この夏、先兄に勧められて早瀬 耕という私より一回り若い作家の小説を読んだ。最初に読んだのが「未必のマクベス」という小説だった。プールサイドでゆっくり読むつもりだったが、冒頭のマカオのカジノのシーンからそのまま引き込まれ一気に読んでしまった。小説がデビュー作「グリフォンズガーデン」から20数年ぶりの新作と知ったのは後だった。そして彼のデビュー作、その続編とも言うべき「ブラネタリウムの外側」を続けて読んだ。読後の感想はどれも清々しいものだった。
彼の小説をSF小説と言う人がいる。何故、人はそう決めつけるのだろう。小説は小説である。読後に清涼感を感じ、また読みたくなる小説は良い小説である。それがSFであろうと、難解で読みづらいものであろうと良い小説とはその一点に尽きる。
ロパート・A・ハイラインの「夏の扉」も私にとってはそうだった。学生の頃、一気に読み進みその読後の満足感は今でも覚えている。ただ、その当時、アメリカの公文書図書館があった街「カールスバッド」を知ったのは息子の机の上にこの小説があったのを発見した30年も経った時だった。
村上春樹を好きな人も嫌いな人もいる。それはそれで良い。でも前述の私のように自分の知識や見識が乏しく気づかなかったり、知識や見識を取り入れたくないという怠惰な考えのため拒否しているならば既に読者崩壊である。
美意識というもの、自らの嫌悪の集積であると伊丹十三はその考えを述べているが、それはあくまで嫌悪できるだけの知識の集積の上に成り立つ。
早瀬 耕にしても村上春樹にしても読者をその世界に連れて行ってくれる。それは私たちの記憶の断片に語りかけ「ねえ、そうだったでしょう」と甘い言葉で囁きかけてる。
3号線から見える西陽のあたるベランダにゴムの木のあるマンションを探したものは私だけではあるまい。陸羽茶室で広東語と大きな麻雀牌あたる喧騒のなかで、何故かBei XuのTou are so beautifulを聞いたのも私だけではあるまい。
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