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2012年3月29日木曜日

ブランドの細分化 パプスト・ブルー・リボンビール



ブランドとはそもそもその物やサービスの持つ基本的要素であった。

つまり牛乳石鹸は「クリーミィで純白の泡の立つ」石鹸であるという説明でこのブランドの定義は一葉だった。

しかし、現在のようなすこぶる多様な価値観を併存しているとすると、一元的ブランド論では賄えなくなる。

このパプスト・ブルー・リボンビールを飲んだ事がある人はどこで飲んだのでしょう。私はアメリカで飲んだ。

さっぱりしていてあまり飛び抜けた風味は感じられなかったが、アメリカではポピュラーなビールだ。

そんなビール会社は売り上げが大きく落ち込んだ時期があったのだが、この会社のセールスプロモートの仕方が変わっていた。

テレビやラジオ(ラジオはマスてせはなくなってきているかが)に広告を出すのではなく、小さな大会、例えばロディオ大会、釣り大会、BMXの大会、などなどマニアックな大会にスポーンサードしていったのだ。

すると売り上げは顕著に増加し危機を脱したのである。

この結果このビールのブランドの位置付が多様化した。

アメリカでは白人労働者に愛してやまないビールとして変わらずに飲まれている。

流行に敏感な都市部では「ウィンク」しながら飲まれている。

そして中国ではヘネシーの隣に置かれ「アメリカの有名なビール」としてシャンパンの代わりに飲まれている。

つまりブランドの細分化である。

見えない世界のみつめ方  パラダイムシフト 視座の転換


この本はオーサグラフの開発者であるN氏から贈呈されたものである。

氏はその出身からして出色である。(芝浦工大→東京芸大→ベルラーヘ・インステテュート・アムステルダム)

彼は構造家でもあり、バックミンスター・フラーの研究でも有名である。

彼を一言でいうなら、「興味を拡大しそれを仕事に結びつける人」である。だから、彼には外連見が感じられない。

現在のように国、思想、民族、文化など様々な国境が崩れてものすごい勢いで再構築(REBUILD)されていくパラダイムの変革期に我々はその事実を受け流している。

だからこそ我々は視座の転換をしなければならない。

メルカトルで顕される地図は古く帝国主義の残滓である。

彼の作ったオーサグラフは世界を平等(均質ではない)に広げて、パラダイムの事実を確認するツールだと言える。

残念ながら東京都写真美術館での展時には行けなかった。年初のこともあり2日遅れてしまった。

そんな彼ら(ご夫妻)もGWの集まりに参加してくれると聞く。

男っぷりのよい奥様から写真やデザインのヒントも教えていただけると幸甚である。


ネットワークの検証 「ONとOFFはいらない」

皆さんはどうか知りませんが、私はこの性格と風貌ゆえか、子供の頃よりとても友達の少ない人間でした。その後中年を過ぎても「100人の敵よりひとりの味方」というスローガンを自ら掲げ、好き嫌いはさらに激しくなってきました(笑)

ところがどうでしょう、そうやって好き勝手をすればするほど曲線は大きくなり、友達が増えていったのです。

私の信条に「オンとオフはない」というものがあります。経営者は四六時中仕事を考えています。

ならばオフはないのかと言われればそうでもありません。むしろオフをオンの中に組み込んでしまえばいいんです。

嫌いな仕事はしない。嫌いな人とは交わらない。そうしているたげです。

私は同業者の集まりには参加しません。意味ないですから。それより業種も年齢も違う人達と営利を外して話し合える事が何より自分にとって刺激となり新しい発想へと向かわせてくれます。

ネットワークとはそうして出会った人がある一種の指向性をもってグループ化することです。

GWに我が家で行うパーティはすでに5年目です。拙宅なので狭いウサギ小屋ですから、果たしてその人数が収まりきれるのか心配です。

人生は一回きりです。ならば仕事もプライベートもひっくるめて楽しく尊敬できる人と交わっていたいではありませんか。

尊敬できる人」というのが友達作りのポイントかもしれません。

4月29日の出席人数は今のところ62人となっています。それでも今回は親戚を含めていません。1クラスを上回る人数になりそうです(笑)まっいいか!!!

2012年3月28日水曜日

電力会社はつぶれなさい

電力会社の社員の人には申し訳ないが、契約企業に対する値上げの要求、さらに姑息な方法で便乗値上げしようとしたとしか考えられないモラルの低さ・・・

そして何よりこれからの日本を変えて行くのはエネルギー政策のはずなのに、その中核となるスマートメーターの受注に至っては政府の声に耳を貸した形だけの公募、さらにその内容は単なる検針作業の簡素化にとどまるものだった。

スマートメーターは電力の自由化をにらんだ新しいツールである。家庭での使用量の可視化はもちろん、自家発電した電力の相互融通し合うことも出来る。

これじゃ、昨今の原発の廃止是非論と同じように、既得権の擁護である。

国民の血税を入れ込んでこんな企業を生かせておく必要はあるのであろうか・・・・・

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吉本隆明氏の著作にこんな本がある。氏は丸山を批判したといっていたが、よく読み返すと吉本は日本人の本質的物は丸山のいう古層ではなく、中層にあると言っているだけで、天皇制の前から日本人の根っこのようなものとしたそれを慧眼していた丸山を賞賛しているのだ・・・・・

吉本はこの日本的なるものつまり既得権はスターリニズム~軍国主義~官僚社会という円環的関係であるとも述べている。

つまり中層(吉本の)内包する日本的なものがこの構造を支えているといっている。

これを借りれば官僚主義の解体とは我々自身のアイデンティティとも深く関わるものだと見えてくる。

これはかなりニヒリスティクな結論であるが・・・・・今のこのようなむ国民世論、マスコミの有様をみてただ納得する。

だらこそ勇気を持って解体する必要があるのではなかろうか。

2012年3月27日火曜日

情報のパーソナライズ化

2009年googleが特別な発表も記者会見もせず静謐なまでの行動で進めたのがパーソナリゼーションだ。

FACEBOOKを始めてネットワークの凄さを肌身に感じている。自分が興味を持った対象が物の数分数秒のうちに変換され、より自分に適した情報として返還されてくる。

実はアマゾンはすでに顧客の嗜好性を分析し、オススメアイテムを選んでいる。これと似た装置であることは明白だ。

FACEBOOKでここ2日の間に10年以上会っていない会社の同期が会社を辞め、中国で活躍していると知った。乗っている車も同じだと。(厳密には同じではい。彼はBRABASのコンプリート、私の素の500G・・値段は当然月とスッポン)

同じく岐阜でお世話になった人たちとも再会した。嬉しい事実。

一方、FACEBOOKを諸手を上げて受け入れるにはリスクを確認すべきた。

私達はインターネットの普及によって情報の片務化が解消されると思った。情報は双方向になりよりリベラルのものへと進化したと思った。

しかし、googleもfacebookも企業である。利益が無ければやっていられない。

つまり、パーソナリゼーションの向側にある広告効果が私たちの情報を制限する。

例えば同じような4年制大学卒業した同年齢の女性二人が「ジェンダー」を検索したとする。

しかし、そこに導き足される情報は異なってくる。

一方では「少子化」が現れ、もう一方では「老齢化」が登場する。つまりパーソナライズされた情報は均質ではないのだ。

もし、我々が情報が平等で均一だと思っていたらお門違いである。

我々はこれによって自らの殻に閉じこもり、自分により都合のよい情報だけを選択するようになる。

まさにマーシャル・マクルーハンが言ったように「ツールは人によってつくられ、人はツールによってつくられる」の通りである。

FACEBOOKに嵌っているみなさんご注意あれ!!!!

そんな人にこの二冊をお勧めする。併読でものすごいスピード完読した本である。

ここでもKEY WORDはCONVERGENCE=収束とは・・・・・・・・・・




続き・・・・・・

FACEBOOKの好きなアーティスト欄にPat Methenyと入れたら、3月28日(今日)NYサウスハンプトンで行われるコンサートの情報が送られてきた。まさに情報のパーソナライズは現実に起こっているが、人間好きなものの関連なら嫌に思わないこの心理を突かれている気がする。

KKAF 遊びのBASE

昨年、鎌倉にKKAFを作ってから色々な経験をさせていただいた。設計施工に携わった全ての人、私に案件を持ってきてくれた人全てに感謝。

まず変わったのは少し離れたところで仕事や子供を見ることができるようになったことで、客観性が増した。そして、荏田の家もそうなのだが、この鎌倉も色々な人が集まってくる。

昨年開いた酒宴の数は12回、1回に20名以上参加したこともあった。

そこで情報が交換される。子供も大人も若い人も年配者もみんな楽しく話題を共有し、話しこむ。

大変有意義だと思う。そんなKKAFも少しずつ変化している。ゆっくりと時代のスピードに合わせるのでなく自分のリズムで生活をする。それが理想。











レフ  ロトチェンコ展

ロシアアヴァンギャルド芸術家の一人、「ロトチェンコ」をご存じだろうか。

輸入文具の店をやっている時に、ニューヨークのポスターショップで仕入れてきた彼のポスターはあっという間に売れてしまったのでよく覚えている。

レフ」とはそんなロシアアバンギャルド芸術の機関紙の名前。

ユニクロに行列で並ぶのも良いけど、目と鼻の先のこんな芸術に触れてみるのも一興かと思うが・・・






ちなみに今日はミース・ファンデル・ローエの誕生日だとグーグルで知った。

建築の携わる人なら知らない人はいないと思うが、彼の”Less is more”は彼の主張する柱と梁で構成するラーメン構造による近代建築の素地を作った訳である。

ラーメンとは (Rahmen)であり、ドイツ語の額縁を意味するのだ、間違っても赤ちょうちんは思いださないでおくれ(笑)

ちなみにコルビジェと私は誕生日が同じ(笑)

話題になった耐震偽装はこのラーメン構造の構造計算にとってマトリクス変位法という方法が複雑であるために、この計算をパックにした市販ソフトが販売され、ただ数値入力すれば済むという安直に乗っかった結果であるともいわれている。

ちなみにマトリクスとは行列のこと。



2012年3月25日日曜日

小説論

ヘミングウェイをロストジェネレーションの作家ではなく彼は釣り師だと言った人がいた。

何故、彼はそんなことを言ったのだろう。

私の好きな作家はスベカラク嘘つきではない。

ヘミングウェイも開高健にしても釣りが好きでなければあんな表現は出来るはずはない。山口瞳のような食道楽でなかったらあんな洒脱な口語文は書けない。

これもビッグブラザーとリトルピープルに似ている。ヘミングウェイを酷評した人はビッグブラザーを夢見ていたのであって、小説家を型枠に嵌めたがっている。

好きこそものの上手なれ、その通り。好きで好きで調べていくうちに自分の観察眼と感情移入が始まり、文体が精緻になる。そこのどこが悪いのだ。

カジキだってマカジキ、メカジキ、バショウカジキもいればそのオスとメスもある。

知らないからそれは博物主義だというのは、知らないものの遠吠えにしか思えない。

だから私は平松洋子が大好きである。

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先程、犬友の大先輩よりメールを戴いた。私のつたないブログを読んでくれたようでヘミングウェイとフッジラルドの人気が逆転したのも世相の反映と書かれていた。

そうそう、そうなんです!!

村上春樹氏が何故、天才かと言われればそんな現代の世の中の流れ既にずっと前に予見している訳です。






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三丁目の夕日、妻は間延びしていると言っていた。脚本は確かにそう。でもね、舞台セットは飽きさせません!!

良く見てみると、森山未来君の車が4114だったり、テレビの箱がNationalだったり、良く考えています。

恐るべし、恐るべし、人は観ていないようで見ていて、見ているようで観ていないものなのですね・・・

暫くは円上塔氏に嵌りまくりの日々ですが・・・

R1グランプリと笑点

世の中ではR1グランプリやAKB48の総選挙のように出演する人が変わる仕掛けを好んでいるように見える。

一方、笑点は我が家の定番番組だが出演者はいつも同じ、定例のやりとりである。

政治の世界はどうであろう。自民党が政権を獲ろうが、民主党が獲ろうか結局後者なのである。

若手批評家で私が最も注目している人がいる。宇野常宥氏である。「リトルピープルの時代」という本を上梓した。


私が村上春樹氏をずごいと思うのは、氏のずばぬけた感性である。氏の「1Q84」に登場する「リトルピープル」はオーウェンが描いた「ビッグブラザー」の対局をなすものだからだ。それをこの世の中に感じとっている。

政治や宗教と言った思想や国家という大きな社会秩序はこのビッグブラザーによって映し出されていた。しかし、その投影する機械には対立という構図が必要だった。対立という構図が無くなった今、ひとつの正義はそれ自体存在しえないのだ。

だとすればリトルピープルに適した仕組みとは何であろうか。

国民参加型の政治とはいわばR1グランプリのように出演者を国民が交換できるようなゲーム感覚と宇野氏は言う。

氏は「日本の底力」とか「日本が駄目になる」「たちあがれ日本」などというスローガンはビッグブラザー的だと看破している。私もそう思う。確かに古臭い。

しかし、笑点を見て安心する我が家は古い政治体制の信奉者なのだろうか。そうではないであろう。

物語性からゲーム感覚に世の中が変性したとしても個人の中に物語性を回帰しえなかったら、個人はつぶれてしまうのではないだろうか・・・この点は氏と相対することになるが・・・・・・

社会ネットワーク ミルグラムの実験

FACEBOOKを始めて2日目なのに中学で一緒にバスケをしていた友達と繋がった。

連絡の取れなかったオーストラリアの先輩とも繋がった。



まあFACEBOOKの熱に踊らされぬようによくよく考えてみると、暫く前に複雑系の勉強のため何冊か読んだ本の中にSteven Strogatz「SYNC」があって、その中にミルグラムの実験という章が設けてあった。

これはネブラスカからマサチューセッツ州シャロンにいるある人物までたどり着く(直接連絡取れるのは個人的知り合い、つまり知り合いの知り合いは駄目というもの)まで何人必要かという実験だった。

結果は大方の予想(100人以上必要)とは異なり2人~10人の知り合いで可能との結果になったのだ。

つまり平均で5人つまり6次の隔たりでリンクが形成されたことになるのだ。

もちろんこの実験は全てに当てはまるものでもないし、クラスター化率を計算することもできないのだが、社会ネットワークがいかに極小でも存在出来る可能性を示したと言える。

FACEBOOKはこの特徴を表している。FACEBOOKにはFACEBOOKの可能性があると思う。一方ではブログはブログの役割があるように思うのだが。

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政治が混迷している現在、以前にも書いたが私が注目している政治家は石橋湛山である。



彼への批評は数あれど、この「雨神者」という本には公人つまり公とは何ぞやということが記されている。

この本は今は亡き恵比寿の名物本屋の主で稲穂の大学を卒業されていた大先輩のI氏より戴いたものだ。I氏は石橋湛山の孫にあたるT経済新報社の社主よりもらったものだと言っていた。

こんな大切なものを戴いたのだ、政治に関心が無いわけにはいかないのだ。

2012年3月24日土曜日

貝殻図鑑


図鑑少年という小説がありました。著者は大竹昭子さん。ここに描かれる生活風景はっきり言って好きです。

その風景は街の小さな開業医の待合のようで、波ガラスの向こうにソテツやシュロの木が見え隠れする、柔らかなそんな住宅の庭のイメージです。

ところで、妻が頼んでいた書籍が届きました。



貝殻図鑑です(正式には貝類学です・・・笑)

こんなことをして夫婦二人で各々好きなことをしている訳です・・・

Collage kit 密売東京



鎌倉にも行けず生憎の雨を見透かしたように密売東京よりコラージュキットが届きました。

どんなものが入っているのか、他人の秘密を見るようですね・・・・・

ロシアや東欧の切手や切符、雑誌の切れ端、シール・・・・・中々面白いです・・・・

このお気に入りのスケッチブックにコラージュします。

テーマは子供時代、実験室、音楽家、冒険旅行、下手くそゴルファーをイメージしました・・・






2012年3月23日金曜日

俺流塩ラーメン 中目黒





会社のスタッフをつれて「俺流塩ラーメン」です。近いのに初めての訪問。

私とA女史は塩ラーメン、T氏は熟成塩ラーメン。

とてもトッピングに行きつきません。素のまま完食でした。

個人的には「Sou」の方が好みかもしれません。カンスイがやや強く麺にコシがあり、少し滑らかさに欠けます。

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フェイスブックのレスポンスは早いと言っていましたが、本当にその通りです。

まだまだ使い方初心者ですのでおって勉強していきます。

Facebook始めました

遅ればせながらフェイスブック始めました。

友人のO氏に言わせるとフェイスブックは現在を中心にある時間帯を持つものの、ブログほど過去からの連続性はないと聞きました。

現在、ホームページを作成するに当たり、フェイスブックもやった方が良いとのアドヴァイスを受け本日よりスタートと相成った訳であります。

ブログ同様宜しくお願いします。

予定調和

皆さん、知り合いの脳外科医から聞いた話なのだが、脳外科医にとって一番大切なことは何かご存じだろうか。手先の器用さ、手術数、経験・・・・・・・確かにそれらは大変重要なファクターだが、もっとも大切なのは物事を俯瞰する力だと言っていた。

そう脳外科の書籍を見ても多くの「経過観察」というものが登場する。

私の第四脳室にある白い訳のわからないものも、すでに52年経過観察なのだ。

珍しく私の意見に息子も同意していた。

ところで昨日、ホームページの作成をしようと27歳の若いクリエーターの人とお話をした。

真面目で企業のSEを務めた後、学校に行きスキルを身につけて独立したそうだ。

ざっとイメージをお話した後、概算の金額の話になったときに、相手はその金額をずばっと提示した。

私にはその金額が高いのか、安いのか分からない。ただ、彼の理論は今までの経験やこれから生じるであろう時間的制約や諸々の事情を勘案して算出したいわば予定調和である。

断っておくがこの予定調和はライプニッツのモナドのことではない。ごく一般的意味として。

あるお得意さんの見積もりが上がってきた。スタッフT氏は相手の心情をある程度慮って、見積もりの減額提案を考えていた。

しばらく成り行きを見ていたが、その行為の中に「なんとか丸くおさめる的」予定調和が感じられた。

案の定、お得意さんは違う切り口、つまり予定調和でないものを欲していたのだ。

私はへそ曲がりの偏屈シジイである。人がいくら言ってもおいそれとは信じない。

物事が予定調和的進行にある場合、そこには既得権益に依願する甘えが生じる。

それはそのものを成長させないばかりか、私たち自身も愚鈍な人間と化してします恐れがある。

急いではいないし、絶対にしなければならないことなどそう多くない、ゆっくり世の中の流れを見ながら決めて行こうではありませんか、決して予定調和を求めるのではなく・・・・・


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こんなことを書いていたら昨日の若い男性から私が帰った後連絡を受けたようで、色々な問題があっても柔軟に対応したいとのことだった。これが一番、私たちもそれなりに努力し、お互い切磋琢磨していくことで向上したいのである。一つの縁が繋がった気がする。

ブータン的幸福論 唯物史観

昨日もNHKでブータンの特集をしていた。何とはなしに風呂の中で眺めていた。

暫く前に羽田からブータンへの直行便が就航したと聞き、新しく出来たブータンのアマンリゾートを予約した。

でも行かなかった。

経済的、金銭的価値でない大切なもの、結構である。反論などしない。

私の幸福論の以下公式通り、人生の中で自分に関わってくれる人達との時間こそが幸福なのだから当然の帰結だ。

幸福=√健康×(人間関係+価値共有の時間)

しかし、もう一方では私は祖母の言葉を思い返す。

新横浜のラーメン博物館に連れて行った時、私たちがノスタルジックに感じる昭和のレトロな雰囲気が嫌いだと言った。もうこりごりだと。

我々日本人も電気も水も無く、家族と近所の共同体が力を合わせて、素朴で、純粋な生活をしていた時期があったのだ。

祖母はその時代にはそれなりの良い思いでがあったのだろうが、戻りたくないと言った。




「唯物史観」を読んだ事はおありであろう。私は原初も含めて写真の2冊も読んだ。

唯物史観の賛否はあれど、あそこに書かれている通り、歴史は不可逆的に変性を繰り返し、国家、制度をその都度作り上げる。その不可逆的流れには逆らえない。

19世紀はその始まりと終わりに大きな戦争があったが概して言えば平穏な時代だった。

20世紀はそのほとんどが戦争の時代だった。それも19世紀の比ではない大量殺戮兵器が登場した。

我々は渦中にいるとき、その歴史認識を誤る。

我々はどこに向かって行くのだろうか、バックミンスターフラーの宇宙船地球号は果てしない旅路に出てしまったのか・・・・

あの当時、貧しいことが特別ではなかった。皆同じような境遇だった。だから頑張ることも耐えることも出来た。そして、頑張れば何とかなるという先人の盲想をそのまま鵜呑みにして。

ブータンは消費税率が最も高い国である。国はこの税金を福祉と教育に使う。

日本ではどうであろう。例え消費税をブータンと同じように上げたとしてももはやブータンの世界には戻れないのだ。

彼らは効率を求めない。日本は戦後のアンシャンレジームを経て教育そのものも効率を重視したものを採用した。

私が某組織に批判的なのは、こうした政策を自ら選択しながら、人間重視、ゆとり教育といった矛盾を平然としたテーブルに並べ知らん顔をしているからだ。

一度は教職を志しながら、何かひっかかるものを感じていた。そのことが喉に残った骨のように・・・・・・

今日の内田先生のブログにそんな効率と教育(教育に効率は本来なじまない)について鋭い考察があったのでご紹介する。

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http://blog.tatsuru.com/


『赤毛同盟』と愚鈍の生成について



朝日新聞の求人欄の上に日曜に出ている「仕事力」というコラムのための取材を受けた。


その中で、「適性」とか「天職」とかいう言葉がどれほど若い人たちの労働意欲を損なっているかについて語った。


今、仕事を探している若い人たちの言う「自分の適性にあった職業」というのは、装飾を削ぎ落として言えば、「自分の手持ちの資質や能力に対していちばん高い市場価値がつけられる職業」のことである。


交換比率のいちばんいい両替機会を求めているのである。


ありていに言えばそういうことである。


そういう仕事をみなさん探している。


交換比率のいちばんいい両替機会を求めてうろうろするのは、やればわかるけれど、あまり賢いことではない。


でも、消費者マインドを刷り込まれた人たちは、「限られた持ち金でどれだけ有利な取引をするか」、費用対効果にしか興味がない。


それは大学で教えているとよくわかる。


学生たちは単位や資格や学士号の「市場価値」はよく知っている。


だから、それを手に入れることを願っている。


でも、条件がある。


「最低の代価で」というのがその条件である。


消費者なんだから当然である。


最低の代価でもっとも高額の商品を手に入れたものが「賢い消費者」である。


学生たちは子どものころから「賢い消費者であれ」ということを、ほとんどそれだけを家庭でも学校でもメディアからも教え込まれてきた。


だから、大学生にとって最優先の問いは、「最低の学習努力で最高の教育商品を手に入れるためにはどうふるまえばいいか」である。


単位をとるために必要な最低点が60点で、出席日数の最低限が3分の2であるなら、「きっかり3分の2だけ授業に出て、きっかり60点の答案を書く」学生がもっともクレバーな学生だということになる。


たしかに、今の学生たちはそう信じている。


60点で合格できる教科で100点とる学生や、3分の2出ていればいい授業に皆勤する学生や124単位とれば卒業できるのに180単位もとった学生は「100円で買える商品に200円出している消費者」と同じようにナンセンスな存在なのである。


前に平尾剛さんから聴いた話だけれど、彼の指導しているクラブでの自主練習のメニューを相談しに学生が彼に「なにやっとけばいいですか?」と訊いたそうである。


「なにやっとけばいいですか?」という言葉に平尾さんはつよい違和感を覚えた。


そういう言い方はないだろう。


「なにやっとけばいいですか?」と問うた学生は「あなたがコーチとして怒り出さないミニマムはどの程度の練習ですか?」を訊いている。


この問いに答えが与えられたら、次にその学生はミニマムを達成するために最も効率的な方法(つまり最短時間、最少エネルギー消費でその課題をクリアーする方法)を探し出そうとするだろう。


論理の経済はそのようなふるまいを要請する。


だから、「なにやっとけばいいですか?」は運動能力を上げることをめざす人間が口にするはずのない問いである。


でも、そのような問いが実際に運動能力の向上を熱心にめざしているはずのスポーツのクラブにおいてさえ平然と口にされ、プレイヤーがそのような問いを口にすることの奇怪さにチームメイトさえ気づかない。


何年か前に浪速大学医学部からKCに移ってきたN田先生が浪速大学に「絶望」した理由としてこんな話をしてくれたことがある。


授業が終わったとき学生が先生のところに息せき切って近寄って「先生、質問があります」と言ってきた。


N田先生は「何だい?」とあふれるような教化的善意をもって振り返った。


「先生、さっきの、国試に出ますか?」


学生からの質問の過半が「国試に出ますか?」で占められるようになったときにN田先生は医学部教育への情熱を失ってしまったそうである。


「国試に出ますか?」は「なにやっとけばいいですか?」と同一の問いである。


学ぶべきミニマムを訊いているのである。


国試に出ないことを勉強するのは(医師になったあとにその臨床例に遭遇したときのことさえ考えなければ)まったくの無駄だからである。


ここに働いているのは「計算」ではない。


「抑圧」である。


学生たちは「最小の学習努力で必要最低限の成果を挙げる」ためにはどうすべきかという計算だけを求められている。


どのような頭の使い方や身体の使い方をすれば自分の潜在的な心身の能力は爆発的に開花し、そのパフォーマンスは最高になり、アウトカムは最大化するか、というような問いのために、この計算能力は決して利用されることがない。


ある種類の計算のためにしか知性の行使が許されないという場合、それは「計算をしている」のではなく、「計算することを強いられている」のである。


だから、私はそれを「抑圧」と呼んだのである。


最低の学習努力で、必要な教育商品を手に入れること、今の日本の学生たちはそのような「消費者的ふるまい」を強制されている。


そして、学生たちが代価として差し出すことを求められている「最低の学習努力」は、同学齢集団の学力が下がれば下がるほど少なくなる。


平たく言えば、「他の学生たちがバカになればなるほど、少ない学習努力で単位がもらえ、卒業証書が手に入る」のである(大学だって、一学年の半分を留年させるわけにはゆかないから、最初は泣く泣く「下駄を履かせ」、そのうち天を仰いで「小学生でも解けそうな問題」を定期試験に出すようになる)。


だから、消費者マインドを保持している学生にとっては、自分を含めた学生たちの集団的な学力が劣化することは「ますます安い代価で商品が手に入る」歓迎すべき状況を意味しているのである。


それが今の日本で起きていることである。


就職についても同じことが起きている。


「適職」というのは、消費者マインドをもったものにとって、「最低の努力で最高の報酬が手に入る就業機会」を意味している。


シャーロック・ホームズが解決した『赤毛同盟』というミステリアスな事件がある。


この短編でいちばん興味深いところは「燃えるような赤毛である」という何の努力も要さない生得的資質だけによって高額の報酬を約束した赤毛同盟のトリックにひっかかって、エンサイクロペディア・ブリタニカの筆写という全く無為な労働で日々を過ごしたJ・ウィルソン氏のきわだった愚鈍さである。


彼は物語の冒頭においてすでに十分愚鈍なのであるが、物語が進むにつれてその愚鈍の度を増し、シャーロック・ホームズが鮮やかに事件を解決したときも何が起きたのか全然理解していない(と思う。終幕にはもう出てこないから想像ですけど)。


この皮肉な物語からわれわれが得ることの出来る教訓の一つは、最低の努力(その極限は「先天的資質」である)でうまみのある収入を手に入れようとする人間は、その発想において本態的に愚鈍であることを宿命づけられているということである。


ウィルソン氏はこの取引があまりに市場における交換比率がよいせいで、彼の際だった先天的資質なるものにいったいどれほどの内在的な価値があるのかという、当然自分に向けて立ててよい問いを忌避してしまった。


有利な交換を求めるものは、自分が市場に差し出す手持ちの財の価値を他者が過大評価することを切望する。


当然である。


けれども、この「賢い消費者」たる交換比率原理主義者をあるピットフォールが待っている。


それは、「彼が市場に差し出す財の価値がゼロであるとき、交換比率は最大になる(だって無限なんだから)」ということである。


つねにより有利な交換比率を求めるものは、自分の手持ち資源の価値ができるだけ過大評価されることを願う。過大評価のカーブは、市場に差し出す自分の手持ち資源の価値がゼロであるときにその最高点に達する。


つまり、ひたすら有利な交換を願うものは、その論理的必然として、やがて自分の手持ちの資源の価値がゼロであることを願うようになるのである。


悪魔的なコロラリーだが、現に、日本社会はそうなっている。


学生たちは愚鈍さを競い、労働者たちは他の労働者が自分より無能でかつ薄給であることを喜ぶという倒錯のうちに落ち込んでいる。


それは彼らが怠惰であったり、不注意であったりしているからではなく、「有利な取引をするものが賢い」という市場原理のルールをあまりに深く内面化したことの帰結なのである。


というような話をする。


果たしてこんな耳障りな話がどこまで新聞紙上で許容されるかどうかわからないので、備忘のためにここに記すのである。









2012年3月22日木曜日

写真の話

写真に詳しい訳でもプロに習った訳でもありませんが、自分で撮った写真を加工するのは楽しいものです。

ジオラマ風に加工したり、フィシュアイのようにすることも出来ます。

例えばこんなレトロの建物(鎌倉美術館の絶妙なRの手摺)の一部をハレーション起こさせてみるとこんな色調になります。

左側の大谷石が良い印象になります。

これだけ使えるならフォトショップは安いものです。


OLYMPAS OM-D

先日買ったPENTAX OPTIO VS20 ははっきりいて失敗です。

20倍の望遠が魅力で購入したのですが、アップにした画像の解像度が悪く、さらにシャッター音や細部がチャチィです。値段が値段なので仕方ないと言えば仕方ありませんが、気にいらず、もっぱらCANONのPOWER SHOT S95を使っています。

一眼レフはNIKONの入門機種D5100で200ミリの望遠ですが、シャッタースピードが遅いのが難点です。

NIKONにしても上位機種なら別でしょうが、パンレンズとも相性の良い中型のカメラが欲しいのです。

亡くなった叔父(父の兄)は幼い時に聴力を失い、当然聾唖となり、住み込みでテーラーで働きながら、私にとびきりのブレザーを作ってくれました。そんな叔父の形見がオリンパスのOM-1です。

このカメラ重くて、煩くて、あまり綺麗に移らないとプロの間では悪評がたっていたようですが、私には煩いシャッター音もそして適度な重さも好みです。

なんといってもカメラっぽい形が好きです。

そんなOM-1を髣髴するカメラが発売されます。2012年3月31日です。

まずは北村写真機店で手にとって一度使ってみようかと思っています。

もちろん細君の了承などでるはずもありませんが・・・・・

黒も良いけどシルバーもいいね!!!

写真は同社のHPよりお借りしました。






Mellow Waves

昨日のような春の夕暮れ時のメローウェイブです。水はまだ冷たくてキャップやブーツが必要ですが、子供も犬も心が穏やかに優しくなれるような気がします。