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2013年7月25日木曜日

月曜日のプリン・ア・ラ・モード

月曜日のプリン・ア・ラ・モード

甘いものは苦手と嘯きながらこんな事書いているのだから仕方がない親爺であります。
私実はプリン大好きなのです。尤卵好きなのでこれも仕方なしと認めてくれる稀有な御仁もおられましょうが、普段は甘いものを食べない私でもプリンとシュークリームは別であると公言致します。
パフェと言う食べ物があります。そう、フルーツパフェとかチョコレートパフェといった食べ物です。実は私はあれが大の苦手なのです。何故、苦手かと言うと中に何が入っているか分からないからであります。ゼリーやスポンジ、シリアルといったものが容赦なく入っている。あれは恐ろしい食べ物であります。最初のフルーツやアイスに騙されて食べ進めて行くと突如としてケッタイナものがスプーンに乗り始めます。あれはいけない南の島での恋人とのバカンスが一通の電話で帰国を促されたような最悪の気分です。それでももってこの言葉はフランス語のパーフェクト、つまり完璧から来ているというからもっとたまりません。何がパーフェクトかさっぱり分かりません。おそらく死ぬまで自らオーダーする事はないでしょう。
そこへ行くとサンデーは違います。三食サンデーと言えば三種類のアイスクリームが乗っているのが常で、へんてこなシリアルなんかはありません。このサンデーはキンキンに冷たくなったステンレスの器に乗っているのが尚宜しいと思うのですが、もともとはその名の通り日曜日に売られていたもののようです。禁酒法の時代、酒が御法度の庶民の楽しみとして日曜日に出されていたのが語源のようです。ですから、月曜日に頼むのは少し気が引けます。そんなときはプリン・ア・ラ・モードなる食べ物が控えております。こちらは真ん中にプリン、そしていくばくかの生クリームとフルーツが添えられています。こちらも紛れもなく中身が分かる公明正大な透明性のある逸品です。私は夏の暑い時期に自転車で鎌倉駅まで行き、小町通りの「門」という喫茶店でこうした甘味を食しながら、道行く人を見ているのが何よりの楽しみでした。この店は観光客の多い鎌倉の表玄関ながらあまりに渋い店構えと常連と思しき人たちの存在感で一種別次元の空間を醸し出していました。窓越しに道行く人を見ながら、人間観察するにはうってつけの場所でしたが惜しむらくそんな門も閉店してしまいました。私にとってしばらくは月曜日のプリン・ア・ラ・モードはお預けのようです。



出店 鎌倉「門 閉店」







2013年7月19日金曜日

倫敦の食事

倫敦の食事

ロンドンから帰って知り合いに会うと皆口を揃えて、ロンドンでの食事について「大変だったでしょ、お口に合うものがありましたか?」と心配とも憐みとも取れる言葉を戴いた。
こちらとしてはどの食事も美味しくまた楽しく過ごす事が出来たので何故そこまでにロンドンの食事は酷いと言う事が定説になっているのだろうと考えてしまう。
少し前までのロンドンはそうだったかもしれない。確かに今回も泊ったランガムヒルトンでの朝食に出て来た食パンはとても薄く、焦げていて硬く、多くの日本人は目をしかめるのだろう。ところが私はそもそもパンがあまり好きではない。ふわっとしたバーターたっぷりのクロワッサンなど目の前に置かれたならば、すかさず逃亡して部屋でカップヌードルを啜りたくなる。食パンを食べるときは出来るだけ薄く、かつ焦げる寸前まで良く焼く。つまりはこの食パンのようなものが個人的には好みなのである。
ロンドンの地下鉄はその形状からチューブと呼ばれる。パリのメトロに比べると近代的であるが、ひところの治安の悪さは改善され昼間ならツーリストも問題なく乗れる。私達はこの地下鉄で街中移動した。
ピカデリーの近くの中古レコード店に出掛けた。ここはレゲエとロックのLPレコードが世界中から集められ、そのジャンルのファンが年中押しかけていた。私もジミークリフの古いレコードを一つ買い求め店の外に出た。
通りを歩いていると何やら良い匂いがしてきた。こちとら何かと食べ物には鼻が効く。美味しいものの匂いとそうでないものを嗅ぎわける先天的能力と言ってしまえばカッコか言いが、要するに食いしん坊なのである。
表通りからその店を覗くと、細長く店のファサードは表通りにあるのだが、店は裏の広場に抜けている。その広場を2.3店の中華料理店が共同で使っていて、食材の下処理がなされていた。豚の足が吊るされ、中国語が飛び交っている。私は迷わずその店には行った。
従業員は笑顔一つ見せずにテーブルにメニューをバサッと置いて、奥に戻ってしまった。店は決して新しくはないが、綺麗に磨きあげられていた。厨房では4.5人の中国人と思しき男性たちが働いていた。
私は北京ダックと炒飯、そして青菜の炒め物を注文した。妻は五目粥にしようとしたが、本場の五目粥は内臓が入るため妻にそのことを告げると彼女は海鮮粥に変更した。
一緒に頼んだ青島ビールと一緒に次々と料理が運ばれてきた。私は一度香港の北京ダックの有名店で食べた事があるが、こちらのものは概して日本のように皮だけを上品に包むそれとは違う。肉も時には骨の付いたような大きな肉片も一緒に食べるのでボリュームはかなりある。やはり間違いはなかった。
青菜の炒め物は実に軽やかだ、炒め物なのに油が抑えられていた。中華料理の本にあったが、油でいためる方法ともうひとつ、油の浮いたお湯の中でゆがくという方法があるらしいが、その場ではどちらなのか判断が付かなかった。
海鮮粥には海老とホタテ貝そして豪勢にあわびまで入っていた。猫舌の妻はレンゲに少しだけ粥をとりフウフウ言いながら掬って食べていた。私は二本目の青島ビールを飲みおえるところだった。
ホテルに戻ってから腹ごなしにリージェントパークまで散歩した。すぐ近くにシャーロックホームズ博物館があるというので立ち寄ってみた。普通の小さな家がそれだったがあまり見るべきものはなかった。
リージェントパークの緑は美しかった。その美しい芝生の真ん中で子供達がサッカーをしていた。日本のように見るだけの美しい芝生とは大違いだと思った。散歩をしている犬もどこか落ち着いている。紳士淑女の国というが犬もそうなのか。
その日の夕食はホテルからほど近い、インドレストランに入った。南インドの料理と出ていた。南インドと言えば新婚旅行で行ったスリランカを思い出す。来る日も来る日もカレーだったが一向に飽きなかった。あれは人生最大のカレーの日々だった。
私達は海老の辛いカレーと卵とココナッツミルクの優しいカレー、それにナンを頼んだ。カレーはどちらも香辛料が効いていて美味しかった。辛いと言っていたがさほどでもなかった。ナンは幾分小振りであったが弾力があってモチモチして美味しかった。インドにはキングフィッシャーというビールがある。もちろんそれを頼んだ。軽くて癖が無く美味しいビールだ。
翌朝、ホテルを出てヒースロー空港で時間を潰していると、オイスターバーと白文字でブルーの地に大きく書かれた看板が目に入った。すかさずカウンターに陣取り、目の前にあるフラッターを指差してフランス産のシャルドネを頼んだ。そして飛行機の中では昼間のワインが効いたのか良く眠る事が出来た。
ようするに私のロンドンはこんな塩梅なのです。
誰です!イギリスの料理は食べていないと言う方は?確かに代表的イギリス料理なるプディングも、フィッシュ&チップスもそしてハギスも食べていませんが要するに不味いものは無かったのですから・・いいじゃないですか??













2013年7月18日木曜日

プラス25センチの景色

プラス25センチの景色

ロードバイクを初めて7年になる。真夏や真冬でもガンガン乗っている人に比べれば大したことはないが何とか続いている。私達くらいの歳になるとこのなんとか続いているということが大切なのではなかろうか。
ロードバイクというのは私達が子供のころに乗っていた自転車とは全くの別物である。もちろん自転車と構造的には全く同じなのだが、乗り方が違うし、使う筋肉も違う。足が地面については駄目なのである。クリートが靴とペダルを繋ぎ合せるため、サドルの位置が25センチ近く高くなるのである。
私のロードバイクの師匠は我が社の顧問をして貰っている弁護士の先生である。この先生、ロードバイクに乗りたくて、銀座4丁目から三島の山の中に引っ越したご仁である。それほどまでに峠に恋をしてしまった人である。
いつだったか、一緒にある案件を数人の弁護士先生と会計士と一緒に先生に手伝ってもらった事があった。相手は大手の私鉄事業者だった。この最中先生は大落車を起こした。事故は修善寺SSの下りコーナーで起こった。命に別条は無かったが、鎖骨と恥骨を複雑骨折し治るまで丸3か月掛った。幸いにもこの案件はリーマンショックの前に結審し、思いがけぬ嬉しい結果に終わったのであるがヒヤヒヤしたものである。
ところでその先生がロードバイクに跨って見る景色は特別だと言う。たかが、25センチされど26センチなのである。その少し高い位置から見る景色は特別なものだという。
最初の頃はよく立ちコケをした。そうペダルが取れない事を忘れて自転車を停めてしまうのである。ところが慣れてくるとその塩梅も体が把握し、コケなくなってくる。そのころが一番危ないのだ。車の運転でも免許を取って少し慣れた頃、事故が起こりやすいというあれと同様なのだ。私もご多分にもれず事故を起こした。それまで下りのスピードは怖いどころか楽しくてどんどん出していた。家の裏手に長い擂り鉢状の坂道がある。私はいつものように加速して坂道を下った。自転車が一番スピードに乗って、そのまま上り坂を通過しようとする直前にその事故は起きた。信号の変わりばなを高校生らしき男の子がチャリンコに跨って出て来たのだ。私のバイクはブレーキを掛けたが間に合わない。相手は無音のバイクに気がつかない。運悪く、マンホールの上だったので自転車は横滑りしながらその高校生に向かっていく。まるでスーモーションのようだった。ロードバイクの落車の時バイクを放さないのが鉄則だと教わったが、瞬間、私は掴んでいたバイクを放した。結果、私の体は宙に舞い、6.7メートル先の中央分離帯に空中で一回転しながら転げ落ちたのだ。
道路に寝たまま後ろを振り返るとその高校生の前でバイクは止まっていた。男の子は倒れるでもなく、自転車に跨ったまま何があったのかわからない様でキョトンとした顔をしていた。
私はそれを見てホッとしたと同時に急に右肩に激痛が走った。見てみるとジャージの上に骨がピョコンと飛び出していた。男の子に救急車を呼んでもらい、そのまま病院に直行した。
救急車にロードバイクを乗せたのは私くらいではないだろうか。救急隊員にバイクも一緒に乗せてもらうように懇願したのだ。バイクは無傷だった。人間の方は右烏口靭帯と右肩鎖骨靭帯の断裂で骨は折れてなかったが、完治まで3カ月はかかるとのことだった。
それ以来、大きな事故は起こしていない。あれほど下り坂で飛ばしていた私はすっかり元気がなくなり注意するようになった。
このロードバイクというもの実に忠実である。何が忠実かと言うと、自分の実力に忠実なのだ。調子良く40キロで最初巡行していても、帰りは脚にきて30キロにも満たない。前半、足をためるべく高いケイデンスで漕いでいると、帰りは心拍がオーバーして乳酸過剰状態になる。つまり絶対に自分の実力以上にはならないということが分かったのだ。最初からイーブンがいいのだと分かっても、そこは親父の意地がある。国道で若い大学生のローディがいたりするとぴったりついてしまう。逆に私が前にいるときは追い抜かれないように踏んでしまう。結果、帰り道では脚にきて回らなくなる。自分でも何故こん馬鹿な事をしたのかと思う事もあるが、なあに今は馬鹿がやれるんだから良いでしょと気を取り直すことにしている。本当に乗れなくなる日まで、意地とお金を掛けてもう少し25センチ高い世界を楽しみたいと思っている。えっ!楽しんでいる余裕が無い!!確かに




2013年7月16日火曜日

HAPPINESS IS THE SAND BETWEEN MY TOES AND THE SUNBURN ON MY NOSE

HAPPINESS IS

THE SAND BETWEEN MY TOES

AND THE SUNBURN ON MY NOSE

その男は手作りの白いバルコニーのテーブルで手紙を読みおえると、手紙をゆっくりと封筒に戻し、節だらけの皺の寄った黒い手のひらで口元を押さえ、目をそっと閉じた。
その男はカンザスの小さな町で生まれた。その街はトーレンスから50マイルも離れた場所にあり雑貨店とガソリンスタンドの一緒になった店と小さな食堂が一件あるだけの街だった。
その男の家に父親はいなかった。父親はその男が歩くようになる前に家を出てい行ったきり帰ってこなかった。家には母親と二歳年上の姉がいたが、姉とその男は血が繋がっていなかった。
その男は18歳になるまで一度も街から出たことはなかった。
その男はハイスクールを卒業すると同時に運送会社に運転手として勤めた。
トラックはヘイズというインターミディエイト沿いの街から18時間掛けてロサンゼルスまで家畜の飼料を運ぶ仕事だった。
アメリカには州と州を結ぶインターミディエイトと呼ばれる道路がある。このトラックも1-70Wという西行きの道路をスタートし、デンバーを超え、1-15Sとその道路は名前を変えるが、辺りの景色は乾燥した砂漠のようで、スタートした時から1ミリも移動していないと錯覚するほど同じ景色だった。
その男は30歳になる時に初めて家を出た。ロングビーチ近くのトラックの運転手の集まる食堂で働いていたスワミーという女性と結婚したからだ。彼女はメキシコからの不法移民の子供で英語はあまり上手ではなかったが、最初会った日に彼女の黒い瞳の中に母の優しさと強さを感じた。
二人はサンディエゴから北に寄った海沿いの街に暮らした。その男は以前と同じようにトラックの運転手を続けた。妻は街の小さな食堂でウェイトレスとして働き、贅沢は出来なかったが、慎ましながら二人の子宝にも恵まれた。
二人は時間が空くと、家の目の前のビーチに出掛けた。北と南に岩場のある半月上の砂浜はいつも子供たちの遊び場だった。
その男は誰かから貰い受けたボロボロのサーフボードでサーフィンを覚えた。この辺りは寒流の影響で夏でも水温は低い。それでも裸のまま疲れるまで何回も何回もパドルアウトしていき、波がしらから見える妻と子供達の姿を見る事を楽しみとしていた。
息子が家を出たのは2年前になるが、既に娘は結婚して家の近くで暮らしている。息子は奨学金で大学を卒業し、シリコンバレーのIT関連の会社に勤めた。忙しくて帰ってくるのはクリスマスの時くらいだ。
手紙には病気の母親が死んだ事が記されてあった。化学療法で癌の治療を続けていたが、すでに1年前より手の施しようがないと医者に言われ、痛みを緩和する治療だけ続けていたが、2.3日前より呼吸不全に陥っていた。
母あれから一度も街を離れなかった。母はカリフォルニアで生まれたと聞いたことがあったので、本人に聞いてみたが、いつもはぐらかし、本心は決して見せなかった。
その母が死んだ。海を見た事があったのだろうか、いや見たくなかったのだろうか。
キッチンから妻が暖かい紅茶と手作りのマフィンをダイニングテーブルに持ってきてくれた。戸外に出てそっと肩に置いた妻の手が暖かかった。その男はバルコニーからビーチサンダルの砂を落として妻の後ろから家の中に入って行った。





2013年7月12日金曜日

チャーハン・チャーハン・チャーハン

チャーハン・チャーハン・チャーハン

チャーハンの美味しさの秘訣は何だろう。ある人に言わせるとあのご飯のパラパラ具合だという。また、ある人にいわせれば艶やかな油にコーティングされた米の旨さだという。つまりこの二つとも要はご飯なのである。ご飯が旨いかどうかが決め手となるのは間違いないだろう。
ところが一人、何万円もする高級店で出されたチャーハンは感心しなかった。いや、きちんと調理されていたのだが美味しいと感じなかったのである。
話しは変わるが、クリントイーストウッドの「グラントリノ」という映画がある。古いアメ車のネーミングから題名をとったこの映画の中で、主人公のイースウッドが道路に面した質素なデッキでビールを飲んでいるシーンがある。彼が飲んでいたのはブルーリボンと言うアメリカではポピュラーなビールである。このシーンで、もし彼が東海岸のサミュエルアダムか何かを飲んでいたとしたら、興醒め、つまらないシーンとなってしまうだろう。つまりここでブルーリボンビールはブルーカラーの象徴であって、気取ったビールでは駄目なのだ。
実はチャーハンもこれに似ている気がする。私が高級店で美味しくないと感じたのは、その場所がチャーハンには似つかわしくなかったと感じたからだ。
私が今まで一番美味しいとと感じたチャーハンは30年近く前になる。叔父の建築現場の下働きの手伝いをした夏の暑い日だった。塀の基礎を打つためにスコップで15メートルほど土やガラを取り除いた作業の後だった。手は日焼けし、汗はシャツをびっしょり、Tシャツはびしょ濡れになるが、強い日差しですぐまた乾いてしまうそんな日だった。叔父が近くの中華店で昼食をご馳走してくれた。メニューを見ずに私はチャーハンとラーメンと餃子を注文した。料理が出てくるまでに、冷水器から自分で蛇口をひねり、水を立て続けに4.5杯は飲んだ。テレビの下にはスポーツ新聞とページの折れた週刊誌が無造作に積み上げられていた。連載漫画の一つを読みおえた頃、まずギョーザが運ばれてきた。小皿ではなく、五個ある餃子の皿の上から醤油と御酢、ラー油を掛けて次々に口に運び一皿目を平らげた。次に運ばれてきたのはラーメンとチャーハン。みるからに普通のチャーハンとラーメンである。チャーハンには別にスープが付いている。申し訳程度に切られ透けて見えるような薄いチャーシューの乗ったラーメンから食べ始める。スープは飲まない。そして次にチャーハンに移る。チャーハンにもほとんど何も入っていない。肉なのか何か分からないほど小さくなった茶色い物体、ピンクの片鱗から辛うじて分かるナルト、そして葱がご飯に絡まっている。レンゲでそれらを大きく掬い口に放り込む。先程、別の職人が器用に運転していたユンボを連想した。途中、レンゲで葱の浮いたスープで口を湿らしてから、またご飯を掬う。最後にラーメンのスープを飲みほして昼食終了である。
ラーメンのスープと同じものを出している中華店に時々出会う。あれはいけない、チャーハンのスープはラーメンのスープより濃くなければいけない。とまあ、偉そうに言ったものの、要するにチャーハンはお腹が空いて、労働をして、そして汗を一杯かいて、食べるものが最良と言う事になる。それ以外はどうでもよいのかもしれない。チャーハン・チャーハン・チャーハン、この響きはどうも私の食欲中枢を刺激するらしい。今日も普通の、本当にごく普通のチャーハンを食べにいこう。普通が最良、チャーハンに限っては








息子は似るもの

息子は似るもの

息子が帰ってきて、ソファに座りながら世間の出来事やニュースの話題を会話する。息子は口数が少ない方ではないし、色々と自分の事も話す。といっても25歳を過ぎた息子である。私はその年の頃にはとっくに社会に出ていたのだから大人と言えば大人なのであるが、ぼんやりと彼の説を聞いている。

この頃、その物言いが笑ってしまうほど、私に似て来たと思う。マスコミの意見でも簡単には靡かない。いや、そうしたポピュリズムを警戒する節があるのか、中々辛辣な意見を言う。ただし、見習う点もある。知らない事はすぐ調べる。今はリテラシーさえ持っていればインターネットという便利な道具がある。

昨日もツールドフランスに出場している選手の国旗が分からなかった。私などスロバニアとスロベキアの区別さえつかないのだから仕方ないのだが、白と赤と青の下地に紋章が描かれていた。名前からすると東欧系の名前である。結局、彼はスロバキヤの選手だった。私の知識はチェコスロバキアで停止していたのだ。

その直後彼の体質は普通の人より3倍は早く乳酸を除去できるらしいと言ったのがまずかった。すかさず息子に白い目で見られた。彼の目には(本当にそうなら珍しい体質だね。それを証明する科学的根拠のあるデータがないと何とも言えない。原爆と原発を混同して、放射線の特性も理解せず声高に危ない危ないと言っている人達の理論と同じで空虚である・・・とまで言ったかは分からないがそんな具合だと思う)

彼は小さなときから自分の事を「わたくし」といっていた。今も同じ。俺でも僕でもない、わたくしである。

このところ知らない間に美術館巡りをしている。先日も休みなのにふらっといなくなったら横浜美術館に行っていた。ロスにいるときも私達の行かなかったロサンゼルス郡の美術館に出掛けていた。観光は嫌いだけど文化的施設を見るのは好きだという。全く笑ってしまった。これも同じである。

息子がバスクの料理はどうだったと聞く。素直に普通だったと答えた。バスク語を勉強している彼は得意満面の笑顔で、だから言ったでしょ、普通だって。

それでも自分で確認しないと済まないのだから、これもまた同じなのである。



他の人から見れば焼いても煮ても食えない男に見えるのだろうな。それでも息子は息子である。目に入れられない大きさであるが、やはり可愛いのだ。







2013年7月10日水曜日

すだち蕎麦

すだち蕎麦

元来、我儘で一筋縄ではいかない性格からか蕎麦の好みも相当うるさい。美味しいと思っている蕎麦屋でも、決まった蕎麦以外は滅多に頼まない。ましてや変わり蕎麦などもっての外、メニューにあると早々に閉じてしまうか退散する始末だ。
ところがその蕎麦は違った。
真夏の暑い日、疲れがたまって、昨晩の酒も胃に残り食欲がない。そんなときにこの蕎麦と出会ったのである。蕎麦屋の名前は「土山人」東京。私のオフィスから徒歩六分位のところにある。
同じ六分でも山手通りとこの目黒川沿いでは、この真夏は雲泥の差である。排気ガスと直射日光の照りつける大通りと違って、目黒川沿いは日陰があるし、時折ポツン、ポツンと並ぶ店の前には水が打たれたりしている。そんな目黒川沿いを歩いていくのだ。
その店は山手通りが目の前に大きくなる直前にある。階段を下りていくと三和土に瓦が嵌めこまれている。昭和初期に建てられた西欧建築というのは和洋折衷の趣があって良い。もっともこの場合の和は中国も視野に入れての東洋的という意味で使われるのだが、まあそんな事はどうでも良いがこの文人風雅な建物は私にとって気持ちがよいのである。
店内には皮のソファーが間を空けて置かれている。地下なのにドライエリアがあって日光が斜めに差し込んで明るかった。
運ばれてきたそれは一面に美しい緑色のすだちが広げられ、見るからに夏らしい。そして器の中にはそれ以外は何も見えない潔いものだった。
店員さんに聞くとすだちは食べないのだそうである。香り付けらしい。貧乏症の性分からか、すだちを家に持ち帰って何とかならないかと思案する間に妻はとっくにそのすだちを別の皿に移して蕎麦を食べ進んでいた。
蕎麦は細く、しかも適度なコシがあり、滑らかである。出汁は醤油と鰹節が控えめである。口に入れるとすだちの爽やかな香りが鼻腔をくすぐり、ほんのりと薄い酸味が喉を通って行く。あくまで薄く。蕎麦と出汁の相性もいい。蕎麦を食べ終え、出汁も飲みきった後に蕎麦湯がやってきた。ここの蕎麦湯は今流行りのドロドロ系と普通系の中間あたりだ。出汁は甘すぎず丁度良いが、蕎麦湯の香りがないのが残念である。
食べ終えて表に出る。真夏の暑い日差しが相変わらず、頭の真上から照りつけている。それでも幾分涼しくなったような気がするのは、すだちの成せる業か、それとも錯覚か・・・

追伸 写真はどちらも同じ店のすだち蕎麦、上が今年、下が昨年・・・美味しかったのは今年・・・小さな青いすだちにあたるかは時の運ですな・・・

出店 中目黒「土山人 東京」






2013年7月9日火曜日

頭の柔軟性

頭の柔軟性

歳をとると躯もしかりですが、頭の柔軟性がなくなるといいます。しかしこれとて人それぞれで私より10才以上も歳の離れた友人の中には全くこれに当てはまらない永遠の青年のような人もいますし、逆に若いのに保守的で新しい思考を全く取り入れない人もいますから、ですから本当に人それぞれということになります。
私がお付き合いをさせてもらっている設計事務所の設計士さんはこの柔軟性がすこぶる豊かなのです。ここで断って置きますが、頭の柔軟性と言うのは根なし草のように、あっちへ行ったり、こっちへ行ったり、自分を持たすに他人に意見にすぐ迎合するというものではありません。この先生は某大手設計事務所では大きな建築物の企画や設計も、さらに個人でも数々のコンペティションにも参加するなど、自分と言うものをしっかりと持っておられます。
それでも世の中には多くの嗜好性が存在します。それを駄目と言ってしまえば、全てが御仕舞、ジエンドとなってしまうのですが、その中に一縷の光明を見つけ出し、新たな価値を創造する作業こそ、この先生の真骨頂とも呼べるものなのです。
今回のクライアントは幼き頃よりアルゼンチンを始め多くの海外生活体験をされた奥様でした。さらにその後、音大でピアノを習得しさらに看護の免許を取得すると言う、若くして多くの事を経験し感化されてきた人でした。
この感化された事実の前では私達が当たり前だと思っている事は必ずしも当たり前ではなく、もっと別の庭が広がっているのです。
この事実を受け入れ、発展させる事こそが自分の価値観を広げて行く行為なのではないでしょうか。それを強く感じます。こうした仕事を一緒にできた事は私にとっても新しい創造的出来事なのです。本当に楽しい経験でした。有難うございました。私も頭の柔軟性についてよくよく気をつけなければならないと自戒の念を込めてこの文章を書きあげたということになりましょうか。





思い込み

思い込み

私の場合、脳が何らかの障害を受けて可笑しな回路を作り出しているのではとかねてから思う節がある。もっとも私の脳の断層画像を見ると第四脳室、シルヴィウス溝の近くに今もウズラ卵大の白い得体のしれない物質があるのは事実なのだが。
可笑しな回路とは、つまるところの思い込みである。例えば雲呑と書いて「ワンタン」と読むのは小学生でも知っている。そして饂飩と書いて「ウドン」と読む。こちらは中学生くらいか。それでもこの二つの語彙は万人が知るところの漢字である。ところが私の脳では雲呑と見るや「ウドン」と発してしまう。いくら気にしていても「ウドン」に翻訳されてしまうのだ。ところが饂飩は「ウドン」でワンタンとは言わない。言語が反転一致しているのではない、あくまで視覚的イメージの迷走である。
浜田山の雲呑麺の美味しい店では二回とも「ウドン」と言ってしまったが、出て来たのは雲呑麺であったのは助かった。
こんな事もある。卵と私というオムライスの美味しい店がある。全国チェーンで展開しているのでご存知の方も多いのではあるまいか。ところが、この名前を見たり、聞いたりすると少し恥ずかしいような、困ったような気持ちになる。それは私の脳の中で卵は「卵子」、私は「女性」に翻訳されてしまうからだ。よって卵と私と言うオムライスの美味しいお店は、不妊治療専門のクリニックとなって私の頭に現れるのである。店のファサードは明るいピンクと白の基調の看板でレディースクリニックと変わっているのである。
こんな馬鹿な発想をしているのは私だけだと思っていたら、大好きな小説家の村上春樹氏も笑って(笑ったかどうかは分からない)同じ話をしていた。ハルキストとしては大変嬉しくなったが、やはり自分のこの回路の異常さは時として理解に苦しむ。
例えばショパンを皆さんイメージすると何が思い浮かぶだろうか。多くの人は音楽教室に飾られていたカールした髪の毛の女性のように優しそうなショパンの顔であったり、クラシックファンなら自分の好きなショパンのレコードの表紙なのではあるまいか。
ところが私は銀色のつぶつぶの一杯入ったサンドウイッチをイメージしてしまうのだ。何故サンドウイッチかというとこれはショパンの庇護者でもあり彼の恋人、ジョルジュサンドの影響が大きいからだろう。しかし、私の中ではメーテルリンクの戯曲ペレアスとメリサンドの森の中の絵に登場する人物がショパンに思えたことがさらに複雑に絡み合い、生成されたのではないだろうか。そして銀色のぶつぶつはケーキを作る時に使うアラザンという。これは分からないが言葉が似ているから思ったのかもしれない。そう私の中でショパンはアラザンが一杯詰まったサンドウイッチとしてイメージされるのだ。
私の場合、記憶力の低い脳をカバーするために多くの事象や物体を連結し定着しようと映像化する、能力の少ない器官の補完作用なのかもしれない。あからさま否定はしないが困る事も多い。
先日もテレビの映像で流されていたスカイツリーを見て変な想像をしてしまった。変な想像と言ってもまた変なイメージをされては困るのであるが、未成年者禁止のそれではない。まるで蟻塚だと。これもまた困ったイメージである。こちらの方は実際の蟻塚のように脆くては困るのだが。





2013年7月8日月曜日

地吹雪と坦々麺

地吹雪と坦々麺

一番好きなスキー場は何処かと尋ねられれば、迷わず志賀高原と答えるであろう。それくらいこのスキー場が好きだった。好きな理由はとにかく飽きないからである。コブの斜面を滑りたければ丸池のAバーンやジャイアント(近年はこのコブはなくなった)、新雪のパウダースノーを楽しみたければ寺子屋山や渋峠、ナイターなら一の瀬やダイヤモンド、そしてネイチャーウォッチをするなら奥志賀ととにかく様々なゲレンデでスキーの醍醐味を味わえる。当時、西武が焼額山を開発し始めた。まだ、完成はしていなかった。この広大な上信越高原国立公園の中には西武系のホテルがひとつも無かったからだ。苗場、万座、妙高、安比高原、東日本の至る所の一番良い場所にこの系列のホテルは立っていた。
志賀高原では私は一の瀬に逗留することが多かった。理由は安いからである。どこに出掛けるのも便利であるし、ナイターもできるからだ。しかしながら、この宿の朝食、夕食は酷かった。団体客ばかりなので、用意される料理はどれも冷めてしまっているばかりか、味付けは病院食の方がましな位無味である。
そんなときお昼が唯一の楽しみだった。当時、長野電鉄系列の丸池観光ホテルに四川料理のレストランが入っていた。店の名前は「志賀飯店」と言った。
今食べたら本当に美味しいのかどうか分からないが、冷えた体に暖かい坦々麺は美味しかった。問題なのはこの坦々麺一つで満腹にならない事だ。坦々麺とチャーハンをオーダーすると一日の予算が底をつく。そうなると夜は部屋で缶ビール1本のみで過ごさなければならない。それでも良いと意を決して坦々麺とチャーハンを頼んだ。
美味しいものを食べると心が豊かになる。あの時そう感じた。西館山からブナ平、高天原を通って一の瀬に戻る間中、満たされた気持ちで一杯だった。
丸池観光ホテルも、志賀飯店ももう無い。あのときの満たされた気持ちを求めて、食いしん坊の私は今日も都会のゲレンデを彷徨うのである。

出店 志賀高原「志賀飯店」





2013年7月4日木曜日

良書と悪書

良書と悪書

私は本を買う時出来る限り書評を信用しない。そういう本があるという存在を知るために書評欄に目を通すが、中身の事をあれこれ書いてあってもほとんどの場合割愛して読まない。ただ、手に取って中身を確認しようにも、この頃の書店の品揃えは大衆迎合、ポプュリズムの極致で週刊誌やマンガ本が大きく幅を利かせているのは嘆かわしい限りだ。ところが横浜の家の近くの書店はどういう訳か、あるコーナーに面白い本を集めている。品数は決して多い書店ではないが、このコーナーは面白い。IPS細胞の事が話題になればゲノムや遺伝子の本を並べリチャード・ドーキンスや福岡晋一を同じ棚に並べる。またある時はみすず書房の本ばかり集めてみるといった具合だ。私はパラパラと捲りながら、この本は良さそうだと思う本を抱えてレジに向かう。レジで支払いを済ませいそいそと自宅に戻り、一斉に読み始めるのだ。
大抵の場合、2.3冊は併読する。そして読み終わってさらに理解を深めたい場合にはその本をいったりきたりしながら読むのだ。その時は本のページは印を付けられ、時には赤いボールペンで線引きされる。
ようするに3冊のうち2冊はほとんど新しいままなのだ。そうした本がどんどん貯まっていく。立花隆氏のようにいくつもの書棚を持つ読書家なら本であふれかえるという心配は無用だろうが、私の家のよう蜑戸ではそれもままならない。高さは6メートル近くある本棚の一列目が埋まり、2列目も一杯になる。先の地震の時どうたったか心配されるかもしれないが、この時は一冊の文庫本が落ちただけで無事だったのだ。この本棚は家に直接作りつけられているのである。もしそうでなかったらと思うとぞっとする。
読みたい人に無償で譲るのはいいのだが、どの本が読みたいのかいちいち確認する作業が出来ない。中古の本屋に持って行っても二束三文にしかならない。第一、二束三文の本に利益を乗せて売られること自体、好きではない。
ずっと前に買っておいて読んでない本がある。ウォールデンの「森の生活」である。何故読まないのかと言うと、この本を読むゆとりがないのだ。この本は読む人を選ぶ。私にはおいそれと頁を開く事が出来ないのだ。ウォールデンが湖畔で自然との対話を楽しみながら執筆したこの本は自然への洞察が出来るようになった人間こそふさわしいと言っているようで仕方ない。まだまだ、政治や経済そして対話している相手の一挙一頭足が気になる私など及びでないのだ。まだまだこの良書を紐解く日は先になりそうだ。





ニューヨーク・ニューヨーク

ニューヨーク・ニューヨーク

747はシラキュースの上空を通過し徐々に高度を下げた。この辺りはニューヨークの分水嶺である。分水嶺とは英語でwatershedという。峰の反対側に降った雨は決してマンハッタンには流れて来ない。
JFKは古い空港である。多くのターミナルは改装され綺麗になったが、日系の航空会社が到着するこのターミナルは昔のままだ。飛行機の発着表示板も今では珍しくなったパタパタと音がする旧式のものだった。帽子を被った制服を着た係の黒人の男性がカートを集めている。カートは蛇のように長く、くねくねと身をよじりながら所定の場所に吸い込まれていく。
イエローキャブはブルックリンブリッジを通過しようとしていた。運転手の男は頭にターバンを巻いていた。私の方をちらりとみるや日本人であることを確認すると、急に無言になった。私も無言のままぼんやり川沿いの高級アパートメントを眺めていた。ルーフトップでは新聞を読みながら日光浴をしている婦人がいた。
イエローキャブはチェックインとチェックアウトか重なり、混んでいるホテルの玄関を避け、裏通りに車を停めた。私はきっかりのチップしか払わず、荷物を持ち上げエントランスに向かった。運転手はチッと唾を吐きながらアクセルを吹かして、消えて行った。
このウォルドルフアストリアホテルはニューヨークでは由緒あるホテルだったそうである。もっとも近年では近代的タワービルヂングを建設し、宿泊者数を大幅に引き上げたので、私のような物見遊山の客も多くなった。
フロントでチェックインをしようとすると、年端のいかないフロントマンから先程入ってきた裏通りのデスクでチェックインをするように指示された。程のいい差別である。私はマネージャーを呼び、団体旅行でない事、さらにそのフロントマンの行為は人種差別であると痛烈に抗議した。お陰で部屋はワンランク上の部屋に変わったのであるが。
このホテルを選んだ理由は、今回是非食べてみたいと思っていたエッグベネディクトがこのホテルで発案されたとされる説があるからである。もちろん一説に過ぎないのだが。それは1894年、ウォルストリートの株の仲買人であるレシェル・ベネディクト氏が二日酔いの食事に何か軽いものを頼んだのが始まりであるというものだった。
もちろん別の説もある。こちらは後世にレシピまで発見され真贋論争に真実味を持たせたもので、ニューヨークのデルモニコスというレストランで1920年にイライアス・コーネリアス・ベネディクト氏が食べたとされるものである。いずれもベネディクト氏が食べた訳である。この料理が軽いと言う感覚自体、日本人には受け入れがたいと思うが、ようするにそうした由来なのだそうである。
そのホテルで食したエッグベネディクトは値段こそ高いものの、普通だった。いや、普通以下だったと言うべきだろう。それから色々な所に行ってこの料理を頼んでみたが、どれも大味で、総じてアメリカーンな味である。もはやこの料理はこれまでかと思っていたある時。
友人が社長をしていた汐留の外資系高級ホテルのレストランでこの料理を聞いてみると、あるというのだ。メニューにはないが作れるというのだ。早速、注文してみた。ビールを飲みながら待つ事暫く。そのエッグベネディクトは運ばれてきた。
白い大きな皿の上に丁寧に焼きあげられたマフィンが載せられ、その上に彩りよく調理されたホウレンソウが型に抜かれ乗せてある。そしてその上にピンク色のスモークサーモンが控えめに飾られていた。掛けられているオランデーズソースは新鮮な卵の黄身の色をしている。
口に運んだその瞬間。ウウ・・・旨いじゃないの。これ。ぜんぜん、アメリカーンじゃない。美味しい。サーモンもこのソースに合っているし、ホウレンソウがアクセントになっている。飛行機で1万キロ以上飛んで食べに行った本場のエッグベネディクトは何だったのと後悔することしきりであった。
会計を済ませ、レシートを見ると。目が点になった。***千円!!!もはや朝食ではない。

追記 このゴードンラムゼイが今年の5月に閉店したと言う。日曜日や月曜日に店を閉めていたので、ホテルのメインダイニングなのに大丈夫だろうかと心配していたのだが的中してしまった。ワインが高いとか巷では評価を二分しているようだったが、奇をてらわない本格フレンチはどれも美味しかったし、ソムリエにお任せしたワインは手ごろだった。何よりここのローストターキーはこんな美味しいターキーを食べた事が無い最高の上物だった。それもこれも友人のお陰である。持つべきものは何とやら・・・それでも季節は移ろう・・・同じ事は2度ないのである・・・



出店 ウォルドルフアストリアホテル
   コンラッド東京「ゴードンラムゼイ 閉店」