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2012年12月18日火曜日

小説と写真

今ここに一冊の写真集がある。いや写真帖か。

私は氏の「図鑑少年」を読んでからずっと気になっていた。「図鑑少年」に主語は登場しない。

どこまでも客観的に風景や心情を即物的に捉える。これが私には心地よいと思った。

この写真帖は1980年代の初頭にニューヨークのおもにイーストビレッジに氏が暮らしていた頃に撮り集めたものだ。

氏は私より一回りは違わないが先輩である。つまり27.28歳の女性が今のような治安ではない80年代にひとりNYで暮らしていたのだ。

ニューヨークの地下鉄は犯罪の象徴であり、きっとそんな街に一人で出掛けることはきっとかなりの覚悟が必要だったはずだ。むしろ覚悟というより諦念に近いものか。

私も体が覚えていることがある。危険な街の中に放り出されたらまず自分に出来る事は五感を研ぎ澄ますことだ。聴覚は鋭敏になり、匂いや光にも敏感になる。

きっと彼女はそんな諦念の中に自信を見つけて、街に出たのだろう。

写真を見ると分かる。氏がどこまでも存在をなくしていることを。まるで透明になったように。

そうすることでありのまま景色が違った意味を帯びてくる。

竹田花氏の写真集を思い出す。写真を撮ると言う事は極限まで自己を透明にして表現する事なのか、小説もまた自己を極限まで解体し再構築するのだとすれば、優れた文章にはこの共通する無為なものが必要となる。

私にはそのどちらもそのかけらも永久に見つけることは出来ないだろう。

パリの蚤の市を歩いている時に妙な緊張感が突然私の背中に走った。

妻は能天気に足取りも軽く喜び勇んでいたが、その直後、数人の子供達に囲まれライターで妻のコートの肩口に火を付けられた。

私が追い払うと逃げて行ったので大事には至らなかったが、その時の子供達のひそひそ声や大人の女の笑い声がスローモーションの映像のようにはっきりと今でも瞼の裏側にこびりついている。

あのときの緊張感こそが今の東京にはないものだったのかもしれない。

氏は私の大学の先輩でもある。当時の先輩達はこうして海外に出て行き貴重な経験をしてそれを豊饒な記憶と共に日本に持ち帰って来ている。

驥尾に付す。そんな言葉を思い出す。



2012年12月16日日曜日

月の光


月の光

その女の子は不思議な魅力を持っていた。万人からすれば決して美人の類ではない。しかし何故か男性を引きつける不思議な魅力を持っていた。コケティッシュという言葉がある。彼女の場合はその容姿や表情は決してコケティッシュと言うわけではない。どちらかというと都会的とは正反対の牧歌的で素朴な穏やかなものだった。ところが彼女が話し始めると人々は彼女の魅力に取りつかれていく。まるで魔法でも掛けられたように彼女の言葉とそれを裏付けるしぐさに陶酔するのである。

そんな彼女と初めて出会ったのは彼が大学3年の時だった。彼の親友から紹介されたのだ。当時の彼にはすでに恋人として付き合っている3歳下の彼女がいた。友人と彼女の会話や一連の動作はどうみても恋人たちのそれと同じで、だから彼は二人の関係をあらためて聞きただすこともしなかった。

それから1年が過ぎようとしていた。彼は相変わらず友人や彼女そして何人かの友達を加え、一緒に旅行に出掛けたり、お酒を飲んだりしていた。

ある夏の終わりに伊豆のペンションに6.7人で出掛けた。海水浴には遅すぎたが夏の名残を楽しむかのように12日で出掛けた。そのとき部屋の窓辺で彼は名前も知らない親友の友人とその彼女がとても親密に楽しそうにおしゃべりをしていたのを見てしまった。話の内容は分からないが、その姿はどうみても恋人同士だ。彼女の微笑み、髪をさわる仕草、そのどれをとっても恋人達のみせるものたった。彼は困惑した。

彼は親友と二人になったときに、親友に向かって「本当に君の恋人なの」と恐る恐る言葉をひとつずつ噛みしめるように尋ねた。すると親友は笑いながら「いや彼女はみんなの恋人なんだ。皆が彼女に恋しているのさ。君だってそうなんじゃないのかい。」「いや君が言いたいことは分かる。僕だって彼女を独占したいと思ったことはある。でも・・・」親友は言葉を繋げなかった。

それから3か月が過ぎようとしていた。彼は歌舞伎町近くの大きな書店を出て駅に向かう途中、道路を挟んだ向こう側に見たことのある女性を見つけた。彼の頭は混乱し、ロジックな答えを見つけようと幾通りの解法が頭の中で逡巡し、そして消えて行った。

いつも観ていた時の彼女はジーパンに白のシャツを着ていて、どちらかというとボーイーシュな服装を好んでいた。ブランド物を身につけていることはなく、胸元のティファニーの小さなペンダント程度だった。その彼女がまるで雑誌の特集ページの様なファッションで歩いている。

当時、ハマトラというファッションが流行っていた。ミニスカートにミハマのローファー、フクゾーのポロシャツ、キタムラのバック、それがお決まりのステレオタイプのファッションだった。誰もが同じ格好で、同じ化粧をする。まるで軍隊のそれのようだ。彼はそんな雑誌をときおり眺めて、そこに写る彼女たちの表情が欠落していることを感じていた。同じものを着ることで封印された個性。同時に全てを同質化することで迷彩される個人であるのだ。そんな恰好を彼女がするとは思ってもいなかった。

彼の頭がまるでCPUの処理速度追いつかなくなったコンピューターのようになりかけていたときに、反対側の彼女は繁華街の方向に歩きだしていた。彼女は彼の存在に気づいていない。

彼は書店の紙袋をブルーのディパックに押し込み彼女の後を追った。

表通りから細い路地を右に曲がり、グレーの古ぼけたタイル張りのビルに彼女は吸い込まれていった。

古ぼけたインジケーターに目をやると、エレベーターは4階で止まった。雑居ビルには看板もポストもなかった。ただ窓が全て外から見えないように完全に遮断されそれぞれの店の名前がけばけばしい原色で書かれていた。

4階には「月の光」と書いてあった。彼はそこがどういう店で彼女が何故あんな格好をしていたのかやっと理解した。

彼はその後東京の郊外に引っ越して、親友とも疎遠になり、一緒に会ってお酒を飲んだり、旅行に出掛けたあの人達の事も忘れかけていた。いや、忘れかけていたというよりそもそもほとんどの人の名前を知らなかった。

彼は大学を卒業し、中堅の商社に勤めてた。偶然、取引先のひとりの社員と名刺交換をした際に、あの時の一人だった事が分かった。相手も気付いて、暫くの間昔話に花が咲いた。別れ際、彼は彼女の音信を聞いてみたが、その人によれば、音大を卒業後、しばらく弁護士事務所で事務の仕事をしていたが、とある事件で依頼主の男性の耳を噛み切ってしまい、病院に送られてその後は音信不通だということだった。

彼はあの日の新宿での彼女といつも白いシャツで多くの人に囲まれていた彼女を順番に登場させ、幕間を下した。

それから10年が経過した。

彼が中野駅前にある開発されたばかりの大きなビルの横につくられた街路樹のある歩道を歩いていると、正面からジーパンに白いシャツをきた女性が二人の子供を連れて日陰を探すように歩いてくる。子供達は揃いの長袖のテーシャツに赤い野球帽をかぶっていた。女性は子供たちの笑顔と同じくらい、楽しそうな表情をして軽やかに彼の横を通り過ぎた。

喫茶店からドヒュシーの「月の光」が流れていた。
 
 
 
 

アメリカンクラブハウスサンドウィッチ 森戸海岸 デニーズ


アメリカンクラブハウスサンドウィッチ 森戸海岸 デニーズ
 

食に関する事を話題にしてきたのであるが、今回は断然人の話である。そのことを最初にお断りしておく。

私が友人S氏(ご夫妻・ご家族)と友達になったのは18年前である(たぶん)。

私が横浜に引っ越して間もなくしてジーニーというゴールデンレトリバーを飼った。もちろん飼ったというより買ったという表現が正しいほど、唐突に直情的にペットショップからもぎ取るように引き取ってきたのだ。ジーニーはディズニーの魔法使いから名前をもらった。私達に幸せの魔法を掛けてくれるように名前を決めた。ジーニーは家族の愛情を一杯もらって順調にすくすく育った。そんなジーニーの遊び場所になる空き地が当時は家の近くに多かった。三角と呼ばれるその場所は人家も少なく、地形的にも一方を崖地に囲まれフェンスで覆われたまさに犬を遊ばせるには最高の空間だった。

ある日、マスクをした紳士が私達の方を見ていた。すると以前から一緒に遊ばせていたゴールデンの飼い主の男の子が紳士のところに近づき、紳士に向かって「おじちゃん怖くないよ、入っても大丈夫だよ」と大きな声で促した。紳士自らも大きな体躯のハスキー犬を飼っていたのだが、実は犬は怖かったのである。その男の子の眼力は当たっていた。

その紳士こそ今回の話題のS氏なのである。その後、S氏も含めて犬を共通の話題とするその空き地の人々とは犬の名前を使って呼び合う間柄になった(当時は犬の名前は知っていても名字も職業も全く知らなかった)。

最初に犬抜きで(何か蕎麦の天抜きみたい??)合ったのは市が尾駅近くの相馬という焼鳥屋だった。2階に上がった私達は足の踏み場の無いという表現がぴったりのその空間にぎゅうぎゅう詰めで座してジヨッキを重ねた。当時は10家族いたと思う。

S氏が言っていたとおり、次第に集まるメンバーも決まり、また病気や引っ越しなどで離散してしまった人もあらわれ、結果的に5家族が残った。この5家族はいまでも事ある度に集まり祝杯(いつでも祝杯なのだ)をあげている。

S家には二人の秀娘がいる。私達が知り合った頃は長女のM子さんはまだ大学生だった。確かUCLAから東部のコーネルに移った頃だっと思う。そして次女のW子さんはその当時まだ高校生。やがて国際線のCAを経て、慶応のMBAを取るこの二人のその秀才振りはまたの機会にとっておく。

私が今までの海外経験をした知り合いを見ると、日本の学校になじめず親が無理をして海外の学校に通わせるが、周りには日本人ばかりで語学の学習は愚か日本での基礎的教養も教わることなしに過ごして来た人が多かっただけに、このお二人には正に目からうろこ青天の霹靂だった。

S氏の詳細はここでは述べることはしないが、ようするにこのお二人を育てた、国際人なのである。パロスベルデスで暮らした生活ぶりからもその人脈、経歴はお分かりであろう。

兎に角、日本人離れしているのである。そんなS氏とは一回り以上歳は違うが失礼ながら年寄りと感じたことは一度もない。ゴルフで飛距離が負けた時の少年のような悔しさたけではない。全てに前向きなのだ。2度の大病の手術の時にも大笑いした病室が語るようにその魅力は私だけでなく万人が感じるものなのである。

そんなS氏が大好きな場所が森戸のデニーズなのである。どこのデニーズでも良いというわけではない。森戸のデニーズで、出来れば初冬の今のような季節がいい。S氏に言わせれば「厚手のアランスゥエーター」を着こんで風のない昼間がそのシチュエーションにぴったりらしい。そして注文するのは「アメリカンクラブハウスサンドウィッチ」である。

どんな高級なクラブハウスサンドウィッチよりS氏の日本離れした話題とともに頬張るここのサントウィッチが世界一なのは言うまでもない。

 

2012年12月15日土曜日

PM1:00 Sunday


PM 1:00 Sunday

 男性の名前は山極浩一郎と言った。年齢は41歳だった。彼は一級建築事務所を個人で経営していた。設計士と言っても建物の構造計算をするのが主な仕事でクライアントの多くは他の設計士やゼネコンだった。

 近年では耐震偽装問題が大きな社会問題となり、浩一郎の仕事も新規の建物建築の構造計算に加えて、既存建物の再計算の仕事も増え、朝早くから夜遅くまで事務所にこもる事が多くなっていた。休みもここ一カ月ほとんどとっていなかった。

 浩一郎には16歳になる一人息子がいた。息子は都内の国立大学の付属高校に通っていた。いつもは電車で横浜の自宅から30分掛けて通学していたが、吹奏楽部の部長をしているため早朝の部活動や練習部屋の確保の時などは父親と一緒の車で来ることもあり、一緒に近くのファミレスで朝食を取ることも多かった。美佐子の店に現れたのはそんな早朝の一コマだった。

 浩一郎は7年前に妻を病気で亡くしていた。妻はすい臓がんだった。癌が見つかった時には既に手遅れであった。妻はその10カ月後息を引き取った。

 浩一郎は妻の死後、自宅を仕事場にして息子を育てながら生活していたが、子供が大きくなり高校に進んだのを契機に仕事場を自宅とは別に設けた。自宅での仕事は時間と場所の制約がないために、生活にメリハリが付かない。仕事にも悪影響である上に浩一郎の気持ちが萎えてしまう。それで仕事場を南平台近くの小さな建物の一室に移したのだ。

 浩一郎は窓際のテーブルに席を取っていた。テーブルの上にはつい最近イエール大学が出版したモダンアートの作家「CARO」の本が置かれていた。

浩一郎は視線を窓の外に向けていた。道路の向こう側に子供の手を引いた美佐子の姿が見えた。

紺色のオーバーコートを着た美佐子は笑って手を振っていた。浩一郎は老眼鏡をはずし、その眼鏡をこげ茶のハリスツイードのジャケットにしまい、小さく手をふった。駅から真っ直ぐに伸びる街路樹の桜の木々がうっすらと色づき始めた初春の麗らかな日曜の午後だった。


2012年12月14日金曜日

村上春樹にご用心 Ⅲ


村上春樹にご用心 Ⅲ


以前にも村上春樹氏が本の中でも明示していたように、作家は様々な経験を粉々に粉砕し、そして再構築する作業だと言っていたが、私の様に小心者は氏の作品を読むたびに、心の中に小さな皺が折り重なりそれが助長される。

「国境の南、太陽の西」の読後感の苦々しさは、単に青春の後悔では済まされない、人間の性を感ぜずにはいられなかった。人間とはなんと我儘で理不尽な生き物なのか、小枝を這うシャクトリ虫の方がさぞ生きている価値があるとしか思えない、心の中の闇。

その経験を通してしか優しくなれない、人間の愚かさは私を打ちのめす。

「回転木馬のデット・ヒート」の中で画廊の女主人はいう。

「自分自身の体験によってしか学びとることのできない貴重な教訓。それはこういうことです。人は何かを消し去ることは出来ない。消え去ることを待つしかないということです。」

人生と言う長い時間の中で灼熱焦炎の地獄の苦しみは現存し、私達を苦しめる。何故なら、決して私達によって解決されない命題だから。
 
今日もまた私はまたひとつ解決不能の命題を作りに二つの月の出る街に彷徨う。
 

蕎麦 宮本 島田 凜 渋谷


蕎麦 宮本 島田 凛 渋谷

私は、蕎麦はどちらかというと苦手である。アレルギーとかそういう身体上の理由ではないがメニューにあってもうどんの方を頼む。江戸前の握り寿司と似ている。つまり圧倒的外れを引いた時の落胆より無難な方を選んでしまう気の小さな男なのだ。

蕎麦を初めて美味しいと思ったのは東京ではなかった。会社の先輩に連れて行ってもらった大垣の蕎麦屋だった。出汁の味は忘れたが、蕎麦寿司の断面に無数に見えるグルテンの粒が印象的だった。もちろん蕎麦はコシがあって、今まで食べた蕎麦とは比べ物にならなかった。

東京でも人に連れられて色々な蕎麦屋をはしごした。更科系を教えてもらったのは私の自動車の師匠であった。

藪そばは別の人に教わった。系譜をたどっても日本で最古の歴史を持つ。神田藪に始まって、上野並木、池の端、まつや、系譜は枝葉に伸びている。

ニューエイジと呼ばれる蕎麦屋にも足を運んだ。竹やぶもそのひとつ。この手は美味しいところとそうでない名ばかりの店に分かれる。

蕎麦は通人の好みに分かれる。出汁にしても甘いものが好きな人もいれば、辛くなくては駄目と言う人もいる。蕎麦にしても更科のようにうっすらとした京美人のようなものが好きな人もいれば、寒い冬で培われた秋田美人のような蕎麦を好む人など千差万別である。

だから、必ず「私の場合には」という前置詞を付けることにしている。

私は辛口の出汁を好む。もちろん香り、こくが無ければ意味はない。蕎麦に関して言えばその蕎麦の実のもつ全てを食したいと思う。真ん中の部分だけでなく、外側の部分もそれはそれで風味が違うからだ。

近年、蕎麦ブームに乗って蕎麦会席なるお品代一万円近くする店や、店内は薄暗く、少し前のモダンな居酒屋を思わせる店内の蕎麦居酒屋なる店も増え始めたが、どの店も及第点は取れないのでこの手の店は敬遠することに決めている。

初めて宮本を訪れたのは、梅雨時の大雨の日だった。朝霧高原のゴルフ場についた時には。雨は降り止むどころか益々勢いを増していた。同乗した友人と急遽ゴルフはキャンセルし、宮本に向かった。もっと近いと勘違いしていた私は豪雨の東名高速を走り続けやっと宮本についた。ご存知のように宮本の店主は池の端の藪で修業を積んだそうである。店内に飾られている江戸時代であろう蕎麦屋の絵は神田藪そのものだった。

運ばれてきた蕎麦はつややかに光りながら力強さを秘めていた。出汁は香り、奥深さともこの蕎麦と最高に合っている。喉に入れてさらにその香りは鼻腔から脳の芯まで届いてくる。これはもはや芸術品だ。それ以来2回訪れた。いずれも最初食べた時と変わらぬ旨さだった。おいそれと行けないだけに無性に食べたくなる。

会社のスタッフの友人が渋谷で店を開いたという。先日、一緒にランチに出掛けた。もと日本料理の板前をしていた店主は自己流で蕎麦を習ったと聞く。出汁は香りこそ宮本に負けるが、きりりとして辛口でうまい。さらに蕎麦は蕎麦の香りを十分引き出して輝いている。これは旨い。私は鴨汁そばを注文したのだが、蕎麦湯を飲む際に出汁を別に足してくれたらさらに良かったかもしれない。まだまだ発展途上かもしれないが期待度大のお店である。宮本に中々行けない私達には幸運な店かもしれない。ただし、双子のオカマのあの人達も常連と聞くのでその節にはご用心!!!しかしながら是非、お試しあれ。
 
 
 
 
渋谷 凜の蕎麦
 
 
宮本 全景

2012年12月13日木曜日

1981年のゴーストライダー Caper2 Ⅰ


Capter2


洋一の車は混雑した環状八号線を通過して関越道の入り口にさしかかっていた。入口までのアップダウンが続くこの道は古いフローリアンにはかなり堪える。それでも目いっぱいアクセルを吹かしなんとか周りの車に置いて行かれないように全身の力を振り絞るように走り続けた。

洋一がこの車を手に入れた時にすでに7万キロを超えていた。それから4年半洋一の良き相棒としていつも洋一と一緒に過ごしていた。

洋一が会社に入ってからはほとんど乗る機会がなく、土日に使う程度だったが、特に壊れるでもなく、洋一の言うことを良く聞く聞き訳のよい奴だった。ただこの頃時々エンジンから変な音がすることがあった。ゴロゴロという鈍い音とともに空気が抜けたような音だった。今日は今のところその症状は顕れてはいない。

高速道路の左の車線を走り続け、赤城山を右にみながら上信越道とのジャンクションに差し掛かる。洋一の車は左から回り込むように関越道に分かれを告げ、長野方面に向かった。

新しく出来たこの道はまだ開通したばかりで車は少ない。ときおり、トラックが通過したが道路のずっと先まで車が一台も見当たらない事も多かった。

周りが田圃や畑の景色から急に山がちになった。関東平野の一番西北の端だと言うことが地図を見なくてもわかった。

洋一がいつも聞いていたFENはここでは聞こえない。もっとも他のラジオ局も急峻な山がラジオの電波の邪魔をして聞くことは出来なかった。洋一はラジオのスイッチを切り、カセットテープを右手で押し込んだ。テープは3日前に友人から貸してもらったものだった。

洋一はその友人と中野で開かれるコンサートに行く予定だった。しかし、洋一はその前日から風邪をひき寝込んでしまった。体温計の熱は39度をさしたまま当日を迎えた。洋一はコンサートを断念した。

このテープはそのコンサートに出ていたジュリアードで若くして教鞭をとっている新人ギタリストの初めてのLPレコードからタビングしたものだった。テープがカタカタっと音がして曲が流れ出した。カセットケースの中にある紙面には友人の手書きの文字で曲名が英語と日本語で書かれ、そのあとに録音時間が記されていた。一曲目は「SanLorenzo」日本語で思い出のサンロレンッオと書かれていた。

友人はこの曲をコンサートで聞いた時にあまりのギターの旨さとその独創性に圧倒されたと興奮して話していた。確かにこのギターはスタジオで多重録音したとしか思えない。もし一人の人間が演奏しているとしたならばまるで手が4本あるのではないかと思うほどだった。そしてテクニカルなだけでなく、どこか心にしみる神秘性を持っていた。丁度,初冬の今,この曲の透明感が洋一にも分かった。

2曲目を迎える頃、左手にサービスエリアが見えてきた。洋一はステアリングをゆっくり切りながらサービスエリアに向かった。洋一建物から少し離れた場所にフローリアンを停車して、エンジンを切る前にカセットを取り出してポケットに入れた。

こ のサービスエリアに書かれている「おぎのや」という名前は良く知っていた。洋一が小さな頃、テレビでここの女将の細腕繁盛記仕立てのドラマを見た記憶がある。あの頃はこの手のドラマが多かった気がする。

時間は午後2時になろうとしていた。洋一はサービスエリアのカウンターで暖かいお茶とここの名物である「峠の釜めし」を購入して席に着いた。

この碓井峠は群馬県と長野県を繋ぐまさに峠である。今では廃止されてしまったが急勾配を列車が後ろに下がらないようにするためアプト式という特別な方式が取られていた。当然、列車のスピードはグンと遅くなる。電機機関車に替る前は遅くなったその列車はさらに力を込めようとするから吐き出す煙の量も増えて乗客は窓を開けられない始末だった。

しかしそれも昔の話、今では電化されアプト式もなくなっていた。

道路も九十折れのつづく山道だった。普通車でも大変なのに、大型の営業車にとってはさらに難所だった。また、冬になると道路は凍結しスリップの危険性が増す。ドライバーはそんな難所に挑む前にこのドライブインでつかの間の休息を果たすのだった。

数年前にこの高速道路が開通した。道路はカーブも少なく、出来るだけ山の陰にならないところに道路が敷設されているため凍結積雪も以前と比べれば少なくなった。結果このサービスエリアも通過するだけの車が多くなった。皮肉な話だ。

洋一は釜めしの蓋を取り、中を覗き込んだ。洋一は鈍いオレンジ色の塊を箸で取り出し,蓋の上に置いた。洋一は初めて食べた時から、この甘い得体のしれないものが嫌いだった。得体のしれないものの正体は甘く煮た杏だった。洋一はどうしてもこれが好きになれなかった。少し冷たい指先を暖めるように両手でぺットボトルを包んでお茶を喉に流し込んだ。

食事を終えた洋一は戸外に出てポケット持っていたセブンスターマイルドに火を付けて、別のポケットから取り出したカセットケースを見つめていた。洋一は2.3回軽く煙を吸いながら、灰皿に煙草を押しつけて足早に車に向かっていった。