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2012年5月14日月曜日

縁とは

大学のゼミのOB会がありました。30年以上続いている稀有な存在です。先生のご健康のお陰と感謝しております。

その先生が現役で私達を教えている時も良く口癖のように良く使っていた言葉があります。

それが「縁」です。

考えてみると結婚したのも、子供達が生まれて育っていたのも、犬を飼ったのも全て「縁」です。

何かの「縁」が無ければ一生出会うことの無かった人同士がこの「縁」によって結ばれます。

探してみるとこの「縁」は毎日、どこでも、あちらこちらに存在しています。

若い時分にはそんな事考えたこともありませんでしたが、40歳を過ぎてつくづく感じるようになりました。

今こうしていられるのも、この「縁」のお陰だとしみじみ感じます。

私がMBAの取得を真剣に考え、英語の履歴を書いていたときにある人が「そんなことしても意味がないし、遊べなくなっちゃう」と言ったことがきっかけで辞めました。辞めた代わりにとても貴重な経験を沢山することが出来ました。物事の選択でした。

また、ビジネスにおけるオフバランスの感覚の大切さも教えてもらいました。これは同時にサンクコストの意識も教えてくれました。これ以来、物は持つものでなく使うものだと考え方が大きく変わりました。

息子の学校の先生もそうでした。中学2年生にウォーラーステインやスーザンソンダクを教えてどうなるのかと思いましたが、教えなければ成長する芽も成長しないし、全てに同じ栄養を効率よく与えることが教育ではないということも教えてもらいました。

こうした多くの「縁」によって日々生かされているというのが実感です。

歳を取った時に若い時の苦労を苦労として思い出すのではなく、その苦労が今の自分を作った良い経験だったと思えるようになりたいものです。

柄にもなく、現役の子育て奮闘中のお母様に偉そうな事を言ってしまいましたが、こちらとてまだまだ成長過程、若輩の身なのであります。ご勘弁下さい(笑)

先生の教えて戴いた「縁」をしっかり守って育てて行きたいものです・・・・・・



2012年5月11日金曜日

MY ALBUM

皆さんはアルバムを何冊くらいおもちですか?我が家には50冊近いアルバムが本棚の最上段で埃を被って眠っております。
何処の家庭でも最初の子の方が写真が多くなるたとえの通り、我が家でも長女の写真が多いようです。
考えてみるとこのアルバムは結婚してからのもので、私達の幼い頃の物は実家においてあります。

結婚と言うひとつの儀式を契機に自分たちの人生をリスタートさせたのかもしれませんね。

つまりはこれらのアルバムは私達夫婦のものであり、子供達のそれではないのです。子供達は自分たちも新しいアルバムを作って行かなければならないのです。

最近では重くて嵩張るアナログの写真より、デジタル化が叫ばれ全ての写真がPCの中で管理できるようになりました。
時系列に検索すればあっという間に写真を取り出すことも出来ます。さらにクラウドを使えはその写真を数人で共有したり、いつでも見ることが出来ます。

そんな古くて重いアルバムを見ていると私達の尖がった顔も大分丸くなった(物理的には十分丸いですが・・笑)ようですが、若い時に世間全体を敵に回しても自分の考えを貫いていた鋭い眼光は多少穏やかになったにせよ、相変わらず反骨の精神は残っているような気がします。

今日、糸井さんのブログ(愛読者ですので)に「30才位までは少年のようなと言われても良いが、それ以上の年になってまだ少年のようなという形容をされたら、それは自立していない、危なげなことである」と否定的に書かれていました。

そうでしょうか、丸山眞男がいうように日本人は多分に「動機の純粋性」好むの例え通り、感情的な正しさを優先させます。昨今の原発廃止論などまさにその通りです。動機が純粋なら、経済性も、法理性も無視しても良いと考える訳です。池田信夫氏はこれを「福島みずほ化」と読んでいました。(笑)

確かに動機の純粋性のみで感情鼓舞するのは間違いです。そうではなく、大人になると見えなくなる何かをインスピレートすることです。

少年っぽいとは見掛けや、スタイルの事ではありません。そんなインスピレートを大切にして、自分の考えを持つことです。そして周りに迷惑を書けない、それが本当の大人の少年っぽさではないでしょうか。

幸いな事に私の周りには60歳を過ぎてもそうした大人の少年っぽさを持っている人が多くいます。

私もそうした大人の少年っぽさを失わない老境を迎えたいものだと考えています。

2012年5月9日水曜日

好きな街  Paris

ヨーロッパの街はどこも歴史的すぎて私達を容易に受け入れてくれない。

パリを訪れたのは仕事の商材を集めるためだった。私は妻の用心棒といったところだ。

パリにはその後1年に1.2回は出掛けるようになった。お店を辞めるまで5.6年通い続けた。

最初にパリに着いて向かったのはモンマルトルの坂の途中にある小さなホテルだった。

重い荷物を石畳の階段を引ずるようにしてそのホテルまで運んだ。

ホテルはレストランもない小さなもので、部屋にはスーツケースを入れると動き回れるスペースもなかった。

このホテルは画家たちが集まり、アトリエとして使われていたと表の看板に書いてあった。

ユトリロやロートレックと同じように、小さな部屋の窓からモンマルトルの坂を行き交う人の姿が良く見えた。

季節は9月の末だと言うのに異常気象の影響からか、夏のような暑さで、昼間は半袖でも暑い位だった。

私が階段のベンチに腰をおろして妻を待っていると、階段の下の方から身長は2メートルを超えるような真っ黒な大男が近づいてきた。

一瞬身構えたが、その男は私に握手を求めてきた。男はセネガルから出稼ぎにやってきているようだった。すぐしたのレストランで下働きしているので遊びに来るように誘ってくれたのだ。どうやら日焼けしてぐたぐたのコートを羽織った私も同様の出稼ぎと間違えたようだった。

モンマルトルという駅は無い。一番近いのがアペスという駅だ。

駅とは反対側に坂を上って行くとサクレクール寺院がある。高台の広場は画家たちが思い思いの絵を描いて観光客に売っていた。

ここからパリの街が一望できる。パリの街には様々な形のチムニーが屋根に張り付いている。

パリの屋根が見えるのだ。

坂の下にはぶどうの栽培をしている畑が広がっている。ワインの国といっても街中でブドウの栽培をしているところは少ない。

その後もっと高級で立派で快適なホテルに泊まったがこの最初のホテルが一番印象深い。







好きな街  Hongkong

まだ啓徳空港だった頃、飛行機はビルすれすれにこの空港に舞い降りた。世界でももっとも離着陸の難しい空港だという。

飛行機はBAの経由便だったために3時間近くデレイトして空港に着いたのは10時近かった。

香港島から九龍に向かうにはフェリーか海底トンネルになる。

この時はトンネルだったが、フェリーで九龍の灯りが徐々に大きくなるその光景はこの街に来た実感が増す。

いずれ壊される予定だと言う九龍城は明かりもなく、入り口を閉鎖されていてまるで巨大な怪物を動けないように雁字搦めにしているようだった。

ブレードランナーに出てくる近未来の世界は香港そのものだ。新しさと古さがごちゃまぜになり、どことなく湿った雨の匂いを感じさせる。

香港に来て3回目の時、鳥籠を通りのあちこちで売っている所にいった。階段を上りその通りに出た。するとさっき通り過ぎたはずの街の景色がまた広がった。既視感。

この街の色は晴れていても、鮮やかではない。どこかピンボケしたようなデイドリーム。通りで大きな牌で麻雀をしている人達も向う側にある。

そのくせ夜になるとそのくすぶっていた色とは裏腹に原色の世界になる。強烈でどぎつさはどこか人間の欲望に似ている。

この街の不思議さに魅せられて1年間に3回も訪れた事があった。

中国に返還されてからは一度もいっていない。




好きな街  NY

私は街が好きだ。喧騒と街の息遣いが感じられるようなそんな街が好きだ。夜、一人で放り出されるとそのカオスの中で方向感覚を見失うようなそんな街が好きだ。

まだワールドトレードセンターのツインビルが存在していた頃、ニューヨークの分水嶺=watershadwである初夏のシラキュースの上空を通過してJFKに降り立った。

空港の施設は古びていて、空港内の荷物用カートも鈍色の傷だらけの物が散乱していた。

しばらく前にこの空港を舞台にしたターミナルという映画を観たが、この時のJFKは時代の疲れを一気に背負っていた。

タクシーはマンハッタンを結ぶ橋の上を走っていた。対岸のレンガ造りの建物のペントハウスにはサマーベッドとパラソルが用意され、主人の帰りを待っているようだった。

日はいよいよ西に傾き、ガラス張りのビルを橙色に染めて漆黒の夜に姿を変えて行った。

私はインド人の運転手礼を言い、ほんの少し多めのチップを渡した。

私の泊ったホテルは前の方の建物こそはネオゴシック様式で、蛇紋岩の柱にレリーフが施され荘厳さを醸し出していたが、宿泊する建物は構想のタワービルで薄っぺらい内容のホテルだった。

エッグベネディクトは1920年代にこのホテルのレストランで二日酔いの常連客に出したのが始まりだったと何かの本に書いてあった事を思いだした。

翌日は真夏のような天気で、街を歩く人は上半身裸の人までいるくらいだったが、この熱気は今日がプエルトリカンの祝日であることも加わっていた。

この日ばかりは警察も大目に見ているのか、街の中では派手なクラクションを鳴らしながら、国旗を靡かせて通り過ぎる車も多かった。

セントラルパークの木陰で涼をとりながら通りに目をやるとパレードが始まったようだ。

沿道は多くのヒスパニック系の人々で埋め尽くされ既に立錐の余地はなかった。そんな中、いかにも場違いのサイクルウェアに身を包んだアングロサクソンのカップルが無理に自転車でその群集を横切ろうとするので、群衆から野次が飛んでビールをかけられていた。

夜半までその熱気は続いた。

私はグランドセントラル駅まで歩いた。この駅はニューヨークで好きな場所である。以前この駅を題材にクロッシングという小説を書いたことがある。この駅は人種の交差点である。白人もいればアフリカ系黒人、ヒスパニック、アジア人・・教科書で習った人種の坩堝である。

日本の駅と違うところはその天井の高さだ。アーチ型をした天井は高く、綺麗な曲線を描いている。

靴磨きの黒人と目があった。黒人は笑いながらまたくるりと向きを変え、関係ないねといった顔をしていた。

私の脚元はキャンパスのスニーカーだったからだ。良く見てみるとキャンパスの時代遅れのスニーカーを履いているのは私ぐらいなもの、そもそもスニーカーの人が少ない。

ダコタハウスについたのはその翌日だった。







2012年5月8日火曜日

脳と意識の時間

私の会社では毎日一人サマータイムを実施しているので今のような朝陽が早く昇る時期には6時前にオフィスにいます。たまったメールの処理やスケジュールを確認したりしますが7時過ぎにはひと段落します。そしてしばし好きな音楽を掛けて読書の時間です。

新しい本を読むことも良いのですが、以前読んだ本ほもう一度読み返してみるというのも案外面白いものです。

私自身が一度脳に得体のしれないものがあると宣告され、当時はこれゃ参ったなという心境でしたが、あろうことかどうやら先天性のものらしく、その後何事もなく「経過観察」(これ重要な診断なんですよ)で何事もなく過ごしています。

私の場合は第4脳室の奥にあり、開頭の出来ない場所でしたから腫瘍であったら今はこんな事も書けなかったでしょうが・・・・

そんなこともあり、第二の宇宙とも呼べる人間の脳について興味を持ち、いくばくかの書籍を買い読みました。

高校の親友は脳外科を生業としており、当時は多い時は毎週のように開頭手術していました。

彼によると脳には血管が無く、開頭してもほとんど出血はないそうです。

今読んでいる本はこの「マインドタイム」というベンジャミンリベット氏が書いた本です。

彼はUCLAの生理学科の名誉教授で文字通り脳と意識の関係について研究した内容の本です。

冒頭でデカルトの「我思う故に我あり」を引用し、絶対的に確信できる唯一の経験つまり主観的経験さえも歪みが生じ、伝播される時間に差が生じると述べています。

このような無意識の脳の活動は何に由来し、どのような役割を持っているのか本書の中で述べられています。

つまり生体器官としての脳は私達の意識より先にある仕事を済ませていると言う筆者の洞察です。

さらにニューロンから伝達される電気的刺激がてんかんの発作を起こし、また一方でこの作用の不具合が自律神経失調症や不定愁訴の原因であるとも生理学的な説明がなされています。

現代人は心が病んでいると言われますが、この本を読むと「脳の基序がうまくいっていない、生体的特徴」と理解できます。

生理学的知識も分子生物学の発展と共に大きく変わりました。今まで実験さえ出来なかったものも最新のコンピューターと理論によって検証する事が出来るようになったからです。

こんなサマータイムの有効利用も如何でしょう??

2012年5月7日月曜日

貧相な英語

私も含めて大方の日本人は英語と言う教科は勉強してもいざ使うとなると貧相な英語しか話せません。私なんぞ無理して話す事はとっくにお仕舞いにしております。

一部の海外経験の多い人や、仕事で英語を使っている人を除いては止めておいた方が良いと思う事多々あります。

カパルアビラの宿泊者は以前はカパルアベイホテルのプール、そしてリッツカールトンが出来てからはリッツカールトンのプールを使うことが出来たのに今年から使えなくなったようでする。

そういえば、サンセイという日本食レストランに派手なゴルフウェアに金色のネックレスをしたチンピラもどきの日本人が4.5名で場所柄もわきまえず大声で馬鹿話をしていた事を思い出しました。

我々はテレビや映画の影響で俗語をよく耳にします。しかし、大方の俗語は使い方を間違えると一発退場の危険性を孕みます。

流暢にしゃべろうとするあまり語彙の少なさをそうした口語でカバーしようと無理な貧相な英語になってしまうのです。

英語を使える人というのはきちんと自分の意思表示が出来ます。一言一言単語を選んで相手に伝えます。相手が理解しているどうかもきちんと確認しながら話を進めるのです。

数年前にSパパが旅籠の親父をやっているときに一緒にシンガポールに行った際にも、現地の華僑に対してきちんとこの作法で英語で話していた事を思い出します。

もちろんプライベートクラブのバーでは日本語で大声など出しません。日本人同士でもその時は英語で会話していたくらいでした。

自分の主張をするということは大切です。しかしながら郷に入らば郷に従うの例え通り、こちらが相手の文化を理解せずに土足でづかづか踏み込めばトラブルになる事は必至です。

物事の表層しか判断しない人の多くはこの手の礫を食らうことになるのです。