宇沢弘文と言う経済学者を知ってますよね・・・この人の著作は数あれど、「自動車の経済学」という本は素晴らしい、簡単に言ってしまえば自動車を持つと言う事は「不経済」なのです。
それまでどういう風に車を所有して、減価償却をどうするか、ガソリンの消費量はどうなのかなど自分で試算し、合理性を求めていましたが、どんな事をしたって「不経済」なのですから、そもそものルーツが間違っている訳です。
それ以来自動車は趣味、燃費がどうだとか、経済性がどうだとか考えない、つまり自分の好きなものに乗れば良いと考えるようにしたのです。
21世紀に入ってインターネットの普及によりポーターレス化が進み、情報量は飛躍的に増しました。
しかし、そのことで我々は間違った情報取得をしているケースも多いのではと考えてしまいます。
アルゴアの「不都合な真実」が上梓されたとき、誰もがエコロジー、エコロジーとおおはしゃぎしました。ところが蓋を開けてみるとその事実は「作られたもの」だったり、人々の不安を煽るもので科学的根拠のないものだったりしたのです。
確かにこのまま人間が自然に対して傍若無人に振る舞うことは許されないでしょう。ただ、人間の不安心理を煽ってカルトと同様な危険思想をマスコミが流布する事はもっと悪いことです。
丸山眞男をここ数年読み返していますが、彼が言った日本人の「ヨイココロ」とは裏返せば科学的検証も無しに「ヨイココロ」はそれら論理性の上段に位置し、全てを飲みこむものです。
池田信夫氏も言っていましたが、特攻精神もその顕われでしょう。
断っておきますが私は原発依存派ではありません。原発は将来において別のエネルギーに変えるべきでしょう。ただ、ヒステリックに今すぐやめろとか、事故直後にマスコミに登場し、自分の子弟をすでに国外に退避させていると言った輩のように蛮行はしません。
エコとは企業戦略です。皆さんはその事をご理解されていますか。エコカーと言えば売りやすい、燃費が良いと言えば売りやすい、ただそれだけです。
本来なら一つの車を大切にして何十年も乗っている事がエコなのです。燃費の差なんて車本体のエコ係数にくらぶれば僅かなものです。買い変えないのが一番エコなのは一目瞭然なのにです。
ここまでお話すれば、如何に私達は企業とマスコミに踊らされているか良くお分かりになるかと思います。
エコと言う企業戦略、そして合理性の追求が我々の生活をつまらない、均一なものにしようとしているのです。
まあ、私がハンドルを握れるのはあと15年程度でしょう。エコカー以外の重量税が2倍に跳ね上がっても、へそ曲がりの私はエコじゃないと指さされようとも気にしませんが・・・・・・・・・
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2012年5月14日月曜日
縁とは
大学のゼミのOB会がありました。30年以上続いている稀有な存在です。先生のご健康のお陰と感謝しております。
その先生が現役で私達を教えている時も良く口癖のように良く使っていた言葉があります。
それが「縁」です。
考えてみると結婚したのも、子供達が生まれて育っていたのも、犬を飼ったのも全て「縁」です。
何かの「縁」が無ければ一生出会うことの無かった人同士がこの「縁」によって結ばれます。
探してみるとこの「縁」は毎日、どこでも、あちらこちらに存在しています。
若い時分にはそんな事考えたこともありませんでしたが、40歳を過ぎてつくづく感じるようになりました。
今こうしていられるのも、この「縁」のお陰だとしみじみ感じます。
私がMBAの取得を真剣に考え、英語の履歴を書いていたときにある人が「そんなことしても意味がないし、遊べなくなっちゃう」と言ったことがきっかけで辞めました。辞めた代わりにとても貴重な経験を沢山することが出来ました。物事の選択でした。
また、ビジネスにおけるオフバランスの感覚の大切さも教えてもらいました。これは同時にサンクコストの意識も教えてくれました。これ以来、物は持つものでなく使うものだと考え方が大きく変わりました。
息子の学校の先生もそうでした。中学2年生にウォーラーステインやスーザンソンダクを教えてどうなるのかと思いましたが、教えなければ成長する芽も成長しないし、全てに同じ栄養を効率よく与えることが教育ではないということも教えてもらいました。
こうした多くの「縁」によって日々生かされているというのが実感です。
歳を取った時に若い時の苦労を苦労として思い出すのではなく、その苦労が今の自分を作った良い経験だったと思えるようになりたいものです。
柄にもなく、現役の子育て奮闘中のお母様に偉そうな事を言ってしまいましたが、こちらとてまだまだ成長過程、若輩の身なのであります。ご勘弁下さい(笑)
先生の教えて戴いた「縁」をしっかり守って育てて行きたいものです・・・・・・
その先生が現役で私達を教えている時も良く口癖のように良く使っていた言葉があります。
それが「縁」です。
考えてみると結婚したのも、子供達が生まれて育っていたのも、犬を飼ったのも全て「縁」です。
何かの「縁」が無ければ一生出会うことの無かった人同士がこの「縁」によって結ばれます。
探してみるとこの「縁」は毎日、どこでも、あちらこちらに存在しています。
若い時分にはそんな事考えたこともありませんでしたが、40歳を過ぎてつくづく感じるようになりました。
今こうしていられるのも、この「縁」のお陰だとしみじみ感じます。
私がMBAの取得を真剣に考え、英語の履歴を書いていたときにある人が「そんなことしても意味がないし、遊べなくなっちゃう」と言ったことがきっかけで辞めました。辞めた代わりにとても貴重な経験を沢山することが出来ました。物事の選択でした。
また、ビジネスにおけるオフバランスの感覚の大切さも教えてもらいました。これは同時にサンクコストの意識も教えてくれました。これ以来、物は持つものでなく使うものだと考え方が大きく変わりました。
息子の学校の先生もそうでした。中学2年生にウォーラーステインやスーザンソンダクを教えてどうなるのかと思いましたが、教えなければ成長する芽も成長しないし、全てに同じ栄養を効率よく与えることが教育ではないということも教えてもらいました。
こうした多くの「縁」によって日々生かされているというのが実感です。
歳を取った時に若い時の苦労を苦労として思い出すのではなく、その苦労が今の自分を作った良い経験だったと思えるようになりたいものです。
柄にもなく、現役の子育て奮闘中のお母様に偉そうな事を言ってしまいましたが、こちらとてまだまだ成長過程、若輩の身なのであります。ご勘弁下さい(笑)
先生の教えて戴いた「縁」をしっかり守って育てて行きたいものです・・・・・・
2012年5月11日金曜日
MY ALBUM
皆さんはアルバムを何冊くらいおもちですか?我が家には50冊近いアルバムが本棚の最上段で埃を被って眠っております。
何処の家庭でも最初の子の方が写真が多くなるたとえの通り、我が家でも長女の写真が多いようです。
考えてみるとこのアルバムは結婚してからのもので、私達の幼い頃の物は実家においてあります。
結婚と言うひとつの儀式を契機に自分たちの人生をリスタートさせたのかもしれませんね。
つまりはこれらのアルバムは私達夫婦のものであり、子供達のそれではないのです。子供達は自分たちも新しいアルバムを作って行かなければならないのです。
最近では重くて嵩張るアナログの写真より、デジタル化が叫ばれ全ての写真がPCの中で管理できるようになりました。
時系列に検索すればあっという間に写真を取り出すことも出来ます。さらにクラウドを使えはその写真を数人で共有したり、いつでも見ることが出来ます。
そんな古くて重いアルバムを見ていると私達の尖がった顔も大分丸くなった(物理的には十分丸いですが・・笑)ようですが、若い時に世間全体を敵に回しても自分の考えを貫いていた鋭い眼光は多少穏やかになったにせよ、相変わらず反骨の精神は残っているような気がします。
今日、糸井さんのブログ(愛読者ですので)に「30才位までは少年のようなと言われても良いが、それ以上の年になってまだ少年のようなという形容をされたら、それは自立していない、危なげなことである」と否定的に書かれていました。
そうでしょうか、丸山眞男がいうように日本人は多分に「動機の純粋性」好むの例え通り、感情的な正しさを優先させます。昨今の原発廃止論などまさにその通りです。動機が純粋なら、経済性も、法理性も無視しても良いと考える訳です。池田信夫氏はこれを「福島みずほ化」と読んでいました。(笑)
確かに動機の純粋性のみで感情鼓舞するのは間違いです。そうではなく、大人になると見えなくなる何かをインスピレートすることです。
少年っぽいとは見掛けや、スタイルの事ではありません。そんなインスピレートを大切にして、自分の考えを持つことです。そして周りに迷惑を書けない、それが本当の大人の少年っぽさではないでしょうか。
幸いな事に私の周りには60歳を過ぎてもそうした大人の少年っぽさを持っている人が多くいます。
私もそうした大人の少年っぽさを失わない老境を迎えたいものだと考えています。
何処の家庭でも最初の子の方が写真が多くなるたとえの通り、我が家でも長女の写真が多いようです。
考えてみるとこのアルバムは結婚してからのもので、私達の幼い頃の物は実家においてあります。
結婚と言うひとつの儀式を契機に自分たちの人生をリスタートさせたのかもしれませんね。
つまりはこれらのアルバムは私達夫婦のものであり、子供達のそれではないのです。子供達は自分たちも新しいアルバムを作って行かなければならないのです。
最近では重くて嵩張るアナログの写真より、デジタル化が叫ばれ全ての写真がPCの中で管理できるようになりました。
時系列に検索すればあっという間に写真を取り出すことも出来ます。さらにクラウドを使えはその写真を数人で共有したり、いつでも見ることが出来ます。
そんな古くて重いアルバムを見ていると私達の尖がった顔も大分丸くなった(物理的には十分丸いですが・・笑)ようですが、若い時に世間全体を敵に回しても自分の考えを貫いていた鋭い眼光は多少穏やかになったにせよ、相変わらず反骨の精神は残っているような気がします。
今日、糸井さんのブログ(愛読者ですので)に「30才位までは少年のようなと言われても良いが、それ以上の年になってまだ少年のようなという形容をされたら、それは自立していない、危なげなことである」と否定的に書かれていました。
そうでしょうか、丸山眞男がいうように日本人は多分に「動機の純粋性」好むの例え通り、感情的な正しさを優先させます。昨今の原発廃止論などまさにその通りです。動機が純粋なら、経済性も、法理性も無視しても良いと考える訳です。池田信夫氏はこれを「福島みずほ化」と読んでいました。(笑)
確かに動機の純粋性のみで感情鼓舞するのは間違いです。そうではなく、大人になると見えなくなる何かをインスピレートすることです。
少年っぽいとは見掛けや、スタイルの事ではありません。そんなインスピレートを大切にして、自分の考えを持つことです。そして周りに迷惑を書けない、それが本当の大人の少年っぽさではないでしょうか。
幸いな事に私の周りには60歳を過ぎてもそうした大人の少年っぽさを持っている人が多くいます。
私もそうした大人の少年っぽさを失わない老境を迎えたいものだと考えています。
2012年5月9日水曜日
好きな街 Paris
ヨーロッパの街はどこも歴史的すぎて私達を容易に受け入れてくれない。
パリを訪れたのは仕事の商材を集めるためだった。私は妻の用心棒といったところだ。
パリにはその後1年に1.2回は出掛けるようになった。お店を辞めるまで5.6年通い続けた。
最初にパリに着いて向かったのはモンマルトルの坂の途中にある小さなホテルだった。
重い荷物を石畳の階段を引ずるようにしてそのホテルまで運んだ。
ホテルはレストランもない小さなもので、部屋にはスーツケースを入れると動き回れるスペースもなかった。
このホテルは画家たちが集まり、アトリエとして使われていたと表の看板に書いてあった。
ユトリロやロートレックと同じように、小さな部屋の窓からモンマルトルの坂を行き交う人の姿が良く見えた。
季節は9月の末だと言うのに異常気象の影響からか、夏のような暑さで、昼間は半袖でも暑い位だった。
私が階段のベンチに腰をおろして妻を待っていると、階段の下の方から身長は2メートルを超えるような真っ黒な大男が近づいてきた。
一瞬身構えたが、その男は私に握手を求めてきた。男はセネガルから出稼ぎにやってきているようだった。すぐしたのレストランで下働きしているので遊びに来るように誘ってくれたのだ。どうやら日焼けしてぐたぐたのコートを羽織った私も同様の出稼ぎと間違えたようだった。
モンマルトルという駅は無い。一番近いのがアペスという駅だ。
駅とは反対側に坂を上って行くとサクレクール寺院がある。高台の広場は画家たちが思い思いの絵を描いて観光客に売っていた。
ここからパリの街が一望できる。パリの街には様々な形のチムニーが屋根に張り付いている。
パリの屋根が見えるのだ。
坂の下にはぶどうの栽培をしている畑が広がっている。ワインの国といっても街中でブドウの栽培をしているところは少ない。
その後もっと高級で立派で快適なホテルに泊まったがこの最初のホテルが一番印象深い。
パリを訪れたのは仕事の商材を集めるためだった。私は妻の用心棒といったところだ。
パリにはその後1年に1.2回は出掛けるようになった。お店を辞めるまで5.6年通い続けた。
最初にパリに着いて向かったのはモンマルトルの坂の途中にある小さなホテルだった。
重い荷物を石畳の階段を引ずるようにしてそのホテルまで運んだ。
ホテルはレストランもない小さなもので、部屋にはスーツケースを入れると動き回れるスペースもなかった。
このホテルは画家たちが集まり、アトリエとして使われていたと表の看板に書いてあった。
ユトリロやロートレックと同じように、小さな部屋の窓からモンマルトルの坂を行き交う人の姿が良く見えた。
季節は9月の末だと言うのに異常気象の影響からか、夏のような暑さで、昼間は半袖でも暑い位だった。
私が階段のベンチに腰をおろして妻を待っていると、階段の下の方から身長は2メートルを超えるような真っ黒な大男が近づいてきた。
一瞬身構えたが、その男は私に握手を求めてきた。男はセネガルから出稼ぎにやってきているようだった。すぐしたのレストランで下働きしているので遊びに来るように誘ってくれたのだ。どうやら日焼けしてぐたぐたのコートを羽織った私も同様の出稼ぎと間違えたようだった。
モンマルトルという駅は無い。一番近いのがアペスという駅だ。
駅とは反対側に坂を上って行くとサクレクール寺院がある。高台の広場は画家たちが思い思いの絵を描いて観光客に売っていた。
ここからパリの街が一望できる。パリの街には様々な形のチムニーが屋根に張り付いている。
パリの屋根が見えるのだ。
坂の下にはぶどうの栽培をしている畑が広がっている。ワインの国といっても街中でブドウの栽培をしているところは少ない。
その後もっと高級で立派で快適なホテルに泊まったがこの最初のホテルが一番印象深い。
好きな街 Hongkong
まだ啓徳空港だった頃、飛行機はビルすれすれにこの空港に舞い降りた。世界でももっとも離着陸の難しい空港だという。
飛行機はBAの経由便だったために3時間近くデレイトして空港に着いたのは10時近かった。
香港島から九龍に向かうにはフェリーか海底トンネルになる。
この時はトンネルだったが、フェリーで九龍の灯りが徐々に大きくなるその光景はこの街に来た実感が増す。
いずれ壊される予定だと言う九龍城は明かりもなく、入り口を閉鎖されていてまるで巨大な怪物を動けないように雁字搦めにしているようだった。
ブレードランナーに出てくる近未来の世界は香港そのものだ。新しさと古さがごちゃまぜになり、どことなく湿った雨の匂いを感じさせる。
香港に来て3回目の時、鳥籠を通りのあちこちで売っている所にいった。階段を上りその通りに出た。するとさっき通り過ぎたはずの街の景色がまた広がった。既視感。
この街の色は晴れていても、鮮やかではない。どこかピンボケしたようなデイドリーム。通りで大きな牌で麻雀をしている人達も向う側にある。
そのくせ夜になるとそのくすぶっていた色とは裏腹に原色の世界になる。強烈でどぎつさはどこか人間の欲望に似ている。
この街の不思議さに魅せられて1年間に3回も訪れた事があった。
中国に返還されてからは一度もいっていない。
飛行機はBAの経由便だったために3時間近くデレイトして空港に着いたのは10時近かった。
香港島から九龍に向かうにはフェリーか海底トンネルになる。
この時はトンネルだったが、フェリーで九龍の灯りが徐々に大きくなるその光景はこの街に来た実感が増す。
いずれ壊される予定だと言う九龍城は明かりもなく、入り口を閉鎖されていてまるで巨大な怪物を動けないように雁字搦めにしているようだった。
ブレードランナーに出てくる近未来の世界は香港そのものだ。新しさと古さがごちゃまぜになり、どことなく湿った雨の匂いを感じさせる。
香港に来て3回目の時、鳥籠を通りのあちこちで売っている所にいった。階段を上りその通りに出た。するとさっき通り過ぎたはずの街の景色がまた広がった。既視感。
この街の色は晴れていても、鮮やかではない。どこかピンボケしたようなデイドリーム。通りで大きな牌で麻雀をしている人達も向う側にある。
そのくせ夜になるとそのくすぶっていた色とは裏腹に原色の世界になる。強烈でどぎつさはどこか人間の欲望に似ている。
この街の不思議さに魅せられて1年間に3回も訪れた事があった。
中国に返還されてからは一度もいっていない。
好きな街 NY
私は街が好きだ。喧騒と街の息遣いが感じられるようなそんな街が好きだ。夜、一人で放り出されるとそのカオスの中で方向感覚を見失うようなそんな街が好きだ。
まだワールドトレードセンターのツインビルが存在していた頃、ニューヨークの分水嶺=watershadwである初夏のシラキュースの上空を通過してJFKに降り立った。
空港の施設は古びていて、空港内の荷物用カートも鈍色の傷だらけの物が散乱していた。
しばらく前にこの空港を舞台にしたターミナルという映画を観たが、この時のJFKは時代の疲れを一気に背負っていた。
タクシーはマンハッタンを結ぶ橋の上を走っていた。対岸のレンガ造りの建物のペントハウスにはサマーベッドとパラソルが用意され、主人の帰りを待っているようだった。
日はいよいよ西に傾き、ガラス張りのビルを橙色に染めて漆黒の夜に姿を変えて行った。
私はインド人の運転手礼を言い、ほんの少し多めのチップを渡した。
私の泊ったホテルは前の方の建物こそはネオゴシック様式で、蛇紋岩の柱にレリーフが施され荘厳さを醸し出していたが、宿泊する建物は構想のタワービルで薄っぺらい内容のホテルだった。
エッグベネディクトは1920年代にこのホテルのレストランで二日酔いの常連客に出したのが始まりだったと何かの本に書いてあった事を思いだした。
翌日は真夏のような天気で、街を歩く人は上半身裸の人までいるくらいだったが、この熱気は今日がプエルトリカンの祝日であることも加わっていた。
この日ばかりは警察も大目に見ているのか、街の中では派手なクラクションを鳴らしながら、国旗を靡かせて通り過ぎる車も多かった。
セントラルパークの木陰で涼をとりながら通りに目をやるとパレードが始まったようだ。
沿道は多くのヒスパニック系の人々で埋め尽くされ既に立錐の余地はなかった。そんな中、いかにも場違いのサイクルウェアに身を包んだアングロサクソンのカップルが無理に自転車でその群集を横切ろうとするので、群衆から野次が飛んでビールをかけられていた。
夜半までその熱気は続いた。
私はグランドセントラル駅まで歩いた。この駅はニューヨークで好きな場所である。以前この駅を題材にクロッシングという小説を書いたことがある。この駅は人種の交差点である。白人もいればアフリカ系黒人、ヒスパニック、アジア人・・教科書で習った人種の坩堝である。
日本の駅と違うところはその天井の高さだ。アーチ型をした天井は高く、綺麗な曲線を描いている。
靴磨きの黒人と目があった。黒人は笑いながらまたくるりと向きを変え、関係ないねといった顔をしていた。
私の脚元はキャンパスのスニーカーだったからだ。良く見てみるとキャンパスの時代遅れのスニーカーを履いているのは私ぐらいなもの、そもそもスニーカーの人が少ない。
ダコタハウスについたのはその翌日だった。
まだワールドトレードセンターのツインビルが存在していた頃、ニューヨークの分水嶺=watershadwである初夏のシラキュースの上空を通過してJFKに降り立った。
空港の施設は古びていて、空港内の荷物用カートも鈍色の傷だらけの物が散乱していた。
しばらく前にこの空港を舞台にしたターミナルという映画を観たが、この時のJFKは時代の疲れを一気に背負っていた。
タクシーはマンハッタンを結ぶ橋の上を走っていた。対岸のレンガ造りの建物のペントハウスにはサマーベッドとパラソルが用意され、主人の帰りを待っているようだった。
日はいよいよ西に傾き、ガラス張りのビルを橙色に染めて漆黒の夜に姿を変えて行った。
私はインド人の運転手礼を言い、ほんの少し多めのチップを渡した。
私の泊ったホテルは前の方の建物こそはネオゴシック様式で、蛇紋岩の柱にレリーフが施され荘厳さを醸し出していたが、宿泊する建物は構想のタワービルで薄っぺらい内容のホテルだった。
エッグベネディクトは1920年代にこのホテルのレストランで二日酔いの常連客に出したのが始まりだったと何かの本に書いてあった事を思いだした。
翌日は真夏のような天気で、街を歩く人は上半身裸の人までいるくらいだったが、この熱気は今日がプエルトリカンの祝日であることも加わっていた。
この日ばかりは警察も大目に見ているのか、街の中では派手なクラクションを鳴らしながら、国旗を靡かせて通り過ぎる車も多かった。
セントラルパークの木陰で涼をとりながら通りに目をやるとパレードが始まったようだ。
沿道は多くのヒスパニック系の人々で埋め尽くされ既に立錐の余地はなかった。そんな中、いかにも場違いのサイクルウェアに身を包んだアングロサクソンのカップルが無理に自転車でその群集を横切ろうとするので、群衆から野次が飛んでビールをかけられていた。
夜半までその熱気は続いた。
私はグランドセントラル駅まで歩いた。この駅はニューヨークで好きな場所である。以前この駅を題材にクロッシングという小説を書いたことがある。この駅は人種の交差点である。白人もいればアフリカ系黒人、ヒスパニック、アジア人・・教科書で習った人種の坩堝である。
日本の駅と違うところはその天井の高さだ。アーチ型をした天井は高く、綺麗な曲線を描いている。
靴磨きの黒人と目があった。黒人は笑いながらまたくるりと向きを変え、関係ないねといった顔をしていた。
私の脚元はキャンパスのスニーカーだったからだ。良く見てみるとキャンパスの時代遅れのスニーカーを履いているのは私ぐらいなもの、そもそもスニーカーの人が少ない。
ダコタハウスについたのはその翌日だった。
2012年5月8日火曜日
脳と意識の時間
私の会社では毎日一人サマータイムを実施しているので今のような朝陽が早く昇る時期には6時前にオフィスにいます。たまったメールの処理やスケジュールを確認したりしますが7時過ぎにはひと段落します。そしてしばし好きな音楽を掛けて読書の時間です。
新しい本を読むことも良いのですが、以前読んだ本ほもう一度読み返してみるというのも案外面白いものです。
私自身が一度脳に得体のしれないものがあると宣告され、当時はこれゃ参ったなという心境でしたが、あろうことかどうやら先天性のものらしく、その後何事もなく「経過観察」(これ重要な診断なんですよ)で何事もなく過ごしています。
私の場合は第4脳室の奥にあり、開頭の出来ない場所でしたから腫瘍であったら今はこんな事も書けなかったでしょうが・・・・
そんなこともあり、第二の宇宙とも呼べる人間の脳について興味を持ち、いくばくかの書籍を買い読みました。
高校の親友は脳外科を生業としており、当時は多い時は毎週のように開頭手術していました。
彼によると脳には血管が無く、開頭してもほとんど出血はないそうです。
今読んでいる本はこの「マインドタイム」というベンジャミンリベット氏が書いた本です。
彼はUCLAの生理学科の名誉教授で文字通り脳と意識の関係について研究した内容の本です。
冒頭でデカルトの「我思う故に我あり」を引用し、絶対的に確信できる唯一の経験つまり主観的経験さえも歪みが生じ、伝播される時間に差が生じると述べています。
このような無意識の脳の活動は何に由来し、どのような役割を持っているのか本書の中で述べられています。
つまり生体器官としての脳は私達の意識より先にある仕事を済ませていると言う筆者の洞察です。
さらにニューロンから伝達される電気的刺激がてんかんの発作を起こし、また一方でこの作用の不具合が自律神経失調症や不定愁訴の原因であるとも生理学的な説明がなされています。
現代人は心が病んでいると言われますが、この本を読むと「脳の基序がうまくいっていない、生体的特徴」と理解できます。
生理学的知識も分子生物学の発展と共に大きく変わりました。今まで実験さえ出来なかったものも最新のコンピューターと理論によって検証する事が出来るようになったからです。
こんなサマータイムの有効利用も如何でしょう??
新しい本を読むことも良いのですが、以前読んだ本ほもう一度読み返してみるというのも案外面白いものです。
私自身が一度脳に得体のしれないものがあると宣告され、当時はこれゃ参ったなという心境でしたが、あろうことかどうやら先天性のものらしく、その後何事もなく「経過観察」(これ重要な診断なんですよ)で何事もなく過ごしています。
私の場合は第4脳室の奥にあり、開頭の出来ない場所でしたから腫瘍であったら今はこんな事も書けなかったでしょうが・・・・
そんなこともあり、第二の宇宙とも呼べる人間の脳について興味を持ち、いくばくかの書籍を買い読みました。
高校の親友は脳外科を生業としており、当時は多い時は毎週のように開頭手術していました。
彼によると脳には血管が無く、開頭してもほとんど出血はないそうです。
今読んでいる本はこの「マインドタイム」というベンジャミンリベット氏が書いた本です。
彼はUCLAの生理学科の名誉教授で文字通り脳と意識の関係について研究した内容の本です。
冒頭でデカルトの「我思う故に我あり」を引用し、絶対的に確信できる唯一の経験つまり主観的経験さえも歪みが生じ、伝播される時間に差が生じると述べています。
このような無意識の脳の活動は何に由来し、どのような役割を持っているのか本書の中で述べられています。
つまり生体器官としての脳は私達の意識より先にある仕事を済ませていると言う筆者の洞察です。
さらにニューロンから伝達される電気的刺激がてんかんの発作を起こし、また一方でこの作用の不具合が自律神経失調症や不定愁訴の原因であるとも生理学的な説明がなされています。
現代人は心が病んでいると言われますが、この本を読むと「脳の基序がうまくいっていない、生体的特徴」と理解できます。
生理学的知識も分子生物学の発展と共に大きく変わりました。今まで実験さえ出来なかったものも最新のコンピューターと理論によって検証する事が出来るようになったからです。
こんなサマータイムの有効利用も如何でしょう??
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