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2012年4月4日水曜日

塗料の話








建築関連の会社に就職したことも工学部の学生でもなかったので街づくりや建築関連の仕事をしていても中々塗装の事を勉強する機会はなかった。今回床の塗装をあれこれと試したことで塗装に興味を持ったのがはじまり。諸々と試してみた。

まず木目を出す塗料の事。無塗装の床材の場合、木目を出すためには基本的には油性の塗装を塗布してさらにその上にワックスをかける。

ヨーロッパではごく普通に売られているダーニッシュオイルというものがある。我々が手に入るものはイギリス製ただしアメリカ製でも同じ名前があるが性能が違うらしい。これをワトコオイルという。

この塗料は匂いもきつくなく木目も綺麗に仕上がるが、難点は乾くまで時間が掛ることだ。

もうひとつ代表的なのがオスモカラー。これはドイツの塗料だ。オスモの中にはラピッドという速乾性の商品があり中々使い勝手が良い。ただし、匂いがきついのと外部のデッキに塗布する塗料はすぐに硬くなって使い勝手はイマイチ。温めればいいんだけどね。

この2つとも完全な自然系(一部は防腐材は別)なのだが、日本にもワシン塗料というのがある。使い方は変わらないが、完全自然系でないらしい。

従来の古いデッキには防腐作用の高いキシラデコールを使っていたが犬の事が心配なので変えたのだ。

鉄部の塗装も一般の塗装材に加えて皹が現れるクラック塗料と言うのがある。チャイナ・クラックという塗料は皹が出来て最後に皹に着色する方法。皹も細かく綺麗だ。名前も・・・・・・

もう一つのアメリカ製の塗料は下地に色を付けてその上に皹をつくるもの。こちらはハケ目に皹が出来る。

もうひとつどんな素材もロートアイアンのように(鋳物風)なるものがある。

パンザー塗料という。これは細かい変材が塗料に入っていてニビ色になる。てからないからいい。

これはまだ試したことが無い。

もうひとつコンクリートの打ち放しは2.3年ごとに汚れを落とし撥水剤を塗り替えなかった場合、もとに戻す方法はない。

そこで長い間防水性が保て、綺麗なものにランデックスコートというものがある。オフィスの横のビルで試して3.4年になるが未だに撥水性能は落ちていない。

人が直接触れなくて、高い防錆効果の求められるものには溶塩亜鉛メッキという塗料がある。ビルの電気施設などに使われる。

また、光触媒により雨により自浄作用のある塗料。太陽の光によって硬化する塗料など様々な塗料がある。


何事も奥が深い。やってみなければ薦められないのである。

都市論 社会学





社会学の博士号を持ってらっしゃる方がFACEBOOKにおられるので大業な事は言えませんが、私は三浦氏のこの三冊は優れた本だと思っています。

ご存じのように彼は「アクロス」というマーケティング誌の編集長でした。その雑誌では「定点観測」とい決まった場所での若者のファッションを通じて、世相を分析する試みがありました。

理論的でないとおっしゃる向きもありましょうが、あるスコープを使って社会全体の傾向を考えるのはこの学問ではあながち間違っていないと思うのです。

当時のPは所沢に出店するにあたって悩んでいました。もともと都市が基盤の会社が郊外に出店する訳です。「アーバンとサバ―パン」と題して特集を組んだこともありました。

結果は見ての通りです。三浦氏が言う、郊外つまり核家族化がもたらした幸福論とは所詮絵に描いた餅である。確かにその通りです。

私のいる横浜北部などまさにこの郊外ドンピシャです。どこにいってもユニクロと家電量販店、シネマコンプレックスにフードコート・・・均質化した街です。

日曜日に青葉台の百貨店に行くとそこは高齢者ばかりです。まさに世代が固まっている状況です。

街と言うのは色々な年齢の色々な職業の人がいて面白いのにここは違います。

以前に中根千絵氏の「縦社会の人間関係」を履修したと申しました。あの本には伝統的家父長制度が根本にあり、日本的な縦社会の人間関係が作られると言う骨子のものでしたが、この郊外の現実はその家父長制度の崩壊と核家族化という変化が顕著に見られます。

しかし一方で若い人を中心に面白いムーブメントが起こっています。郊外化の象徴でもあるようなニュータウンに注目して、「ニュータウン面白いじゃん」というものです。

R不動産はネットでそんな企画を特集しています。

震災がありました。震災に限らず家父長制度から核家族化へ変容し、そして崩壊したものを再構築するそれが今の日本には必要なのだと考えます。

彼の著作「3.11以降の建築と都市デザイン」にはそんなヒントが隠されています。

シェアという言葉は住宅に限ったものではありません。幼稚園、保育園のシェア、サテライトオフィスのシェア、病院のシェア、移動手段のシェア・・・知識、情報もっともっと拡大していく可能性があるのです。

教育論 子育てが親を成長させる

娘が年頃になり、息子も大学卒業の年齢を迎え、いつ結婚話が俎上にのぼってもおかしくない我が家ですが、結婚しいては子育てはさせたいと考えています。

以前にも記しましたが、親は子供を真正面から見て育ててはいけないと。子供はそんなことをされたら委縮し矯正されてしまうからです。肩越しに親を見る程度で十分なのです。

そして必要な時に必要な分の手助けをする。植物を育てるのと同じです。太陽と水が植物を成長させる補助装置です。あくまで補助です。

教育は親であっても教師であっても贈与だと考えています。一方的に何ら報酬の無い贈与行為です。

では全く親には見返りはないのでしょうか。いえいえ、大きな見返りがあります。何故なら、子育てを通じて親は別の社会とリンクし、好き嫌いにかかわらず色々な情報に晒されて収斂していくのです。

この結果、親本人が自分だけでは手にし得なかった経験が出来るのです。

まさに子育てが親を成長させるのです。

ただ、ひとつ大切な事はその状態をいつまでも持続せず(持続させている人が多いのです)ある時期にリリースする必要があります。それが大切です。



内田先生の著書にこんな本があります。教育学の専門家ではなく、理論的整合性は分かりませんが、いつもの語り口で分かりやすく読みやすい本です。私は好きです。

私は膝を打つ文章が多かったのでここでご紹介させていただきました。

私は1年間におおい時は3ケタ分の本を買います。もちろん全て保管するには大きな本棚が必要になります。

先日、ブックオフに本を持って行ってわずかなお金をもらって、何か残念な気がしました。

そこで思いついたのが知り合いに無料で本を譲る事です。

些細な知識や情報でもこれで共有できればこれ以上幸甚なことはありません。

詳細はフェイスブックにオープンしますので本が欲しい、読んでみたいと思う方はフェイスブックを確認下さい。

知識や情報もシェアする時代です。何事も自分だけは寂しすぎますから・・・笑

2012年4月3日火曜日

失敗の本質 坂の上の雲論



80年代後半に出版されたこの本は多くの人に読まれた。史実研究というよりそのまま経営術に応用できるような内容が多かったからだと思う。

そして2012年にこんな本が中央公論の別冊で発刊された。もちろん前述の「失敗の本質」を現代風に再考し肉付けしたものである。

NHKの「坂の上の雲」を見た人はどんな感想を思ったのだろう。当時の日本人の上昇志向を心地よいと感じたのであろうか、それとも視聴率が示すように現代の凋落する日本とのミスマッチに関心を失ったのであろうか・・・

以前、司馬遼太郎氏(私も旅行鞄に忍ばせ持っていく愛読書でもある)の本がほとんど海外では翻訳されていないと聞いたことがある。

村上春樹氏はどうであろう。

私はこの二人を対比すると、明治の日本人が持っていた特殊な志向ともいうべき精神性がそのまま日本的奇異なものとして現代にも残滓しているような気がするのだ。

村上氏は優れた感性からビッグブラザーからリトルピープルへの変化を読み取っていた。全世界に共通するテーマだ。

一方、司馬氏の顕す世界はとても「日本的」特殊な世界観である。

考えてみれば旅順攻略から日本海大海戦に至る精神至上主義はそのまま太平洋戦争に受け継がれ敗戦を迎えた。

そしてその記憶も新しいうちに私たちはその記憶さえ忘れ同じ道を歩んでいる。

原発事故の対応に関する非科学主義の蔓延、組織として決められない政治体質、危機管理能力のない組織、どれをとっても何一つ変わっていない。

だから私はこの国の将来を憂うのだ。若い人の能力や感性は素晴らしい。しかし、組織やこの国の体制が成長の芽を腐らせる。

池田信夫氏が良い言葉を使っていた。「君側の奸」である。政治も官僚もこの輩が跋扈し、蔓延しているのだ。それも自身がそうであることを知らずに・・・・

就活の若者へ 適職とは

少なからず私は今就活している若者より歳をとっている。だから経験上多少のアドヴァイスは出来る。

私たちの時でも「こんなはずしゃない症候群」に罹患した人間がいて、人生をドロップアウトしていった。

もちろん経済的価値や家庭の安定が全てではないと思うが、自分を過大評価することは自らの将来を食い物にする。

そんな私より内田先生のブログに全くその通りと思う記事が載っていたのでそのまま掲載する。

就活を目指す人是非ご一読あれ。私はそう思うことで切り開きましたから・・・・・

ちなみに内田先生はブログというのは開かれたものだからと言っているのでそのままお借りしました。

もっと読んでみたい人は先生のブログに

http://blog.tatsuru.com/

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「適職」は幻想である「君、頼むよ」と言われ仕事は始まっていく


自分の適性に合った仕事に就くべきだと当たり前のように言われていますが、適職などというものがほんとうにあるのでしょうか。


僕は懐疑的です。


それは就職情報企業が作り出した概念ではないかとさえ僕は思っています。


「キャリア教育」の名のもとに、大学2年生から就活指導が始まり、その最初に適性検査を受けさせられます。これがいったい何の役に立つのか、僕にはまったくわかりません。


大学で教えている頃に、ゼミの学生が適性検査の結果が出たのだが、と困惑してやってきたことがありました。


「あなたの適職は1位キャビンアテンダント、2位犬のトリマーと出たんですけど、私は一体何になればいいのでしょう」と。


就職情報産業は学生たちを、自分には「これしかない」という唯一無二の適職があるのだが、情報が足りないせいで、それに出会えずにいるという不安のうちに置きます。それに乗じられる学生たちが僕は気の毒でなりません。


仕事というのは自分で選ぶものではなく、仕事の方から呼ばれるものだと僕は考えています。


「天職」のことを英語では「コーリング(calling)」とか「ヴォケーション(vocation)」と言います。どちらも原義は「呼ばれること」です。僕たちは、自分にどんな適性や潜在能力があるかを知らない。でも、「この仕事をやってください」と頼まれることがある。あなたが頼まれた仕事があなたを呼んでいる仕事なのだ、そういうふうに考えるように学生には教えてきました。


仕事の能力については自己評価よりも外部評価の方がだいたい正確です。頼まれたということは外部から「できる」と判断されたということであり、その判断の方が自己評価よりも当てになる。


「キャリアのドアにはドアノブがついていない」というのが僕の持論です。キャリアのドアは自分で開けるものではありません。向こうから開くのを待つものです。そして、ドアが開いたら、ためらわずそこの踏み込む。


消費者マインドを就職に持ち込まない




労働市場における「適職」という語の意味は、意地悪く言えば、「自分が持っている能力や素質に対していちばん高い値段をつけてくれる職業」のことです。とりあえず今はそういう意味で使われている。最も少ない努力で、最も高い報酬を得られる職種を求めるのは、消費者にとっては自明のことです。いちばん安い代価でいちばん質のよい商品を手に入れるのが賢い消費者ですから。


その消費者マインドが求職活動にも侵入している。


でも、「費用対効果のよい仕事がいちばんいい仕事だ」というロジックを推し進めれば、ディスプレイの前でキーボードを叩くだけで何億円も稼ぐような仕事がいちばん「賢い」仕事だということになります。
でも、「仕事をする」というのは「手持ちの貨幣で商品を買う」ことではありません。


それはむしろ、自分がいったい何を持っているのかを発見するプロセスなのです。


(つづく)





facebookとblog

両方ともやってみて、この二つは若干差があると思います。始める前に友人のO氏がフェイスブックはブログとツィッターの間くらいかなと言っていたのを思い出します。

ツィッターがその時のつぶやきで消えていくのに対して、フェイスブックはもう少し長い時間情報は留まります。しかし、多くの友達が増えればその帯=バンドは次第に薄れていき、情報の海に埋没します。

ブログはさらにこれよりも存在時間が長く、フェイスブックより情報の交換が少ないだけに過去から未来まで自分が書いてきたものが残ります。

自慢じゃありませんが友達の少ない私がフェイスブックしてどうなるんだろうと思いましたが、使い方を間違えなければこれはこれで日々の日記として使えます。

フェイスブックで情報の公開に不安がある人は非公開にすれば出来ますし、匿名性でないことが間違った情報や誹謗中傷という悪い情報を排斥し浄化するのでしょう。

私は日々の出会い(物、事、人)はフェイスブックに書き込み、もう少し考えて自分の頭に貯めて整理した情報をブログに書くようにしています。

ですから是非フェイスブックの方も覗いてみてください。

今日も犬ともから戴いたレオンベルガーのボトルと青い玉子の事はフェイスブックに載せました。

フェイスブックやグーグルが進めている個人化については一定のリテラシーと最後の一歩を持ちながら俯瞰する必要はあります。

2012年4月2日月曜日

日本人の美意識 残花・余花




家の近くの早咲きの桜が満開です。ユキヤナギと桜が一斉に花をつけました。

俳句をなされる方はご存知と思いますが、残花といったら春、余花といったら夏の季語です。

過ぎ行く季節の移ろいを二度楽しめる日本人ならではの発想です。

桜の花を時の流れに乗って観察する、そんな日本人の豊かな感性は捨てたものではありません。

ところで今いきたい展覧会があります。

上野の国立博物館で開催さている「ボストン美術館 日本の美術の至宝」です。

国立博物館は息子が小学生の頃、友達数人を引き連れて訪れていました。歴史の実施勉強です。

金印や仏像を見せながら教科書の歴史をインプットの強化するためでした。まあ効果はあったようですが・・・・

ご存知のように日本最古のマンガは「鳥獣戯画図」と言われていますが。

この作品の中に、曽我蕭白の「雲竜図」なるものがあります。実はこの作品も仕掛けがしてあって、

実際に目で見た通りではなく、ある部分を強調し、再構築する技法が使われているのです。

これはシュールレアリズムのピカソやダリのものとも近いのです。

我々日本人はこういった素晴らしい複眼的思考をもともとは持っていたのではないかと思います。