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2012年5月9日水曜日

好きな街  Hongkong

まだ啓徳空港だった頃、飛行機はビルすれすれにこの空港に舞い降りた。世界でももっとも離着陸の難しい空港だという。

飛行機はBAの経由便だったために3時間近くデレイトして空港に着いたのは10時近かった。

香港島から九龍に向かうにはフェリーか海底トンネルになる。

この時はトンネルだったが、フェリーで九龍の灯りが徐々に大きくなるその光景はこの街に来た実感が増す。

いずれ壊される予定だと言う九龍城は明かりもなく、入り口を閉鎖されていてまるで巨大な怪物を動けないように雁字搦めにしているようだった。

ブレードランナーに出てくる近未来の世界は香港そのものだ。新しさと古さがごちゃまぜになり、どことなく湿った雨の匂いを感じさせる。

香港に来て3回目の時、鳥籠を通りのあちこちで売っている所にいった。階段を上りその通りに出た。するとさっき通り過ぎたはずの街の景色がまた広がった。既視感。

この街の色は晴れていても、鮮やかではない。どこかピンボケしたようなデイドリーム。通りで大きな牌で麻雀をしている人達も向う側にある。

そのくせ夜になるとそのくすぶっていた色とは裏腹に原色の世界になる。強烈でどぎつさはどこか人間の欲望に似ている。

この街の不思議さに魅せられて1年間に3回も訪れた事があった。

中国に返還されてからは一度もいっていない。




好きな街  NY

私は街が好きだ。喧騒と街の息遣いが感じられるようなそんな街が好きだ。夜、一人で放り出されるとそのカオスの中で方向感覚を見失うようなそんな街が好きだ。

まだワールドトレードセンターのツインビルが存在していた頃、ニューヨークの分水嶺=watershadwである初夏のシラキュースの上空を通過してJFKに降り立った。

空港の施設は古びていて、空港内の荷物用カートも鈍色の傷だらけの物が散乱していた。

しばらく前にこの空港を舞台にしたターミナルという映画を観たが、この時のJFKは時代の疲れを一気に背負っていた。

タクシーはマンハッタンを結ぶ橋の上を走っていた。対岸のレンガ造りの建物のペントハウスにはサマーベッドとパラソルが用意され、主人の帰りを待っているようだった。

日はいよいよ西に傾き、ガラス張りのビルを橙色に染めて漆黒の夜に姿を変えて行った。

私はインド人の運転手礼を言い、ほんの少し多めのチップを渡した。

私の泊ったホテルは前の方の建物こそはネオゴシック様式で、蛇紋岩の柱にレリーフが施され荘厳さを醸し出していたが、宿泊する建物は構想のタワービルで薄っぺらい内容のホテルだった。

エッグベネディクトは1920年代にこのホテルのレストランで二日酔いの常連客に出したのが始まりだったと何かの本に書いてあった事を思いだした。

翌日は真夏のような天気で、街を歩く人は上半身裸の人までいるくらいだったが、この熱気は今日がプエルトリカンの祝日であることも加わっていた。

この日ばかりは警察も大目に見ているのか、街の中では派手なクラクションを鳴らしながら、国旗を靡かせて通り過ぎる車も多かった。

セントラルパークの木陰で涼をとりながら通りに目をやるとパレードが始まったようだ。

沿道は多くのヒスパニック系の人々で埋め尽くされ既に立錐の余地はなかった。そんな中、いかにも場違いのサイクルウェアに身を包んだアングロサクソンのカップルが無理に自転車でその群集を横切ろうとするので、群衆から野次が飛んでビールをかけられていた。

夜半までその熱気は続いた。

私はグランドセントラル駅まで歩いた。この駅はニューヨークで好きな場所である。以前この駅を題材にクロッシングという小説を書いたことがある。この駅は人種の交差点である。白人もいればアフリカ系黒人、ヒスパニック、アジア人・・教科書で習った人種の坩堝である。

日本の駅と違うところはその天井の高さだ。アーチ型をした天井は高く、綺麗な曲線を描いている。

靴磨きの黒人と目があった。黒人は笑いながらまたくるりと向きを変え、関係ないねといった顔をしていた。

私の脚元はキャンパスのスニーカーだったからだ。良く見てみるとキャンパスの時代遅れのスニーカーを履いているのは私ぐらいなもの、そもそもスニーカーの人が少ない。

ダコタハウスについたのはその翌日だった。







2012年5月8日火曜日

脳と意識の時間

私の会社では毎日一人サマータイムを実施しているので今のような朝陽が早く昇る時期には6時前にオフィスにいます。たまったメールの処理やスケジュールを確認したりしますが7時過ぎにはひと段落します。そしてしばし好きな音楽を掛けて読書の時間です。

新しい本を読むことも良いのですが、以前読んだ本ほもう一度読み返してみるというのも案外面白いものです。

私自身が一度脳に得体のしれないものがあると宣告され、当時はこれゃ参ったなという心境でしたが、あろうことかどうやら先天性のものらしく、その後何事もなく「経過観察」(これ重要な診断なんですよ)で何事もなく過ごしています。

私の場合は第4脳室の奥にあり、開頭の出来ない場所でしたから腫瘍であったら今はこんな事も書けなかったでしょうが・・・・

そんなこともあり、第二の宇宙とも呼べる人間の脳について興味を持ち、いくばくかの書籍を買い読みました。

高校の親友は脳外科を生業としており、当時は多い時は毎週のように開頭手術していました。

彼によると脳には血管が無く、開頭してもほとんど出血はないそうです。

今読んでいる本はこの「マインドタイム」というベンジャミンリベット氏が書いた本です。

彼はUCLAの生理学科の名誉教授で文字通り脳と意識の関係について研究した内容の本です。

冒頭でデカルトの「我思う故に我あり」を引用し、絶対的に確信できる唯一の経験つまり主観的経験さえも歪みが生じ、伝播される時間に差が生じると述べています。

このような無意識の脳の活動は何に由来し、どのような役割を持っているのか本書の中で述べられています。

つまり生体器官としての脳は私達の意識より先にある仕事を済ませていると言う筆者の洞察です。

さらにニューロンから伝達される電気的刺激がてんかんの発作を起こし、また一方でこの作用の不具合が自律神経失調症や不定愁訴の原因であるとも生理学的な説明がなされています。

現代人は心が病んでいると言われますが、この本を読むと「脳の基序がうまくいっていない、生体的特徴」と理解できます。

生理学的知識も分子生物学の発展と共に大きく変わりました。今まで実験さえ出来なかったものも最新のコンピューターと理論によって検証する事が出来るようになったからです。

こんなサマータイムの有効利用も如何でしょう??

2012年5月7日月曜日

貧相な英語

私も含めて大方の日本人は英語と言う教科は勉強してもいざ使うとなると貧相な英語しか話せません。私なんぞ無理して話す事はとっくにお仕舞いにしております。

一部の海外経験の多い人や、仕事で英語を使っている人を除いては止めておいた方が良いと思う事多々あります。

カパルアビラの宿泊者は以前はカパルアベイホテルのプール、そしてリッツカールトンが出来てからはリッツカールトンのプールを使うことが出来たのに今年から使えなくなったようでする。

そういえば、サンセイという日本食レストランに派手なゴルフウェアに金色のネックレスをしたチンピラもどきの日本人が4.5名で場所柄もわきまえず大声で馬鹿話をしていた事を思い出しました。

我々はテレビや映画の影響で俗語をよく耳にします。しかし、大方の俗語は使い方を間違えると一発退場の危険性を孕みます。

流暢にしゃべろうとするあまり語彙の少なさをそうした口語でカバーしようと無理な貧相な英語になってしまうのです。

英語を使える人というのはきちんと自分の意思表示が出来ます。一言一言単語を選んで相手に伝えます。相手が理解しているどうかもきちんと確認しながら話を進めるのです。

数年前にSパパが旅籠の親父をやっているときに一緒にシンガポールに行った際にも、現地の華僑に対してきちんとこの作法で英語で話していた事を思い出します。

もちろんプライベートクラブのバーでは日本語で大声など出しません。日本人同士でもその時は英語で会話していたくらいでした。

自分の主張をするということは大切です。しかしながら郷に入らば郷に従うの例え通り、こちらが相手の文化を理解せずに土足でづかづか踏み込めばトラブルになる事は必至です。

物事の表層しか判断しない人の多くはこの手の礫を食らうことになるのです。



2012年5月5日土曜日

写真について

カメラの雑誌をパラパラめくる私に対して息子はこういう。「カメラ好きのふりしているね」

まさに痛いところをつかれている。


私はスーザンソンダクの「写真論」を読んで以来、その内容は「ドイツ人、日本人、アメリカ人にとってとりわけ都合がよい写真を撮るという作業は、何かしていなければ心配で仕方のない国民を安心させる・・・・・実際に目で観ることを放棄している」とまで言われてしまっては、私が写真にのめり込むことは出来なくなったのである。

さらに木村伊衛兵の写真はすぅーとあらわれてパチリと撮ると言われている。あれこれと機材を変えて商業写真をスタジオで撮るのとは正反対である。

だから私は出来るだけ安直で簡単なカメラを持って旅行に出る。娘や息子の運動会もソンダクの影響からかカメラを持たずにこの目に焼き付けようといきがっていた。

そんな私がレンズを5種類もそろえた、さらにコンバーターも追加した。

プロのカメラマンがF値、シャッタースピード、ISOの相関関係が分かれば良い写真が撮れると言っていた。一応高校の時の物理の成績は80点以上だったので、論理的には分かる。

感度がよく明るくなればシャッタースピードが上げられる代わりにノイズが発生する。一方、シャッタースピードを遅くすれば手ぶれが生じる。さらに望遠にすればF値は大きくなるなど理解はできるのだが、いざマニュアルで設定して取ろうとするとすでにその被写体はなくなっている。そうチャンスが逃げていくのである。

いきつくところ、カメラ好きのふりをするのはやめてチャンスに期待するカメラマンになろうかと、そうレンズも変えずに一つのカメラでチャンスのみ追求する・・・段々、自分のカメラスタイルが見えてきた??いや、最初から見えていた・・・・


2012年5月3日木曜日

誇らしいような残念なような

自分が気に入っていてもあまり人には話さなかったことが、新聞やテレビに取り上げられたりするとちょっと誇らしいような、反面残念なような気持になります。

昨日テレビでベイサイドマリーナの「ノア」を特集していました。あのお店、実は大好きな場所で、ベイサイドマリーナに行っても何も買わずにこの店だけ見てくることもあります。

扱っている動物の多さもさることながら、ただ見るだけでなく動物によっては触れるところも好きな点です。

動物全般好きなのですが、特に好きなものが川獺です。

私が幼い頃過ごした街には小さな動物園があり、子供にはゾウやトラなどの良く知られた大きな動物が人気でした。そんな隅っこの方にカワウソは展示さていました。

今では絶滅したニホンカワウソが小さなコンクリートのプールと岩陰の部屋の中で一生懸命に魚を食べていたのをずっと見つめていました。

小学校の時にこのカワウソを絵に描いたこともあります。先生に「地味だな」と言われたことを今でも思い出します。

そんなカワウソもここにはいます。もちろんニホンカワウソではなく、コツメカワウソです。フクロモモンガのようにこのカワウソも本当に飼育しようと思ったこともあります。

ここには犬好きにはたまらない世界最大のアイリッシュウルフハウンドもいます。テレビでも紹介されていましたが大きさに似ず、とても甘えん坊でちょとシャイなかわいい子です。

今朝の内田先生のブログにも「忠臣蔵のドラマツルギー」として使われていた、このドラマツルギーという言葉はもともとはドラマの制作手法という意味合いでしたが、社会学の分野では日常の相互作用を扱う微視的社会学の中での観察方法としても使われます。

私が「ノア」を好きなのも、「カワウソ」が好きなのも、このドラマツルギーとして共通しているものは厭世観かもしれません。

齢、艾年を過ぎ、大人がやってはいけないことは、子供にこうだと決めつけることです。特に小さな子供に。

大好きだった絵が嫌いになったのも私の場合にはそれでしたから、ですから子供にこうせいああせいということは避けています。

価値観は多様です。それなのに今の日本はそれを認めず価値観が膠着するそんな印象をぬぐえません。

動物を見ていると本当に色々な種類があり多種多様性を考えさせられます。

そうそうRママが家で見かけたという猛禽類のチョウゲンボウもここでは売っています。ハヤブサとともに・・・でも一目でよくチョウゲンボウと分かりましたね、さすがRママ、色々な動物を飼っていることだけはありますね。

ピグミーハリネズミ、フェネック、ピグミースローロリス、シロフクロウ・・・一度は飼ってみたい・・・・・・

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東名高速と保土ヶ谷バイパスの渋滞マークで第三京浜を使って湾岸線で鎌倉に向かいます。

途中、杉田のあたりでも渋滞もなく生憎の空模様なのでちょっと寄り道!!!

目指すはベイサイドマリーナ・・・私は船持っているので(笑)手前の駐車場に案内されここでも渋滞は皆無!!!???

コツメカワウソはへそ天で寝ています!!かわいすぎ!!











2012年5月2日水曜日

横断的思考

現在読書中と読後の本である。私達が高校生の時の生物学はやっとクリックとワトソンの2重ラセンなるDNAの構造が紹介されている程度で、今の教科書においてDNAやRNAなど分子生物学の紹介される範囲の広がった事は驚きである。

だからせっせとその手の本を買っては今の高校生に負けじと本を読むのである(笑)

オーサグラフの開発者で建物の構造計算者でもあり、設計家でもあるN氏が面白い事を言っていた。

「宇宙物理学もそうでしょうが、生物(人体)はパラメーターが多く研究しかいがあるのでは」と・・・

確かに分子生物学の分野の発展はめざましく、同時に物すごい量の情報を包含した。もちろんパラメーターも物凄く多くなったのだ。



しかしながら生命の設計図などと簡単に説明されては困るというのが本書である。

長らく理研に在籍し現在は東京大学に戻り駒場の銀杏並木を見ながら暮らしている著者はDNAは自己変革するという。鴨長明に照らしてその有様は「無常」でありつねに移ろい続けていると言う。

文章は平易で分かりやすい、専門家でなくてもすらすら読める。さらに最終章の近くでは生物学的にもデフレは発展を妨げるとそこらへんにころがっている駄経済学者に読ませたい文章まで書いている。

レビィナスまで言及するのはどうかと思うが、レビィナスを知らない文系の人には慧眼であろう。



もう一冊の「誘惑される意思」はしばらく前に話題になった本である。人は何故不合理な行動を撮るのか、そのことを双曲線に基づき説明されている。

たばこは体に良くないと分かっているのに止められないとか、ギャンブルは負けることが分かっているのに同じく止められないといった行動を分析する。

個人的にはそういった事も集団行動を全体のインフルエンスと考えると波動的関数によるデポケットなのではと考えるのだが皆さんはどうだろう。

幸い家の近くの本屋はとても変人で(ごめんなさい評価しているのですよ)みすず書房のコーナーを設けて特集をしている。

誰が買うのか分からないがこんな変な本屋がある事が私には嬉しい。


この本の横にCPスノーの「二つの文化と科学革命」が並べられていたのは、私が30代にこうした人文科学系の本を読むきっかけとなっただけに何か因縁を感じるのだ。

もちろんこちらは重版である。