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2014年12月15日月曜日

職業に貴賎なし

私にも今思うと何て馬鹿な事を言ったのか、恥ずかしくて穴があったら入りたいようなことがあります。

小学生の頃だと思うのですが、クラスの中に家が鮮魚店を営んでいる女の子がいました。その子はいつも活発で明るい女の子でした。勉強はまあまあでしたが運動神経は良く、皆の人気者でした。私はあるとき皆で話している時に「何か魚臭くない」と言ってしまったのです。もちろん悪気があった訳ではありません。ただ、その時のあの女の子の寂しそうな目とその輪の中からいつしかいなくなっていたあの子をずっと忘れることは出来ませんでした。

それ以来、職業に貴賎なし、たとえ親がどんな職業に付いていたとしてもその事で差別するようなことはしないと思ったのです。

若い頃には色々なアルバイトを経験しました。割の良い家庭教師のアルバイトに始まり、街頭のティッシュ配り、予備校の試験官、スナックのバーテンダーなど職種は本当に様々でした。
あるとき土方のアルバイトをしている時のことです。お昼に焼肉屋さんに入ろうとするとあからさまに嫌な顔をされた事があります。確かに夏の作業で汗びっしょり、泥だらけですが、一応着替えて入ったにも関わらず、ごく普通のその焼肉屋の親父は汚いものがきたというような顔をしたのです。世の中、差別が至るところに存在するのだと怒りとともに感じたものです。

それから数十年が経過し、母校のある集まりに出向いた時のことです。私達よりずっと年上の先輩がある組織を作ったというのです。その組織に加入できる条件は「一部上場企業の部長以上の経験者に限る」と言うのです。自分が蚊帳の外ということより、いい大人がそんな条件の会を組織する、その低能ぶりに悪寒が走りました。若いころに私達を蔑視したあの焼肉屋の親父と同じ目です。隣国の人に対するヘイトスピーチと根は同じです。

そんな差別は実は日本人のもっとも得意とする「そねみ」と共通するのです。
政治家の資産公開がなされるようになりました。政治家も如何に自分の資産が少なく、庶民的であるかを装うのに躍起になっています。恐らく国民の「そねみ」を買わないためでしょう。
残念です。いつになったらこの国は賞賛の国になるのでしょう。これでは三等国とレッテルを貼られても仕方ありません。差別がなくならない限り。







2014年12月4日木曜日

好きこそものの上手なれ

 我が社のスタッフA女史が私の薦めた本を寝る前に読むとお腹が空いて困るというのである。
幸せな気持ちにはなるがどうにもこうにもお腹が空いて終いには読んだことを後悔するのだそうだ。
それは困った。確かに平松洋子女史の文章は平易でしかも写真付きであったりするので目からすっと胃の中に収まってしまう。

 ならばと私が用意したのは開高健氏のエッセイである。

 日本の文壇において氏の食と釣りに関するエッセイは三指に入ると思っている。氏は生前、物書きたるもの筆舌に尽くしがたいなど言語道断、筆舌に尽くすのだと言っている。

 氏は同時に物書きたるもの筆を錆びさせることは出来ず、味覚をペンでなぞることは勉強になると言っている。

 この辺りを勘案すると氏は自分の好きな釣りと食のエッセイを書くことで、本業の小説のためのアイドリングをしていたのではないかと私は睨んでいる。

 ヘミングウェイも同様だ。ただ、彼は本業の小説の中に己の好きなことを挿入し楽しんでいる。海流のなかの島々であそこまでマーリンの種類や生態を細く書き連ねる必要もないのに嬉々として書く。

 しかし、人間このアイドリングをしている間はストレスがなく(好きなことをしている)自由な発想が次から次へと浮かんでくるのではないか。

 この最後の晩餐とて初めは食のことを書いていたかと思えば、話はカニバリズムから秦の始皇帝に飛び最後はもうお腹いっぱいとペンを置く。

 これならば読者は食べ物の妄想にとりつかれるしまもなく読了してしまうだろう。

ただし頭の中がメリーゴランド宜しくクルクル周りマリ・アントワネットやマザーテレジアがしおからやなれずしを食べ、エスコフィがブルーストにアブ社のリールで釣り上げたあんこうのパンパンに張り切った肝を蒸し器で蒸し上げ食べるのを見て、心性のの内幕に潜む徹底的なアナキストの影に怯えていたのだとして眠れなくなっても知らない。

 土桜の名刺がしおり代わりなのはいただけない。