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2013年5月31日金曜日

時代の相克 自動車考

時代の相克 自動車考

昨日、テスラのモデルSを試乗した。日本に一台しかないそうである。
この車を今年2月にハリウッドのフィリップスタルクが内装を担当したという高級な日本食レストランのバレーパーキングで見た事がある。バレーの若者が駐車場からこの車を運転してレストランの前に横付けしたのだ。確か色は黒だったが一目でモデルSと分かった。何しろ音がしないのだから。
ステラとの出会いは2年前になる。私の蜑戸のあるマリーナで試乗会が催されスポーツタイプの同社の車に試乗した。その時の感想はまさに青天の霹靂、おったまげたである。自動車メーカーの作る電気自動車やハイブリッド車はエコを意識しすぎるあまり不格好で、運転も楽しくない。どれひとつ触手を動かされるようなものはなかった。それがこの車は違った。
発想そのものが違うと感じた。並列のバッテリーパック、そして冷却技術、そうした根本的技術にプラスして、サスペンション、ハンドリング、ブレーキどれをとっても自動車として一級品である。ところが自動車雑誌にほとんどこの車の論評は無い。メルセデスの新型Aクラスには数ページに及ぶ試乗フィールが書かれているのに、この車のそれは雀の涙程度である。彼らは試乗して驚かなかったのだろうか。自動車メーカーはここまで電気自動車の可能性を目前に突き付けられ、それでもハイブリッドとかディーゼルといった内燃機関に執着する。500キロ航続出来る上に三時間で充電できるこの車はもはや電気自動車のマイナス面を感じない。もはやメーカーの旧態とした己の利得を固持するが如くあえて新境地に踏み要らないという感が歪めない。しかしながらイノベーションの流れは止められない。例え、メーカーの多くがそしてマスコミが敢えて炊きつけなくても徐々に広がり浸透する。イノベーションとはそういうものだからだ。
同級生が役員をやっている大手ブレーキメーカーも来ているらしい。何しろこの車はOEMの最たるものだからだ。サスペンションはビルシュタィン、ブレーキはブレンボ、バッテリーはパナソニック、そうした優良なパーツを組み合わせて一台を作っている。そして車の心臓部はアップルそのものだ。新しい時代の物づくりの発想である。
私の乗るメルセデスもBMWも4.5年もするとソフトが古くなり、ナビの機能は大幅に低下する。それでも自社のものに拘る。結果、ユーザーは使えないインターフェイスのナビをつけてグレーの画面のまま、我慢しながら運転しなければならない。
タッチひとつで回生ブレーキの強弱やサスペンション、ハンドリングが切り替えられるそのスムーズさに驚愕した。個人個人の要望にマンツーマンで対応できる。凄い事だ。
同乗したカーリーヘアーのアメリカ人がこの車の楽しさについて目を輝かせて語っていたのが印象的だった。彼は丁度、水上の取材から帰って来たばかりのようだった。そして彼の家にも75年製の911がガレージにあると言っていた。私も旧いゲレンデと911だと言うと、彼は「イイネ」と一言笑った。私が「ダイナソー」というと彼はにやり、それも「イイネ」と・・・。
今朝も雨にぬれた首都高速を運転しながら彼の「イイネ」を反芻していた。やはり悩ましいこの頃である。まあ申込金は未来への懸け橋として入金するつもりではあるが・・・・






倫敦のパブ

倫敦のパブ

倫敦ンのパフでは宗教と政治の話はタブーとされている。北アイルランドの民族紛争を抱え、隣の人と必ずしも政治的、宗教的信条が同じとは限らないし、日本のような平和オンチの国とは違い、人々の間に漂うそれはピリピリして引火しそうなのだからこの格言は理解できる。

一方日本はどうだろう。同僚との酒席で政治や宗教の話はしない。おお、ロンドンと同じじゃないかと軽々にお考えなさるな。経済についても己の会社のことが専らの耳目である。
そして会社や上司、同遼の悪口。聞いていて本当に嫌になる。いっそ日本では会社の話はご法度としたらどうであろう。私は次のようなルールを考えた。

日本酒席でのルール

一 会社の話はしない
二 女房、子供、孫の話はしない
三 病気の話はしない
四 エッチな話はしない
五 儲け話はしない

私は二が少し引っかかるかもしれないが()あとは自信がある。有体に言えば、今自分に興味があって、のめり込んでいるものを話題にすればいいのだ。何、今会社にのめり込んでいる?それはお手上げである。


写真は金沢の倫敦酒場・・・マスターの本売れてるのかな???






2013年5月30日木曜日

フランス料理との出会い

フランス料理との出会い

田舎の若造が東京に出てきて驚く事ばかりだった。友人に誘われて青学の学園祭に出掛けた。ステージでは数名の学生バンドが熱演していた。それがサザンオールスターズ、桑田さんとの出会いだった。他のバンドと比べるまでもなく音楽センスはずば抜けていた。その歌詞も当時としては放送禁止ギリギリのもので、でもどこか私達若者の気持を代弁していた。まもなく夜の歌番組に出てその後は皆さんも知るようにビッグスターへの道をまっしぐらである。
妻は昨年、桑田さんのコンサートに出掛けた。娘ほど年の離れた我が社のA女史がファンクラブに入っているためチケットが取れたとお誘いを受けたのだ。
娘の幼稚園面接の時、桑田さんご夫妻に待合室でお会いしたことがある。この話は娘たちに百編話だと糾弾されそうだが事実だ。もっとも興奮した私達は面接もそっちのけで二人の一挙一頭足に目が釘付けになり、結果、不合格だった。そして野生児のような娘は白金にある裸足で駈けまわれる幼稚園に進んだ。その娘も今は一児の母である。光陰矢のごとし。
丁度、そのころだったと思う。渋谷の並木橋にあった小さなフランス料理店が店をたたんだ。私達は閉店の前にもう一度行きたいと思っていたがそれは叶わなかった。
「アン・ヴォー・ルナール」というその店は渋谷駅に近い明治通り沿いの小さなビルの二階にあった。
妻と出会ったころ、妻はこの店で週一、二日アルバイトをしていた。アルバイトを辞めた後も、そして結婚が決まった後もこの店を訪れた。店主は小柄な人でいつも優しい目をしていた。
ごく普通のフランス料理はどれを食べても美味しかった。コーンスープにしても、パンにしても尖ったところか少しも無いのだが、妙に安心できる。フィレミニヨンの肉を切ればロゼの肉の断面から肉汁がうっすら皿にしたたり落ちるが下品ではない。美味しいステーキだった。
給料日の後など少し余裕のある時は、オマールエビを頼んだ。オマールエビを食べたのはここが初めてだった。そんなことを妻に察知されないようにあたかも食べた事のあるふりをしていた。内心、こんなに美味しいものが世の中にあるのだと感激していた。
私達が結婚式をしたのは芝にあるクレッセントハウスだった。妻の父親の参列を考えるともっと大きな式場が良かったのかもしれないが、私の頭の中には美味しい料理を食べてもらいたいという、私自身があの頃感じた喜びを共感してもらいたくてここに決めたのかもしれない。だとすれば私が初めてフランス料理を食べたこの店の影響が大きかったのだろう。
岐阜に赴任したマンションの階下がフラン料理店だったのも妙な縁を感じる。東京に戻った後も長男が生まれ、転職だの色々あって足が遠のいていた。けれども私にとってフランス料理との出会いは紛れもなく、この小さなフランス料理店である。

出店 渋谷「アン・ヴォー・ルナール 閉店」芝「クレッセントハウス」





2013年5月29日水曜日

煙も味のうち

煙も味のうち

私の家は横浜の北部で野毛はさほど近くない。それでも足を延ばしたくなる魅力的な店が多い。
横浜三塔をご存知であろうか。横浜に縁のない人のために説明すると、一つ目のキングは県庁本庁舎の事で、二つ目のクイーンは横浜税関、そして三つ目のジャックは開港記念会館の事だそうである。歩きながら上を向いて探して見るとよい。夜の方がライトアップされているので探しやすいだろう。
偉そうに言っている私もつい最近教わったばかりなのだ。この事を教えてくれたのは私の友人の弟さんである。彼は由緒ある船舶会社に勤められている根っからの正真正銘の浜っこである。私のような横山人とは月とスッポンなのである。
野毛には横浜にぎわい座という寄席や演芸を行う小規模なホールがある。この中の美味しい河豚店を教えてもらったのもこの方なのである。残念ながらその店は無くなったが、東京では信じられないような、新鮮でかつ、豪勢に厚く切った河豚を安い値段で提供していた。我が社のハラペコどもを連れて大挙して押しかけたのがきっと閉店の一員だと反省している。惜しむらく残念である。
もう一軒教えてもらったのが「若竹」である。はじめて行った時は普段変わっている店でも、さほど驚かない私も驚いた。震度云々の話ではない。少し揺れただけで倒れそうである。蜑戸よりまだひどい。窓は開け放たれ、もちろん冷房は無い。冷房はうちわである。店内は白い煙でもくもくしている。その煙を押しのけて進めばトイレがある。トイレは傾いていて酔ってもいないのに自分の平衡感覚が変になる。その壁には仙台四郎の写真があった。なるほど、ここ店主は東北出身とみた。
仙台四郎は実在した人物である。彼が困って商家に行き、いくばくかを与えた商家が繁栄した事から、商売の神様となり、東北の商店街ではこの写真や置物を見つける事が出来るが関東では珍しい。
そんな店であるが、暖簾を掛ける前に既に満席である。他人と寄り添ってただ食べる。焼きたての串をかじりつきながら、ビールで流し込む。旨い。また一本、また一本、永遠に食べられそうである。頑固でとっつきにくいと思われるかもしれないが、そんな事はない。実はここの女将のコンピューターはかなり精度のよいチップが使われている。友人のお嬢さんの経歴や年齢までしっかり記憶していた。いやはや人はみかけによらず(失礼)である。
食べ終わって外に出た。さぞ洋服に匂いがついたろうと嗅いでみるが臭くない。あれっ、一同きょとんとした。あの煙は味となって胃袋の中に収まってしまったのかもしれない。
そんなあっけにとられた私達の姿をみて、となりの黄色い店の看板が笑っていた。
さあ、もう一軒マリンタワーの近くのバーに行こう!友人が歩き始めていた。



2013年5月28日火曜日

田舎の怠慢


田舎の怠慢

昨日、西三河の西浦温泉より帰郷した。訳あって逗留したのだがこれが酷かった。
その旅館は辺り一帯では一番と評判の宿のはずだったが全てにおいて琴線を触れるものはなかった。
巷では日本の観光業は斜陽だと聞く。昨年訪れた加賀の温泉もそうだったようにこれでは人が来ないと嘆く前に、もう少ししっかりと顧客のニーズを掴むべきである。
すると彼らは「田舎は東京とは違うから」とすぐ言い訳をする。東京の人達に来てもらわなければどうするつもりだろう。
宿には****中学同窓会様という案内状が出ていた。まだ団体客の残滓を求めている。
それだけならまだいい、大型の観光バスを広くも無い車寄せに横付けして一般の宿泊客の出入りにも支障をきたす。こうした何も考えない人達。
料理も酷い。袋から出しただけのものを数があれば良いという風に皿に盛り、鰺の干物は鰯より小振りで、冷凍庫で2年以上保管し化石化したような代物である。
夕食を2名追加してほしいと頼めば宿泊料金の7割を頂戴したいときた。あほか。
私が国内旅行をしたくない理由の一つがこうした宿のように何一つ満足できるところがないからだ。
これは田舎の怠慢以外の何物でもない。左前になると、すぐ東京はいい、大阪はいいとすぐに言う。
ワールドワイドという言葉がある。国際的に何処へ行っても対応できる基準の事だ。海外で生活していた友人たちの多くがこれを持っている。残念ながらドメスティックオンリーの私は持ち合わせていない。それでも私の場合には仕事柄ジャパンワイドでないとやっていけなかった。
田舎に行くと、この基準を満たしていないものが如何に多いか辟易させられる。基準を満たせないのだったら最初からうちはそういう風には出来ないと独自の路線を打ち出せばよい。出来ないのに都会を意識して似てもいないのに真似をする。これくらいカッコの悪いことは無い。大食堂を小分けにして個室風にするが、火を使うと暑くて仕方ない。エセの洗い出し風リノリウムの床や薪風の照明はお笑い物である。
もっと恐ろしいのは、こうした地方ではいくらジャパンワイドをお題目にしても、「だから」と言われる。そして次第にジャパンワイドも使わなく、その事も忘れてしまう。車は走れば良いからと白の軽自動車のオンパレードである。しまいには経済性。
私は息子にはワールドワイドになってほしいと思っていたし、娘にもジャパンワイドであってほしいと思い続けて来た。しかしながら、今黄色の信号の点滅である。
郷に入らば郷に従えの教えがある。この場合はとても危険な教えになる。あーくわばらくわばら、娘は可愛いが、まだ田舎の怠慢を受け入れられるほど私は達観した訳ではないので暫くは近づくことを遠慮しよう。私も確かに「あーいやだ、いやだ」なのである。




ハモンイベリコとハモンセラーノ


ハモンイベリコとハモンセラーノ

私が生ハムに夢中になったのは写真家の西川治氏の影響が大きい。何かの特集で彼が生ハムを紹介していたからだ。おそらくイタリア産のパルマハムであったと思うが、彼の写真が映し出すそれは艶めかしく色気があった。食べたい衝動が抑えられずパック入りの生ハムを買い求めて彼の薦めるオリーブオイルと塩コショウ、レモンで食した。美味しかった。
そうこうするうちに私の家では毎年5月に友人や会社のスタッフ、関係者を集めてバーベーキューを行うようになった。最初はごく親しい友人と始めたそれがいつの間にか五十人を超す参加者となっていた。
この会で活躍するのがこの生ハムである。もう八年間ワールドグルメミートというネットショップで買い続けている。一回もブジョネ(ワインじゃなかった)間違ったものは無かった。最初はハモンイベリコを購入した。ところが会が佳境になるとハム切りどころではなくなってしまう。終了後の数週間、生ハムは切台に置かれたまま、その匂いを部屋中に巻き散らしていた。
数年前、ハムをセラーノに変えてみた。セラーノは黒豚ではない。切りたてを食べるのであればこちらの方が癖はないと思えた。案の定、ほとんど無くなってしまった。ただ、時間を置いて食べた時のイベリコの熟成された旨みに対してこちらはややおっとりしている気がした。そこで今年はイベリコに戻した。今年は前もって切り落として真空パックに入れて参加出来なかった人のお土産にした。今年は上手い具合に三日後には切台から生ハムを下す事が出来た。来年はどちらにしようか思案中である。ここでひとつ少し古くなった生ハムの美味しい食べ方をご紹介する。

生ハムとパルミジャーノのリゾット
作り方

鍋にオリーブオイルを入れ、つぶした半かけのにんにくで香りを付ける(ニンニンクは取りだす)
鍋に生米をそのまま入れよく炒める
米が透明になってきたらアクアパッッアの残り汁(濾したもの)加える(無ければ市販のフェメドポワソン)
大方出来あがってきたら摩り下ろしたパルミジャーノをたっぷり加え混ぜる
皿に持って細切りの生ハムをトッピングする
最後に塩コショウする(生ハムの塩分があるので加減する)
レモンを添えて出来あがり






2013年5月24日金曜日

岸和田の筍


岸和田の筍

生の筍が美味しいと薦められて酷い目に会って生きた。エグクないという呪文は私には効かない。朝堀の美味しいものと言われて買ってきた筍も生で食べられなかった。
唯一、食べる事が出来たのは友人がロサンゼルスからの付き合いだと言っていた、大阪の「花菱」という和食の店だった。ここのシェフはアイアンシェフにも登場した強者で友人と一緒でなければ敷居が高くて入る事は出来なかったろう。それが甲子園の応援という護符の元、友人たちと席を同じくすることが出来たのだ。大阪の中心にあるその店のカウンターに運よく陣取った私達はその友人のお陰でこの初物の筍にありつけた訳である。

産地を聞くと岸和田(泉州)だと教えてくれた。京都のそれが有名であるがやはり時期の物、その時期によって産地は違ってくるのだそうだ。筍をきって鰹節と醤油で戴いた。旨い、口中に春の香りが広がり、ほんの少し苦みがあとから追いかけてくるが、苦すぎる事は無い。それよりもかつおと醤油の良い香りが立ちあがる。素晴らしい筍だった。帰りの新幹線では美味しい肴と勝利の美酒のためいささかメートルがあがりすぎたかもしれない。それ以来、生で食べられるものには出会っていない。

話は変わるが小さい頃、スキーに通っていた苗場には筍の形をした山があった。その山頂付近を筍山と呼んでいた記憶がある。雪が多い時はそれなりなのだが春先に雪が解け凍ったアイスバーンになると手強い斜面だった。地元のスキー学校のジュニアの選手育成コースではここにポールを立てる事があった。あれはいけない、転倒するとそのまま真っ逆さま物凄い勢いで落ちてしまう。特に私のように怖がりで尻込みをしたりするとエッジが効かなくなる。悔しい気持ちで上を見上げていた事を思い出す。それだからではないだろうが筍という言葉には敏感になる。これは息子にも遺伝したようだ。彼の場合は美味しい筍を食べたい一心ではあるが。

近くに美味しいたけのこがあると教えてくれた。都筑区で農園を営む高橋さんという方のたけのこだそうである。ふつう筍は地面に延びてしまうともうエグクて食べられない。地下にあるときに掘り起こす。ところがこの高橋さんの筍は地上に出てもエグクないという。どこで買えるのか聞くと都筑のJAだそうである。値段は決して安くないと言っていた一キロ千円と聞く。でも来年の旬の頃には買い求めてみよう。久々の生筍に出会うために。





2013年5月23日木曜日

賞賛と叱咤


賞賛と叱咤
昨日、ヨコハマナガゴミムシの事を教示戴き、私のような老人ロードバイカーの依頼にもかかわらず歩いて迂回路を見つけてきてくれた稀有な河川管理局の職員より直接お礼の電話があった。お礼のお;礼である。私はその方の迅速な対応にお手紙で賞賛した訳で特別な事をした訳ではない。本当に恐れ多い電話であった。

多くの日本人は苦情こそ言うが、感謝の気持ちを相手に伝えない。日本人は阿吽の呼吸という言葉を使い、言葉は無くても理解できると己の無恥さを棚に上げている輩が多い。だから私は阿吽の呼吸という言葉を使う事が大嫌いだ。

怒ると叱るの違いはご存知だろう。人数の差こそあれ、この違いも分からずに人の上に立つのは問題である。怒るのは人間も動物なのだから仕方が無い。生態的危機が発生すれば昆虫だって怒る。怒るとはそういうものだ。では叱るとはどういうことだろう。辞書には相手の行動を修正し、正しい道に導きだすとある。つまり重箱の隅をつつき失敗した問題を検証するというよりその後を考えて励ます意味合いが強い。叱るとは叱咤することなのだ。

では賞賛との違いはどこだろうか。叱咤は相手以外の他の人に伝える必要は無い。一対一でよい。社員を叱咤する場合も同様であろう。ところが賞賛となるとこれは一対一では宜しくない。他の人に分かってもらう必要があるからだ。

賞賛には思わぬ波及効果がある。その人のモチベーションが上がると同時に組織全体に幸せオーラが降りてくる。これは常々いっている良い循環を起こす引き金にもなる。官庁に勤める人を一羽一からげに揶揄するよりも、彼女のように一人ひとりを見て評価しなければならなのだ。そして組織が少しずつ良くなっていく。

私は名刺入れの中にこんなカードを入れて持ち歩いている。これは私のホームリゾートでスタッフに何か嬉しい事をしてもらったときにその人の名前を書いて帰る際に支配人に渡すカードである。やはり欧米は日本よりこのモチベーションの効果を認識している。

私は社会的影響力が無いから人に賞賛出来ないと思っているとするならばそんな事はない。私のようにお礼の手紙を書けばよいのである。心をこめてその行為を賞賛すればいいのだ。ただし、宛先はその人の上司または上長にあたる人にする必要があるのだが。




バブルとGHEEの思い出


バブルとGHEEの思い出

八十年代というのは何かとしぶとく私に纏わりついてくる。振り払ったかと思うと突然、私の目の前に現れ自分がその時代にいた事を思いださせる。
お洒落やファッションが何たるかなど知るはずもない年端のいかない若造が神宮前周辺で仕事をしていた。仕事をしていたと呼べるほどのものではなく要するに使い走りである。
それでも最先端のファッションを提供していた会社に入り込むことは出来た。
アパレルメーカーが経営する飲食店も多かった。表参道にあったKEYWEST CLUBもそんな一つだった。あの頃こうしたお洒落ら店で何故か安く飲む事が出来た。きっと諸先輩のお陰であったと今は思う。
あの頃から食事には煩かった。お金も無いのに女の子にカッコの良いところを見せようとカフェバーではない美味しい料理を提供する飲食店で食事をした。お金が無いのだから高い店はNGである。かといって美味しくない店は尚更NGである。安くて、旨くて、カッコ良いこれが条件だった。
GHEEを初めて訪れた時、ここは今までのインド料理店とは違う雰囲気だった。見た事も無いのにセイロンのようだと思った。あの頃はスリランカではなくセイロンだった。何故かそう思ったのか分からなかった。(後に新婚旅行にこのスリランカに行く事になるのだが)
とにかく内装がお洒落だった。周りはバブルの前夜、1億2億という内装の店も珍しくなかった。私はこの店で「ハズシ」という言葉を知った。お金があってもお金があるように見せない。拘りが少しだけ分かる人にだけ散りばめられていた。
白い木製の窓枠に、真鍮の取っ手が付いていた。窓の景色は南国風であるがエスニック過ぎない。流れる音楽のボリュームも大きすぎない。私は一辺で気に入った。
ここのカレーは兎にも角にも香辛料がドーンと入っている。ドーンである。舌や口の中で、もごもご、ごそごそした。それが良かった。GHEEというのはカレーに使う油のことだ。他の香辛料もないのに、知ったかぶりをしたくてこのGHEEを明治屋で買い求めて家に置いていた。恥ずかしいような甘酸っぱい思い出とともにこのGHEEはいつしか冷蔵庫から消えていた。
あの味はもう無い。渋谷のチャーリーといいこのGHEEといい今になって懐かしい。
内装集団のスーパーポテトが彗星のように続々とカッコのいい最先端の店を作っていた。その横で傾いた建具のまま、GHEEは皆に愛されていた。
巷ではこの店のレシピを教わったオーナーの知人の息子が市ヶ谷でカレーの店を開いているという。行きたい気持ちはやまやまであるが、もし違っていたらあの頃の思い出が別の姿に見えてくるかもしれないから止めておく。GHEEの味憶はそのままで。




2013年5月21日火曜日

父親のジャジャ麺


親父のジャジャ麺

餃子のところでも書いたが父はジャジャ麺を作ってくれた。子供の私は父親が家族に今日の夕食はジャジャ麺だと公言するとなんだかソワソワした。母親が作る味とは違う、どこか謎めいた味に期待していたのかもしれない。しかしながら田舎町に今のように中華材料があるはずが無い。手に入る材料を工夫して作っていた。当時、花山椒はなかった。父は普通の山椒と唐辛子で代用した。テンメンジャンも無かった。赤みそと白みそ、砂糖、酒にごま油で作っていた。ただ生姜と葱はよく炒めていた。
父は北京鍋を好んだ。私は今でも中華をする時は北京鍋を使う。我が家に上海鍋(両手の付いた)は無い。父に言わせると北京ではコークスで料理するため持ち手が丈夫な北京鍋でないと駄目らしい。本場ではそれに包帯のように布をぐるぐる巻いて使うと言っていたが、中華街でその光景を目にしたのは後年になってからだった。
群馬県と言うのは概ねうどん文化圏である。隣県の長野とは違う。市内でも手打ちうどんの旨い店が多かった。家から500メートルの距離に次郎長という旨いうどん屋があって、打ち立ての麺も売っていた。私は百円玉を握りしめてこの店にお使いに行かされた。
家に帰ると母が大きな鍋に湯を沸かし、今か今かとうどん玉の投入を待っていた。
冷たい流水で清められ食卓に出されるそれはつるつるでしこしこの食感で新鮮なキュウリが大盛りに添えられたジャジャ麺だった。一言もしゃべらずに最後の一本まで麺をすすった事を思い出す。その時の父はとても満足そうだった。私が料理をするようになったのもこの父のお陰かもしれない。
仕事で盛岡に行った。盛岡と言えばわんこそばや冷麺が有名であるがジャジャ麺も有名とは知らなかった。名前は忘れたが市内の店を見つけ暖簾をくぐった。出されたそれは父が作ったそれと似ていて麺も中華麺でなく家よりやや細めのうどんだった。味噌もその濃さといい、少しシカシカする赤みその食感といい、とても似ていた。
そうこうするうちに東京にも盛岡ジャジャ麺の店が進出してきた。その店は神田にある「キタイチ」という店だ。麺は盛岡で食べたそれよりさらに細く、腰が無い。最後に生卵を入れてスープにして飲み干すところは似ていた。
梅雨入り前にこの店に出掛けるもよし、自分で腰のある麺を見つけて作るもよし、こうして父の感慨に耽るのも悪くないかもしれない。父の年齢に近づいている艾年を超えた男として。



70歳の自分


70歳の自分

人間人生は50年、後は残りの人生などとほざいている奴が何をぬかすかと激昂されそうであるが、昨日テレビを見て自分の70歳はどんな顔をしているのだろうと不安になった。
その人は若くして起業し、そして裏切り、挫折の連続であった。最後の貸し本チェーン店も売り上げの水増しの責任をとって辞任した。そして老境になって飲食店のチェーンを始めた。でもその人の顔は悲しそうだった。何をやっても心底満足できないそんな顔だった。
その人のやっている飲食店に行ったことがある。フレンチなのに格安しかし立ち飲みで時間は限られる。いわば立ち食いそばのフレンチ版である。食材費は70%という。それはそれでいい。でも本当に美味しいだろうか。残念ながら私の口には合わなかった。
結局どのビジネスをとってみても彼の本質は変わっていないと思う。新し物好きの日本人の集客は当面可能だろうが、果たして彼の気の休まる事はあるのだろうか。尤、彼は気など休む必要は無いと言われそうだが。
彼と私の決定的な違いは短い期間でも組織の中で働いたという点だと思う。大学を卒業し実家に入るなり、起業したりすることは可能だ。けれども何か足りない気がする。
私も卒業と同時に起業を目指した事がある。しかし恩師に止められた「一度は会社という組織に入る事をお勧めする」と、やっとこの歳になってその意味が分かってくる。本当恩師には感謝している。
人生というのはリズムだと思う。若い頃、先走ってリズムを崩して失敗する事もある。それはそれでいい。けれどもその失敗を次にしないように教えてくれるのが組織というものだ。だから組織の経験者はそのような失敗をしなくなる。心臓の鼓動を整えて次の船出のチャンスを待つ事が出来るからだ。人、もの、かね、それだけ企業には余裕があった。
飲食というのは一人の料理人の夢にどれだけ多くの人を引き付けるかの真剣勝負だと思う。
大衆の目はごまかせても本質を知る玄人はごまかせない。つまらない仕掛けや店側の理論は看破されてしまうから。これは私の経験からもそう思う。だから70歳になってもまだそのような事に拘泥したくない。
幸いにも私の周りには70歳を超えてもまた超えないまでも第一線を退いたとはいえ世情に通じそれでいて穏やかで幸せそうな笑顔を持った友人が多くいる。
私もそんな友人に見習いたいと心底思うのである。幸せな人生を歩んだ人は自ずと幸せな顔になっていく。これが今日の教訓である。幸せだと思える一日かどうかの積み重ねなのである。



2013年5月20日月曜日

丸谷才一と鮨屋


丸谷才一と鮨屋

25年近く前に雑誌太陽に大きな写真入りで岡山の鮨屋が紹介されていた。その寿司屋の名前を忘れてしまい何とか思いだそうとしても思いだせない。インターネットの書きこみを見比べてこの店かなというものも見つかったが定かではない。まるで喉元に刺さったままの秋刀魚の骨のような嫌な気分だった。投稿者のある人の文章に丸谷才一氏の名前があった。もしやあの雑誌の文章は氏のものだったのかもしれない。私の偏狭な読書癖を考えて紡いでいくと確かに私は氏のエッセイばかり読んでいた。そのような題名のエッセイがあったはずだ。自宅の本棚を探すが見つからない。残念ながら数度の引っ越しで消えてしまったようだ。
何故この鮨屋が印象に残っているかと言えば、当時の鮨屋はショーケースにネタを保存する店が大半であった。銀座の高級店でも右に同じで何の変哲もない冷たい表情のショーケースが客の目の前に鎮座していた。私はカウンターでの料理の出し方を研究していた。研究していたとは大層なものではないが、新しく自分で始める飲食店で何か新しくて気の効いた出し方は無いかと思案していたからだ。そしてもうひとつこの店は女性が寿司を握る珍しい店だった。
写真には内水をされた細い路地と妙齢な和服の女性の横顔が写っていた。
この店はその日に使う分のネタを木製の箱に入れ、客に説明し握るとのことであった。なるほど、ある寿司職人から聞いた話だが、ショーケースは乾燥するので、氷の室に入れるのが一番と言っていたからこれは理にかなっている。
丸谷氏の著書は「食通知ったかぶり」というものだった。残念ながら今は絶版している。古書店を見るととんでもない金額が付いている。本をそんな風に買う気はないから諦めたが、なんと電子書籍で売っていた。420円だった。早速、購入し、パソコンの苦手な私なので操作方法をスタッフに聞きながら今ページを開けている。
目次の中にそれらしきものを見つけた。岡山に西国一の鮨ありとある。岡山生まれの吉行淳之介氏をしてその店が紹介されている。その店は「魚正」という。私にとって25年ぶりの邂逅である。私は小躍りしたい気持ちを抑えて、グーグルマップにその店の住所と電話番号を記録した。もちろん真っ先に頼むのは穴子に決まっているのだが。




匂いの記憶


匂いの記憶

子供頃蝶に夢中になった。蝶の図鑑が私の愛読書。だから蝶の名前には今でも詳しい。
どんな捕蝶網が美しい羽を傷つけないのか、そして採りやすいのか今でも分かる。蝶を捕獲して紙に挟む前に小さな胴体に注射器をさす。蝶は絶命して標本となる。この残酷な儀式が済まなければ標本は出来ない。それでもおびただしい数の蝶の標本を作製した。

家の前にアオスジアゲハが蜜を吸いに来る生け垣があった。薔薇の花もあった。その生け垣がアベリアという種類だと知ったのはずっと後の事だった。ここにくる蝶は捕獲しなかった。いや、同じ種類の蝶は捕獲する気がなかったからだ。絶命させるのは一つで良いと子供心に思ったからだろう。薔薇の花弁の中に小さな昆虫がいる。はなむぐりというコガネムシのような小さな虫だ。今頃の季節になると一斉に色々な花が咲き乱れる。このアベリアの匂いは夏の始まりを予感させる。

匂いとはあらゆる感覚の中でもっとも原始的で脳の深部に伝達されると聞く。私の中でアベリアの匂いは夏の到来を告げる匂いだった。
あの夏の記憶はこのアベリアで始まる。
友達はいなかった。でも少しも寂しくはなかった。図鑑と捕蝶網があれば何億光年の冒険旅行が出来たからだ。

大人になって宮益坂の上にあった志賀昆虫社に通った。店内に入るとあの頃の夏の思い出がフラッシュバックのように蘇った。
私の夏の記憶はアベリアで始まる。今年もまたその季節がやってきた。


2013年5月19日日曜日

分袂のラーメン


分袂のラーメン

だいぶ昔の事になるが、私は某組合の嘱託の仕事をしていた。組合員数3000名以上と都内でも有数の規模を誇った。毎週開催される無料相談が私の主な仕事だったが多い日には4.5組の相談を受け持たなければならなかった。開催されるのは土曜日と決まっていたからこの頃の私には少なくとも土曜日は休日ではなかった。
その組合は戸越銀座にあった。この周辺は物価が安かった。当時でも破格の鮮魚店には黒山の人だかりで私は近づく気にもならなかった。
この頃の私は猪突猛進宜しく何事も体当たりだった。建築主事に詰め寄り但し書きの適用を求めるため近隣の住民の著名活動を行ったり、1週間以上連続で許認可のため建築課に通い続けたこともあった。もちろん無給で。
次第に組合がどのような仕組みでそしてどうして成り立っているのか、勘の悪い私でも次第に分かってきた。そうなると人々の言葉が空々しく感じて嫌悪感は一気に膨れ上がった。
組合の構造は崩壊したソヴィエトの官僚主義のそのものだった。見返りを求めずただ人のためになるという一点で働いてきた私はそれまで蓄積された疲れがどっとタールのように全身にのしかかりもはや再起不能になっていた。もはや今まで通り続けることなど出来なかった。
そんなとき一杯のラーメンが私を救った。隣の荏原中延の駅前にあった「多賀野」というラーメン店である。今は有名店で行列が絶えないが、その当時、純東京風のラーメンが逆に新鮮だった。
店内に入るなり女将さんの優しい声が嬉しかった。醤油味のあっさりしたスープは奥行きがあって実に折り目正しかった。チャーシューも部位の違うものをそれぞれ用意し、しっかりと自己主張してやわではないがバランスを壊していない。煮卵にいたってはそのスープとの相性まで拘り全て完成していた。麺はもちろんこしがあって喉越しが良い。カンスイは少なめだ。スープを最後の一滴まで飲み干して、私はどんぶりを置きながらその嘱託を辞する決心をしていた。
人生にはこうした心に響く食べ物がいくつかある。私の場合はこの折り目正しい一杯のラーメンによって救われたと言うべきか、それとも反故にされたというべきか結論は持ち越している。いずれにせよ分袂のラーメンだった。その味が今も変わっていないことに正直ほっとした。