最後の晩餐
友人(私よりずっと先輩で東大法学部出身の博覧強記のS谷さんの事を敢えて友人と呼ばせて戴く)と一緒に食事をしている時に、突然、最後の晩餐は何を食べたいか聞かれた。これはもう先制攻撃以外の何物でもない。1ラウンドの金が鳴ったと同時に左フックを食らったようなものである。さらに三食挙げよとの命令である。炊き立てのご飯、納豆、お味噌汁・・そこまでは答えられたが次が出てこない。いや、出てこないのではなく、この陳腐な頭のCPUがある事を思い出させた。それはフランスかどこかのシェフだったと思うが、「あなたが食べたものを聞けば、どんな家庭に育って、どんな考え方を持っているのか全て分かる」と言うくだりだった。尤、平民平素の私の生い立ちなど既に先刻ご承知で今更逡巡するなど愚かな行為であることは分かっていたが、結局のところ浮かばなかったのである。
凡人が述べるまでも無く、食通の開口健がこんな事を書いている。
「味覚は一瞬のうちに至高に達し、それを展開するが、しばしば一生つきまとって忘れられない記憶ともなる。幼少時に覚えた味となると、それはもうどうしようもない一瞬の永遠で、たとえオニギリにオカカだろうと、弁当のすみっこの冷たいタラコだろうと、めざしのほろ苦い腹わただろうと、これには易牙やエスコフィエなどの料理の天才諸氏も歯の立てようが無い。だから幼少期におぼえた味というものは、手術後の一杯の水や、山で食べるヤマメや、飢えの一歩手前でありついたカレーライスなどと同じように”料理”として取り扱っていいものか、どうか。広義としてはこれらも料理のうちに入るのだろうけれど、むしろ超越的な天恵と考えなければならないのであって、いくら他人に説明したところ通ずるものではなく、ただ黙っていつくしみ愛撫するしかない決定的瞬間である」
ここで開口はその代表がおふくろの味と言っている。
私の場合、母の味と言うのはあまり記憶がない。いや、母の名誉のために説明すれば、当時の私の住んでいた北関東の外れの砂塵舞う街では新鮮な魚が手に入らなかった。関越自動車道が開通するずっと前の事である。輸送手段も限られ、魚屋の店頭に並ぶものは既に化石のように硬くなった干物や塩鮭程度だった。そんな街での食卓にはまず魚は並ばない。
肉屋はといえば、鶏肉、豚肉、牛肉と一応揃ってはいるが、牛肉に関しては奥に鎮座し申し訳程度に見え隠れする神格化されたものだった。
私が住んでいた住宅は祖母が満州から引き揚げた後に市から譲ってもらった平屋建ての粗末なものだった。粗末とはいえ、あたり一帯同じようない家だったので貧しさを感じたことはなかった。家の右隣は自転車にお菓子やらティッシュを満載してパチンコ屋に卸す仕事をしていた。左隣の家には玄関を開けるとそこは土間になっていて、小さなカウンターがあった。玄関には赤い提灯が下げられ、”おでん” “お酒”と書いたあったが、客がいた事を記憶していない。
問題なのはもう一件右隣である。家の一階は食堂に改築され、白い暖簾に中華料理と書かれていた。東京の大学に通っていた息子が家業を継ぐと言う事で帰ってくることになり、父親は張り切って店を改築したのだろう。
この店は中華と書かれてはいるが、何でもある街の食堂だった。ケチャップいっぱいのチキンライス(チキンライスと言ってもチキンは入っておらずハム)に透けて見えるような薄い卵焼きのオムライスが好きだった。中には必ずグリーンピースが3粒入っていた。私の洋食好きはここに天恵を得たりなのだ。
もうひとつ腹ペコの私に必要だったのはバターである。隣の家からこっそり分けてもらった醤油せんべいがいつもあった。何も無い空腹を紛らわすのにこのせんべいだけでは飽きてしまう。そこでせんべいをストーブで軽く炙りバターを削り取るようにして口に入れるのである。今ならいつでもジャーの中に白いご飯ぐらいはあるだろうが、当時は保温出来ず、さすがに冷や飯にバターとは行かなかったのだ。と言うわけで卑しい私の口の出所を説明したので本題の最後の晩餐のメニューである。
①
炊き立ての白いご飯
②
納豆(くめ納豆・・小粒でなければならない)、白ネギ、青葱、和からし、醤油
③
明太子
④
味噌汁(玉ねぎとジャガイモの味噌汁 味噌は信州味噌)
⑤
おつけもの(野沢菜と茄子の浅漬け)
⑥
ベーコンエッグ(ベーコン2枚と玉子2個 玉子は半熟 キャベツの千切り)
⑦
ハンバーグ(妻が作る煮込みハンバーグ これは絶品)
⑧
ソースかつ丼(ヒレ肉を丼の中に4枚 志多見屋風)
⑨
鯛茶漬け
⑩
餃子(焼き餃子)
⑪
シャリアピンステーキ
⑫
海老マカロニグラタン
⑬
牡蠣フライ
⑭
ピーマン炒め
⑮
オムライス
これじゃ最後の晩餐じゃ済まないだろう?いいんです。朝昼晩三食分ですから(笑)それでも足りなければ翌日に・・