ラムゼイ1世の時代のことであった。裕福な家柄の家長と思しき年配の男性が皆に向かって。「昔は良かった、勤勉に働き、ともに苦労をしてきた。ところがどうだろう、今の若者ときたら遊ぶことばかり考えて、ろくに働きもしない」と言って嘆き始めた。
私はいつもこの話を思い出す。
つい、先日もテレビで若者と年長者に分かれて議論をしていた。何かのテーマがあったわけではなく、ただ「若者論」を好きお互い勝手に喋っていた。年長者の中には前述のエジプト人宜しく、自分の経験論を大上段に構えて、自分の若い頃は良かったと懐古的な叙情を示す。もう、一人は若者の心情を理解したかのごとく温和な表情で若者達と融和しようと懸命に努力している。
私はそのどちらもアホくさいと思ってしまう。大体、若者と年配で区分けして論ずること自体、馬鹿げた話であるし、有意義な考えだとは思えない。全てのことを二項対立的状況として演出するマスコミのそれは今に始まった事ではないが、そこから意味のある考えが発芽するとは考えにくい。
そんなことを言いながらも、私も時代論の本を読むことがある。つい、先日もバブルについてのある著者の本を読んだ。著者は大学で社会学の教鞭をとっているとのことだが、どうもこの手の学問には馴染めない。社会学全体がそうとは言わないが、これだけ変数の多い事象を大した考察もせず、こうだと断定するのは危なっかしくて仕方ない。
社会学だけではない。経済学においても人間の感情など今まで変数としては取り入れなかった要素を検討してそれを組み込み経済活動を分析しようとする動きが見られる。行動経済学といわれる分野はその嚆矢であろう。さらに公共性や社会性(帰属性)を視野に入れて考えてみようという動きもある。ここまで来ると一定の法則とは何ぞやと考えてしまうのは私だけであろうか。こうして文系分野のいろいろな学問が心理学的アプローチを思考し続ける間に、当の脳機能について益々複雑性が分かってきたというのは皮肉な話である。
前述の話に戻る。私の若い頃はとは言わないようにしている。私の若い頃は私の若いころであって。今の若い人の若いころも今の若い人の若い頃なのだ。決してこれからの人の若い頃よりこの若い人の若いころが新しくなることはないし、いつまでたってもその繰返しなのだから。
では歴史は繰り返すのか?そんな事はない、例えばもし今年フェレやアルマーニの肩パットの入ったジャケットが流行ったとしても、それは2014年に流行ったものであって。80年代の焼き直しではないのだ。物とはあくまで相対的な役割しか果たせないのだから。