私」なのである。どれほどの規模でも、所詮は「私」なのである。
だから、「親族間で」弱者の面倒を見ろと言うのは、要するに「自助しろ」と言っているのである。
彼らは「相互扶助」ということそれ自体に「価値がある」とは思っていない。
この世界は本質的には無数の「私」たちの競争と奪い合いだと思っている。
弱者への支援は「ゴミ収集」とか「屎尿処理」と同じような「面倒だけれど、やらなければいけない仕事」だと思っている。個人の責任に任せてしまうと、かえって市民一人あたりの社会的コストがかさむから、やむなく行政が引き受けている仕事だと思っている。
だから、ぎりぎりまで軽減したい。理想的にはゼロにしたい。
だから、「誰が『公』の負担を増やしているのだ?」という問いに強迫的につきまとわれてしまう。
生活保護の不正受給について論じたあと、ブログでは片山議員は引き続き外国人の国保の納入率が低いことを難じている。
いずれの場合でも、社会保障制度の「フリーライダー」が標的にされている。
社会的公正の達成というのが建前だが、そこに一貫するのは「誰が国富を収奪しているのか?」というなじみ深い「ゼノフォーブ」(xenophobe)の定型的思考である。
ゼノフォーブは「外国人嫌い」と訳されるが、べつにそれは彼らが「同国人好き」であることを意味しない。
国籍にかかわりなく、彼の自己利益の確保を妨害するすべての他者は一括して「外国人」と呼ばれる(ネット右翼が批判者を誰かれ構わず「在日」と呼ぶのと同じメカニズムである)。
彼以外のすべての他者は限られた資源を奪い合う「潜在的な敵」とみなされている。
敵性のつよいものは「外国人」と呼ばれ、敵性の弱いもの(自己利益増大のために利用価値のある他者)は暫定的に「同国人」に認定される。
あくまで「暫定的」なので、自己都合により、「同国人」たちも一夜にして「外国人」や「非国民」に分類変更される。
それだけのことである。
片山議員の発言は、彼女の心情を吐露したものというより、選挙目当ての「煽り」という感じがする。
その政治感覚は決して鈍くないのだと思う。
たしかに今の日本に「ゼノフォーブ」的な気分が瀰漫しており、「外国人叩き」をする政治家はしばらくは高いポピュラリティを獲得する可能性が高い。
おそらく、片山議員が「成功」すれば、このあと、彼女の真似をして、「フリーライダー叩き」にわらわらと政治家たちが参入してくるだろう。
先ほどの書いたように、公的制度が至れり尽くせりの弱者支援をすべきだという思想は個人の責務を免ずることで社会そのものを「非倫理的」なものに転じるリスクを抱えていると私は考えている。
けれども、すべての人間は資源を奪い合う競争に参加しているのだから、自分の取り分は自力で確保しろというリバタリアン的な考え方も同じように「非倫理的」である。
私はこのふたつの非倫理を退ける。
集団成員の相互扶助の問題は、倫理問題である。
倫理というのは「同胞とともにあるために理法」のことである。
定型があるわけでもないし、文字に書かれているわけでもない。
同胞たちと穏やかに共生し、集団がベストパフォーマンスを発揮するためには、何をしたらよいのかという問いへの答えは状況的入力が変わるごとに変わるからである。
そのゆらぎに耐えることのできる人間を「倫理的」な人間と呼びたいと私は思う。