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2012年6月16日土曜日
Twilight of the elites
MSMBの番組でエンロンとリーマンの問題からエリートと呼ばれる人をクローズアッブしていたが、私はある私見を持って見ていた。
断罪されている彼らの誰一人この不思議なシステムの行く先を知らなかったとすれば、すでに我々は大きなシステムに飲み込まれ個人や英雄の意見など無視して突き進むシステムの一部になっていたのかと不安を覚える。
この国の風潮は余りにお粗末である。感情論と自意識が闊歩して論調を作る。絶対に自分が正しいという強い錯覚が蔓延している。
日本は国債を国内で所有しているから安全だと誰かが言っていた。本当か?原発にはあれ程敏感なのにこの問題にはナニヒトツお構いなし、、、!!
年金も保険もこれを大量に買っている。紙くずになってもいいの??
私は原発賛成でも反対でもない。ただこの国が喫緊に進めなければならない問題を誰一人言い出さない。
余りにもお粗末な国民感情、、、、福祉も、安穏も
国勢あってのもの、それとも鎖国が出来るとでも思っているのか???
日本が進めてきた自由と平等の教育などとうの昔に破綻しているのにまだ幻影をみているようだ。
国民がエリートのせいにしているその心持ちこそ、西欧化のもたらした最たるジャポニズムという事をご存知ないのであろうか???
憂国を海の向こうで想う。
2012年6月12日火曜日
ドメスティクラバー
40代と思しきサラリーマンと恰幅の良い中小企業の社長と思われる二人のある日の会話・・・・
40代のサラリーマンA氏
「社長は国産の物にこだわって持っておられると聞いたのですが、その鞄もそうですか」
社長B氏
「そうそうこれ銀座のTというカバン専門店にオーダーして作らせたもの。皮も国産に拘ったのだよ」
A氏
「なるほど丁寧な仕事ですね。つい先日新築されたお宅もそうですか?」
B氏
「国産の檜をふんだんに使った和風の住宅だよ。家具類もほとんど松本の銘木家具で合わせた。」
「もっとも若い頃より車だって国産しか乗った事がない。今乗っているのもそうだ。」
「外国製は頼りにならない。壊れても国産ならすぐ治る。それに費用だって安い」
B氏の携帯に自動車修理工場から電話が入った
修理工場
「社長の車なんですけど部品が手に入らないのです。あの部品タイの工場で作っているのでもそのタイの工場が水没して再会の見通しが立たないんです。もう少し待っていただけますか」
社長は顔を真っ赤にして下を向いたまま顔をあげることはなかった。ちなみにこの社長の妻は年齢が二周りも違うチリ人の妻だった事は伏せておく事にしましょう・・・・・
***************************************************
***************************************************
これは一部脚色はしていますが実際の会話です。多かれ少なかれ、この頃の日本人は好きか嫌いかとすぐ白黒付けたがる方が多い。
世の中そんなに簡単に割り切れるものばかりじゃないのに、すぐに2項対立に持ち込もうとする。
原発事故後に東北の野菜は一切食べないという人が増えているらしい。そういう人は理屈じゃないのよね。科学的根拠なんてどうでもいいの、つまりは「正しい事」をしているということが大切な訳。
息子の高校の先生がオウム事件を含めたカルトの研究をしていた。
極端な宗教やカルトには知るには実はこの「正しき事」の動機づけが大切なのだそうな。
拘らないのも困るけど゛、拘り過ぎて科学的知見を忘れてしまうのも問題だ。
40代のサラリーマンA氏
「社長は国産の物にこだわって持っておられると聞いたのですが、その鞄もそうですか」
社長B氏
「そうそうこれ銀座のTというカバン専門店にオーダーして作らせたもの。皮も国産に拘ったのだよ」
A氏
「なるほど丁寧な仕事ですね。つい先日新築されたお宅もそうですか?」
B氏
「国産の檜をふんだんに使った和風の住宅だよ。家具類もほとんど松本の銘木家具で合わせた。」
「もっとも若い頃より車だって国産しか乗った事がない。今乗っているのもそうだ。」
「外国製は頼りにならない。壊れても国産ならすぐ治る。それに費用だって安い」
B氏の携帯に自動車修理工場から電話が入った
修理工場
「社長の車なんですけど部品が手に入らないのです。あの部品タイの工場で作っているのでもそのタイの工場が水没して再会の見通しが立たないんです。もう少し待っていただけますか」
社長は顔を真っ赤にして下を向いたまま顔をあげることはなかった。ちなみにこの社長の妻は年齢が二周りも違うチリ人の妻だった事は伏せておく事にしましょう・・・・・
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これは一部脚色はしていますが実際の会話です。多かれ少なかれ、この頃の日本人は好きか嫌いかとすぐ白黒付けたがる方が多い。
世の中そんなに簡単に割り切れるものばかりじゃないのに、すぐに2項対立に持ち込もうとする。
原発事故後に東北の野菜は一切食べないという人が増えているらしい。そういう人は理屈じゃないのよね。科学的根拠なんてどうでもいいの、つまりは「正しい事」をしているということが大切な訳。
息子の高校の先生がオウム事件を含めたカルトの研究をしていた。
極端な宗教やカルトには知るには実はこの「正しき事」の動機づけが大切なのだそうな。
拘らないのも困るけど゛、拘り過ぎて科学的知見を忘れてしまうのも問題だ。
好きこそものの上手なれ 開口 健
開口 健の小説と言えば純文学として芥川賞を獲った「裸の王様」や「夏の闇」「輝ける闇」など人間の内面、心の闇に迫った作品も多いが、なんといっても彼が好きだった食べ物やワインそして釣りに関する雑文にこそ彼の魅力が詰まっていると思うのは、私の勝手な思い込みであろうか。
先日買った、「完本 釣魚大全」はまさに開口の面目躍如、起死回生の一冊である(もともと死んではなかったか)
魚をとらえて万物の流転の転成を論じてみたり、魚の餌を話題に世のグルメ高級志向にチクリと釘をさしたり、読んでいて実に面白い。
そういえばヘミングウェイも好きなカジキ釣りの描写は他の作家には類を見ないダイナミックでそして静謐な表現だった。
そう好きこそものの上手なれ。私はそれで良いと思うのだが・・・・・
先日買った、「完本 釣魚大全」はまさに開口の面目躍如、起死回生の一冊である(もともと死んではなかったか)
魚をとらえて万物の流転の転成を論じてみたり、魚の餌を話題に世のグルメ高級志向にチクリと釘をさしたり、読んでいて実に面白い。
そういえばヘミングウェイも好きなカジキ釣りの描写は他の作家には類を見ないダイナミックでそして静謐な表現だった。
そう好きこそものの上手なれ。私はそれで良いと思うのだが・・・・・
野上彌生子 「森」
先日、鎌倉の古書店で野上彌生子の遺作となった「森」を購入した。この作品は最後の数ページを残してほとんど完成したものが後になって補筆され出版された。
九州のご出身の方ならば「フンドーキン醤油」はご存じであろう。また最近では女子プロゴルフのトーナメントでもその名前を聞いたことはあるかもしれない。
野上彌生子はその老舗の醤油製造所の娘であった。野上の作風は一貫して世間を少し離れたところで鋭く観察し、歯切れのよい言葉でばっさりと示す。
武田百合子もそうであったように、この時代の女性の強さは驚きである。世の中に媚びず、常に批判的精神を忘れない、そんな姿勢が今の時代に読んでも頼もしいである。
野上は鎌倉の寺に眠っている。鶴岡八幡をすぎて大船に向かう途中にある東慶寺である。
この寺には海外に日本の禅文化を広めた鈴木大拙が設けた「松が丘文庫」が存在する。
鎌倉の古書店には東京では中々お目にかかれないような書籍と出会うことがある。やはり文士が多く住んだ街のお陰であろうか・・・
九州のご出身の方ならば「フンドーキン醤油」はご存じであろう。また最近では女子プロゴルフのトーナメントでもその名前を聞いたことはあるかもしれない。
野上彌生子はその老舗の醤油製造所の娘であった。野上の作風は一貫して世間を少し離れたところで鋭く観察し、歯切れのよい言葉でばっさりと示す。
武田百合子もそうであったように、この時代の女性の強さは驚きである。世の中に媚びず、常に批判的精神を忘れない、そんな姿勢が今の時代に読んでも頼もしいである。
野上は鎌倉の寺に眠っている。鶴岡八幡をすぎて大船に向かう途中にある東慶寺である。
この寺には海外に日本の禅文化を広めた鈴木大拙が設けた「松が丘文庫」が存在する。
鎌倉の古書店には東京では中々お目にかかれないような書籍と出会うことがある。やはり文士が多く住んだ街のお陰であろうか・・・
2012年6月11日月曜日
オールマイテイ
オールマイティとは便利な言葉である。簡単に言ってしまえば何でもOKという事なのだ。
私の音楽の趣味はまさにオールマイティ、ジャズやボサノバ、ロック、クラシック、ポップスと良いと思えば何でも聴く。
私のi tuneにはそんな何でもアリの音楽が6000曲以上も入っている。
この頃、好きなアーティストと同じミュージシャンが好きという事を発見した。もっとも好きなミュージシャンの嗜好が同じベクトルを向いているのは至極当然かもしれない。
全部のアルバムを持っているParis matchのミズノマリさんがCorinne Bailey Raeが好きだと言っていた頷ける。わたしも大好き。
さらにpat methenyも凄いと言っていたEsperanza Spordingも好きだ。彼女のリズム感尋常じゃない。
誰の物真似でもない。すごい人がいるもんだ。
彼女のBlack Goldという曲凄く良い。自分のルーツを否定せず真っすぐに力強く歩いている。カッコヨイね・・・・
日本のアーティストもそうであってほしい・・・まあKpopや日本の芸能界では無理なお話かもしれないが・・・
私の音楽の趣味はまさにオールマイティ、ジャズやボサノバ、ロック、クラシック、ポップスと良いと思えば何でも聴く。
私のi tuneにはそんな何でもアリの音楽が6000曲以上も入っている。
この頃、好きなアーティストと同じミュージシャンが好きという事を発見した。もっとも好きなミュージシャンの嗜好が同じベクトルを向いているのは至極当然かもしれない。
全部のアルバムを持っているParis matchのミズノマリさんがCorinne Bailey Raeが好きだと言っていた頷ける。わたしも大好き。
さらにpat methenyも凄いと言っていたEsperanza Spordingも好きだ。彼女のリズム感尋常じゃない。
誰の物真似でもない。すごい人がいるもんだ。
彼女のBlack Goldという曲凄く良い。自分のルーツを否定せず真っすぐに力強く歩いている。カッコヨイね・・・・
日本のアーティストもそうであってほしい・・・まあKpopや日本の芸能界では無理なお話かもしれないが・・・
体はひとつ
20代よりゴルフを続けていた。とはいえ30歳を超えたあたりからめっきり練習もせず。お誘いがあれば便乗するお遊びゴルフだった。ゴルフをやめた事には二つの理由があった。
自律神経が弱っていた頃に頸椎狭窄が判明し左手の握力がなくなったのだ。
最初はゴルフクラブが握れなくなったなったのだから驚いたが今はその握力も大分改善してきた。
今となってはその事は過去の事。もう一つの理由が重要。
それはゴルフをすると丸一日つぶれてしまうからだ。つぶれてしまうという感覚を持つ事自体ゴルフには向いていないことの証左であろうが、要するにゴルフ以外にしたいことが沢山あるのである。
波が良ければサーフィン、風が弱ければバイク、軽やかな天気ならば読書そして犬達との長いお散歩・・・やりたい事がありすぎるのだ。鎌倉の古本屋廻りなんてのもある。私の場合、ゴルフよりどうしてもそれらの事が上位に来てしまうのだ。
梅雨の晴れ間の良い気候の頃、気の合う仲間と冗談を言いながら、時折り天使が舞い降りるような華麗な自分のショットに感歎し、美味しいビールを飲む・・・その楽しみは分からない訳ではない、でもどうしてもを私の場合は前者を選んでしまうのである。
40代の時に、周囲に口外して夜のお酒の付き合いをやめた。だから仕事のお付き合いでの酒宴は皆無である。もっともそんな付き合いをしなくては来ないような仕事ならこっちからお断りである。
それ以来、とても体が軽くなった。夜の酒宴に同席する事を生業としている女性には失礼かもしれないが、どうしてお客の方が彼女達に気を使って話をしなければならないのか私には理解不能である。
私と息子がここ数十年坊主にしているのと理由は一緒だ。あのくそいまいましい会話が存外なのだ。
こんな我儘の私であるからもちろん友人など数えるほどである。でも数えるほどの友人でいいのだ。
私のこのへそまがりの性格はどうやら息子に遺伝したらしい。言いたい事を言う息子は決して友人が多いとは思えない。でもね、それでも君を認めてくれる人は必ずいるから心配は御無用である。嘘とおべっかで上塗りした友情はあっという間に剥がれおちるけど、長い間に培われたそれはより強固になり君自身を助けてくれるから・・・・・それはこの歳になって生きる滋養となるのです・・・・・・
自律神経が弱っていた頃に頸椎狭窄が判明し左手の握力がなくなったのだ。
最初はゴルフクラブが握れなくなったなったのだから驚いたが今はその握力も大分改善してきた。
今となってはその事は過去の事。もう一つの理由が重要。
それはゴルフをすると丸一日つぶれてしまうからだ。つぶれてしまうという感覚を持つ事自体ゴルフには向いていないことの証左であろうが、要するにゴルフ以外にしたいことが沢山あるのである。
波が良ければサーフィン、風が弱ければバイク、軽やかな天気ならば読書そして犬達との長いお散歩・・・やりたい事がありすぎるのだ。鎌倉の古本屋廻りなんてのもある。私の場合、ゴルフよりどうしてもそれらの事が上位に来てしまうのだ。
梅雨の晴れ間の良い気候の頃、気の合う仲間と冗談を言いながら、時折り天使が舞い降りるような華麗な自分のショットに感歎し、美味しいビールを飲む・・・その楽しみは分からない訳ではない、でもどうしてもを私の場合は前者を選んでしまうのである。
40代の時に、周囲に口外して夜のお酒の付き合いをやめた。だから仕事のお付き合いでの酒宴は皆無である。もっともそんな付き合いをしなくては来ないような仕事ならこっちからお断りである。
それ以来、とても体が軽くなった。夜の酒宴に同席する事を生業としている女性には失礼かもしれないが、どうしてお客の方が彼女達に気を使って話をしなければならないのか私には理解不能である。
私と息子がここ数十年坊主にしているのと理由は一緒だ。あのくそいまいましい会話が存外なのだ。
こんな我儘の私であるからもちろん友人など数えるほどである。でも数えるほどの友人でいいのだ。
私のこのへそまがりの性格はどうやら息子に遺伝したらしい。言いたい事を言う息子は決して友人が多いとは思えない。でもね、それでも君を認めてくれる人は必ずいるから心配は御無用である。嘘とおべっかで上塗りした友情はあっという間に剥がれおちるけど、長い間に培われたそれはより強固になり君自身を助けてくれるから・・・・・それはこの歳になって生きる滋養となるのです・・・・・・
2012年6月9日土曜日
ゼノフォーブ 生活保護問題
片山さつき議員が指摘したことに端を発した生活保護問題を取り上げるマスコミと彼女に関して妙な違和感を持っていた。もっとも彼女の場合、そうすることが次の選挙のための施策の一つであり、劇場化するマスコミをうまく煽動していると思うが、喉の奥にツッカエタ骨のように気分が悪い。
2チャンネルに跋扈する反日、在日のように誰かを悪者にして自己弁護するそんなナチス的偽善も感じていたところに、内田先生がなるほどという論を説いている。レビィナスの専門家としての一面からも相互扶助を推考しているので是非皆さんにも読んでいただきたくここに紹介します。
以下・・内田 樹氏のブログより
2チャンネルに跋扈する反日、在日のように誰かを悪者にして自己弁護するそんなナチス的偽善も感じていたところに、内田先生がなるほどという論を説いている。レビィナスの専門家としての一面からも相互扶助を推考しているので是非皆さんにも読んでいただきたくここに紹介します。
以下・・内田 樹氏のブログより
相互扶助と倫理について
片山さつき議員による生活保護の不正受給に対する一連の批判的なコメントが気になる。
「相互扶助」ということの本義に照らして、この発言のトーンにつよい違和感を持つのである。以下は朝日新聞の報道から。
人気お笑いコンビ「次長課長」の河本準一さんの母親が生活保護を受けていたことが、週刊誌報道をきっかけに明らかになった。4月12日発売の週刊誌「女性セブン」が最初に匿名で報じた。「推定年収5千万円」の売れっ子芸人なのに母親への扶養義務を果たさないのは問題だ、と指摘した。翌週にはインターネットのサイトが河本さんの名前を報じ、今月2日に自民党の片山さつき参院議員が「不正受給の疑いがある」と厚生労働省に調査を求めたことをブログで明かすと、他の週刊誌や夕刊紙が相次いで取り上げた。
報道を受け、所属事務所よしもとクリエイティブ・エージェンシーは16日、コメントを発表。河本さんの母親が生活保護を受けていたことを認めたが、「違法行為はない」とした。 同社によると、母親が生活保護を受け始めたのは河本さんの無名時代の12年ほど前から。
同社の担当者は朝日新聞の取材に「収入が年によって増減し、将来も安定的に援助できるか見通しが難しかった事情もあるが、認識が甘かった」と話す。
親族間の扶養義務は、民法730条に次のように定められている。
「直系血族及び同居の親族は、互いに扶け合わなければならない」
自治体は生活保護の申請を受けると、扶養義務のある親族に扶養の可否と年収を尋ね、受給開始後も毎年調べる。しかし、調査に強制力はなく、回答の真偽を検証する手立てもない。
自治体の担当者からは、調査権限の強化を求める声が上がっている。
「親族に尋ねても『余裕がない』と断られるケースが大半だ」
「これまでは『親に生活保護を受けさせるのは恥』の意識があったが、『もらわないと損』の感覚が広がれば、法改正の必要があるかもしれない」生活保護法では、親族から援助を期待できるかどうかは、生活保護を受ける際の要件ではない。高収入の子供がいるからといって、不正、違法となるわけではない。
だが、扶養義務の調査を厳正化すると、生活保護を受けるべき人たちが申請を控える事態を招きかねない。
専門家は「扶養は法律で強制するのでなく、当事者の話し合いで解決するよう導くのが本来の行政のあり方だ。生活保護を減らすには、就労支援など、先にすべきことがある」と話す。(朝日新聞5月25日による)
複雑な問題である。
It’s complicated というのは「簡単には説明できない事態」について、相手に判断の保留を求めるときのシグナルである。簡単に理非正邪の判定ができないことが私たちの社会にはある。
そういうときには、「とりあえず座って、お茶でも一杯」してから、長い話を始めるというのがことの手順である。
複雑な問題には、複雑な解決法しかない。
「複雑な問題」に「簡単な解決法」を無理に適用する人は、「散らかっているものを全部押し入れに押し込む」ことを「部屋を片付けた」と言い張る人に似ている。
そのときは一瞬だけ部屋は片づいたように見える。だが、そのままにしておけば、押し入れの中はやがて手の付けられないカオスになる。生活保護の問題は「相互扶助」という複雑な問題にかかわりがある。
複雑な問題に簡単な解決法は存在しない。
弱者の処遇についての考え方は、単純化すれば二つしかない。
(1)社会的弱者は公的な制度が全面的にこれを扶助する。
(2)社会的能力の多寡は本人の自己責任であるので、公的制度がこれを扶助する理由はない。
「大きな政府」論と「小さな政府」論も、「コミュニズム」と「リバタリアニズム」の対比も論理的には同型である。
私たちが経験的に言えることは、「落としどころはその中間あたり」ということである。
ある程度公的な支援を行い、ある程度は自己努力に頼る。そのさじ加減はときどきの政治状況や景況や、何を以て「弱者」と認定するかについての社会的合意にかかわる。
社会的弱者を支援する事業を行政が専管するというのは、いいことのようだが、長期的には問題が多い。
べつに金がかかりすぎるとか、そういう野暮な話ではない。
もし、政府が弱者を実効的に救済するシステムが機能していれば、私人は弱者救済の義務を免ぜられるということである。
目の前に、飢え、渇き、寒さに震え、寝る場もない人がいても、「行政で何とかしてやれよ」と電話一本すれば済む。たいへんけっこうな社会のように思えるだろう。だが、そのような社会に住む人々はいずれ「目の前で苦しんでいる人を救うのは、他ならぬ私の仕事だ」という「過剰な有責感」を感じなくなる。
これは人間として危険な徴候である。
「世界を一気に慈愛深いものにしようとする」企ての挫折をレヴィナスはスターリン主義のうちに見た。
「スターリン主義とはつまり、個人的な慈悲なしでも私たちはやっていけるという考え方のことなのです。慈悲の実践にはある種の個人的創意が必要ですが、そんなものはなくてもすませられるという考え方なのです。そのつどの個人的な慈愛や愛情の行為を通じてしか実現できないものを、永続的に、法律によって確実にすることは可能であるとする考え方なのです。スターリン主義はすばらしい意図から出発しましたが、管理の泥沼で溺れてしまいました。」(エマニュエル・レヴィナス、『暴力と聖性』、国文社、1991年、p.128)
この世の中を少しでも手触りの暖かい、住みやすい場所にしようと思ったら、「永続的に、法律によって」それを確実にできると考えない方がいい。
レヴィナスはそう教えている。
慈愛の実践のためには制度だけでなく、「個人的創意」の参与が不可欠である。
「正義がさらに義であるように」「社会的公正がさらに公正であるように」するためには、生身の個人が、自分の身体をねじこむようにして、弱者支援の企て関与することが必要である。
けれども、「個人的創意」ばかりを強調すると、今度は「公的制度による支援は無用」というリバタリアンのロジックに歯止めをかけることができなくなる。
苦しむものは勝手に苦しむがいい。それを見ているのが「つらい」という人間は勝手に身銭を切って、支援するがいい。オレは知らんよ。
今回、一部の政治家たちと一部のネット世論が求めている「生活受給条件の厳正化」は、ある意味でリバタリアン的である。
親族による扶養を強調しているが、その趣旨は「相互扶助」ではない。
問題になっているのは、「いかにして、孤立した弱者を救うか」ではなく、「身内のことは、身内で始末しろ(他に迷惑をかけるな)」という、弱者(とそれを親族内に含むものたち)の公的制度からの「切り離し」である。
なぜ「親族間の扶け合い」をうるさく言い立てる保守派が、その舌の根も乾かぬうちに「公的制度にすがりつくな」というリバタリアン的主張をなすことができるのか。
これは矛盾しないのか?
もし「相互扶助」ということの大切さを言いたいのなら、公的制度を介しての「相互扶助」の必要も指摘すべきではないのか。
でも、彼らは「親族間の扶け合い」は人間として当然のこととして求めるが、公的支援は「本来ならやらずに済ませたいこと」という表情をあらわにする。
というのは、リバタリアンにとって、「公」というのは国家や地方自治体という非人格的な行政組織のことであって、それ以外は全部「私」に分類されるからである。
そして、親族は「私」なのである。どれほどの規模でも、所詮は「私」なのである。
だから、「親族間で」弱者の面倒を見ろと言うのは、要するに「自助しろ」と言っているのである。
彼らは「相互扶助」ということそれ自体に「価値がある」とは思っていない。
この世界は本質的には無数の「私」たちの競争と奪い合いだと思っている。
弱者への支援は「ゴミ収集」とか「屎尿処理」と同じような「面倒だけれど、やらなければいけない仕事」だと思っている。個人の責任に任せてしまうと、かえって市民一人あたりの社会的コストがかさむから、やむなく行政が引き受けている仕事だと思っている。
だから、ぎりぎりまで軽減したい。理想的にはゼロにしたい。
だから、「誰が『公』の負担を増やしているのだ?」という問いに強迫的につきまとわれてしまう。
生活保護の不正受給について論じたあと、ブログでは片山議員は引き続き外国人の国保の納入率が低いことを難じている。
いずれの場合でも、社会保障制度の「フリーライダー」が標的にされている。
社会的公正の達成というのが建前だが、そこに一貫するのは「誰が国富を収奪しているのか?」というなじみ深い「ゼノフォーブ」(xenophobe)の定型的思考である。
ゼノフォーブは「外国人嫌い」と訳されるが、べつにそれは彼らが「同国人好き」であることを意味しない。
国籍にかかわりなく、彼の自己利益の確保を妨害するすべての他者は一括して「外国人」と呼ばれる(ネット右翼が批判者を誰かれ構わず「在日」と呼ぶのと同じメカニズムである)。
彼以外のすべての他者は限られた資源を奪い合う「潜在的な敵」とみなされている。
敵性のつよいものは「外国人」と呼ばれ、敵性の弱いもの(自己利益増大のために利用価値のある他者)は暫定的に「同国人」に認定される。
あくまで「暫定的」なので、自己都合により、「同国人」たちも一夜にして「外国人」や「非国民」に分類変更される。
それだけのことである。
片山議員の発言は、彼女の心情を吐露したものというより、選挙目当ての「煽り」という感じがする。
その政治感覚は決して鈍くないのだと思う。
たしかに今の日本に「ゼノフォーブ」的な気分が瀰漫しており、「外国人叩き」をする政治家はしばらくは高いポピュラリティを獲得する可能性が高い。
おそらく、片山議員が「成功」すれば、このあと、彼女の真似をして、「フリーライダー叩き」にわらわらと政治家たちが参入してくるだろう。
先ほどの書いたように、公的制度が至れり尽くせりの弱者支援をすべきだという思想は個人の責務を免ずることで社会そのものを「非倫理的」なものに転じるリスクを抱えていると私は考えている。
けれども、すべての人間は資源を奪い合う競争に参加しているのだから、自分の取り分は自力で確保しろというリバタリアン的な考え方も同じように「非倫理的」である。
私はこのふたつの非倫理を退ける。
集団成員の相互扶助の問題は、倫理問題である。
倫理というのは「同胞とともにあるために理法」のことである。
定型があるわけでもないし、文字に書かれているわけでもない。
同胞たちと穏やかに共生し、集団がベストパフォーマンスを発揮するためには、何をしたらよいのかという問いへの答えは状況的入力が変わるごとに変わるからである。
そのゆらぎに耐えることのできる人間を「倫理的」な人間と呼びたいと私は思う。
「相互扶助」ということの本義に照らして、この発言のトーンにつよい違和感を持つのである。以下は朝日新聞の報道から。
人気お笑いコンビ「次長課長」の河本準一さんの母親が生活保護を受けていたことが、週刊誌報道をきっかけに明らかになった。4月12日発売の週刊誌「女性セブン」が最初に匿名で報じた。「推定年収5千万円」の売れっ子芸人なのに母親への扶養義務を果たさないのは問題だ、と指摘した。翌週にはインターネットのサイトが河本さんの名前を報じ、今月2日に自民党の片山さつき参院議員が「不正受給の疑いがある」と厚生労働省に調査を求めたことをブログで明かすと、他の週刊誌や夕刊紙が相次いで取り上げた。
報道を受け、所属事務所よしもとクリエイティブ・エージェンシーは16日、コメントを発表。河本さんの母親が生活保護を受けていたことを認めたが、「違法行為はない」とした。 同社によると、母親が生活保護を受け始めたのは河本さんの無名時代の12年ほど前から。
同社の担当者は朝日新聞の取材に「収入が年によって増減し、将来も安定的に援助できるか見通しが難しかった事情もあるが、認識が甘かった」と話す。
親族間の扶養義務は、民法730条に次のように定められている。
「直系血族及び同居の親族は、互いに扶け合わなければならない」
自治体は生活保護の申請を受けると、扶養義務のある親族に扶養の可否と年収を尋ね、受給開始後も毎年調べる。しかし、調査に強制力はなく、回答の真偽を検証する手立てもない。
自治体の担当者からは、調査権限の強化を求める声が上がっている。
「親族に尋ねても『余裕がない』と断られるケースが大半だ」
「これまでは『親に生活保護を受けさせるのは恥』の意識があったが、『もらわないと損』の感覚が広がれば、法改正の必要があるかもしれない」生活保護法では、親族から援助を期待できるかどうかは、生活保護を受ける際の要件ではない。高収入の子供がいるからといって、不正、違法となるわけではない。
だが、扶養義務の調査を厳正化すると、生活保護を受けるべき人たちが申請を控える事態を招きかねない。
専門家は「扶養は法律で強制するのでなく、当事者の話し合いで解決するよう導くのが本来の行政のあり方だ。生活保護を減らすには、就労支援など、先にすべきことがある」と話す。(朝日新聞5月25日による)
複雑な問題である。
It’s complicated というのは「簡単には説明できない事態」について、相手に判断の保留を求めるときのシグナルである。簡単に理非正邪の判定ができないことが私たちの社会にはある。
そういうときには、「とりあえず座って、お茶でも一杯」してから、長い話を始めるというのがことの手順である。
複雑な問題には、複雑な解決法しかない。
「複雑な問題」に「簡単な解決法」を無理に適用する人は、「散らかっているものを全部押し入れに押し込む」ことを「部屋を片付けた」と言い張る人に似ている。
そのときは一瞬だけ部屋は片づいたように見える。だが、そのままにしておけば、押し入れの中はやがて手の付けられないカオスになる。生活保護の問題は「相互扶助」という複雑な問題にかかわりがある。
複雑な問題に簡単な解決法は存在しない。
弱者の処遇についての考え方は、単純化すれば二つしかない。
(1)社会的弱者は公的な制度が全面的にこれを扶助する。
(2)社会的能力の多寡は本人の自己責任であるので、公的制度がこれを扶助する理由はない。
「大きな政府」論と「小さな政府」論も、「コミュニズム」と「リバタリアニズム」の対比も論理的には同型である。
私たちが経験的に言えることは、「落としどころはその中間あたり」ということである。
ある程度公的な支援を行い、ある程度は自己努力に頼る。そのさじ加減はときどきの政治状況や景況や、何を以て「弱者」と認定するかについての社会的合意にかかわる。
社会的弱者を支援する事業を行政が専管するというのは、いいことのようだが、長期的には問題が多い。
べつに金がかかりすぎるとか、そういう野暮な話ではない。
もし、政府が弱者を実効的に救済するシステムが機能していれば、私人は弱者救済の義務を免ぜられるということである。
目の前に、飢え、渇き、寒さに震え、寝る場もない人がいても、「行政で何とかしてやれよ」と電話一本すれば済む。たいへんけっこうな社会のように思えるだろう。だが、そのような社会に住む人々はいずれ「目の前で苦しんでいる人を救うのは、他ならぬ私の仕事だ」という「過剰な有責感」を感じなくなる。
これは人間として危険な徴候である。
「世界を一気に慈愛深いものにしようとする」企ての挫折をレヴィナスはスターリン主義のうちに見た。
「スターリン主義とはつまり、個人的な慈悲なしでも私たちはやっていけるという考え方のことなのです。慈悲の実践にはある種の個人的創意が必要ですが、そんなものはなくてもすませられるという考え方なのです。そのつどの個人的な慈愛や愛情の行為を通じてしか実現できないものを、永続的に、法律によって確実にすることは可能であるとする考え方なのです。スターリン主義はすばらしい意図から出発しましたが、管理の泥沼で溺れてしまいました。」(エマニュエル・レヴィナス、『暴力と聖性』、国文社、1991年、p.128)
この世の中を少しでも手触りの暖かい、住みやすい場所にしようと思ったら、「永続的に、法律によって」それを確実にできると考えない方がいい。
レヴィナスはそう教えている。
慈愛の実践のためには制度だけでなく、「個人的創意」の参与が不可欠である。
「正義がさらに義であるように」「社会的公正がさらに公正であるように」するためには、生身の個人が、自分の身体をねじこむようにして、弱者支援の企て関与することが必要である。
けれども、「個人的創意」ばかりを強調すると、今度は「公的制度による支援は無用」というリバタリアンのロジックに歯止めをかけることができなくなる。
苦しむものは勝手に苦しむがいい。それを見ているのが「つらい」という人間は勝手に身銭を切って、支援するがいい。オレは知らんよ。
今回、一部の政治家たちと一部のネット世論が求めている「生活受給条件の厳正化」は、ある意味でリバタリアン的である。
親族による扶養を強調しているが、その趣旨は「相互扶助」ではない。
問題になっているのは、「いかにして、孤立した弱者を救うか」ではなく、「身内のことは、身内で始末しろ(他に迷惑をかけるな)」という、弱者(とそれを親族内に含むものたち)の公的制度からの「切り離し」である。
なぜ「親族間の扶け合い」をうるさく言い立てる保守派が、その舌の根も乾かぬうちに「公的制度にすがりつくな」というリバタリアン的主張をなすことができるのか。
これは矛盾しないのか?
もし「相互扶助」ということの大切さを言いたいのなら、公的制度を介しての「相互扶助」の必要も指摘すべきではないのか。
でも、彼らは「親族間の扶け合い」は人間として当然のこととして求めるが、公的支援は「本来ならやらずに済ませたいこと」という表情をあらわにする。
というのは、リバタリアンにとって、「公」というのは国家や地方自治体という非人格的な行政組織のことであって、それ以外は全部「私」に分類されるからである。
そして、親族は「私」なのである。どれほどの規模でも、所詮は「私」なのである。
だから、「親族間で」弱者の面倒を見ろと言うのは、要するに「自助しろ」と言っているのである。
彼らは「相互扶助」ということそれ自体に「価値がある」とは思っていない。
この世界は本質的には無数の「私」たちの競争と奪い合いだと思っている。
弱者への支援は「ゴミ収集」とか「屎尿処理」と同じような「面倒だけれど、やらなければいけない仕事」だと思っている。個人の責任に任せてしまうと、かえって市民一人あたりの社会的コストがかさむから、やむなく行政が引き受けている仕事だと思っている。
だから、ぎりぎりまで軽減したい。理想的にはゼロにしたい。
だから、「誰が『公』の負担を増やしているのだ?」という問いに強迫的につきまとわれてしまう。
生活保護の不正受給について論じたあと、ブログでは片山議員は引き続き外国人の国保の納入率が低いことを難じている。
いずれの場合でも、社会保障制度の「フリーライダー」が標的にされている。
社会的公正の達成というのが建前だが、そこに一貫するのは「誰が国富を収奪しているのか?」というなじみ深い「ゼノフォーブ」(xenophobe)の定型的思考である。
ゼノフォーブは「外国人嫌い」と訳されるが、べつにそれは彼らが「同国人好き」であることを意味しない。
国籍にかかわりなく、彼の自己利益の確保を妨害するすべての他者は一括して「外国人」と呼ばれる(ネット右翼が批判者を誰かれ構わず「在日」と呼ぶのと同じメカニズムである)。
彼以外のすべての他者は限られた資源を奪い合う「潜在的な敵」とみなされている。
敵性のつよいものは「外国人」と呼ばれ、敵性の弱いもの(自己利益増大のために利用価値のある他者)は暫定的に「同国人」に認定される。
あくまで「暫定的」なので、自己都合により、「同国人」たちも一夜にして「外国人」や「非国民」に分類変更される。
それだけのことである。
片山議員の発言は、彼女の心情を吐露したものというより、選挙目当ての「煽り」という感じがする。
その政治感覚は決して鈍くないのだと思う。
たしかに今の日本に「ゼノフォーブ」的な気分が瀰漫しており、「外国人叩き」をする政治家はしばらくは高いポピュラリティを獲得する可能性が高い。
おそらく、片山議員が「成功」すれば、このあと、彼女の真似をして、「フリーライダー叩き」にわらわらと政治家たちが参入してくるだろう。
先ほどの書いたように、公的制度が至れり尽くせりの弱者支援をすべきだという思想は個人の責務を免ずることで社会そのものを「非倫理的」なものに転じるリスクを抱えていると私は考えている。
けれども、すべての人間は資源を奪い合う競争に参加しているのだから、自分の取り分は自力で確保しろというリバタリアン的な考え方も同じように「非倫理的」である。
私はこのふたつの非倫理を退ける。
集団成員の相互扶助の問題は、倫理問題である。
倫理というのは「同胞とともにあるために理法」のことである。
定型があるわけでもないし、文字に書かれているわけでもない。
同胞たちと穏やかに共生し、集団がベストパフォーマンスを発揮するためには、何をしたらよいのかという問いへの答えは状況的入力が変わるごとに変わるからである。
そのゆらぎに耐えることのできる人間を「倫理的」な人間と呼びたいと私は思う。
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