幼なじみの女の子が近所の県営団地に住んでいた。鉄筋コンクリート造の4階建てのそれは平屋の粗末な我が家には憧れだった。何の変哲もないコンクリートの箱に階段が3箇所あって、部屋が左右に分かれていた。女の子で父親は中学の先生をしていた。そんな関係もあって水上温泉にある教員が泊まれる施設に連れて行ってもらったことがあった。施設の些細は覚えていないが、そのすぐ近くに私が初めてスキーを経験した鹿野沢スキー場があった。あの小さなスキー場が今もあるかは分からないが、ゲレンデのてっぺんに杉の木が一本ひょこんと立っていた。右側に長さは50メートルにも満たないロープトォがあった。
当時のスキーはベニヤ板のようなもので先だけ反り返っていた。つま先を固定する金具もただ長靴を引っ掛けるだけで動きもせず、後ろにワイヤーを回して、バッタンと前で止める代物だった。転んでも外れないし、突然外れることもあった。
暫くして、母は私を連れてスキーに行くようになった。電車しか利用できないので駅から近いスキー場に行った。日曜日の朝、早朝のまだ真っ暗な中、母に連れられて駅まで歩いていく、小学生の身には寒さと眠さが堪えた。両毛線に乗り、新前橋で上越線に乗り換える。電車はもちろん各駅停車、たまに急行に乗ることもあったがほとんどは各駅停車だった。上越線のスキー場までの駅名は全て諳んじて言えた。母は必ず焼きおにぎりを作っていた。理由は冷めても美味しいから。そう言われても冷たいものは冷たい、暖かいご飯が食べたいと思ったことを覚えている。
私は小說の雪国を読むずっと以前にあの文章の光景を見ていた。冬の清水トンネルは小說の描写そのまま、突然真っ白な世界に変わる。そこが好きだった。
よく行ったスキー場の一つが中里スキー場だった。駅前にお椀のような山がある。その山にいくつかのコースが作られていた。少し上手くなってくると山の後ろ側からまわる斜面が平坦すぎて面白くなくなった。
時折、岩原スキー場にも連れて行ってくれた。私はこのスキー場が好きだった。ゲレンデは扇形をしていた。上部には急斜面もあったが平均的には緩やかな斜面で広々していた。あの頃このスキー場にある芸能人のロッジが有名だった。そこでは私がまだ見たことのないような料理やワインが出されていたが、母とはそのロッジで食事をすることは一回もなかった。食堂に毛が生えたようなレストランでも私にはそれで十分だった。私はそのレストランのハヤシライスが好きだった。肉もほとんど入っていないソースにグリーンピースが3粒乗っていた。その横で母は朝の余った焼きおにぎりを食べていた。
何年かするとスキー靴は柔らかな牛革から革にプラスチックをコーテイングした硬い靴に変わったが、それもつかの間、全てプラスチック製の靴に変わった。ポールはだいぶ前に竹からジェラルミンに変わっていたが、ほどなくしてグニやっと曲がるジェラルミンからアルミに変わった。
初めて買ってもらったスキー板はオガサカのコンビネーションというブルーの板だった。当時、ヤマハのパラマウントやハイフレックスそして輸入品のクナイスルのホワイトスターが店頭の一番目立つところに飾られていたがいずれも高嶺の花だった。
小学校も高学年になるにつれて私は次第に友達たちとスキーに行くようになった。母とはそれ以来行っていない。いや、妻と結婚が決まった時、3人で志賀高原に行ったことがあった。30年近く前になる。渋峠の極上のパウダースノウを楽しんだのを覚えている。もうあんなには滑れないかもしれないが、久々に電車に乗って家族でスキーに行くのも悪くないかもしれない。