王様の食事
作家の好き好きというのは人によって分かれるものであろう。同じ紀行文でも沢木耕太郎と開高健ではまるで違う。沢木氏が精密機械の設計図のように事実を丹念に掘り下げ物語を紡いでいるのに対して、開高氏のそれは自らの興味のある部分とそうでない部分がはっきりしていて、そのストライクゾーンに当たると文章は堰を切ったように溢れ出してくる。開高氏が美食家であったことは既知であるが、サントリーの共通項で括れば山口瞳氏も同類である。この二人何が共通しているのか著述を思い返しながらつらつら考えてみると、二人共恐妻家だったらしい。なるほど開高氏がアマゾンやアフリカの地の果てまで何かを追い求めて探検した気持ちが分かったような気がする。もっとも山口氏はそんな秘境には行かず専ら祇園や銀座のジャングルに繰り出していたようであるが。
開高氏は食のエッセイの中で菊池寛を引き合いに出し、王様の食事という章で「食べるとあとからあとも形もなく消化されてしまっていくらでも食べられるものがご馳走なのではないかしらん」と言っている。そうです食べると***になる食べ物が良い食べ物だと言っているのです。食事中の方も居られるかもしれないので***と称したが、氏は文章の中でしばしこの***を多用している。ベトナム戦争に従軍し、米兵がベトナムの少年少女を虐殺する惨事を見てきた氏だけに、氏の***には人間の生きることの本質を彗眼しているような気がする。
そんな氏にここの料理は***が出る食べ物だと最大の賛辞を頂戴した宿がある。それが越前にあるこばぜ旅館である。氏はここに逗留した際に何が所望か尋ねられた宿の主人に「カニ」とだけ答えたようである。夕餉は当然のことながら旬の越前ガニの刺し身、焼きガニ、しゃぶしゃぶが供された。翌日、何を出そうか困り果てた主人が思いついたのが、当時は安かった越前ガニのメスの身や腹子など全てをご飯の上に山盛りにしたどんぶりだそうである。それを氏は一気にかっこみ完食し「うまい」と言って箸をおいたそうである。それ以来その宿に来ると必ずそのどんぶりを注文し、今ではそれを開高丼と言われ名物となったようである。
ジビエなどでもそうであるがメスよりオスの方が味が濃いのが一般的である。しかし、メスにはオスにない身の柔らかさや蟹に至っては卵がある。その辺りが氏の琴線を触れたのかもしれない。私はこの旅館にいつかは行きたいと思っている。しかし、漁期は二ヶ月に限られ、横浜からどんな交通手段を使っても相当の時間が掛かる。私にとって夢を見ていれば着いてしまうロサンゼルスやパリより遥か遠い地なのである。そんなこんなでまだ行けずじまいなのである。
ところが活きたセコガニを送ってくれるところがあると情報を得た。ネットワークの時代万歳である。もっともそんな時代だから多くの海産物、農産物を売っている。しかし時としてとんでもない一品を送られてくることもある。過去一度、日本海の牡蠣を頼んだことがある。いくつかのお店をまとめて注文と配送をそのショッピングサイトが請け負う仕組みのやつである。送られてきた牡蠣は身が殻から溢れるほど長時間揺られ、蓋を開けてみたら身が流れだしてしまった。もちろん生食では食べられるはずがない。それ以来、直接の送り手が見えないところから買うのは止めている。
今回購入したのは鳥取漁港に船を持っているレッキとした猟師さんである。船の名前は弁慶丸。蟹だけに縁起のいい名前だ。それとこの猟師さん脱サラで漁師になったと書かれていた。かねてより色々な職種の人が交雑することは良いことだと思っている。閉鎖的になりがちな世界に新しい刺激を与えるからだ。事実、この猟師さんはメールが苦にならないらしい。時化で漁に出られないとか、港に寄港していない船があるとかメールで送ってくれるので、待っている身としては大変ありがたい。そんなことも脱サラ猟師さんならではあるまいか。
閑話休題。送られてきた発泡スチロールの上に宅急便の配達者に分かるように生き物なので丁寧に扱って欲しい旨の文章が添えられている。なるほど前回の牡蠣ももしかするとそうした事故だったのかもしれないと思い返しつつ、蓋をあけるとおおぶりなセコガニがザワザワ、ガシガシ・・・元気に剽軽な目玉を上に下にしながら様子をうかがっている。
神様仏様、殺生をお許し下さい、ナンマイダブと唱和したあと、甲羅をやさしく洗い、脚を縛り甲羅を下にして蒸すこと18分、蓋を開ければほのかな磯の香りと果物のような爽やかな香りが立ち上がる。妻と二人で10匹の蟹から身や内子、かにみそを取り分け終えた頃、ピィーと新米が炊きあがったよとの合図。熱々のご飯を器に盛り、これでもかと蟹を盛り付ける。蟹の汁と醤油を合わせたものをどんぶりに少し掛けて何も言わずかっこむ。ひとくち、ふたくち、家人達は何も言わず、ただ、うんうんと相槌をうっている。六年間の大学生活最後の試験真っ最中の息子もこの晩餐の事を知って早く帰ってきている。息子の顔にも笑みが溢れる。旨い。何も表現できない。ただ、旨いのだ。中々も鳥肌の立つ旨いものにはあたらないが、今日は別。それくらい旨い。こばせ旅館では洗面器のような器にセコガニ7匹使うと言っていたが、10匹を三人で食べてもまだ余るほど、身がいっぱい詰まっていた。 ダイエット中の息子ではあったが二杯目に突入したことは言わずもがなである。
翌日も余った蟹に日本酒とみりんを加え玉子焼きにした。お弁当にして三つ葉を散らし、私の朝ごはん。これまた旨い。卵のプチプチした食感とねっとりした蟹の身が卵と相まって至福を味あわせてくれる。まさに王様の食事である。