今の人に赤貧なんていう言葉を使っても果たしてどれだけの人が理解してくれるかは不明ではありますが、私にはあがた森魚の赤色エレジーが聞こえてくるのであります。
私の生まれ育った北関東のK市は当時、繊維業の不振が街全体を覆いつぶそうとしていました。
父親は明治生まれで、頭はそこらへんの人より多少は良かったかもしれませんが、何分世情に疎く、世間ずれしていませんでした。
というよりも彼の人生の華は満州で咲き、そして華は散っていたのかもしれません。
死に際に当時の場面が彼の頭をよぎったのか、アムールの虎や馬族は彼の夢のまた夢でもあり現実でもありました。
こんな両親なので赤貧の生活は当然と言えば当然のなりゆきでした。
あるとき両親が懇意にしている知り合いが私にどこぞの観光地で買ってきた「忍耐」と金色で描かれた盾を渡されました。
私には「忍耐」が足りないと・・・
少年の心は暴れました。
高校の教師をしていて何不自由なく暮らしているその一家に「忍耐」を強いられるとは少年の心にい薔薇の棘がささりました。
それ以来人少年は人の心の裏側を読むことが出来るようになりました。
心の曲がり切った少年は全身にイ薔薇の棘をまとい、事あるごとに人と争い、闇の夜の住人となりました。
赤貧の生活は続きました。世の中に蔓延する不平等と差別、人の心闇も味わいました。
このままでは押しつぶされそうな時に少年は明日を過ごす女性と出会いました。
女性は赤貧とは全く別の世界の住人でした。
明るく屈託のないその笑顔が少年をどれだけ勇気づけたか分かりません。
少年は次第にい薔薇の棘のマントを脱ぎ、心が柔和になりました。
そしていつしか「忍耐」の盾のことも忘れていました。
それでも少年はいつでもあの頃の生活に戻れる準備をしています。だってあれが自分の原点だったから・・・・
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2012年11月2日金曜日
1981年のゴーストライダー Ⅴ
洋一は坂を登り切ったところにある小さな公園のベンチに腰をおろした。
洋一は今聞いたばかり講演に興奮していた。公園通りのショッピングセンターの上にある劇場でその講演は行われた。昨晩、音楽関係の会社面接を受けていた洋一はそんな学生向けのあるダイレクトメールに目がとまり、どうしても今日の講演を聞きたくなり渋谷にやってきたのだ。
今の今まで講演を行った会社のことなど全く知らなかった。講演者はその会社の専務でもありカリスマ性で流通業に新風を吹き込んだと言われる人と、この劇場も含めて新たに照明デザイナーという言葉を作り上げた気鋭の女性とを司会者が繋ぎテーマにそって勧められた。
カリスマと言われたその人は背が低く、白髪の目立つ典型的日本人であったが、眼鏡の奥の目はまるで獲物を狙う野生の豹のように鋭かった。
それまで流通業には全く興味のなかった洋一であったが、そこでの話は洋一の興味の琴線にふれた。洋一は自分で目にしたものしか信用しない、少しイケズなところがあった。ただ、こうして実際に見る渋谷の街もそしてこの劇場もすべてそれを証明しているように思えた。
「流通から文化を発信する」という今日のテーマは二十歳そこそこの男の子の気を引くには十分すぎるものだった。
洋一は笹塚にある以前住んでいたアパートをテレビ局の人に頼まれて一度だけ貸した事があった。どんなドラマに使われるのか知らずに貸したのだが、後になって洋一の大好きな個性的な俳優MYの主演する探偵ものだっと分かった時は不在にした自分を怒ったものだった。
そのドラマの冒頭のシーンでもここ公園通りの壁に書かれたモナリザが使われている。この企画も実はこの会社が街づくりの一端として若手アーテイストに描かせているとは知らなかった。
洋一はそう多くはないが渋谷の街にも足を運んだことはある。先輩が渋谷からほど近い代官山に住んでいたこともあり、しばしばこの街に連れてきてもらったことがある。洋一の大学は早稲田や慶応のように運動部の活躍に全校を挙げての応援というような機会もなく、新宿や六本木というような常連の遊び場を持たない、いうなれば根なし草のようでもあったから、ここ渋谷は丁度良い居心地だったのかもしれない。
洋一は黒いショルダーバッグを掛けなおし、公園の隣にあったイタリアンレストランの扉を開けた。その店は大きなガラス窓が公園の緑に開かれたカジュアルなレストランだった。
イタリアレストランとは名うってはあるもののケーキはどれも大きくとてもアメリカ的であった。洋一は窓側の席に案内された。洋一はアメリカンコーヒーを注文した。しばらくして運ばれてきたコーヒーは大きめのガラスのコーヒーメーカーに並々とつがれ、ゆうに3.4杯は飲めるものだった。白いコーヒーカップにはこの店のトレードマークである赤いトマトが小さく描かれていた。
9.11 America
Paul Simon
Musician
American Tune
Lyrics by Paul Simon
Many's the time I've been mistaken, and many times confused
And I've often felt forsaken, and certainly misused.
But it's all right, it's all right, I'm just weary to my bones
Still, you don't expect to be bright and Bon Vivant
So far away from home, so far away from home.
I don't know a soul who's not been battered
Don't have a friend who feels at ease
Don't know a dream that's not been shattered
Or driven to its knees.
But it's all right, all right, We've lived so well so long
Still, when I think of the road we're traveling on,
I wonder what went wrong, I can't help it
I wonder what went wrong.
And I dreamed I was dying. I dreamed my soul rose
unexpectedly, and looking back down on me, smiled
reassuringly, and I dreamed I was flying.
And far above, my eyes could clearly see
The Statue of Liberty, drifting away to sea
And I dreamed I was flying.
We come on a ship we call the Mayflower,
We come on a ship that sailed the moon
We come at the age's most uncertain hour
And sing the American tune
But it's all right, its all right
You can't be forever blessed
Still, tomorrow's gonna be another working day
And I'm trying to get some rest,
That's all, I'm trying to get some rest.
9.11の犠牲者の追悼式を見ていて、私の頭の中にはこの曲が繰り返し繰り返し流れていた。
1975年にポールサイモンが歌ったこの歌は若き日の日本の青年の心にアメリカを植え付けた。
ただ強く広大なアメリカだけではないアメリカ、それがこの曲だった。
それから37年、ポールは歳を取ったけど、この曲は変わらない・・・・
私のアメリカの原点です
Musician
American Tune
Lyrics by Paul Simon
Many's the time I've been mistaken, and many times confused
And I've often felt forsaken, and certainly misused.
But it's all right, it's all right, I'm just weary to my bones
Still, you don't expect to be bright and Bon Vivant
So far away from home, so far away from home.
I don't know a soul who's not been battered
Don't have a friend who feels at ease
Don't know a dream that's not been shattered
Or driven to its knees.
But it's all right, all right, We've lived so well so long
Still, when I think of the road we're traveling on,
I wonder what went wrong, I can't help it
I wonder what went wrong.
And I dreamed I was dying. I dreamed my soul rose
unexpectedly, and looking back down on me, smiled
reassuringly, and I dreamed I was flying.
And far above, my eyes could clearly see
The Statue of Liberty, drifting away to sea
And I dreamed I was flying.
We come on a ship we call the Mayflower,
We come on a ship that sailed the moon
We come at the age's most uncertain hour
And sing the American tune
But it's all right, its all right
You can't be forever blessed
Still, tomorrow's gonna be another working day
And I'm trying to get some rest,
That's all, I'm trying to get some rest.
9.11の犠牲者の追悼式を見ていて、私の頭の中にはこの曲が繰り返し繰り返し流れていた。
1975年にポールサイモンが歌ったこの歌は若き日の日本の青年の心にアメリカを植え付けた。
ただ強く広大なアメリカだけではないアメリカ、それがこの曲だった。
それから37年、ポールは歳を取ったけど、この曲は変わらない・・・・
私のアメリカの原点です
1981年のゴーストライダー Ⅳ
洋一はウエットスーツに着替えると新しく買ったばかりのアイパのツインフィンのボードを抱えて砂浜に駆け出して行った。優子は洋一から足元に脱ぎ捨てられたビーチサンダルに直線的に視線をうつした。さっきまで降っていた雨はすっかりあがり、オフショアの風が優子の長い黒髪を撫でつけていた。波は綺麗に整えられ規則正しく左から右に崩れて行く。朝日を浴びたその表面は無数の小さな鱗のように光を反射していた。
砂はさっきまで降っていた雨のせいで固く締まっている。それでも歩くと優子のクリームイエローのフレアスカートに砂が舞い上がった。
優子は防波堤の隅に腰をおろし、持ってきた文庫本のページをめくった。文庫本は書店のカバーもなく、表紙には無数のしみがあった。
本はヘミングウェイの「海流の中の島々」だ。優子はこの本を数十回読んでいる。途中までの時もあれば、最後まで読む時もある。ただ、いつも最初からしか読まないのだ。途中から休んで読むということは優子の流儀に反するらしい。だから最初から読む。
優子にとってその本は特別だった。優子はいつも思うのだ。今日はどんなライオンの夢が見られるのかと。
文庫本を1/3くらい読み進むと洋一が海からあがってきた。洋一の髪はあまり濡れていない。
いつもなら真っ黒な洋一も今年ばかりは普通の人と同じ肌の色をしている。洋一はもってきたポリタンクから勢いよく水を掛けながらタッパを脱ぎ、Tシャツと短パンに素早く着替えた。
お腹が空いたという優子にせつかれるように、サーフボードを車の上のサーフラックに固定して、車のエンジンを掛けた。洋一の車は中古のベージュ色のフローリアンだ。ディーゼルエンジンなので暖まるまでマフラーから黒い煙が出る。それにコラムシフトと来ているので運転には多少の慣れが必要である。
洋一の車にはステッカーが貼ってある。ひとつは馴染みの都内のサーフショップのもの。しかしこれが中々の曲者で、ここK沼の様な比較的部外者にオープンな場所ならいいがS里の様なローカル色の強いところに行くとたちまち部外者扱いをされる。まあ、部外者のレッテルを自ら貼っているのだから仕方のないことなのだが。
もうひとつはFENのステッカーだ。ブルーで大きくFENと書かれ、文字を取り囲むように同じブルーの線が描かれている。このシールは洋一が2年生の時に赤坂のテレビ局のイヴェントでもらったステッカーだった。洋一はこのステッカーが気にいっていた。それを観ているだけでまだ行ったことのないウェストコーストの雰囲気がして好きだった。前に乗っていた車からこのステッカーは丁寧にはがされてフローリンアンに移植されたものだ。だからシールの四隅をセロテープで補強してある。
車は134号線を南下した。由比ヶ浜海岸はまだ海の家の残滓がたたずんでいる。車はトンネルを抜け逗子海岸を過ぎ、渚橋のたもとに最近オープンしたファミリーレストランに入った。平日なので駐車場は空いている。出来るだけ日陰になるように大きな樹木の近くにフローリアンを停車させた。遠くから見るそれは大きな犬が気の下に蹲っているようにも見えた。
洋一も優子もここのクラブハウスサンドが好物である。アヴォガドも入ってボリュームもあるしカリッと焼かれたパンが美味しい。さらにこの店ではブルーリボンビールが置いてある。赤と白のアメリカのビールは今更どこにでもあるし、味も色も薄すぎて好きではなかった。このブルーリボンビールはアメリカでは一般的に飲まれているらしい。いるらしいといってももっぱら労働者が好んで飲むごく普通のビールということだったが、二人にとってこのごく普通というところが一番好きな理由だった。
二人は戸外のテラスに席を取った。ここ逗子海岸は穏やかな海岸だ。となりの材木座海岸と比べても波は静かだ。だからサーファーの姿はない。代わって無数のウィンドサーファーが浮かんでいるが、どうやら今日は風がなく彼らも苦労しているようだ。
夏も終わったが秋と呼ぶにはまだ早いこの時期が洋一は好きだった。風は適度に湿度を含んでいて優しかった。秋あかねがパラソルにとまった。
2012年11月1日木曜日
ブラウンとシュリンプ
英語で海老の事をprawnとshrimpと言います。もっと大きいのはlobsterと言いますが日本で言うロブスターは実は海老じゃなくザリガニの仲間なんですが、向うでは伊勢エビもロブスターになります。
オアフ島の北部カフクでは海老の養殖がさかんで、カフフクシュリンプなる海老の屋台が街道のあちこちに見られます。この場合はシュリンプですね。
ここまで来ると何となく大きいのがブラウンで小さいのがシュリンプと思ってしまうのですが、以前ヒースロー空港で生牡蠣と一緒に食べた海老はブラウンでした。ブラウンカクテルとしてメニューに載っていたそれはとても小さな海老でしたから、英国では小さい海老もブラウンと呼ぶようです。
漢字でもエビは海老、蝦、鰕、蛯などと書きますが、アメリカのシュリンプに当たる場合は蝦を使うことが多いようです。もっとももっと大きいものは海老を使うようです。
娘が生まれたお祝いに戴いた大きな海老は五色海老という南洋で捕れるものです。築地で生きているもの2匹購入して、風呂桶に入れていた事を思い出しました。
伊豆に潜りに行った時にめずらしいうちわ海老を捕まえた事があります。沖縄ではこの仲間にセミ海老というのがいて大変貴重なようです。もっともうちわ海老にはうちわ海老もどき(人間もどき・・・古いなー・・)というとても似ている海老がいて、目の付いているところが違うようです。
その海老はどうしたって??もちろんゼミ仲間で食べました・・・笑
人間の海老もいるようですね、その海老はあれから大人しくなったでしょうかね、相当危ない海老のようですから???
1981年のゴーストライダー Ⅲ
洋一は市ヶ谷の駅を降りて外堀通りに面した黒い建物を見上げていた。
学園祭の最終日に竹内マリアの曲がどこからともなく流れて来た時に、洋一はこれで本当に大学生活が終わるのだなぁと所在なくぼんやり考えていた。
大学は社会に出る前のモラトリアムだと言う人かいる。洋一は確かにそうだったが、同じ高校を出て医学系に進んだ友人には学生生活は勉強漬けの日々であったし、モラトリアムなどという言葉を使うことは出来なかった。
洋一は濃紺のスーツに白いカッターシャツ、ブルーのストライプのネクタイをしていた。唯一、洋一が拘ったのが靴である。普通なら黒のプレートゥが一般的であるが、洋一は少し紫がかった使い古した、いやいや、いっちょうらいのオールデンを履いていた。
洋一は今まで商社に的を絞り面接を受けてきたが、とある商社の面接でその考えが変わった。
その商社は集合するなり、学校別に部屋を区切り、面接を行っていた。その程度の事は差こそあれどこでも見受けられたが、ここの分類はとても変わっていた。
第一室東京大学様、第二室その他の国立大学様、第三室私立大学理系様、第四室私立大学文系様・・・・ここまで分かりやすい会社は初めてだった。
洋一は卒業して友人と会社を興そうと思っていた。洋一が企画したツアーやイベントはことごとく成功し、それまで一生懸命バイトをしても中々たまらなかったお金が一瞬にして稼ぐことが出来た。
洋一が就職活動をすることになったきっかけは友人の死である。仲の良かったその友人はM大学の商学部に在籍し、洋一よりひとつ下だった。洋一が初めて買ったサーフボードもその友人に譲り、洋一は念願のアイパのツインフィンを今は手に入れていた。
その友人の死は突然やってきた。飛行機事故だった。彼の葬儀はとても冷たい雨の中で行われた。
その時の彼の両親の悲痛な顔を洋一は忘れなかった。年老いた両親を残して先に逝ってしまったことは何にも代えがたい苦しみであり、両親は息子が卒業して会社には行って初めて給料をもらってくるのが夢だったと泣きながら話していたことが、洋一の頭の中でこだましていた。
もうひとつ洋一を就職に向かわせたのは先生の一言だった。
独立するのは良いと思うが、一度、社会に出てからでも遅くないんじゃないだろうか、今立ってる場所とはまた違う場所で見まわした時に新しい発見があるし、それまで培った経験や人脈は想像以上に大きいというものだった。
確かに洋一もその理屈には納得していた。
洋一は面接を受けていた。面接の内容はごく一般的なもので、洋一が期待していた音楽の話はひとつもなかった。面接官の服装も音楽業界の人とは思えないような保守的なもので洋一の靴だけが浮いていた。
その会社は洋一の好きなビートルズなど洋楽の分野では日本を代表するものであったが、建物を出る頃にはこの会社の20年後が心配になった。もちろん合否などどうでもよくなっていた。
洋一は優子と待ち合わせはている赤坂見付駅まで少し遠いと思ったが、外堀通りの建物のガラスに西陽が映り込み秋の気配のました街並みを見ながらもう歩きはじめていた。
2012年10月31日水曜日
1981年のゴーストライダー Ⅱ
洋一は原宿にあるライブハウスの前の歩道に立っていた。
歩道に取り付けられたカードレールに足を掛けて持ってきたシェラデザインのディパックの中をもぞもぞと探し物をしていた。
ディパックの中には少しくたびれたグレーのフーデットパーカーとJAZZ LIFEという音楽専門の雑誌が詰め込まれていたので、洋一はそれらを一度取り出して丹念にバックの底を探した。
しかし、探し物は見つからなかった。
落胆しかけた洋一の前に少しヒールの高いウエッジにのパンツ、そして白のブラウスを着た健康的に日焼けしたひとりの女性が現れた。
女性は「今、荷物を取りだした時に一緒にこのチケットが落ちたと思うんだけど、これ違う?」とぶっきらぼうだけどどこか悪戯っぽい口調で洋一に話しかけてきた。
そのチケットは洋一がバイトで貯めたお金でやっと買った今日のライブのチケットだった。
洋一はチケットを受け取り、その女性にお礼を言い頭を軽く下げたと思った瞬間、もうその女性はその場から姿を消していた。
洋一はライブハウスへ向かう小道でチケットの表に印刷された真っ赤な球体の絵を丹念に見ていた。
今日のライブに出演するバンド名を直訳すればお天気予報だ。何となく人を食ったようなこのバンドの音楽はジャズのグループ感に今風のエレクトリックな味付けをしたものだった。
洋一はその中でもベーシストが特に好きだった。
ライブが始まると、観客は総立ちになり、彼らの音楽に熱狂した。アンコールの曲も終わり、灯りが付けられライブの終わりを告げた。
洋一は出口に向かおうとゆっくりデイパックを担ぎ直すと、すぐ横に先程の女性が背の高い男性と一緒に立っていることに気づいた。
洋一は彼女に再度お礼を言い軽く会釈して、足早に出口に向かおうとしたが、彼女の方が洋一のパーカー傍を持って「待って」と言った。
一緒にいた男性は彼女に洗面所に出掛けてくるといい、その場を離れた。
洋一は彼女に「ライブに彼と来ていたんだね」と少しばつが悪そうに話しかけた。
彼女は「彼氏じゃないよ、友逹、そう友達の一人」
彼女のその言い方からは簡単には信じられないけれど、まあそんな事はどうでもいいかと思い直し、彼女の指先に目をやった。
日焼けした彼女の腕の先に白く日焼け後の残った指輪の跡がくっきりと目に入った。
彼女は黒いバッグから小さな紙切れを出して、「今度、このライブに行くの、もし良かったら行かない?何となく音楽の趣味似ていそうだから・・・実は今日の人はあんまり好きじゃないみたい、無理してきた感じなの、彼はもっと黒人のソウルフルな音楽が好き見たい・・」
洋一はそのチケットを受け取ると、彼女にそのチケット代のことを訪ねた。
彼女は笑って「これもらいものだからタダなの、大丈夫」と言ってもう一度クスッと笑った。
彼女は洗面所から出てきた男性と洋一の方に手を振りながらライブ会場を後にした。
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