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2013年12月30日月曜日

初めてのスキー

幼なじみの女の子が近所の県営団地に住んでいた。鉄筋コンクリート造の4階建てのそれは平屋の粗末な我が家には憧れだった。何の変哲もないコンクリートの箱に階段が3箇所あって、部屋が左右に分かれていた。女の子で父親は中学の先生をしていた。そんな関係もあって水上温泉にある教員が泊まれる施設に連れて行ってもらったことがあった。施設の些細は覚えていないが、そのすぐ近くに私が初めてスキーを経験した鹿野沢スキー場があった。あの小さなスキー場が今もあるかは分からないが、ゲレンデのてっぺんに杉の木が一本ひょこんと立っていた。右側に長さは50メートルにも満たないロープトォがあった。
当時のスキーはベニヤ板のようなもので先だけ反り返っていた。つま先を固定する金具もただ長靴を引っ掛けるだけで動きもせず、後ろにワイヤーを回して、バッタンと前で止める代物だった。転んでも外れないし、突然外れることもあった。
暫くして、母は私を連れてスキーに行くようになった。電車しか利用できないので駅から近いスキー場に行った。日曜日の朝、早朝のまだ真っ暗な中、母に連れられて駅まで歩いていく、小学生の身には寒さと眠さが堪えた。両毛線に乗り、新前橋で上越線に乗り換える。電車はもちろん各駅停車、たまに急行に乗ることもあったがほとんどは各駅停車だった。上越線のスキー場までの駅名は全て諳んじて言えた。母は必ず焼きおにぎりを作っていた。理由は冷めても美味しいから。そう言われても冷たいものは冷たい、暖かいご飯が食べたいと思ったことを覚えている。
私は小說の雪国を読むずっと以前にあの文章の光景を見ていた。冬の清水トンネルは小說の描写そのまま、突然真っ白な世界に変わる。そこが好きだった。
よく行ったスキー場の一つが中里スキー場だった。駅前にお椀のような山がある。その山にいくつかのコースが作られていた。少し上手くなってくると山の後ろ側からまわる斜面が平坦すぎて面白くなくなった。
時折、岩原スキー場にも連れて行ってくれた。私はこのスキー場が好きだった。ゲレンデは扇形をしていた。上部には急斜面もあったが平均的には緩やかな斜面で広々していた。あの頃このスキー場にある芸能人のロッジが有名だった。そこでは私がまだ見たことのないような料理やワインが出されていたが、母とはそのロッジで食事をすることは一回もなかった。食堂に毛が生えたようなレストランでも私にはそれで十分だった。私はそのレストランのハヤシライスが好きだった。肉もほとんど入っていないソースにグリーンピースが3粒乗っていた。その横で母は朝の余った焼きおにぎりを食べていた。
何年かするとスキー靴は柔らかな牛革から革にプラスチックをコーテイングした硬い靴に変わったが、それもつかの間、全てプラスチック製の靴に変わった。ポールはだいぶ前に竹からジェラルミンに変わっていたが、ほどなくしてグニやっと曲がるジェラルミンからアルミに変わった。
初めて買ってもらったスキー板はオガサカのコンビネーションというブルーの板だった。当時、ヤマハのパラマウントやハイフレックスそして輸入品のクナイスルのホワイトスターが店頭の一番目立つところに飾られていたがいずれも高嶺の花だった。
小学校も高学年になるにつれて私は次第に友達たちとスキーに行くようになった。母とはそれ以来行っていない。いや、妻と結婚が決まった時、3人で志賀高原に行ったことがあった。30年近く前になる。渋峠の極上のパウダースノウを楽しんだのを覚えている。もうあんなには滑れないかもしれないが、久々に電車に乗って家族でスキーに行くのも悪くないかもしれない。





OVER SPEC

オーバースペック

日本の携帯電話は世界的に見れば不思議なものでその様相からガラバゴス携帯などと揶揄されています。でも、日本から出なければ特段不便なわけでもないし、利用者が困ることはありません。
ところが物の中にはそのもの単独で使うことは出来ず、全体との関連性が重視されるものがあります。そういったものをただそのものの性能を追い求めて作ってしまうと後で大変なことになります。
超大型戦艦の大和、武蔵の例は既知ですが、これはどちらかというと過剰能力というより時代錯誤的発想の愚の例ですが、同じ頃「島風」という駆逐艦が建造されました。この駆逐艦は時速40ノットを誇る当時の最速戦艦でした。ところが当時の駆逐艦の主な任務は輸送船等を護衛することが目的で結果他の船が遅いのにいくら速い能力を身につけても宝の持ち腐れとなります。また速いからといって飛行機には及ぶはずもなく、結局、1隻のみ作られただけでした。
こうした例は現在でも数多見られます。航空自衛隊の次期主力戦闘機(FX)の候補として挙げられているF35は設計の遅れにより導入時期の遅れが心配されていますが、アメリカにはこのF35以上に高性能なF22が既に存在しているのです。ところがこの機体は同盟国にも支給されず、アメリカ軍のみ使用する特殊兵器で、すでに生産は終了してしまっています。あまりの高性能ゆえ他国に持たせることが出来ないのです。こうなると各国との連携した軍事作戦は難しくなるばかりか、自国の作戦においても使いにくくなります。国防総省によると単独F22よりもF35等と組み合わせた方がより効率が良いと口を濁していますが、要するにその機体だけ飛び抜けていて作戦立案に不具合が生じる可能性があるということでしょう。
では国会で有名になった誰かの答弁のようにナンバーワンじゃなくても良いのでしょうか。最初から2番目を目指すことはもっと困難でしょうし、そのような目標設定では科学の分野でのリノベーションは起こりません。やはり大きな進歩にナンバーワンの発想は必要なことです。
このようなジレンマを解消するのにはどうしたら良いのでしょうか。ひとつは研究開発部分と実戦投入部分を切り離して考えることです。
白洲次郎が自ら乗っていたポルシェをトヨタ自動車にポンと渡し、これを研究してみろといったのは、その車体の何が優れていて、何がソグワナイのか勉強してみろということだと思います。それを知らないのにただ売れているからという理由でモノ作りをしていても何も残らないと考えたのでしょう。そう考えると今でも日本のモノ作り、特に工業製品においてはまだ発展途上、仏像に魂はまだ入っていないと言わざるえません。






2013年12月26日木曜日

饂飩ください

吉田戦車の漫画で喫茶店の入り口で店の人に向かって、何故か「うどんください」という作品が頭から離れない。良くも悪くも「饂飩」と言う漢字を頭のなかに刷り込んだのだから。

群馬県はうどん県である。小麦の消費が多いということだろうが、戦後、小麦は安価な食料だったのだろう。小麦を使った食品も多い。

今ではうどん、イコール讃岐のように、ツルツル、シコシコのあの讃岐うどんがうどん王国の代表として広く人口に膾炙しているが、私の生まれ育った街のうどんはそんな代物ではなかった。屋号の最初に番号のつく山本といううどん屋が市内にいくつもあった。稚心に暖簾分けという仕組みを初めて知った。番号が変わるから暖簾は使えないのにと思ったことを覚えている。そんな店で出されるうどんは製麺機で作った何の変哲もない中庸なうどんだった。味も覚えていない。ただ、「ひもかわ」という、のっぺらで薄く伸ばした別のうどんがあった。物心がつくかつかないかというころ水上の鹿野沢というロープトウがひとつあるだけの小さなスキー場に初めて連れていかれた。食堂で母に何が食べたいのか聞かれ私は「ひもかわ」と答えた(つもりだった)。しかし出てきたのは、きなこにたっぷりまぶされた「あべかわ」で、私はたいそうガッカリしていたそうな、そんな思い出もこの「ひもかわ」にはある。

私の家から徒歩3分、自転車で1分のところに次郎長といううどん店が出来た。小学校の高学年の頃だった。手打ちというだけあってコシがあり、ツルッとしていて今までのどのうどん店のものとも違っていた。それ以来我が家はここ次郎長のうどんが定番となった。
中でも私のお気に入りは力うどんだった。少し濃い目の東京風の出汁にほうれん草と天カス、そして焼き餅がのっていた。中学の時、あの厳しいバスケの練習を乗りきれたのもこのうどんのお陰かもしれないと今は密かに思っている。

長さ90センチもある麺棒、のし台、麺きり包丁も持っている。私は手打ちうどんに凝っていた時期がある(過去形??)。 コシを出すことはさほど難しくない、良い小麦を使い、塩と水の塩梅を加減し、しっかりと踏んでやればいいのだ。だから出汁がなければ麺としてほぼ完成したが、出汁となるとこれがまた難しい。いりこやアゴで出汁を取ってみるが中々、麺との相性が上手くいかない。この相性というのが曲者である。自分の打つ麺が何者なのか分からぬものに、それにあった出汁をひけるはずもない。このところ半ば諦め、用具一式は押入れの肥やしになっている。

そうそう喫茶店でのうどんの話。実は桐生にはうどんを売っている喫茶店がある。喫茶店やスナックでうどん下さいと言うと、ちゃんとうどんが出てくるのだ。ただし、それは出汁のない焼きうどんです。





2013年12月25日水曜日

音楽と酵母

テレビのニュースで酒蔵の杜氏が音楽を掛けながら仕込みをして熟成させると良い酒が出来ると言っていた。その時はモーツァルトだったと思うが、酒も人間が作るもの、人間が気持ちよくなれば良い酒も出来るのだろうとあまり深く考えなかった。

ところが最近この醸造と音楽の関係について科学的アプローチが試みられて結果を残したというのだ。ニュースによると音楽=ある種の振動が酵母に影響するのだという。そもそも酵母菌の中にはオスとメスが存在するものもあり、それらは性ホルモンのような物質で接近したり離れたりしていることが分かった。そこにある種の振動が加わると分子どうしがくっつき、空気を排他し、嫌気性の酵母の働きが活発になるというのだ。これは白眉である。確かに発酵というのは微生物の働きである。無機質ではない。だからこそ森羅万象に影響される。納得である。

音楽を振動ととらえればそれまでだが、考えてほしい。別にアイドルが嫌いじゃないけれど、セラー内に大音響で流されるヘビーローテーションによって赤ワインが美味しくなったと聞いたらどう?モーツァルトと行かないまでもピーターアップルヤードやコルトレーンの方が美味しく感じません??ただそれだけですけど・・






2013年12月24日火曜日

味の大関

子供の頃の私はいつも腹をすかせていたような気がする。あの頃はいくら給食をたくさん食べても放課後のバスケットの練習ですぐにお腹が空いていた。家に帰っても誰もおらず、その空腹を満たすのは煎餅だった。前にも書いたが、隣の家はパチンコ屋に景品を届ける仕事をしていた。時折、洗剤やらお菓子を頂いた。その中に煎餅が混じっていたのだ。煎餅の名前は忘れたが、袋には国定忠治と赤城山が描かれていた。醤油味のその煎餅は一枚でも十分な大きさだったが、空腹の子供には一袋食べるのは朝飯(夕飯)前だった。とっておきは冷蔵庫からバターを取り出して、せんべいに直接付けて食べるのだ。これが醤油の香ばしさと相まって最高のご馳走だった。ただ、母に見つからないように煎餅の跡のついたバターをならしてそっと冷蔵庫にしまっておかねばならなかったが。

家と中学校の中間あたりに商業高校があった。高校の前にインスタントラーメンだけを食べさせる店があった。店の名前は忘れたが、色々なインスタントラーメンの名前が壁に書かれていた。それぞれ料金が微妙に違った。当時、カップに入ったラーメンは発売直前でまだ見たこともなかった。暫くして同級生の一人がこのカップラーメンで家を新築したとクラスで公言していた。話によるとカップラーメンを発売したN製粉の株を持っていたそうで、株が値上がりして大変な儲けになったようだったが、株にも家の建て替えにも縁のない私はうわの空でその話を聞いていたのを覚えている。
その店で私が頼むのは決まって「味の大関」というインスタントラーメンだった。他のラーメンより10円近く安かったからだ。インスタントラーメンにも地方色があるということをこの時知らなかった。このラーメンはあまりメジャーではなかったようだ。たまたま工場が同じ県内にあり、輸送も簡単だったため流通していたのだろう。後になって東京の人に聞いても何それと知らん顔をされた。近年ではこのメーカーのカップ焼きそばが売れてテレビでもCMを流すようになり、その名前も知られるようになったが当時は無名のメーカーだった。
ラーメンの器にはラーメンとスープ以外何も入っていない。玉子どころかキャベツのキャの字も見当たらない素のラーメンだった。
時間まで働いている母を労るというより、己の食欲を満たすため少しでも早く夕飯になればと自分に出来ることはしていた。お米を研ぎ、水に浸し、そしてコメをざるにあげておく、味噌汁の出しまでとっておく。その程度まではいつも済ませていた。お陰で一人になっても自炊は苦にならなかった。

醤油味のお煎餅と味の大関、あの当時も私の胃袋の最強のリリーフピッチャーだった。










2013年12月21日土曜日

余白のある人間

曜日の朝、何気なくテレビを見ていると二十代の男性三名の座談会が行われていた。ひとりは映画やドラマで大活躍のイケメン俳優、もう一人はこれまたテレビでもよくコメントをしている東大大学院の社会学者、そして三人目は史上最年少の直木賞作家である。
そんな若い三人の話題が「説得力のある人の何か」という話題になった。本当にそうかは別としてこの人が言っているのだから間違いはないだろうと思える、その何かとは何なのかということである。すると最年少直木賞作家は「余白」じゃないかなとストレートな答え。一同納得。しかしながら私にはその作家が3人の中で一番余白がなく見えた。そして俳優の彼が一番余白があるように。

幼い頃から私はこの余白が持てなかった。いや、余白があればどれほど楽だったろうと恨めしくさえ思う。いくら勉強して一生懸命説明してもこの余白が無ければ中々人を説得することは難しい。反面、余白を持った人は一言二言話すだけで、話題の中心にのぼり人々は彼の話を高説とばかり、固唾を呑んで聞く。
とある飲料メーカーの就職活動をしている時に4人が横に並んでいた。三人目まではごく普通の面接だった。しかし4人目は違った。前の人の面接が終わるとその男はすっと立ち上がり、袋から取り出した空き瓶を面接官に見せた。それはそのメーカーの販売している飲料瓶のとても古いものだった。ごく当たり前の面接はその男の行為によって様相が変わり、どちらが面接官か分からないほどその場は盛り上がり、その男は見事内定を獲得していた。
前述の例を出すまでもなく、こうした場を作る要素としての余白が世間では持てはやされている。多くの人はそのことを知らない。たとえ知っていたとしてもそれが自然に出来るというのはもはや才能以外にないと思わせるフシがあるので諦めている。
しかし考えていただきたい。余白のある人間は確かに説得力がある。でもその説得力の効用はずっと続くのだろうか。もちろんきちんとした知見と教養に裏打ちされたものなら問題はなかろうが、単なる余白だけとなると風船の空気がしぼむ如くあっという間に消えてなくなってしまう。そう、単なる余白なわけですから。

そうこう考えると、余白がなくても精一杯情報を吐露し、説得しようとした愚かしい行為のせめてもの慰めになればと思うのである。






2013年12月20日金曜日

今こそ主役  目玉焼き


今でも卵料理が好きだ。数多ある卵料理の中で目玉焼きというのはいつも脇役、カニ玉のように宝塚歌劇団のような豪華絢爛さも、おでんの玉子のような、しみじみとした郷愁を誘う演歌の風情もない。ただ私達のそばにいつもいる。
あるときスタッフのA女史が「美味しい目玉焼きってどうやって作るんですか?」と私に訊ねてきた。いやはや、そんな質問を待ってたのよーんとばかり、内心、心躍る興奮を悟られぬように「ん、まず焼き方だね」とコホンと咳の一つもしながら冷静沈着を装い説明をした。
実はテレビのある番組で有名な料理評論家が日本一美味しい目玉焼きの作り方を披露していたからだ。目玉焼きの名誉のために断っておくが、世の多くの目玉焼きは心をこめて作られてはいない。おいしい目玉焼きをつくろうと思って作られる目玉焼きが果たしてこの日本にどれぐらいあるのだろうか。
フライパンは中火、熱くなったら少量の油を入れる。私は、なたね油にした。油をフライパンにまわして、真ん中に玉子を割り入れる。パチパチ音がして、周りがカールしそうになったら弱火にして、箸で白身をつついてフライパンに白身の新しいトコロを触れさせる禁断の儀式だ。その時、間違っても蓋をしたり、水を入れてはいけない。黄身が白く濁って白内障(白内障の人ごめんなさい)のようになってしまう。ここは辛抱が肝要。そして黄身に薄い透明の膜ができて、こぼれないようになったら出来上がりだ。白身のまわりは香ばしくうすい焦げが出来ていれば完璧だ。私は出来たてに白胡椒と塩少々をお好みで用意する。間違っても黒胡椒であってはならない。




2013年12月19日木曜日

イカ人参と阿左美沼

私の生まれ育った街は内陸で海や大きな湖、運河があるわけではないのに競艇場があった。恐らく全国でも沼でボートレースを開催しているのはここくらいではあるまいか。その沼を阿左美沼といった。

私の家からは橋を渡り隣町にあるその沼まで徒歩では30分以上掛かる。沼の淵には葦が生い茂り冬になると渡り鳥もやってくる。沼には鯉や鮒、げんごろうや蛙もいて、子供には格好の遊び場だったが、何故か子供の姿を一人も見かけることはなかった。それもそのはず競艇場内で事故があっては大問題と官民挙げての厳しい規制線が引かれていたからだ。

私が高校に進学した頃、我が家は困窮していた。父のやっていた窯業が理由は分からないが取りやめとなって、作陶していた窯を追われた。その後に窯を継いだのは父の使用人だった。父は自暴自棄になるわけでもなく、他人を恨むでもなく、さっさと自らの好気の目を他に向けていた。よって父は家を空けることが多く、収入は不安定だった。
私が幼い頃、母は内職をしていた。織物の街らしく当時は刺繍の仕事もあったが、その頃には繊維業を斜陽になり、家にあった工業用の刺繍ミシンはとても安く買いたたかれて業者に引き取られていた。

母が競艇場に出納のパートの仕事があると聞いて通うようになったのはその頃である。当時、スイトウと聞いて、スイトウとは何ぞやと考えた。水筒では繋がらないし、何となくお金を扱う仕事だと感じていたが些細が分かるはずもない。
母まずカブを買った。蕪でも株でもない、ホンダのスーパーカブのことだ。母は雨の日も風の日もこのカブで競艇場に通った。ここはからっ風で有名な上州である。東京の北風なんて風じゃないと思われる砂埃の北風が渡良瀬川の上を吹き降ろす。商業高校のグラウンドの砂が高く舞い上がり、橋の上では視界も効かない。母はいつも手袋を二重にしてマスクの上にさらにマフラーと帽子をかぶって出掛けて行った。

そんな母がある日、競艇場から袋いっぱいの人蔘を持って帰ってきた。一畳ほどの狭い台所に母は立ち何も言わず何かを作っている。出来上がったそれは人蔘とイカだけの見た目はいただけない代物だった。母に聞くと同じ職場に通う、福島出身の人がこの料理を山ほど作ってきて皆で試食させたそうだ。母の口にあったのか、美味しいと言うと、人蔘を分けてくれたそうである。その人の嫁ぎ先は農家だったので人蔘には事欠かない。特に冬のそれが美味しいということであった。

イカ人蔘を食べるとなんともほろ苦いあの頃を思い出す。からっ風はないけどね。






2013年12月18日水曜日

肉々ひい肉 茄子の蒲焼き 仙台麩

肉じゃないのに肉であると主張する食材がいくつか存在する。私の育った隣街(戦前は中島飛行機の製作、戦後は自動車で有名になった)にはとんでもない、うな重が存在する。色形、匂いまで鰻そっくり、蓋を開けてもやや太めの鰻と見紛うものが重箱の真ん中にドーンと置かれている。箸をつけ持ち上げるとタレを含んだその身は鰻より重たい。口に運べばよく蒸した鰻のようではあるが、あまりにフニャフニャで柔らかい。噛んでみるとそれは鰻とは別物だ。だって茄子だもの。

我が家では筍の季節になると仙台麩を用いて煮物を作る。筍というヤツは季節が少しでもずれると市場から全くなくなるのに、その一時期には貰い物が集中する。色々なところから4.5本も頂くとエグみが出ないうちに調理しなければならないから大変だ。最初の頃は刺し身や若竹煮で崇められ食べていてもすぐ飽きが来る。そうすると我が家ではこの仙台麩とのコラボレーションの登場となる。

仙台麩は長い木に巻きつけ焼き上げる。焼き上げた麸を何と容赦なく油で揚げてしまうのだ。麸の神様がいたに叱られそうだが、この傍若無人の行為によって、麸は肉に変わるのだ。少し濃い目に味付けされた仙台麩はまさに肉である。肉より、肉々ひい肉・・





2013年12月17日火曜日

信念と情熱  訃報 馬場浩史氏に捧ぐ

「習うより慣れろ」という言葉がある。私の場合、ファッションもそうだった。勤めた会社では多くのお洒落な先輩やファッションそのものを商売とするショップマスターと交友する機会を得た。そのような環境で一番感じたのは世の中の流行りの服と自分の似合う服は別であるということだ。そして何より服に着せられている程カッコ悪い事はないと思った。
会社を辞めて恵比寿で飲食店の真似事をしているとき、馬場浩史さんを紹介された。最初、紹介してくれたのはトキオクマガイを当時展開していたイトキンの関係者だった。次にもう一人の人が同じく馬場さんを紹介してくれた。前の会社で公私ともに可愛がってくれたM先輩である。今となっては代表執行役員となり私など恐ろしくて近づけないところに上り詰めてしまった訳であるが、あの時は私の店のカウンターに3人で座り色々と話したことを覚えている。
会社を辞めてから本当に洋服がその人に似合っていると感じたのはこの馬場さんが初めてだった。今でも覚えているが洗いざらしの白の綿シャツに渋目のオレンジトーンのツィードのジャケットだった。ボトムはベージュのコールテン。本当に似合っていた。
馬場さんは雇われマスターの私に「もっと好きなことをやりなさい。儲けや人は後からついてくる」ときっと言いたかったに違いない。馬場さんと一つしか年齢は違わないのに世界を股にかけ色々と見てきた人と世間知らずの井の中の蛙ではその差は歴然すぎた。
馬場さんは恵比寿の事務所を引っ越し益子に移ったと聞いた。偶然にも移った先は私の父が作陶の手本にしていた民芸の発祥地益子である。縁を感ぜずにはいられなかったがとうとう益子に伺うことは出来なかった。
仕事とはなんだろう。時々思う。自分は思い切って好きなことをやっているだろうか。人の目や体裁を気にして中途半端な仕事をしているのではないだろうか。馬場さんのことを考えると特に自省してしまう。
私に影響を与えてくれた人がまたひとりこの世からいなくなってしまった。残念なことであるが、多くの人が馬場さんの死を惜しんでいる。そして馬場さんと仕事やプライベートを一緒にしたことのお礼と感謝をのべながら。きっと馬場さんのことそんな私たちを見て笑っていることだろう。同時に大好きなブランケットを持って新しい居場所を既に見付けているに違いない。合掌。






時間のたたみ代  経営者の時間

若い人は年輩者に比して時間の経過するのが遅い。これは誰かも同じようなことを言っていたが年齢が分母に来るらしい。つまり私の場合は生まれたての赤ちゃんの54倍で時間が過ぎて行くことになる。その数値が正確かは別として多くの人がそう感じているのではあるまいか。

若い頃はプライベートと仕事を区別して考えていた。ところがいざ自分で経営してみるとそんな事は言っていられない。その事を誰かに愚痴めいて話した時に言われた。それは君の仕事の仕方が下手なのか、時間の使い方が悪いのか分からないが、要するに自分の脳力の無さを他人に説いているようなものだと。それ以来、プライベートと仕事を分けることはしなくなった。その代わり仕事もブライベートも全力投入で楽しむ。嫌なものは最初から手を出さない。そして忙即閑、閑即忙である。この頃はそこに少しばかりのたたみ代を入れている。何かが起きた時でも対応できる糊代にあたる時間である。若い人はそれを知らずに時間を使っているわけだから、必ずどこかで皺寄せが来る。そんなとき年配のこのたたみ代が機能する。

ところが年配になっても中にはこのたたみ代を全く持たずに生きている人も少なくない。英会話、お茶、お花、ゴルフ、乗馬と習い事や愛好スポーツは全て取り入れ、またその余のイベントを次から次に仕込む。もちろんそれは個人の勝手であるから私は干渉しない。しかし、どんなに小さくても組織や集団に帰属しているならば自重しなければならない。それが人生の先達としての役目であるから。物事がうまく機能するのはこのたたみ代が必要になるからだ。

失敗を繰り返す人の多くはこのたたみ代を持たない。持てない性格なのか理解不能なのかは分からないが、動き続けるネズミのようにただ動いているだけである。これでは会社の艫綱を任せるわけにはいかないのだ。








2013年12月16日月曜日

サケ缶の思ひで

スーパーに並ぶ缶詰の中でも鮭缶は買わない。ツナ缶は買うのだが鮭缶は買わない。中には北海道のどこそこでとれた鮭とブランドをうっている高級品もあるが、別に味がどうのというのじゃないから、私は鮭缶を買わない。鮭缶を買わないのには理由がある。

小学校の頃、サカタくんという近所の友だちがいた。彼の家は私の家のような市から払いさげられた粗末な住宅ではなく、和瓦の立派な家だった。確かご両親は教師をしていたと思う(たぶん)

彼の家の庭には柿の木があり私達はよく登って柿をとったがその柿は渋くて食べられなかった。彼の家には猫がいた。何匹かいた。両親とも共働きで平日の昼間はサカタくんと猫達しかその家にはいなかった。主人のいないその家で一番偉そうにしていたのはサカタくんではなく猫達のほうだった。

サカタくんは猫達に食べ物をあげるといい、台所に立った。猫達は見慣れぬ不審者を暫くじっと凝視し、またフンとそっぽを向いた。

サカタくんが台所から持ってきたのは赤い鮭缶だった。こたつの上に鮭缶を置くと、猫達は集まってきて、その鮭缶を食べ始めた。

しばらくすると猫達は食べることに飽きたのか、こたつから身を翻し、引き戸の隙間から外に出て行ってしまった。するとサカタくんは残った鮭缶に指を入れ、鮭の身をつまんで口に運んだ。唖然として見ている私に「食べる?」と聞いてきた。

それ以来、鮭缶はどうしても買う気になれない。それとも思い切って鮭缶を購入し自らの手で口に運んで「食べる」と息子に聞き返してみようか。鮭缶に妄想が膨らむ。






2013年12月13日金曜日

茗荷の妙味


平松洋子さんが茗荷の事を書いていた。秋茗荷が終わったばかりなのに無性に茗荷が食べたくなった。

我が家の茗荷は家の東北にひっそりと植えられている。その出所は川越で生まれ、目黒の青葉台(昔は日向町といっていた)に引っ越し、そこで青春時代を送り、横浜の辺鄙な我が家に嫁いできた。茗荷が何故女の子かと問われればこれといった確証はないが、甘酢に付けて暫く置くと、仄かなピンク色に染まるその容姿がうら若い女の子を想像させるからとしておこう。

私の恩師にあたる人と海外旅行に行くことになった。その人は日本の地勢史を研究されていて前職もその編纂にあたっていたため、日本の歴史、地理については大変詳しい方であったが、趣味も仕事も同じとばかり国外に出かけるようなことはまずなかった。ましてや今回はハワイである。派手なことと時差ボケを心配し、当初二の足を踏んでいたこともあり、私はその方に少しでもリラックスしてもらおうと、空港に茗荷の甘酢漬けを持参したのである。何分、その茗荷の株はその方から頂いたのであり、正真正銘の里帰りである。

お酒を飲まないその方と空港のラウンジでやわら瓶を開け、つんとする酢と甘い砂糖の匂いが鼻先をかすめるころ、窓の外は夕暮れに染まっていったことを思い出す。

あれから5年、その方は戻らぬ人となってしまった。今は枯れて見る跡もないが、我が家の茗荷は春先になると濃い細長い葉を生い茂らせ茗荷が地中からひょこんと芽を出すに違いない。主がいなくなっても植物は毎年芽を出す。

手で摘んで、またあの甘酢付けをこしらえよう。そして墓前に供えて。






2013年12月12日木曜日

舌の表現者 平松洋子

この通りの健啖家であるからして食に関するエッセイを読むというより、片っ端から貪り食うている感がある。断っておくが決して美食家などではない、ただの食いしん坊それだけである。
売れっ子のK.Mさんという女流作家も食に関する文章を書くが、私には腑に落ちない。無理やり好きなふりをして書いているように感じるからだ。彼女は食より飲に興味があるのではないかしらんと思ってしまう。その女流作家が開高健氏のエッセイをべた褒めする。確かに氏のものは迫力もあり、氏の食に対する興味がヒシヒシと伝わってくるし、その博覧強記ぶりは知識の獲得という面では大層役に立つ。ロマネ・コンティ1935なんて飲んでいなくてもその素晴らしさがじわじわと伝わってくる。しかし、氏はゲテモノまで食の対象としているため、気とお腹の弱い私などはたじろいでしまう。
そこへいくと平松洋子さんのエッセイは庶民的だ。アマゾンやメコン川まで行ってナマズを食べるわけではない。神保町や須守坂で用が足りる。用が足りるからと言って彼女の食のアンテナが凡庸かと言うと違う。大変デリケートで敏感である。我が家では「寝る前の平松洋子」という決まり事がある。私同様食べることが大好きな息子は平松洋子の食のエッセイを読んでベッドに入ると何か幸せな気分になれるのだと言う。だから彼女のエッセイはすべて持っている。このところ食に関するエッセイ以外に本や物に関するものを書いていたが、最近また食に関するエッセイを発表した。題名は「ひさしぶりの海苔弁」である。挿絵は安西水丸氏。表紙一面の漆黒のイラストが興味をひき起こす。へそ曲がりで理屈屋の息子ではあるが仕方あるまい。中学生の頃より、ラカンやドゥルーズ、デリダ、西田幾多郎、和辻哲郎などを読んでいた早成であるからして、彼の真贋を見抜く目はこの老人をしても慧眼と言ざる得ない。村上春樹氏の小説も首を傾げる息子も、このエッセイは黙って二階に持っていき、彼のベットサイドに鎮座することになるであろうと密かに期待をしている。それにしてもヨウコさんというのはどうして食いしん坊で美食家で料理上手なのだろう。偶然とはいえ恐れ入谷の鬼子母神である。









2013年12月11日水曜日

評論家と実務家

日出る国の国民はどうして猫も杓子も評論家気取りで自分のことを棚に上げて天下国家主義主張のことを論ずるのだろうと公言したことがある。それは今も変わらない。いや、以前にも増してその傾向が政治家ならまだしも一般の庶民にまで広がっている気がする。

今日ではSNSの普及で誰でも簡単に自分の意見を公開することが出来る。それはそれで良いことだが、そうした発言の中に主義主張、理念、宗教といった、本来、より個人的なものを己の吐露を絞り出すかのように世に問いている。それ自体が悪いのではない。主張するなら吐露ではなく、その論理的根拠を説明するべきだし、神がいるというのならその存在を証明してほしい。こんなことをいうと盲信者の怒りを買うだろうが、これがエスカレートすればテロリズムの発端となるからだ。

特定秘密保護法案についても私には賛成か反対か論ずる資格はない。何故ならそれを決定するほど内容を知らないからだ。法案の中味が片手落ちのことはわかる。ただ、反対の先鋒であるはずの民主党も自ら政権を運営していた時の原発対応の詳細を雲散霧消せず秘密裏にしていることはこの問題を論ずる資格すらないと考える。

SNSを見ているとまるでアレルギー反応のようにこうした事に反応する人がいる。生まれ育った環境と言ってしまえばそれまでだが、何故か高学歴の人に多い。

ドイツで暮らしたことがある人が言っていた。ドイツでは自分の家の前の道路しか清掃してはいけないそうである。何故なら、それを生業としている人の食を失わせることになるからというのだ。もちろんそれは比喩であるが、中には日本に帰ってもそのまま踏襲する人もいるから驚きだ。ゴミがあれば拾う。当然のことなのではないか。

私はスタッフにもよく言う。やらなければならないことをやらないのは、やらなければならないことを知らないのと同じかそれ以下であると。そしてフリーライドそのものであると。残念ながら本当にこれが多い。

電球が切れていれば交換する。ゴミが落ちていれば拾う。汚れていれば清掃する。当たり前のことだ。この当たり前のこともせず、天下国家、主義主張を論ずる。嘆かわしいばかりだ。そうした当たり前のことが出来なくても組織の中なら何とか生き延びられる。中級以下のサラリーマンに多く見られるが、組織を束ねる主たる人はこうした先送りをする人を見たことがない。実務家が消え失せ、国民が総評論家になる日も近いのかもしれない。




2013年12月10日火曜日

街づくりの要点

若い頃、某大学の建築の研究室に通っていたことがあった。家守の仕事に建築は欠かせない、ところが大学では建築について残念ながら何一つ学ぶ機会が無かったからだ。
その教授はある地方の特色を活かして、その街の名前を人口に膾炙することに成功した。街の名前は喜多方である。近年では喜多方ラーメンとしても知られているが、その街には多くの土蔵が残っていた。それを活かして観光資源としたのである。

仕事柄多くの再開発を見てきた。推進役としての場合もあるし、反対に居住者としての場合もあった。開発には多くの資金がいる。結果、大企業による開発がその大半を占める。私はこうした開発が駄目だと言うつもりはない。こうした巨大な開発によって、これまた巨大な箱が出来上がる。この箱はいわばびっくり箱である。日常を忘れて、テーマパークとして人々は楽しむ。巨大な仕掛け装置そのものなのだ。

ところが街づくりとなると様相が異なる。当時恵比寿のそれは渋谷区で最後の開発事業と言われた(そんなことはないその後の開発もあった)。道を挟んでその土地を所有している人が、開発が終われば、賃料は倍近くになると鼻高々に自慢していた。ところが賃料は上がるどころか、開発の前より下がり、テナント誘致もままならない。結果、多額の負債を抱え処分することになってしまった。

この例を挙げるまでもなく、開発によって周辺が潤うということは非常に少ない。ないとは言わないが、ほとんど影響しないといったほうが正しいと思う。

地方都市に行くと今でもアーケード街を目にする。色々なタイプのアーケードがあるので一言では言い表せないが、あのアーケードというのも巨大な箱の開発に似ている。つまり恩恵を受ける内側とほとんど受けない外側に大別されるからだ。アーケードの外側には人々はほとんど足を向けなくなる。結果、都市の回遊性は歪められる。

ではどういう開発がその街にとって良い開発なのだろうか。代官山を例に上げると、この街の発展はまず渋谷のエスケープゴートとしてトレンドに敏感なアパレルが移動してきた。80年代のことだ。当時はまだ一種住専により建築上の規制が厳しく、低層階の建物しか建築できなかったが、そのため環境は保全され、ヒルサイドテラスは後世に名を残す名建築となったわけである。一方、その後八幡通りにも中小のブティックや飲食店が出来始めた。同潤会は建物の経年寿命は既に過ぎていたが、古い建物の中には魅力的な専門店が集まっていた。これらの点と点が互いに引きつけあい、代官山はトレンドセッターとしての地位を向上させた。ところがそれに目をつけた大手資本が同潤会の解体と新たな建物建築を推し進めたのである。出来上がったものは大きな箱。もともとあった小さな点の連続性は消え失せ、大資本、ナショナルチェーンの店が名を連ねた。周辺の賃料は一時的に高騰したが、中小や若手のデザイナーはこうしたポプュリズムが蔓延し賃料が高額化した代官山を嫌い、空室率は上昇し、賃料も下落した。商業ビルのテナント誘致もままならず、結果、当初のファッション性は消え失せ、今やベビーカーの展示場となってしまった。

街づくりをしたいのなら、点の連続を分断してはならない。大手資本が進出しているにも関わらず裏原宿といわれるエリアの元気が良いのはこの連続性を保っているからだ。私のいる中目黒も同様、大手資本が進出しているが一見するとそれが大手なのか分からないように、街の中に溶け込み自然な顔を作っている。そしてもうひとつ肝要なのが多様性ダイバーシティである。色々な業種が混在し街を作る必要がある。目黒通りは、この20年で家具通りと呼ばれるまで家具店が増えた。20年前はファミレスと自動車ディーラーが点在する城西地区の典型的放射道路だった。それがこの変わり様である。近年では夕方からワイングラス片手に入店待ちの客が列をなす飲食店や、女性シェフの男っぷりの良い料理が客を楽しませてくれるイタリアンなどまだまだ少ないが魅力的な店も増え始めた。それが根付いてくれればきっとよい街並みが出来上がるだろう。そう街は人が創るものだからだ。







2013年12月9日月曜日

幸せの時間

私にはあえて友人と呼ばせてもらいたい若い才能を持ったご夫婦がいる。ご主人はバックミンスター・フラーの研究者でもあるがそんな一言では括れないとにかくマルチな才能を持った人物である。近年、積み木の家で有名な相田武文記念賞も受賞されたのでご存じの方も多いと推測される。奥様も建築士として住宅を始め幾つものプロジェクトに携わりこれまた多忙を極める人気建築家である。そんな二人に今年第一子が生まれた。二人に似て美男美女その上才能もときたらさぞ親である彼らの心配は今から容易に想像できる。
その奥様がある雑誌の取材に応じている時、隣の部屋で寝かせていた赤ちゃんがぐずり始めたというのである。親は気が気でない、取材にも集中しなければならないし、子供の心配もしなければならない。まさに自分がその時ライターに対して何を受け応えたのか分からなくなったとブログに書かれていた。私はその光景を想像した。大いに結構、素晴らしいではないか。
奥様はこれからもずっとその雑誌を見るたびに子供の鳴き声とその時のことを思いだすであろう。それは今では想像できないかもしれないが紛れも無く夫婦子供にとって幸せの時間なのだ。
子は育つ、もうその時の赤子には戻ってくれない。そんな大変な子育ての時こそ親にとってしあわせの時間であると私は断言する。そう、幸せの時間は近くにいると見過ごしてしまいがちだ。遠くになってもう手が届かないようになって幸せだったとわかるのである。
まだ二人は若い。これからも楽しい幸せの時間を共有できる。本当に羨ましい。