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2013年11月29日金曜日

911礼賛

911礼賛

911を手に入れて3年がたつ。普通なら他の車に触手が動く頃であるがまだまだ飽きが来ないどころか、新しい発見が続いている。
はっきり言っておく911は見栄を張る車ではない。最近はやっと電動になったようだが、私の911のドアミラーの格納は手動である。ダッシュボードの計器類やシートも何だか安っぽい。最近では手の当たるスイッチの表面の塗装が剥げ落ちてきた。内装や仕上げは品質的に見ても国産車より劣る気がする。恐らく車のことを知らない人が見たら、カエルに似た安っぽい車だと思うだろう。このあたりはスリーポインテッドのメルセデスのAMGや跳ね馬のフェラーリには到底及ばない。
では何が魅力なのか。それは運転してみなければ分からないだろう。現在の911は誰でも運転できる車になったとはいえ、車高の低さや3035の扁平率のタイヤを履くために最低でもこうした種類の車の理解が必要だ。それを逡巡して余りあるならば女性でも男性でも楽しめる。
さて車に必要なことは何か。突き詰めれば走って、曲がって、止まる。これだけだ。つまりこの3つのことに特別な思いを入れて作った車が911なのだ。ご存知のようにフラット6を搭載するのは911くらいだ。より大きな馬力を必要とするならばV型エンジンに過給器をつければ良い。ただし、エンジンが大きくなるので大きな格納庫が必要となり、それを収めるボンネットは巨大になるか、フェラーリのように後室を潰してエンジンルームにしなければならない。こうした巨大化したスポーツカーは日本の実情には合わないのではないかと感じる。駐車場には入らないし細い道には侵入できない。専属のポーターでも雇わねばならないかもしれない。そこへいくと911は丁度いい。後輪のオーバーハングに慣れるには時間が必要だが、以外と短いホイールベースが幸いして、ほとんどの段差を解消する。
911のブレーキはよく効く。この車に乗って分かったのだが、いくら電子制御を行ってもフロントに重い物を載せている車が停車するには相当な慣性モーメントが働く。つまり動き続けようと車を前に引っ張る力だ。そこへ行くと911のエンジンはリアにある。しかもコンパクトなエンジンである。ブレーキを踏めばダイブすることなしに車は止まるのだ。このあたりはフェラーリも同様だと思う。
もうひとつの利点はハンドリングの素直さである。あれだけ太いタイヤを履いているのに車体の剛性が良いため、重さを感じない。純正のピレリPゼロロッソからBSに履き替えたらさらにグリップが良くなった。そしてハンドルをある一定角以上で切っているとロックアップしない。これはコーナーで限界近くを走っている時、ロックアップするとトラクションを失いスピンしてしまう事を防いでくれる。さらにアクセルが途中開度を容認してくれる。つまりギアをホールドしてくれるのだ。これもありがたい。
ようするに走っていて、運転が楽しいクルマなのだ。
私はM5にも乗ったことがある。あれはV10エンジンだった。ランボルギーニ・ムルシエラゴにも乗った。あれはV12だった。総じてV10以上のエンジンは高回転型で街乗りの低回転のトルクが不足している。そこへいくと911は例え時速40kmで走っていても実に気持ちいいのだ。
しばらくは911の魅力に贖えないと感じている。果たしてこの車を忘れさせてくれるような車が存在するのだろうか。やはり911の次は911か。




2013年11月26日火曜日

王様の食事

王様の食事

作家の好き好きというのは人によって分かれるものであろう。同じ紀行文でも沢木耕太郎と開高健ではまるで違う。沢木氏が精密機械の設計図のように事実を丹念に掘り下げ物語を紡いでいるのに対して、開高氏のそれは自らの興味のある部分とそうでない部分がはっきりしていて、そのストライクゾーンに当たると文章は堰を切ったように溢れ出してくる。開高氏が美食家であったことは既知であるが、サントリーの共通項で括れば山口瞳氏も同類である。この二人何が共通しているのか著述を思い返しながらつらつら考えてみると、二人共恐妻家だったらしい。なるほど開高氏がアマゾンやアフリカの地の果てまで何かを追い求めて探検した気持ちが分かったような気がする。もっとも山口氏はそんな秘境には行かず専ら祇園や銀座のジャングルに繰り出していたようであるが。

開高氏は食のエッセイの中で菊池寛を引き合いに出し、王様の食事という章で「食べるとあとからあとも形もなく消化されてしまっていくらでも食べられるものがご馳走なのではないかしらん」と言っている。そうです食べると***になる食べ物が良い食べ物だと言っているのです。食事中の方も居られるかもしれないので***と称したが、氏は文章の中でしばしこの***を多用している。ベトナム戦争に従軍し、米兵がベトナムの少年少女を虐殺する惨事を見てきた氏だけに、氏の***には人間の生きることの本質を彗眼しているような気がする。
そんな氏にここの料理は***が出る食べ物だと最大の賛辞を頂戴した宿がある。それが越前にあるこばぜ旅館である。氏はここに逗留した際に何が所望か尋ねられた宿の主人に「カニ」とだけ答えたようである。夕餉は当然のことながら旬の越前ガニの刺し身、焼きガニ、しゃぶしゃぶが供された。翌日、何を出そうか困り果てた主人が思いついたのが、当時は安かった越前ガニのメスの身や腹子など全てをご飯の上に山盛りにしたどんぶりだそうである。それを氏は一気にかっこみ完食し「うまい」と言って箸をおいたそうである。それ以来その宿に来ると必ずそのどんぶりを注文し、今ではそれを開高丼と言われ名物となったようである。

ジビエなどでもそうであるがメスよりオスの方が味が濃いのが一般的である。しかし、メスにはオスにない身の柔らかさや蟹に至っては卵がある。その辺りが氏の琴線を触れたのかもしれない。私はこの旅館にいつかは行きたいと思っている。しかし、漁期は二ヶ月に限られ、横浜からどんな交通手段を使っても相当の時間が掛かる。私にとって夢を見ていれば着いてしまうロサンゼルスやパリより遥か遠い地なのである。そんなこんなでまだ行けずじまいなのである。
ところが活きたセコガニを送ってくれるところがあると情報を得た。ネットワークの時代万歳である。もっともそんな時代だから多くの海産物、農産物を売っている。しかし時としてとんでもない一品を送られてくることもある。過去一度、日本海の牡蠣を頼んだことがある。いくつかのお店をまとめて注文と配送をそのショッピングサイトが請け負う仕組みのやつである。送られてきた牡蠣は身が殻から溢れるほど長時間揺られ、蓋を開けてみたら身が流れだしてしまった。もちろん生食では食べられるはずがない。それ以来、直接の送り手が見えないところから買うのは止めている。
今回購入したのは鳥取漁港に船を持っているレッキとした猟師さんである。船の名前は弁慶丸。蟹だけに縁起のいい名前だ。それとこの猟師さん脱サラで漁師になったと書かれていた。かねてより色々な職種の人が交雑することは良いことだと思っている。閉鎖的になりがちな世界に新しい刺激を与えるからだ。事実、この猟師さんはメールが苦にならないらしい。時化で漁に出られないとか、港に寄港していない船があるとかメールで送ってくれるので、待っている身としては大変ありがたい。そんなことも脱サラ猟師さんならではあるまいか。

閑話休題。送られてきた発泡スチロールの上に宅急便の配達者に分かるように生き物なので丁寧に扱って欲しい旨の文章が添えられている。なるほど前回の牡蠣ももしかするとそうした事故だったのかもしれないと思い返しつつ、蓋をあけるとおおぶりなセコガニがザワザワ、ガシガシ・・・元気に剽軽な目玉を上に下にしながら様子をうかがっている。
神様仏様、殺生をお許し下さい、ナンマイダブと唱和したあと、甲羅をやさしく洗い、脚を縛り甲羅を下にして蒸すこと18分、蓋を開ければほのかな磯の香りと果物のような爽やかな香りが立ち上がる。妻と二人で10匹の蟹から身や内子、かにみそを取り分け終えた頃、ピィーと新米が炊きあがったよとの合図。熱々のご飯を器に盛り、これでもかと蟹を盛り付ける。蟹の汁と醤油を合わせたものをどんぶりに少し掛けて何も言わずかっこむ。ひとくち、ふたくち、家人達は何も言わず、ただ、うんうんと相槌をうっている。六年間の大学生活最後の試験真っ最中の息子もこの晩餐の事を知って早く帰ってきている。息子の顔にも笑みが溢れる。旨い。何も表現できない。ただ、旨いのだ。中々も鳥肌の立つ旨いものにはあたらないが、今日は別。それくらい旨い。こばせ旅館では洗面器のような器にセコガニ7匹使うと言っていたが、10匹を三人で食べてもまだ余るほど、身がいっぱい詰まっていた。 ダイエット中の息子ではあったが二杯目に突入したことは言わずもがなである。

翌日も余った蟹に日本酒とみりんを加え玉子焼きにした。お弁当にして三つ葉を散らし、私の朝ごはん。これまた旨い。卵のプチプチした食感とねっとりした蟹の身が卵と相まって至福を味あわせてくれる。まさに王様の食事である。











2013年11月25日月曜日

家守の話 建物の糊代

家守の話 建物の糊代

私も若い頃、会社の売上や従業員数など規模に拘っていた時期があった。友人が自分の会社をいち早く上場し、紙面を賑わせていたからだ。
丁度その頃、今ではコメンテーターとして引っ張りだこのプロデューサーであるある人からテレビに出ないかと誘われた、ある番組に毎週である。出演料はかなり良かった。しかし、この時あるときにある人に言われた。あなたは会社を大きくして何をしたいのですか。会社を大きくすることが目標なのですか、それとも何か違う目標があるのですかと。
目から鱗だった。サラリーマンの時の気分が抜けていない目標も見えていない。自分が何をしたいのか何が出来るのかもう一度考えなおさなければならなかった。

出した結論が「偉大なる商店」それが私の目標だった。近江商人の言葉に「一に相手によし、二に自分によし、三に社会によし」である。どんな仕事でも相手を困らせず、周りに迷惑をかけず、自分も含め三方両得をよしとする。それ以来、会社を大きくしようとか、従業員を増やそうとか思わなくなった。サービス業の基本は如何に相手に喜んでもらえるかである。相手に十分な利益をもたらさなければ評価は得られない。ただ急ぐあまり短期的であったり、周りに迷惑をかけたのではいけない。慎重に勘案しその事を進める必要がある。税務を専門にやっている人はその段の相続のみを考える傾向がある。ところが私達の仕事はその先の先まで俯瞰しておかなければならない。

江戸時代の横丁の親爺は昼間から油を売ってはいるが、どうしてそのあたりは気配り、目配りをしているのである。大工の八っつあんに仕事がなければ、壊れた屋根の普請の仕事を作り、赤子に熱が出て仕事に入れないヨネさんのところの家賃をひと月待ってあげ、挙句の果てに夜逃げの手助けだってする。ようするにそうした一切合財をしながら総じて家主に利益をもたらす訳である。

もうひとつ現代の家守はコダワリ屋でなければいけない。何もこだわらずどこ吹く風といなせに振る舞うのもカッコいいのは承知であるが、やはり拘りを持っていなければならないと思うのだ。どんなものがかっこよくて、どんなものがかっこ悪いのか、自分の流の審美眼である。建物のデザインというものは流行がある。これは仕方がない。だがこれとて糊代をもたせることは出来るのだ。住宅ならば施主が自分の好きな様に建てればよいし一向に構わない。ただし事業用は別だ。施主が連れてきた設計士による事業用の建物を多く見てきたがこの事が顕著に現れる。そういち早い陳腐化である。それとてもっと古くなればそれはそれで骨董とかビンテージと呼ばれ価値も残るが、少し前に流行ったというのが一番いけない。これはもうガラクタ、カッコ悪いとしか言われない。では何が糊代なのか。それはぎりぎりの予算で作ることだ。贅沢を切り落として出来るだけシンプルに作る。これに尽きる。建物の糊代、家守の話でした。(写真はイメージです)






2013年11月21日木曜日

ワインの話

ワインの話

 恵比寿の路地裏で店を15年やってきた。当時の私は日本酒やビールの味はそこそこわかっているつもりだったが、ワインとなるとからきし駄目だった。それでもバブル景気のせいかお客からワインを聞かれることも多くなっていた。もちろんそれ以前にもワインは飲んでいたがいつも頭の痛くなるような酷いシロモノばかりだったのでワインに対する印象は悪かった。
 そこで意を決して日本橋の高島屋に行きワインを買った。当時8千円近くしたと思う。買ったワインはシャンベルタン。ブルゴーニュの赤ワインである。何故このワインを買ったか。それは名前がかっこよかったからである。他のものは舌を噛みそうで頂けなかったからだ。当時はデキャンタージュもマリアージュもあったものではない。帰るやいなやコルクを開け、小さな安物のワイングラスに注いで飲んでみた。色も薄く、香りも感じられない。ちょっと酸っぱいような変な味だった。どこが良いワインなんだと勧めた店の人を恨んだ。そのような経験が災いしてか店で置いたのはオーストラリアのワイン、値段も手頃のワインが多かったが、本当に美味しいとはあまり感じられなかった。

 それからしばらくして二人のワイン通からカリフォルニアワインを教わった。リーズナブルなのにハズレがない。特にシャルドネの白ワインはさっぱりしたものから、重厚でこくのあるものまでバリエーションもあって飽きが来ない。それにひどい二日酔いもなくなった。今も冷蔵庫とセラーにはこのカリフォルニアワインがいつでも抜栓できるようにスタンバイしている。

 ある三ツ星レストランに行ったときに、それぞれの料理にワインを合わせてくれた。ランチだったので料理は9千円以下だったと思うが、ワインがその料理と同額だった。前菜で供された貝の料理に合わせられたのが20年もののムルソーだった。貝を口に運んだ後にムルソーを飲むと石灰質の土壌から吸い上げられたミネラル分が口に残り何とも言えない美味しさが広がった。そしてメインの魚料理にはカリフォルニアのシャルドネが合わせられた。ジャッジだった。先ほどのムルソーとは違う酸味もあり力強さと濃厚な味が肝を使ったソースと絶妙の火入れされたマカジキと上に載せられたホウズキの酸味と絶妙にマッチしていた。なるほどワインとは料理によってここまで味が変わるのかと三つ星レストランの凄さに驚嘆したものだ。それ以来、このワインはどんな料理とあうのかといつも考えるようになった。

 ワインは講釈より飲んでみなければ分からない。講釈は要らないという人がいる。確かにそうだと思う。でもワインを知ることはちょうど何故勉強しなければならないのかという問に似ている。そう勉強というのはいつ使うか分からないような無駄な知識を頭に入れる作業だからだ。無用なことはしないという合理主義者ならば別だがこの歳にして思うのは人生とはその無用なことが肝要なことのような気がする。ワインのラベルを見てそのワインが生産されたぶどう畑をイメージして、収穫された時の気候や温度、景色の色まで想像してみる。確かにカリフォルニアはとてもわかり易い。決して劣るとかという話ではない。ただそれに対してブルゴーニュは難しい。ブルゴーニュで美味しいワインと出会うのは10本に1本、いやいや100本に1本かもしれない。それほど飲み頃や相手(食べ物)を選ぶ。でもそれが魅力であるのも事実。難しいからこそ最高の一杯に出会った時の感激は言葉では言い表せない。天然の採ってきたばかりの舞茸を天ぷらにして合わせたボーヌロマネの美味しさは4年たっても口の中に残っている。








2013年11月13日水曜日

舌の記憶


私の好きなビストロでのディナーは大変満足のいくものであったがワインについては己の経験と知識のなさにやや自己嫌悪に陥った。ソムリエ殿には大変申し訳無いがワインというのは好き嫌いがある。その好みまで観慮してワインを選ぶということはなかなか難しいのであるからソムリエ殿に文句をつけることではない。私が拘っていたところは鴨というジビエひとつとっても季節、その調理法によって選ばれるワインが異なってくるということだ。実は美味しい料理を楽しんでもらいたいとの一念から前々日に鴨を料理し相性を確かめてみたのだ。野生の鴨は入手困難だったので京鴨を用いた。骨もないので軽くローストしてキャトルエピスで味付けした。

フランス料理のワインとの相性ではそのソースに近いワインを選ぶという基本がある。ところが当日作ったものはローストで鴨の味が直接舌に来る。この場合には開栓したばかりの南ローヌのグルナッシュではバランスが取れなかったのだ。翌日、一日置いたそれはかなり相性が良くなっていたがまあまあという出来栄えだった。
そこで私はやはりサルミソースのコクを考え、ブルゴーニュのシャッサーニュモンラッシ・プリミアクリュを選ぼうと決めていた。このワインは高年齢の樹木を用いるため輪郭がはっきりしていて落ち着いている。ところがどうだろうそのワインは品切れとのことである。その代わりに選んだのがシャンポールミジュニー2011である。ミジュニーらしい薄明るい液体は果実もあり滑らかであるがいかんせん若すぎる。恐らく樹齢は20年も経っていないのではないか。ミジェニー村はぶどうの病気によって多くの樹木を失っていたからだ。それとあまりにも早く供されたため魚のサーブの時にこのワインが注がれる始末だった。これはいけない、ワインは全く料理とかけ別の味わいとなって胃袋に消えてしまった。

メインの青首鴨のサルミソースが運ばれてきた時にはワインのグラスは空なっていた。しかたなく、ジゴンダスを頼んだ。グルナッシュらしい軽さと渋さが口元に残りローヌらしい力強さを感じたが如何せんフルーティ過ぎる。鹿肉には良いだろうが、この店のサルミソースは軽く仕上がっているので相性は今ひとつだった。やはり強すぎるフルーツ香が邪魔をする。

何故そうなのかと少ない経験と虚ろな頭のなかから昔のページを紐解いてみる。今から5年前にカンテサンスで鴨を食していた。その時のメニューはシャラン産鴨のロースト島らっきょソース、鷹が峰とうがらし添えというものだった。季節は8月。そうさっぱりとした家禽に近い鴨を軽めのソースで仕上げたものだった。これにソムリエが合わせたのが先ほどのシャンポール・ミジェニーだった。そうか私の試験は間違っていなかったのだ、だからローストのようなさっぱり軽めにミジェニーを合わせていたのだ。ということは少なからず肉の個性の強い青首鴨のサルミソースにはよりはっきりとしたワインのほうがあうということだ。グルナッシュを一晩寝かせたような滑らかさ、数年前、天然の舞茸に合わせて供されたワイン・・・・そうやはりピノ・ノワールしかない。あの時のボーヌロマネのように・・今閃いた・・・








2013年11月12日火曜日

ロマネ・コンティ

ロマネ・コンティ

男の名前は今野禎三。友人は彼をコンティと呼ぶ。恐れ多くもあの偉大なワインの名前を諢名に拝借している。男は艾年をとうにすぎ60歳を目前にしていたが、身長は183センチでがっしりとした体躯、少し色黒な肌、鋭い眼光はとてもその歳には見えなかった。
男はヨーロッパやアメリカから食品を輸入する専門商社、その食材を使って展開する飲食チェーン、さらにその儲けた利益を効率よく運用する投資会社を所有していた。従業員数は延べにすると1000人を超える。欧米の一部の国では飲食店の出店の条件として現地の人間をある一定雇用しなければならない。幸いなことに禎三は英語、スペイン語、フランス語、ドイツ語を自由に操る事ができた。結果的に飲食店は国内だけでなく上海や北京、ニューヨーク、ロサンゼルス、地図上の大都市と思しきところに彼の店の看板を目にすることが出来た。ただしパリを除いて。
男はつい3日前に会社のすべてを譲ってきたのだ。
男には二人の子供がいた。長女はすでに結婚をしてボストンで暮らしている。相手の男はユダヤ系のアメリカ人でハーバードを出ていた。その男も長女も男の実家のことは決して口にしなかったが、禎三は結婚する直前に現地の社員を使って調べさせたことがあった。その調書によると男の父は世界的富豪の一族で兄弟には共和党の政治家や銀行の頭取もいた。そしてマンハッタンにいくつものビルも所有していた。ところが本人はお金や社会的地位には全く関心がなかった。夏の間は大学で数学を教えていたが、冬になると寒いボストンからフロリダに避寒して大道芸をして暮らしていた。夫婦は裕福ではなかったがとても幸せそうだった。
長男は今カンボジアにいる。長男は幼い頃から手が掛からない子だった。幼くして母をなくし禎三の手ひとつで育ったのに禎三を困らせたことは禎三が覚えている限りなかった。成績は飛び抜けていて塾に通うこともなく最難関の大学の医学部に現役で合格した。その後医師となった彼は日本の医療における国際貢献の一環として途上国の医療機関の整備についてそのガイドラインを整備する仕事をしていた。彼もまた薄給ではあったがとても幸せそうだった。
男が事業を譲った男は、今のビジネスを立ち上げた時から男の右腕となり尽くしてきた人間だった。男は数年前より全ての事業を彼に任せ引退することを決めていた。
男は数年前の検診で医師からある事を告げられていた。それまで馬車馬のように働き詰めで検診やドッグの類には行ったことのない禎三だったので医師に言われてもさほど驚かなかった。
禎三は子供の時に重い病気をして腎臓を取り出していた。禎三の身体には腎臓はひとつしかなかった。いつもの生活でそれを思い出すようなことはなかったので医師に言われて自分がそうだったことを改めて確認したようなものだった。
その医師によると禎三はウィルス性の肝炎を発症していた。子供の時の手術が原因だったのか今となっては調べる術はないのだが、血液等を介して感染する病気だった。現代の医療ではインターフェロンというこの病気の特効薬があり、殆どの場合ウィルスを除去できることになっている。
ところが禎三には問題があった。あまりに長い間放置していたこともあり、血小板が極端に減少していたのだ。この血小板を増加させない限りインターフェロンの治療は行えない。
禎三はその後数年間、社員や子供には何も告げずに一人で血小板を増加させる治療を続けていたが、血小板の数は良くなることも、また逆に低い数値に戻ったりの繰返しだった。
-つづく-


2013年11月9日土曜日

REMINISCE

REMINISCE

今気になる洋服があるEG(エンジニアドガーメンツ)である。デザインを手がけるのは鈴木大器氏である。私より3歳若い。彼は日本にはいない。NYに住んでいる。今話題の人物である。
彼は27歳くらいからボストン、ロサンゼルス、ニューヨークとアメリカ中を転々としていた。彼の服の魅力は平均的でないことだ。何かが飛び抜けている。彼は押しなべて手頃で誰もが良いと思う服を作っているわけではない。例えば価格は高い、縫製はボロボロ、でも生地は特別という何か一つ特別なものがあればそれが商品として作り上げられる。

彼の商品は敢えてアメリカサイズで展開される。渋谷にある彼の商品がおいてある店は一見すると入口も分からない。店の名前は「ネペンタス」食虫植物ウツボカズラのことである。こうした不自由さを補っても買いたくなる服なのだ。胸囲107センチの私でもシャツはSサイズで丁度いい。19世紀のワークシャツをリメイクしたものではない。19世紀のシャツをイメージとして取り入れ、彼流の解釈で再構築される。だから全く別物である。

彼はユニクロを消耗品と思って割りきっても購入を躊躇すると。私も全く同感だ。しばらく前なら消耗品として割り切っていただろう。しかしこの歳になると消耗品だからというエクスキューズは身に付けるものには要らない。着たいものを着たいそれだけで良い。

彼が言っていたが、若い時に池袋パルコでNYの7人展という企画物を見たのを覚えていると。私はその現場にいた。時代の寵児たる箱がパルコで若者はそれぞれ刺激を受けた。彼はそういった一切合財のものを袋にしまって米国に渡ったのだろう。水槽のあちらとこちらで同じ魚を見ているのにその後の人生が全く異なる。よくあることだ。
彼が言うように当時は簡単には海外のことは分からなかった。NYがどんなところでどんなものなのか。赤貧の青年はせいぜい映画グロリアでジーナローランズがくわえタバコで闊歩するシーンからその街を想像するしかなかった。

彼は言う。天賦の才を持ったものは別として凡人は経験と知識を積まなければ何事も成功しない。確かにその通り。私も40才近くまで失敗の連続だった。熱が入り過ぎて周りが見えなくなる。そして案の定の失敗を繰り返す。でもこれだけは譲れない一線がある。その一線を簡単に明け渡す人間を私は今でも信用しない。結果として40歳を過ぎてからこの拘りが澱のように堆積し下地を作る。

渋谷の公園通りにアップスフォーというパルコの別館のようなものがあった。その中にREMINISCEという店が入っていた。商品はビンテージ風の破れたシャツやミリタリー調の古着もあったが、商品はとにかく混沌としていてどのジャンルにも属さなかった。あるイベントでこの店のファッションショーを行った。行わせた側から言うのも失礼だが見ていてこれほどドキドキしたショーはなかった。なにせ全てが手作り、ショーに出演するモデルもお店の子が演じたし、演出そのものもそうだった。素人ゆえステージに上る直前に緊張を和らげるためにテキーラ(たぶんそうだったと思う)をストレートで一気飲みしてステージに立った。ところがこれがかっこよかった。白々しいモデルの演技ではなく、この洋服が好きだという気持ちが伝わってきた。ショーが終わってその子は現場に座り込み大泣きをしていた。そういえば彼の渋谷の店は当時のREMINISCEに雰囲気が似ている気がする。

あれから30年、考えてみると好きなモノは変わらない。そう人間の本質的なところで気持ちのいいと思うことは変わっていないと思う。そういえば鈴木氏もサーフィンをやるそうだ。もちろん住んでいるロングアイランドだけでなくハワイでも。ここでも彼と水槽の向こう側で会っているのかもしれない。






2013年11月8日金曜日

テロワール

ロワール

その男は湖を眼下に見下ろす暖炉の前でイームズのラウンジチェアに脚を組みながら一人ワインを飲んでいた。指先を少し広げたチューリップの形をした大ぶりのグラスにそのワインは注がれていた。
ボトルには擦り切れたラベルにVosne-Romanee 1er Cre Cros-Parantoux 1979と書かれている。グラスに注がれたワインは縁に雫を残しながら底に落ちていく。沈む太陽を見送るようにわずかに残った青空に映しだされたその液体はすみれ色に染まりながらゆっくりと溜飲される。
男はこのワインのアペラシオンを見学したことがある。ブルゴーニュでは土壌、気候、ぶどう品種を総じて=テロワールと呼ぶ。そしてそのことが特に大切にされる。前年にどんなに良いワインを作ったとしても天候不順でその力量を伴わない年には生産されない場合もある。もっともこれは地理的な特徴が大きく、ブルゴーニュがボルドーと比べてより北にあり夏の日照時間こそ変わらないものの、夏暑く、冬寒い大陸性気候が南部より顕著でしかも春の降水量が多く、収穫期の秋に少ないというワインにとっての最高の条件が重なるからだ。そして結果的により敏感で繊細なワインを作ることになる。
ブルゴーニュの土地の特徴は石灰質だという人がいる。間違ってはいないが正しい表現ではない。白ワインに有名なMONTRACHETがある。これは禿山と言う意味である。この言葉が表すようにブルゴーニュの土地の多くは母岩の上に薄い表土が重なり、一般的には山の頂に近いほど表土が薄くなる。だからMONTRACHETになる。
ブルゴーニュの母岩は一般的にバジョシアンとバトニアンというジュラ紀のものである。つまり石灰岩が主岩である。たからひとくくりに石灰岩質と呼ばれる事が多い。この母岩により土地に自然な起伏が生まれ、斜面上部は表土が薄く、小石が目立ち、下部は泥灰岩層が入る。平坦部の表土は酸化鉄の多く含んだ粘土質が多くなり赤っぽくみえる。
このワインは数年前までアンリ・ジャイエという著名な醸造家によって創りだされていた。残念ながら彼は他界し現在では親戚筋にあたる人物が代わりに作っている。人は変わったが現在でも先代の醸造法を頑なに守っているようだ。
クロ・パラントゥーが生産されるのはリュシュブールの斜面に位置する。馬の背に近く北東を向いているため特に冷涼である。小石が多く粘土石灰岩質にさらに泥土が混ざっている。男はその畑が特に赤っぽく見えたことをぼんやり思い出していた。
男は昨日、日本から戻ってきたばかりだった。男はジュネーブ空港で着ていたカシミアのコートを車のトランクに放り込み、迎えに来ていた運転手にアヌシーの街に行くように告げた。空港から市街まで20分ほど掛かる。程なくして真っ白なベントレーは滑るように酒屋に横付けされ、運転手がドアを開ける間もなく男は早足で店内に入っていった。
男は日本に行く前に酒屋の店主にあるワインを探してくれるように頼んでいた。男はもし手に入るならば相場の三倍を出すと店主に約束した。店主は知り合いのワイン商やレストランのコック達に片っ端からこのワインがあるか聞いて回ったが、そんなものあるわけないといった反応がほとんどで誰も店主の話を真面目に聞こうとはしなかった。もっとも年代物のワインというものは特に当たり年のワインは値が張るがまだ市場に存在する場合がある。しかし、当たり年でないものはさっさと市場から消えてしまうからだ。
男が日本に着いてから5日目の日だった。酒屋の店主から男に電話が入った。リヨンにある小さな知り合いのレストランで1本だけこのワインがあるという。それも石造りのセラー内で定温貯蔵されていた状態のよいものだった。それをレストランでは譲っても良いという話だった。男は値段を聞くまでもなく、店主にこのワインを買うように伝えた。
男は早速酒屋の主人に代金を払い、ワインについてあれこれ説明しようとする店主の口を塞ぐようにさらに手の中にチップをネジこんだ。店主は何も言えず笑みを浮かべただその男が乗る白いルールスロイスを見えなくなるまで見ていた。
男はそのワインボトルを労るように隣のベージュ色のコノリーレザーのシートの上に寝かせ、上から小さなドキュメンケースをボトルが揺れ落ちないように被せ、運転手に注意して運転するように指示してから目を閉じた。
車はつづれ折りの山道をゆっくりと駆け上がり、雪を頂いたモンブランが遠くに見える頃にはアヌシー湖は眼下に小さくなっていた。



-つづく-



2013年11月6日水曜日

洋服について


 私はどちらかというとお洒落ではない。ブランドにもほとんど興味が無い。ではどんな服でも良いのかと問われれば否である。Tシャツ一枚でも着たくないものは着たくない。そこは頑固である。

物心ついて初めて自分の洋服を買ったのは小学生の時だった。それまでは洋服は親が用意するものを着ていたからだ。第一そんなことを言う余裕なんてなかった。初めて買った(買ってもらった)のは何の変哲もないサックスブルーのカッターシャツだった。新宿の小田急百貨店のシャツ売り場である。それ以来シャツにはうるさくなった。

高校生の頃、お洒落をしていることがかえってかっこ悪いと思うようになった。恐らく当時の高校生のほとんどが読んだであろう庄司薫の小説の影響からかもしれない。その後テレビでは主人公が裾が敗れたフレアーのジーパンに下駄、そしてカーキ色のアーミージャケットを着て吉祥寺の街を闊歩していた。田舎の高校生はその姿に憧れた。

上京してアメ横の中田商店に通った。アミーテイストが好きになったのはこの店のせいかもしれない。ただ、私には純粋な軍物よりも当時アメリカから輸入されていたカジュアルな洋服が気に入っていた。厚手のチェックウール生地で裏地にキルティングが施してあるTPOジャケットは私のお気に入りだった。その後、上野は遠くなり、渋谷に出かけるようになった。百軒店のミウラ&サンズ、公園通りバックドロップは必ず立ち寄った。パルコはまだ元気だった。

社会人になるとカジュアルな服と並行してスーツが必要になった。ほとんどは百貨店の社販で済ませたが、懇意にしていたテナントの店長から安くしてもらって気に入ったジャケットやパンツを買った。グレーフランネルのスーツやブラックタータンのパンツ、オリーブのウールギャバジンのストレッチパンツに絹と麻の混紡のトロピカルジャケットを合わせた。ジャケットもパンツもAVON HOUSEのものだった。

その後日本はバブルの絶頂期に入っていく。洋服は海外のブランド物ばかりになって、値札も10倍に跳ね上がった。この頃こうしたヨーロッパのブランド服は一切買わなかった。どう見ても似合うとは思わなかったからだ。そしてスーツのラペルの幅は猫の目のように太くなったり、細くなったりした。建築でもそうだけれども少し前に流行ったデザインというものが一番ダサい。だから流行遅れになるとそのままゴミ箱行きになる。

今好きなのはストーリーのある服。どんな人に着てもらいたいかはっきり主張する服が好きだ。フィッツジェラルドは嫌だけれどヘミングウェイには着てほしい服とか。

屋根裏にあった厚手のカーキ色のマーガレットハウエルのダッフルコートを出してみた。20年前に買ったものだ。ところどころ虫に食われているがまだまだどうしてカッコいい。
今一番欲しいのはオールデンのブーツ。
そのブーツにサンドベージュの太畝のコーディロイパンツとオフホワイトのハイネックのセーター、そしてその上にハリス・ツイードのジャケットを着て、葉山のデニーズのテラスでケルアックでも読みながら午後の曳航を楽しむ・・そう男は皆、ナルシストなのです・・





2013年11月5日火曜日

居心地の良い店 CoCoMo

このお店は大切なお店で人にはあまり教えたくないのですが、この文章を読んでくれる方ならばきっとこの店の良さが分かっていただけると確信し紹介することにしました。
この店には不思議な魅力があります。通年供される生牡蠣と白ワインが美味しいのは当たり前としてもその引力とも呼べるお店の魔法についぞ引き寄せられてしまいます。

その店の名前はココモ=CoCoMoといい、比ヶ浜海岸の真ん中134号線沿いにあります。冬場はお休みが多いの(後で分かります)でいつも振られてしまい中々入ることが出来はなかったのですが、数年前、運良く入ることが出来た初秋の夕陽に完全にノックアウトさせられてしまいました。

湘南には綺麗な夕陽を眺められる店は多くあります。この店もそんなお店の一つですが、ここの特徴は窓がいつも開け放されていることです。開け放つことの出来ない季節はクローズとなるので営業しているときはいつもオープンなのです。やや薄暗い店内と相まって、大きな木製の窓枠がまるで絵画の額縁のように前面の景色を切り取って見せてくれます。その表情は刻一刻と変化し太陽が沈み夕闇に包まれるまで続きます。先程まで砂浜ではしゃいでいた修学旅行生がいなくなり、代わって恋人たちが浜辺に座り込み、さらにその二人もいなくなり、トビが太陽の方に向かって鳴きながら去っていきます。ガラスが無いということだけでこれほど景色と自分が一体になるとは知りませんでした。

そしてこの美しい景色にマッチしたシンプルで飽きのこない牡蠣を中心とした料理もこのシチュエーションの一部のようです。

お店の内装も自然体です。新しいピカピカしたものは一つもありません。時の経過とともに自然のものが自然に帰っていくごくふつうの事がここではインテリアになっています。
店もそうならギャルソンの女の子もとても自然体です。いつも明るく海のような穏やかさで、一言二言話すうちに地元のサーファーであることがすぐわかります。目の前の海をいつも眺めながら働いていると小さなことなどどうでも良いと心の芯が太くなるのかもしれません。一本頼んだデキャンタの白ワインもなくなり、追加をオーダーしながら今週の波の話題が続きます。

昼間のサーフィンを終えて疲れた身体にこれほど癒しの空間はありません。白ワインが身体の隅々まで染み渡る頃には肩の筋肉痛もなくなり、景色は月を抱えながら夜の静寂が降りてきます。サーファーにとってこれ以上何が必要なのでしょう。