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2012年8月17日金曜日

日本人としての宿疴

北方領土、竹島、尖閣諸島と我が国は何故多くの領土問題を抱えているのか、考えてみれば全て我々が日本人として生まれてきた事により避けられない事前問題だった。

これらの問題は私達が生まれるずっと以前、たどりたどれば明治政府による日清戦争、日露戦争にまで及ぶ。

我々が今こうして太平洋戦争に敗戦し、多くの犠牲者を出したのも、元をたどればこの精神性に辿り着く。

外圧により開国を余儀なくされた明治当時の日本は、先進国の仲間入りを果たすために必死だった。

また当時は帝国主義の中、多少荒っぽいやりかたでも欧米列強は自らに火の掛らない極東の島国のことなどどうでもよかった。

いや、ロシアが弱体化してくれる方が好都合だった。ただ、それだけのことだった。

しかし時代が変わってもずっと相も変わらぬ精神性をこの国のトップが持ち続けていた。太平洋戦争の末期のこの国は情報を分析する力も、そんな慧眼を持った政治家もいなかった。

だからソ連の参戦が分かっていても講和に進まなかった。その結果、シベリア抑留者、原爆被害者、局地戦の死者を含め莫大な数の日本人が犠牲になって行った。

これらの一般の日本人にはロシアの参戦のことも、ポツダム会議のことも知らせられなかった。

なのに彼らに非があろうか。靖国参拝を他国が干渉する事に憤懣を覚える。一般の日本人も同様に戦争の被害者であり、犠牲者なのだ。私の祖父もシベリアで病死したので祀られている。

こんな災禍を経験したのに、戦後の日本人は平和ぼけをしている。いや、石原氏の言葉を借りれば平和の毒にやられている。

従軍慰安婦の問題、竹島の問題、尖閣諸島の問題すべて外交のせいにするのはお門違いである。慰安婦問題だって日本人が言いだしたのだから、我々自身が火をつけたのだ。それもきちんとした証明もせず、マスコミの劇場化を利用し声高に叫ばれたこの事がいまどんな問題になっているのか代議士としてのうのうとしている当時の犯人は知っているだろう。

我々は日本人として生まれてきた。もちろん極端なナショナリズムで自己武装をすることも嫌悪されるが、あまりに無頓着にマスコミや他の国の意見を耳にすると、自分の意見を持たないこの国の多くの人に憐れみを感じる。

日曜日にテレビをつければ政治は相手のあらさがし、バラエティ番組は無教養ぶりを面白おかしく映す・・・・

「法に照らして厳正に対処する」・・・・官僚のようなこの言葉では国民には何も伝わらない。

亡国の感強まれり・・・・

2012年8月16日木曜日

CAR GRAPHICS #101 Model991 carreraS/ Panamera GTS/BoxterS

久々の試乗報告です。お盆は道がすいていてとても走りやすく、今朝、息子を新横浜まて送った時も道はガラガラでした。

3時から少し時間が出来たので、PC横浜に電話してみると、お盆で試乗車はどれも空いていて時間してしなくてもゆっくり乗れるとのことでした。

実は911のニューモデルことモデル991は機会が合わず未だ試乗していなかったのです。さらに最初からポルシェの4ドアなんてと馬鹿にしていた、パナメーラのことをずっと911を乗り継いでいるクリス・ペトラーさんがパナメーラに乗り換えたと紙面にあったので少しばかり食わず嫌いの自分に反省です。

試乗した911はカレラSのPDKです。装備品満載のこの車体は2千万近くします。まず驚いたのはチープな手動ドアミラーが電動になっていました。室内も豪華で一昔前のレーシングカーとは趣は異なります。走りもさらに誰でも運転できるポルシェになっていて、突き上げも皆無です。全長が伸びたことに加えて、最新のデバイスでコンフォートです。スポーツモードにしても雨の日はちょっとと思わせた以前ポルシェと違い、すこぶる優等生です。なるほどカレラもGTカー化していっているのですね。それにしてもガンメタとシルバー(写真でわかりづらい)のホイール・・かっこいい!!

もう一つのパナメーラはこちらはやんちゃなGTSです。思ったほど全長を感じさせませんが、比較するとその大きさに驚かされます。ハンドリングはリニアでしかも、剛性も高く、確かにすばらしいサルーンです。そう運転して楽しいサルーンです。決してスポーツカーではありません。しかし確かに良くできています。赤のステッチがアルカンターラに程よくマッチしてかっこいい内装です。

最後に以前、ボクスターとケイマンに乗った時に911と乗り比べて、価格に応じたパワートレインと感じたそれは格段に良くなっていました。古い911と似ているのはこっちのほうかもしれません。ブレーキングもミッドの恩恵からよく効きます。エンジン音も軽やかで、運転していて楽しい車です。

覆面のパトカーが居たので静かな運転??でしたが、堪能させていただきました。

営業の人が言うように、確かにニューケイマンが楽しみです。(カメラのバッテリーが切れてパナメーラとレーシングイエローのボクスターは撮れませんでした)




2012年8月10日金曜日

音楽と私

お店をやっていた関係でBGMは手作りだった。今のようにItuneなどという便利なものはなく、当初はLPからテープを作り、その後はCDを録音した。そんな関係からジャズやボサノバのCDは増えて行った。
一方、息子は楽器(テナーサックス、ファゴット)を部活で演奏していた事もありクラシックばかり、N響の会員にもなっていたことがあるほどのクラシック好き。でも彼は実際の演奏をコンサートホールで聴く事が好きで、オーディオはもっぱらi pod・・・・
妻と娘と言えば何となく今はやっている音楽、どちらかというJ popというジャンルを聴く事が多いようだ。
そのジャンルに傾倒し、より深く、それぞれの演奏や録音状態の違いまで拘って聞くというプロフェッショナルなマニアとしての楽しみ方も素晴らしいと思うが、あの機材を揃えて、環境を整えようとする事は私の今の経済力からは到底無理なお話である。

そんなプロの楽しみ方とは大分違うが、私にとっての音楽とは記憶装置を呼び起こすような、いわばタイムバックするための目覚まし時計のようなものだ。


つい先日、このパプロクルーズというバンドが30ぶりに来日するニュースとそこで流れた音楽を聴いて一気に私を30年前に連れ戻した。

このパプロクルーズを聴いた(直接でなく映画のBGMとして)のは1979年だったと思う。

友人と九段会館で上映される「FREE RIDE」というサーフィンムービーを観たときのことだ。

会場は髪の毛の長いおかっぱ頭の日に焼けたサーファーで溢れかえっていた。

お金の無い私達は近くのパン屋でパンとコーヒー牛乳を買い、夕ご飯とした。



パットメセニーの「サンロレンツォ」を聴くと大学の友人と中野サンプラザで開催された彼の来日コンサートに行った時のことを思い出す。

時間があったので友人宅を訪ねるともパットメセニーのことを良く知らない私に友人I君はよく説明してくれた。私は持っていなかったが彼は確かフェンダーを持っていて、ギブソンのアコースティクも欲しいと言っていた。

彼はその後郷里の新潟に帰り、銀行に就職したと聞く。



バイトをした翌日、友人の車で茅ヶ崎に向かい、明けやらぬ空を眺めながらラジオのスイッチをひねるとFENからサンタナのギターが聞こえてきた。音楽が終わるころにはすっかり日が昇り、まわりでは一斉に緑色のサーフキャリアからボードを降ろす若者が見えた。

あの車は何色のセリカだったのだろう、海からの帰り道、バスと衝突してお釈迦になってしまったのは遠い記憶・・・ふたりとも無事だったのが不思議なくらいだった。今もそれを思う権田坂・・・・

記憶とは曖昧である。しかし、音楽という装置はその記憶を再構築してくれる。







2012年8月9日木曜日

都市の階層化

8月17日に発売される三浦展氏の新刊「東京は郊外から消えて行く」楽しみにしています。

職業柄、日本の住宅は人工減少の傾向にありながら、多すぎると感じています。さらにそうして無理やり作られた住宅地は郊外に展開し、住む人たちが均質化していると感じます。

多摩ニュータウンの高齢化の話はマスコミでも取り上げられ有名ですが、神奈川県もこうした県営の住宅に住む人達の高齢化が顕著です。

公団に限った事ではありません。私の暮らしている田園都市沿線も比較的開発が早く始まったある駅のスーパーや百貨店は何処を見ても高齢者が多く、午前中は若い人を見かけるのも一苦労です。

こうした住宅地やニュータウンの人工減少は氏の本を待つまでもなく当然予想され、多くの空洞化現象を生むことでしょう。

パリ、ロンドン、ニューヨーク・・・世界中の大都市でここまで大きな都市圏を持つ都市は見当たりません。ニューヨークだってニュージャージーから通勤しているという声も聞こえますが、あちらでは働く場所と住む場所が東京のように連続していないのです。東京は川崎、横浜と繋がっているだけではなく連続しているここが最大の特徴だと思うのです。

何が良くて何が悪いのかという話をしている訳ではありません。

環境への負荷を考えて、長く持つ住宅、そうです。100年住宅を建てた知り合いがいます。

建ててすぐ奥さんに先立たれ、息子達も家を出たために5LDKの大きな家はほとんどの部屋が空室です。その彼は今でもその家にしがみ付くように大方のローンを払いながら一人で生きています。

この話は極端な例ですが、私達が住宅に思い描いていた考え方を少し改めるべきではないでしょうか。

私があるクライアントに提案したのは巨大な1LDKの住宅です。家族それぞれのプライベートな環境は導線と目線を利用し上手く利用して確保し、出来る限り固定化しない空間としての家です。

家族構成が変わってもまたすぐに再構成できるような家です。

これにより当然コストは圧縮され、当初予算の6割程度になりました。銀行への返済も大分少なくて済みました。

日本的ものづくり(工業化)ではガラパゴス化が叫ばれて久しいですが、何も携帯に限った事ではありません。後席からみるテレビ、花粉シャッターなどなどとにかく全てのものが付いていればよいとばかりに全部載せの発想で作られる車も良い例で、住宅とて例外ではありません。

話をもとの高齢化した都市に戻します。

この高齢化した都市の問題は実は高齢化と同時に階層化が進んでいるということなのです。

郊外のこうした住宅地を購入できる人は収入が多いか、親からの援助によって取得します。

当然、これらの経済力は階層化をもたらします。

今までの学校教育では頑張れば出来ると教えていました。本当に頑張れば出来るんでしょうか。

この呪術めいた平等論こそが曲者で、教育の階層化を引き起こしているのだと思うのです。

自分の周りに努力して成功した大人が多く、そうした人を見ながら育った子供の「がんばる」意欲とそうでなく育った子供の意欲では当然異なってくるからです。

泥水いた魚を清流に話しても上手く育ちません。また、その逆も同じです。

つまり都市の郊外では人口が減少し空洞化が起こる一方で、教育におけるこの階層化は助長され、さらに子供の教育は危機的状況に追い込まれて行くのです。

教育行政を行っている人は教育についてのみ議論します。そうです。現場の問題とばかり学校の中での問題だけを取り上げ、子供たちか取り巻かれている社会的ムーブメントには目も触れない。

これでは上手くいくはずがありません。学校だけの教育で子供が育つのではありません。学校、家庭、社会それらが互いに影響しながら子供の教育は行われているのです。

先日、家の近くのゴミ置き場の近くにすーっと大型の外車でやって来て、ゴミ袋をそのまま捨てて行った人がいました。言うまでもなく傍若無人の行為ではありますが、まずいことにすぐ近くで登校中の子供が見ていたのです。

するとゴミ置き場の掃除に出てきた近所の方が「こんなところに出しちゃだめなのよね」と子供に聞こえる声で話しながら、そのゴミを片付けたのです。

些細な事かも知れませんが、彼女の登場でそうした大人が普通なのかそうでないのか、彼の心象風景は変わったはずです。

都市の階層化、空洞化を防ぐ手段として「シェア」があります。若者を中心にかなり浸透してきた感がありますか、郊外の保守層の間ではまだまだ他人とシェアする発想には至らないようです。

明解な解決法は分かりませんが、この郊外に住む身としては、家に思い入れをしすぎず、いつでもどうなってもいいや位に軽く考えるようにしていきたものです。現実は中々難しいでしょうけど・・・















2012年8月8日水曜日

偶然と必然

イトイさんのブログにも書いてあったように、世の中のほとんどの事は偶然である。

専門家と称するエセ未来予想家の言う事はほとんどあたらない。

この歳まで色々な人を見てきた。バブルの頃には随分と色々な人が現れて消えて行った。

とある証券会社の重役は私に「10億なら責任を取らされるが、100億なら取らされないから、お金を借りろ」と言ってきた。もちろん借りなかった。

ある人は建築違反の建物をどうしても建てたかったらしい。色々なツテを頼って、最後には超法規的手段を用いてまで完成させた。もちろんたかだか14坪程度の建物に5000万円以上のお金が掛った。

全ての事柄が偶然だとすれば、何もしない方が良いなんて言う気はさらさらない。ただ、あまりにもその時点で考えて強引な事は結果としてあまり良くない事になるような気がする。

世の中の全ての事象が全て自分に関係する訳ではない。その中のいくつかの限られた事象が自分との強い関係性を持つ。ならば他の事象は無視して良いのだろうか。

宇宙の粒子のごとく、いずれか一方の存在を否定してしまえば、その偶然も成り立たなくなってしまう。

偶然の関係性が必然なのだから、あくまでその全体が宇宙を構成するのと同じ。

親戚で大先輩でもあるアパレルメーカーの社長が良い事を言う。「寝ざめの悪い事はしない」

その通り。大賛成である。

今自分が不幸だと思っている人は自分から幸せを手放してしまっている。幸せは幸せだと思う人に集まってくるのだ。

人間誰しも自分が大切だ。ただ、その自分より大切なものが無い人は不幸になる。大切なものは配偶者でも子供でも犬でもよい。自分の身より愛しい存在であれば何でも良い。

私が大過を犯さなかったのは恐らくそのためであろう。

今日も大きな偶然が必然となるそんな一日だと思うと身が引き締まる。

2012年8月7日火曜日

武田百合子

ご主人の泰淳氏の「ひかりごけ」はだいぶ昔に読んだ事はありましたが、百合子さんのこの冨士日記を読んだのは、娘さんの武田花さんのこの写真集を購入してからでした。

このモノクロの写真集は丁度私が上京した頃の私の故郷を含めた、東武伊勢崎線付近の衰退していった地方都市を切り取ったもので、今はなき「新川球場」も載っていましたので私にはノスタルジックでもありました。

ところでお母さんの百合子さんの文章はなんというか、男より男っぽいというような、切り味の鋭いものです。

野上弥生子氏のものにも似た独特のものがありますが、彼女の表現はさらに男っぽさというか、斜めから見据えたようなニヒル感が漂います。そうかと思えばあっけらかんとして、全く拘りの無い純真さを見せたり、不思議な感性です。

この時代の女の人は現代の人にないような強さを感じます。その強さは我を張るというのではなく、人間の本質的な強さではないのかしらんと思えます。

昆虫や動物に対する冷めた目はそうした事を物語っているようです。

手に入れるには古本屋に足しげく通うしかなさそうです・・・・・・・・・・・



2012年7月31日火曜日

情報の非対称性

先般、2冊の本を併読していると書きましたが、今日はそれに関しての私なりの考察です。

アメリカでは駄目な車の事を「LEMON CAR」といい、そんな中古車市場では一般の人々はそれがレモンなのかレモンでないのか見分けがつきません。一方、ディーラーはどれがレモンか分かっています。

こうした売り手や買い手の間の情報に差がある時に非対称性が存在するといいます。

インターネットがマスコミの持つ情報の非対称性を著しく改善させた事は自明であります。

このジョセフ・ユージン・スティグリッツ博士は以前にもブログで登場した「マルチスピード化する世界の中で」という本の著者であるマイケル・スペンス博士と共にこの分野の第一人者です。

グローバル化とはいわばこの情報の非対称性の解消が世界的に同時に起こっていることです。

スティグリッツはその行きすぎた非対称性の解消は危険であると述べているのです。

もう一冊の本は日本でもハーバード白熱教室でお馴染のマイケル・サンデル教授の本です。

経済学が規定する人間の合理的行動について辛辣な意見で同僚でもある経済学者さえ睥睨しているその自信は恐ろしい位ですが、彼の言う、市場に全てを完全に委ねることが良い事ではない事例を羅列しています。市場万能主義への警鐘です。

ユニバーサルスタジオの並ばない有料券に始まり、米議会公聴会に代理で並ぶアルバイト、代理母、生命保険の加入権の売買、臓器売買、お金で永住権を買う制度等々・・・・・・、

ホノルル空港にあるゴールドレーンだって出国手続きは同じ公的サービスであるのに料金によってこのサービスに差を付けている訳です。

需要と供給とのギャップをこうした手数料=対価によって解消し、経済的効率をあげる働きをしている訳ですが、何かこの手のサービスに釈然としないのは何故でしょう。

最近日本でもいくつかの航空会社がLCCに参入しました。安い航空運賃は魅力です。しかし、安さばかりに囚われれば最終的には安全もお金で買うと言うことにはなりませんでしょうか。

この釈然としない理由は事が「人間の根源的」のものになればなるほど感じます。

彼らの意見をリバタリアンはどういうか分かりませんが、スティグリッツは「小さな政府」は危険である述べています。

我々が人間としての根源的サービス受ける権利それが人権です。その人権に関わるような事までビジネスの対象とすることには誰しも不安に思い反対しているのです。

情報の非対称性の解消はグローバル化の一側面かもしれませんが、我々がグローバル化を考えるときにその反対側にこの問題が起こっている事を理解すべきだと思います。

それは少なからず単なるフリーライド論ではなく、マルチスピード化する多元世界においてどう考え所作を説くのか一考すべきなのかと思いました。だって実際には「既に起こっている」のですから・・・