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2012年11月16日金曜日

1981年のゴーストライダー Ⅸ


Ⅸ

優子は助手席に乗り込むと同時にバニティミラーを見ながら黒いシンプルな髪留めをバッグから取り出し、それで髪を束ねながら洋一に向かってこのまま西に車を走らせてと短く言葉をきった。洋一は軽く頷き車を発進させた。

幼いころ優子が姉のように慕っていた8つ年上の先輩がテレビ局で制作の現場にいた。優子は半年前からその先輩に頼まれて製作現場の雑用のアルバイトをしていた。今日はその徹夜明けのバイトの日だった。さすがに優子の顔には疲労の跡がうかがえる。まだ、若いつもりだったが24時間以上起きていることがこの頃は苦痛に感じ始めた。少し前まで徹夜で試験勉強することも、もちろん遊ぶことも全然平気だったのにいまでは体の全ての細胞が睡眠を欲しがるようになった。優子は目を閉じた。

洋一のフローリンアンは目黒通りから環状八号線を右折し、第三京浜を西に向かった。洋一は西に向けて車を走らせることが何故か好きだった。入学したばかりの頃、オレゴントレイルという本が教材に使われていた授業を受けた。ゴールドラッシュのそれと同じように人々が東から西にフロンティアという夢を求めて旅をする話だった。洋一は西に向かうといつもこの本を思い出す。

洋一は優子を起こさないように注意して、オーディオのつまみを出来る限り絞ってからエアーサプライの「ロストインラブ」が入ったテープをセットした。優子はこの手の音楽はあまり得意でない。優子が聞くのはもっとリズムがアップテンポな曲が多い。それに比べて洋一は元々ジャズが好きだったこともあって巷でAORといわれているその手の軽い音楽も嗜んだ。

優子が目を覚ました。優子は眠そうな目をして両手の掌を車の天井に向けて大きく開いた。洋一はテープをとめラジオに切り替えた。

洋一は優子と行った昨年のスキーの事を思い出していた。志賀に行く途中、このフローリアンがガス欠になって立ち往生した。来た道にはガソリンスタントはなかった。北に進むか南に進むか迷った挙句、優子が決断して北に歩いた。歩いて15分でガソリンスタンドを見つけてきたのだ。後で分かったのだが南に行っていれば1時間以上歩いてもガソリンスタンドは見つからなかったのである。優子は時々洋一が持っていないような勘が働くことがある。女の直感といってしまえば身も蓋もないが、優子のそれは動物的でもあった。優子は時々、猫の様な目をすることがある。猫ではない、猫科の動物にオセロットという山猫がいるがそれに似ている。その目は笑うと現れる。切れ長の優子の目は笑うと少したれ目になるのだ。

志賀といっても二人が行った先はさらにその奥にある奥志賀という場所だった。チェーンを付けていても道路は氷の上に雪で化粧をしたように真っ白でハンドルを強く握ればすぐ横滑りが始まる。それはまるで氷の上を革靴で歩くようで滑稽でもあった。のろのろと走るフローリアンの横を長いピンスパイクを付けた車が何台も追い越して行った。

二人が宿泊したホテルのロビーには中央に大きなマントルピースがあった。激しく焔をあげているそれは静寂な白い世界と対象的に際立っていた。時折、薪のはぜる音がロビーに響いていた。

洋一は義務教育を受ける前からスキーを履いていた。冬になると母親が洋一をスキーに連れていった。その頃、洋一の父親と母親は折り合いが悪く、それにもまして父親は雪が苦手のようで、洋一には父と雪のあるところに行った記憶がない。連れて行くと言っても洋一の家には車はなく、また日帰りで重いスキーを担いで電車を乗り継いで行くわけだから、場所も限られる。もちろん特急列車などには乗らない。全て普通列車だ。おかげで洋一は小学校に上がる頃には住んでいる街からこれらのスキー場があるところまでの停車駅を諳んじて言えるようになっていた。

優子はスキーを2回しかやったことがないといっていた。横浜生まれ、横浜育ちで寒いところが苦手と言っていたから、洋一はよく自分の誘いに乗ったものだと感心していたが、優子はスキーをすることが目的ではなく、あるものが見たいと言って付いてきたのだ。

翌朝、二人はリフトを乗り継ぎ山頂を目指していた。頬に当たる風は冷たさを通り越して刺さるように痛い。二人とも顔を出来るだけ外気に触れないようにハイネックのアンダーシャツをたぐりあげた。リフトを降りて、尾根沿いにある雪庇のように一段高くなった場所に上った。優子が見たいと言っていた景色が朝の太陽を浴びて二人の前に現れた。

気温が低くかつ太陽が出ている早朝にしか現れないダイヤモンドダストだ。空気中の水蒸気が一瞬にして凍ってまるでダイヤモンドのように中に舞って輝いて見える。気温の低い北海道では平地でもよく見られる現象らしいが、東京近郊では高い山にそして晴れた寒い晴天の時に登らなければ見られない現象だ。
水晶のような形をしたそれが洋一と優子の御揃いのブルーのメスナーのダウンにとまった。



2012年11月15日木曜日

オムライス 中目黒「キッチンパンチ」 西麻布「麻布食堂」


オムライス 中目黒 キッチンパンチ 麻布食堂

男は卵が好きである。卵が嫌いな男がいたらお目に掛りたいと思う。旦那を黙らせるには卵料理を食べさせておけばよいという格言もあるくらいだから満更でもあるまい。

私の育った家は満州からの引揚者が住めるように市から提供されたものだったが、賃貸ではなく格安で祖母が購入していた。その家は8畳の居間に3畳の部屋と台所、風呂、トイレのついた粗末な小さな家だった(のちに叔父が6畳を増築した)。

左隣の家は夫婦で居酒屋を営んでいたようである(記憶が曖昧なので)居酒屋といっても普通の住宅の玄関(当時の玄関は木製の引き戸)の先に小さなテーブルが置いてある程度の物で大きなおでん用の鍋がひとつ鎮座していた。外から見ると提灯が無ければお店とはわからない代物だった。

右隣の家は店ではなかったが、その家の主人は不定期に出掛けて行く。黒い荷台の付いたガシッとした自転車に段ボールを山積みにして出掛けていた。帰ってくるときにはその段ボールはなくなっていた。市街地の中心部にあった「あたりや」というパチンコ屋に景品を運ぶのがご主人の仕事だったようだ。時折、私は景品のお菓子をもらった。その家には真っ白いスピッツがいた。綺麗な犬だったがよく吠えた。

そのさらに右隣の家が今回のオムライスにまつわる家である。この家はきちんと暖簾を出して商いをしていた。屋号は「ことぶきや」だったと思う。息子は東京の大学に進学し、都内で飲食関係の仕事に従事したあと、故郷に戻ってきていた。洋食、中華といわゆる町の食堂のメニューだったが、どれを食べても美味しかった。私の大好物は紛れもなくそのオムライスだった。チキンライスのそれは残念ながらチキンではなくハムだったがさらっとしていたがケチャップがうまく味を整え、とても薄い卵焼きがその周りを包んでいた。スプーンでこの薄い卵を破りながらチキンライスを口に運ぶ瞬間は子供心に喜びを感じたものだ。

というわけで私のオムライスは断然、この手の物である。もちろんトロトロの卵のオムライスも食べたことはある。こちらが美味しいという人もいると思うし、今はこちらの方が主流なのかもしれないが、私は薄々の卵とチキンライスそしてトマトケチャップのオムライスが私の目するものであると断言しておこう。そしてもうひとつこの頃洋食屋に行くと目の玉の飛び出すような価格を付けている店がある。これはいただけない。オムライスの価格は1000円以下、これがもう一つの私のルールである。

大学生の頃、四谷のしんみち通りにある洋食屋でオムライスを食した事がある。値段はそこそだったが上に掛っているデミグラソースが甘く好みではなかった。店によってはお客の希望によってソースを選ばせる店もあるがこれも何か未練がましくていただけない。私が食べたいのは「これが私の店のオムライスです。このままどうぞ召し上がり下さい」というものなのだ。客に媚びるように客を満足させようとする姿が見え隠れする気がする。

西麻布の住宅街のビルの地下に「麻布食堂」という店がある。昼は945円で食べられるが夜になると1260円と高くなるのが気にかかるが、オムライスはしごく真っ当正統派である。卵はどこまで美しい黄色でなめらかな肌はスプーンを入れるのがもったいない位である。ここのオムライスは貴婦人のようである。ただしこの店もソースが選べるところが私の流儀ではないのと、中のチキンライスがやや高級すぎるが卵のすべすべ感があまりにも麗しく許すことにする(笑)是非、高貴なオムライスを食したいと思うならばこの店をお薦めする。

もうひとつとっておきの店がある。中目黒にある「キッチンパンチ」。前者が貴婦人ならこちらはナポリの下町で、大家族と一緒に暮らす気立てよい生娘のようである。元気が良くてそれでいて底抜けに明るい。やや小ぶりの皿に盛られたオムライスは食べて元気になる。オムライスの話なのに申し訳ない気もするが、この店のカキフライとレバーフライは絶品である。牡蠣の無い時期はレバーフライで牡蠣の時期は牡蠣フライとなるスイッチメニューである。牡蠣は小ぶりの牡蠣2個を一つにしてフライにするので、熱々でそれでいて柔らかく風味も良い。これは本当に絶品である。もうひとつのレバーフライも臭みが全くなく、それでいて柔らかい。暑い夏にキンキンに冷やしたビールと併せれば無敵の組み合わせだ。

話は脱線したが要するに私のオムライスもまた舌の記憶なのである。

 

2012年11月14日水曜日

1981年のゴーストライダー Ⅷ


Ⅷ

洋一のフローリアンはエンジンを掛けるのにチョッとしたコツがある。ディーゼルエンジンなのでチョークを引いてエンジンにいれる空気の量を調整しなければならない。寒い冬は少し多めに、そして暖気されたあとは引かなくてもよいといった塩梅に天候や温度に左右される。一番やっかいなのは雨が降った時だ。どうもエンジンがへそを曲げるらしく、洋一でも旨く掛らない事が多い。掛ったとしてもエンジンは洋一に不満を言うが如く黒い煙を吐いてまるで監督に向かって何とか演目に応じた我儘な女優といった素振りをするのだ。

洋一のフローリアンにはフリーマーケットで購入した安物のサーフボードラックが付いている。中古で買ったそれは緑色の塗装がところどころ剥がれてゴムも頼りない代物だった。このラックの事をアロハサーフボードラックというそうだ。何がアロハなのか分からないがこの奇妙なネーミングのそいつとは終生このフローリアンが廃車になるまで共にすることになる。

洋一はフローリアンを東に向けて運転していた。車が飯倉の交差点に差し掛かる頃、東の空が明るくなってきた。洋一はこの前初めて飯倉を「いいぐら」と読むということを知った。上京して5年目の秋だった。

色を持たなかった洋一のフローリアンのボンネットも、本来のベージュ色が太陽の光に照らされ金色に光って見えた。

洋一は24時間営業をしているイタリアンレストランの横で車を止めた。優子との待ち合わせの時間にはまだすこし早かった。洋一は店の中でひとり時間をつぶすことがあまり得意ではなかった。洋一はカーラジオのスイッチを回した。しばらく回しながら周波数をいつも聞きなれたFENに設定しようとするがここは横浜と違いどう調整しても雑音が多かった。洋一は雑音のままラジオを聴いていた。

ラジオからレイパーカーJrのA woman needs loveが流れてきた。

洋一はこの曲のWOMANが単数形なのにNEEDSが複数形でLOVEが単数形なのかぼっーと考えていた。

曲がジョンレノンのStarting Overに変わる頃、道路の反対側のタクシーから降りてくる優子を見つけた。優子は足早に道路を横切り洋一に手を振ってそのまま助手席に滑り込んだ。
 
 
 

SNSと著作権

音楽の編集をしていて日本のメーカー主導で作ったソフトの使いにくさを痛感した人は私の周りにたくさんいる。

彼らは著作権保護という側面ばかり見て、ユーザーを見ていない。だから使いにくいソフトは結局削除され違うソフトや形式に置き変えられる。

現在のS***の凋落は今に始まった事ではあるまい。傘下にレコード会社を持つことで、製品開発の自由度を奪う。本末転倒。

時代は変化している。世界と並列に繋がることのできるような世界では、レコード会社の作るピラミッドは機能しない。

一部の超有名アーティストしかCDを発売出来ない時代ではない。

若手のアーティストは自分で有料のダウンロード出来るサイトを持っている。それでいて格安である。

著作権というけれど多くのアーティストはUTUBEに無料で楽曲を提供し我々はだだで聴くことが出来る。

結局、よくない利益はこのよに残らないの例えか・・・・

30年以上前にそのレコード会社の面接に行った。

あの時背広を着て学校名で判断していた人達は今どこにいったのだろう・・・・・・

会社も人が作る例えか・・・


追伸
amber navran bandはこのDLやっています。i tuneではEP局しか入手出来ませんが、このサイトではわずか10ドル(10ドル以上厚志でというのが良いですね)でアルバムを購入できます。
形式はMP3ですが問題はないでしょう。お薦めなので試してみて下さい。CDもレコードレーベルも要らない世界が実感できますよ・・・

http://www.ambernavran.com/




2012年11月13日火曜日

うなぎ 鰻


うなぎ(鰻)

私の育った街は川に囲まれていた。すぐ裏手には渡良瀬川が流れていたが当時のそれは悪名高い鉱毒こそ無くなったものの、様々な生活排水が流れ込み綺麗ではなかった。魚といえばハヤ(私達はそう呼んでいた=ウグイ 鯎)や毒魚のギギなどしかいなかった。それでも少し足を延ばせば山女や岩魚を捕ることもできた。

近くにいた両親の友人一家が引っ越していった郊外の住宅地を流れる川にはイモリやうなぎがいた。うなぎといってもお腹に斑点が七つある八つ目うなぎである。うなぎ捕りに使う魚篭は入口が返しになっていて魚が逃げないようになっており、一番奥に石で潰したタニシを布に包んで入れてある。その魚篭を川のあちこちに石の重りをつけて一晩沈めておく。翌朝、上げてみるとまんまとうなぎが入っているという訳である。私はこの八つ目うなぎを一度も食した事がないし、たぶんこれからも食すことはないと思う。 

話は変わるがうなぎの卵が遠く北マリアナ海溝で見つかったとテレビで放映していた。うなぎは稚魚(シラスウナギ)を河口で捕り、これを養殖させるわけであるが、どうやらうなぎの生態は未だ詳しくは解明されていない様子である。 

私が幼いころ、両親がうなぎを食べに連れて行ってくれた店は家からそう遠くない(当時の私にはとても遠く感じたが)ところにあった。名前は忘れたが麻の白い暖簾に墨字で「うなぎ」と書かれていた。店は小さいながらも小綺麗で、玄関と通路にはいつも水が打ってあった。その店のうなぎは旨かった。子供心に美味しいと感じた。店の前はいつもその美味しい香りが漂っていた。 

うなぎは好きな人と嫌いな人が分かれると言う。あの姿が苦手だと言う人もいれば、美味しいうなぎを食べたことが無いという人もいる。直木賞をとった四国出身の男性作家は後者で大人になって初めて美味しいうなぎを食して好きになったと何かに書いてあったが、私の場合は少し違う、つまり原体験は美味しかったのだ。子供にうなぎの味が分かるはずもないと叱責されそうだが、あのうなぎは確かに美味しかったのだ。 

上京してうなぎを食す機会が無かったわけではない。しかしながら貧乏学生、薄給のサラリーマンの食べられるそれはどれも身は硬く骨っぽく、表面には水飴の様なベットリしたものが付いていた。こうして私は暫くうなぎからは遠ざかることになった。 

関西は腹開き、関東は背開きという。私にはどうでもよい。それより、うなぎを蒸すか蒸さないかが大切である。関西や名古屋でうなぎを食したことがある。名古屋の弼まぶしはそれなりに美味しいと思うが、蒸さない関西のうなぎはどうも苦手である。別嬪という言葉の由来はこのうなぎから来ている。豊橋の老舗のうなぎ屋(丸よ)が特別に美味しいうなぎを指して別品=べっぴんと呼んだことで、この意味が拡大し美しい女性を別嬪と呼ぶようになったと聞くが、なんともうなぎが転じたとは面白い。 

一度だけ海外でうなぎを食べたことがある。もちろん、日本式のうな重である。食べたのは高級ブティックが立ち並ぶパリのサントノーレ通り。お昼時を過ぎたそのお店は比較的空いていて私たち以外に数組の客がいただけだった。東麻布に本店のあるN岩というその店はガイドブックには必ず載っている有名店である。日本と同じように30分以上待って恭しく運ばれてきたうなぎを食して愕然とした。まるでゴムのようである。噛み切れない。たれやご飯は普通に美味しいのにうなぎが全然違う。あたりを見回すと、金髪を肩のあたりまで伸ばして指には数カラットもあろうかと思う宝石を身に付けたマダムが何も言わず美味しそうに無言で食していた。あとで分かったことなのだが、どうも欧州のうなぎは日本の物とは種類が違うらしい。

うなぎには綺麗な水が必要といわれる。うなぎの臭みを抜くために1.2日その綺麗な水の中で活かしておくことが肝要らしい。老舗のうなぎ屋には井戸があってその水が大切な役目を果たすようだ。三島は富士の伏流水が市内至る所に流れていてこの水を利用してうなぎ屋が多いことでも有名である。偶然にも銀座からこの三島に住みか(居だけでなく事務所も)を移した弁護士の先生がいることもあり、三島に出掛けることは多い。というよりこのうなぎを目当てに仕事を無理やりつくっていると勘繰られそうである。私は三島広小路の「桜屋」が好きである。ここのうなぎはふっくらしている。そして臭みが例によって綺麗に消されている。店の裏手を覗くとこれから調理されようとしているうなぎが水色のプラスチックの大きな籠の中で元気に動いている。それを若い職人が数匹選んで調理場に持っていく。

世の中に天然もの礼賛の流れがあるが、私はこれに異を唱えたい。既出の東麻布の店でもまた都筑区にある某店でも天然うなぎを提供するが、恐ろしく値段が高い割に硬いと思う。あれが弾力だと言われればそれまでだが、口の中でホロッと蕩けるようなうなぎが私は断じて美味しいと思う。 

渋谷に「うな鐡」という店がある。今は区画整理され綺麗になってしまったが、井の頭線の出入り口に程近い大衆店である。30年も前になるが私の様な薄給のサラリーマンでも食べられる店だった。この店はうなぎを水に付けて焼く、それによって無駄な脂が程良く落ちて、よく蒸したうなぎと蒸さないうなぎの7対3近く蒸したうなぎ寄りの物を提供する。1000円で食べられるうな丼は特筆ものだ。 

うなぎ懐石なる店がある。フランスのタイヤメーカーのランキング本にはこの手の店が星を付けて載っているが私に言わせればうなぎはうなぎである。邪道以外の何物でもない。

横浜に住むようになって東京に比べて美味しいうなぎ屋が少ないことに驚かされる。辛口の「八十八」とやや甘口の「わかな」が双璧であったが、「八十八」は残念ながら数年前に無くなってしまった。山口瞳氏の著作にも登場するその「八十八」が昨年の開港祭で期間限定復活したのである。私が「八十八」の話題をブログに書いていたところ、相手よりお誘いのメールが来た。もちろん、誘いに乗ってのこのこ出掛けて行きうなぎ弁当を4つ買い求めた。そのお味はこれ以上ない美味しい辛口のぎりぎりの旨さ(これ相当な褒め言葉)。店の復活も期待される。

週末鎌倉で過ごすことの多いこの頃は自転車でお昼を食べに行くことも多く、由比ヶ浜通りの「つるや」はお薦め。原材料高騰の時も旧価格を維持していたが、つい最近1割値上げしたがそれでも他の店よりは安い。何しろここのご飯が美味しい、ふっくらとして炊きたてのそれはつやつやしていてうなぎのたれを身にまとい妖艶といえる代物である。あればの話だが、うなぎの肝を使った「きもつく」は酒のあてには最高である。これ以外にも鎌倉には他に若宮大路のK家やA家などもあるが、私にはやや甘口でやはり「つるや」を選んでしまう。 

数十年前に私の車の師匠でもある翁に帝釈天の参道にある「川千家」「K甚」に連れて行ってもらった。どちらも美味であったが、団体客が多いK甚より「川千家」が贔屓になった。ここのうなぎはかなりレベルが高いが小一時間待たされるのはご愛敬である。

老舗のうなぎ屋の中には予約の中々取れない店もある。浅草にある「H小川」もそうである。予約が取れないのは仕方ないにしても、あの無愛想な電話の応対は如何なものであろうか。人柄の良いご主人が焼くうなぎは辛口でさっぱりしていると、かの作家も書いていたのに残念である。神田明神下にある「K」も食わしてやるという気持ちが見え見えである。

本店は神田にある「菊川」も好きである。近いので用賀に行くことが多いが、この店は最初から「うちは味の不安定な天然ではなく吟味した養殖物を使う」と明言している潔さも良しとしたい。特にお薦めは白焼き。

あーあ、お腹が空いてきたまだ9時だ。今日は墨田に所用がある。帝釈天も程近い、よしと思う横から今日は時間がないと言われた。言われれば言われるほど食べたい。それがうなぎである。曼の意味を持つ「つやつやのふっくらしたうなぎ」こそ鰻なのである。
 
「はっさんちょいと山椒掛け過ぎやありませんか?」「いや、いいって?」このブログサンショウ願います・・・・・・・
 
 

2012年11月12日月曜日

とんかつ


とんかつ 

家で母親が作った薄くて小さいそれは決して豪華ではなかったが素朴で美味しかった。揚げたてのそれにきゃべつをいっぱいのせて、ソースを上から一杯かけて食した。当時のそれは子供心にご馳走とよぶにふさわしいものだった。子供の頃のとんかつはこのように自分の手の平より小さなものだった。 

東京に住み始めて山手線の外回りと内回りが理解できるようになったころ、目黒にある「とんき」に入った。目黒の駅前と権の助坂に2店舗あるが、微妙に揚げ方か違う気がする。後者は肉の火の入れ具合が絶妙で逆に言うと火入れが甘いというか、余熱で芯まで火を入れる類である。そこへいくと駅前のそれはカリッとしていて、火入れは十分である。まあ後は好みである。

断っておくが、私は断然ひれかつ派である。ロースこそとんかつの王道という方には申し訳ないが私はあの脂身が苦手なのである。そんな訳でここに出てくるとんかつはほとんど「ひれかつ」に翻訳して戴けると幸甚である。 

私はかつ本体もさることながら脇役のきゃべつを大切にしている。そういえば私が今まで好きだった俳優も女優も主役よりどちらかというバイプレイヤー=脇役であった。
きゃべつの切り方は適当にスライサーで切ったものが論外なのは当然として、キャベツにも部位があるのでそれを切り分けて欲しい。ある料理店が天皇家に出すものは芯の部分だけを使っていると言っていた。私はそれじゃ折角のきゃべつの味がしないのではと心配する。私の心配など無用とそのお店の人には切って捨てられてしまうであろうが、きゃべつ産地の県人としては譲れない。芯の部分は柔らかいが味がない、外側はややごわごわする。だから私は外側の葉を2.3枚とってから芯7対外3位の塩梅で細く切ったものがきだ。 

神宮前にある有名なとんかつやさんにお客様に連れていかれた記憶がある。その店のとんかつはキャッチフレーズは通り箸で切れる柔らかさである。しかし残念ながら肉の味がしない。この店のカツサンドは今や全国区になり私も好物であるが、とんかつとなると躊躇してしまうのだ。 

目黒に「天津」という私の大好きな店があった。つまり過去形なのである。今はもうない。この店は目黒と恵比寿の中間、三田にあった。断っておくが港区の三田ではない目黒区の三田。目黒のさんまに出てくる茶屋のあった場所が女房の実家である。

実家では事あるごとにここの出前を注文する。もちろん出前でも旨いのだが、店に出掛けて行って揚げたてを食べるのはまた格別である。ここの名物に「三食揚げ」という、とんかつ、海老フライ、ホタテフライの3つが一皿に盛られたものがあった。このホタテの旨い事、甘みがぎゅっと閉じ込められている。さらに豚肉はひれ肉を使っているのだが柔らかくカリッとして旨い。何でもここの店主は豚肉を良く揚げないと気持ちが悪いといい、火入れの甘いそれを敬遠していた珍しいご仁であった。

大学の近くに「三金」というとんかつ屋があった。反対側のビルの二階に移動してしまったが今もある。当時私はお金の無い大学生、ここのとんかつを食べたかったがいつも学食のかつ丼でお腹を満たしていた。 

話は逸れるが、私の住んでいた群馬県のK市は昭和の始め頃まで「日本の上海」と呼ばれた繊維業の盛んな町であった。市内にはそんな当時の面影を残す三角屋根の工場が数多く残っていたが私がその街を出る頃にはそのほとんどから機織りの音は聞こえなかった。

私の祖母もそうであったようにこの街を含めて北関東からは多くの満州開拓団を送り出していたようである。そんな満州からの引揚者が作ったと言われるものに餃子とソースかつ丼があるといわれている。餃子は宇都宮が有名だが、近年では浜松や福岡などB級グルメの代表として各地で町おこしの目玉になっている。 

そこへ行くとソースかつ丼はマイナーである。我こそはソースかつ丼の発祥地として福井市の「J軒」が雑誌にも取り上げられていたがまだ食した事はない。ただ、写真を見るとキャベツの上に切られたカツがのっている。さらに掛けられたソースの色が濃い。これは私が食べていたものとは違う。 

ここK市では「志多見屋」という老舗が有名である。今では市内に我こそが発祥の店と名を打った店を見かけるがそのほとんどが私のいた当時はうどん屋(市内にはうどん屋も多い)だったり普通の定食屋だったりする。「志多見屋」はその名前を聞くと時代遅れとなった暴走族のネーミングにも似ているが、数年前に訪ねた時に食べたそれは幼いころ食べていたものと同じだった。

熱々のご飯の上に小さなひれかつがのっている。もちろん丸のままのかつ。味はソースが強すぎない。 

そうか、かつは小さかったんだ。なるほどK市にいたころには大きなかつは見かけたことは無かった。母親が特別じゃなかったのか、今気付いたことだった。
 
 
 

ビジネスマインドの持ち方

今日、イトイサさんのブログ私がかねてより思っていた事が書いてありました。膝を打つの例えとはまさにこのことです。そこで私見を交えてもう少し付け足してみます。

皆さんは「最後から2番目の恋」という中井貴一さんと小泉今日子さん主演のドラマを観た事がありますか?

私なんぞは舞台が鎌倉ということもあり録画までして観ていましたが、そのドラマの中で小泉今日子さんが中井さんに向かってこんなセリフをしゃべります「私は地雷一杯持ってますから」「結構多いですよ」・・・・・

何故このセリフが気になったかと言えば普段の会話でこうしたやりとりがあると私は嫌悪するのに、あまり嫌な感じがしなかったからです。何故嫌悪するかは後で説明しますが、きっとこの会話が男女間の恋愛感情の中で成立した会話だからかもしれません。

では何故嫌悪するか、それは私達のビジネスにおいてもこの手の自己防衛を前提にした言葉を口にする輩が実に多いからです。

イトイさんに言わせれば相手に「寛容」求めている訳ですが、本当に多いから困りものです。

いつだったかとある民事訴訟において議論も山場を迎え戦略も構築し終えた時にクライアントが全ての議論を水の泡にさせてしまうような発言をしたのです。出席者の冷たい目線を感じたのかクライアントは「私は何も分からないので失礼しました」とすぐさま訂正しました。

これにはさすが出席していたスタッフは二の句も出なかったその時に、主任弁護をしていたとある先生が「何も知らないという詭弁は必要ありません。あなたの発言はすでに発せられてしまった。つまりあなたはこの場にいる全員があなたにとって最良と思える策を考えている時に私欲にかられてそのような発言をしてしまったと訂正するべきでしょう」

これにはクライアントも下を向いたまま顔を上げることは出来ませんでしたが、結果としてこの訴訟は大勝し、クライアントの希望金額を大幅に上回る金額を手にしたのでした。

こんな厳しい場面でなくても、初対面や数回しかあったことのない人に「私は裏も表もなく」とか「経済には疎いもので」「全くの味音痴なので」「お金には全く興味が無くて」・・・・

オイオイ、じゃ聞くけどお前さんはそう言わなければ人に裏と表のある態度をするのかい?それとも経済に疎いからその性で他の人に大損させても責任は取りませんというんかい、味音痴なのにどこに連れて行けというんだい、それとも俺が連れて行く店はどこも五十歩百歩とでもいうのかい?

これは極端だとしても私にはこういう言葉を発する輩とは仕事をしたくありません。要するに彼には大人の自己責任がないのです。まさにビジネスマインドの欠除であります。

ビジネスで一番大切なのは相手を理解する事です。どれくらい相手を共感できるかがビジネスの成否と言っても過言ではないと思うのです。でも共感するにはそれなりの努力と知識が必要なのは言うまでもありませんが。