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2013年2月14日木曜日

Diversity

ロサンゼルスを訪問して驚いたのは12年前と比較して、どの場所も安全になっているということだ。

もっとも今でも深夜や女性の独り歩きは危険極まりないが、こと昼間に限ってはそんなことはなかった。

景気が良くなると街は安全になるというが、今のアメリカが本当に景気が良いとは言い難い。

ロサンゼルスに暮らす二人の日本人男性に話を伺ったところ、二人とも異口同音に「珍しくなくなったから」という言葉を聞いた。

1992年に起こったロス暴動のその根源は人種間軋轢であることは明白だった。

その直後に訪れた私達は言わば同類のアジア人として見られていたのだろう。差別や攻撃的な人達に何回も遭遇した。

当時も今も一部のアングロサクソンの人達は言葉にしないまでも、決定的人種的偏見を持っている。

ところがアメリカという国は他の国の民族を取り入れることによつて成長している。ニューヨークが人種の坩堝として教科書に掲載されている通りである。

アメリカと言う国はこの”Divesity”こそが生命線なのであり、一部の人達の偏見や優位性を除いてマスとしてはこの特徴を受け入れているのではないだろうか。

それが彼らの「珍しく無くなった」という言葉の意味ではないだろうか。

片や我が国はどうだろう。

人工減少高齢社会と誰もが知りながら、この”Diversity”を受け容れたがらない。

フィリピンやマレーシアに厚生労働省が介護や看護の分野の門戸を開いたと言っても、実際には言葉の壁や官庁の横並びの弊害により、多様性には程遠いのが現状である。

こんなことを嘆いていたら、良い本が見つかった。

鈴木 鍵氏の「なめらかな社会とその敵」である。

本の内容については内田 樹氏が紹介しているのでそちらを参考にされたし、鈴木氏はサルガッソーという会社も運営している。サルガッソーをご存じの方なら著者の慧眼はお分かりのはず。

 
 
 
 

http://blog.tatsuru.com/

2013年2月13日水曜日

私のアメリカ

1979年の8月私は片道のチケットを握りしめてロサンゼルス国際空港に立っていた。

経由便に載せられやっとアメリカに着いた。外は雨が降っていた。

食費とアルバイトで貯めたいくばくかのお金で格安航空券を購入した。確か空港会社も何もかも決まっていない、まるでこれからの自分を暗示するような心細いスタートだった。

海外どころか飛行機にも一度も乗ったことのない若者が初めて降りたのがここロサンゼルスだった。

私にとってのアメリカはポパイや平凡パンチに掲載される西海岸の文化そのもので、そこには日本にない自由と新しさがいつもあった。

それから30年以上が経過し、そんなことを忘れていたときに、ふとしたことで青山のギャラリーに足を運んだ。

するとそこには当時にそれらの雑誌にアメリカから情報や写真を送ってくれていた小林昭さんがいた。

そう、彼の「P.O.P」の写真集の個展だった。彼は昨年からサーフィンを始めたらしい。

サーフィンはとても魅力的で、自然と一体になれると言っていた。彼らしい。

その中でも特に私の印象に残ったものがこの一枚。マリブの全景だった。

記憶の澱の中に忘れいた記憶が甦ってきた。

若者の暴力的とまで言えるエネルギーが当時のヒッピーやサーファーに静かに神託された自由と寛容と引き換えに広がっていたアメリカ、そのアメリカを観たかった。

果たしてアメリカは変わってしまったのだろうか。

答えは言わない。

この写真を見て考えてほしい。

日本とアメリカ、この二つの国は同じように年をとったはずなのに、ふたつの国の立っている場所がまるで違う。

どちらがどうのと言うんじゃない、ただ違うのだ。














2013年2月4日月曜日

パリ憧憬



初めてパリを訪れたのは1997年だった。
降りたシャルルドゴール空港は古いターミナルでエスカレーターがガシャコショと音を立てていた。
建物を出ると11月のパリはもう真っ暗になっていた。
タクシーにトランクを詰め込み行き先のホテルを告げた。
途中から雨が降り始めタクシーの窓にはしずくが横に流れた。
小一時間でパリの市内についた。暗闇の中、タクシーは石段の下で止まり、ここから先は歩いていかなければならないと言われ、重いトランクを引きずるように運びあげた。
石段の中腹にはちょっとした広場があり、ホテルはその広場の横だった。
雨は不思議にあがっていた。
部屋は狭く、トランクを置くと足の踏み場もなかった。
翌朝目が覚めると外はまだ暗い、小さな食堂は10人も座れば満席になる。
クロワッサンのバターの香りが疲れた胃にコタエル。
私はゆで玉子だけ食べて表に出た。
当時はまだ映画のアメリも上映されておらず、パリの下町のモンマルトルには日本人は少なかった。
坂道を上がり、頂上付近のテルトル広場に行くと観光客相手の似顔絵かきが広場に点在していた。
広場の隅に小さなカフェがあった。11月なのに夏のように暑いその日は何としてもビールが飲みたかった。フランス語でビールはビェールだった。そこからパリの屋根が見えた。
あれから何度もパリに通った。飛行機もエコノミーから上のクラスに変わった、ホテルも少しずつ高級な物に変わった、食べるところも次第に要領を得てきた。
しかし、この時のパリが無性に懐かしい。高級でなくても、美味しくなくても、何も知らなくても、私を一番心ときめかせたのはこの時のパリだったからだ。石段の下から2メートル近くの大男のセネガル人がやってきて、同胞と間違えられ大きな手で握手されたのはこの時だけだった。あの男が出稼ぎで働いていたイタリアレストランは今もあるのだろうか。今年はパリに行ってみようか。



2013年2月1日金曜日

サボテンと私


サボテンと私

小さい頃から何かを集めるのが好きだった。切手やコイン、観光地のバッジなんかも集めていた。この収集癖は何から来ているのだろう。小学校3.4年生の頃だった。毎月、お小遣いを握りしめて近くの園芸店に通った。錦桜橋という鉄骨製の橋のたもとにあった。その橋は厚い鋼鉄を無骨なボルトで締めあげられた男っぽい橋だった。今はコンクリートのぺらんとした無機質な橋に変わってしまった。

その園芸店の軒先には小さなプラスチックのポットに入れられたサボテンが大きな木枠に囲まれて数十鉢並べられていた。その中から珍しそうなものを見つけて1鉢ずつ買っていた。1年を過ぎた頃には10種類のサボテンが揃った。母は邪魔だと言わんばかりにサボテンをやじるがサボテンは動じない。

サボテンは決して寡黙ではない。サボテンは陽気だ。じっと見つめていると話しかけてくる。だが決して騒々しくもない。彼らは哲学者というより地理学者のようだ。
人間が容易に住めないような厳しい環境に適応するためだけに自分を進化させた。いや敢えて言うなら余分な物を切り捨てて退化したのかもしれない。そんな彼等は私達と同じ空気や水を吸って生きている。

事務所の新築祝いに何が欲しいか尋ねられ、サボテンと答えた。事務所には2鉢のサボテンが元気に育っている。そして昨日また小さなサボテンを6鉢購入した。

皆さん何故サボテンと言うかご存知か?元々は南蛮人がこの植物の樹液を石鹸代わりに使っていたから、シャボンテンがサボテンに変わったということである。

英語ではカクタス棘だらけの植物という原意とのこと、日本の方が面白い。


しばらくサボテンの声に耳を傾けよう。





まくら とよかつ 恵比寿



恵比寿で15年間飲食店を経営していた。経営していたと言っても雇われマスターだったので気苦労は多かったが実入りは無かった。人が足らない時には皿洗いまでして手伝った。あの頃はどうしてそこまで頑張っていたのだろうと思うが、人間そういうものである。
私の店は名酒菜席いちという45席ほどの居酒屋だった。駒沢通りに面して間口が狭くその奥にあった下宿をそのまま改装したものだった。当時は景気が良かったせいもあって、毎晩のようにウェイティングが出ていたこともあった。当初運営は外部に委託していたがバブルの煽りを受けてその会社は消えて行った。その後は職人を入れるも長続きせず店は荒れる一方だった。結局、自分たちでやるようになった。メニューも何度も試作して自分たちで作った。中でも評判が良く売り切れが続出したのがインド風の肉じゃがと鰯のコロッケだった。前者は所謂カレー風味の肉じゃがである。ただし、パプリカとトマトがアクセントになっている。鰯のコロッケは鰯を一匹手開きにしてコロッケを作る。昨今の鰯の不漁ではとても高くてお客様に出せないだろう。
そんなとき働いていたスタッフと夜食を取るのが日課だった。夜食と言っても掃除して店を出る頃には12時を回るのだから開いている店は限られる。当時は斜め前に美味しい頃の恵比寿ラーメンがあり納金所の隣にある香月でも良く食した。洋食が食べたい時には代官山のポエムでイカスミのパスタを食べたりもした。今考えると信じがたい夜型だった。店でも焼き鳥を出していたのでスタッフと焼き鳥屋に行くことはなかったが、遠くから客人が来て満席で自分の店に入れないときなど私が時間つぶしがてら使うのが恵比寿のとよかつだった。
ここはいわずとしれたホルモンの店である。ホルモン好きにはたまらないであろうが、実は私はあまり得意ではない。食感云々より脂っこいと感じてしまう。これは今も続いている。ここの名物につくねに韮を巻いたまくらという一品がある。実はこれが私の大好物なのである。店で出していたつくねには生ハムも入れたちょぃと西洋風の味付けであるが、こちらはホルモン屋で出す直球勝負のつくね串である。プレディナーとしてこの串を1本とビールを一杯飲む頃には店の席が用意出来たと連絡を受ける。今の様に携帯電話は無い。アルバイトの男の子が自転車で呼びに来た。この店のまくらを見るとあの頃、東奔西走して我武者羅に走っていた自分を思い出す。



2013年1月31日木曜日

水随方円器、人随善悪友


水随方円器、人随善悪友

私自身は海外生活もなく、妻に言わせればドメスティックオンリーな我が家ですが、幸いにも私の周りには海外で華々しく働いてこられた方や今も若い人に負けずにバリバリに頑張っている友人も多く、いつも色々な面でインスパアされています。
そんな環境もあり、息子にはどんどん海外に行って色々な人と交わって欲しいと思っています。というのは息子の周りにも大変優秀でも海外での研修や研究は意味がないと折角の渡航を止めてしまう若者も多いと聞くからです。本当にそれは意味がないのでしょうか。
私の様なロートルになると全ての事象,事柄は人との出会いで始まると思っています。私の恩師が言う人の「縁」というものです。

私の仕事は色々な人の生活を垣間見ることになります。その中でいつも思うのは全ての物事が成るようにして成っているということです。
魚が住む水を選ぶように、人にはそれぞれの環境があります。そしてその環境を変えない限り、その人の成長も止まってしまうということです。
もっとも悪い環境に変われば人も悪くなる訳ですから、綺麗な水の上流を目指さねばなりません。

昨年、山代温泉のある旅館に行ってきました。そこには金沢21世紀美術館に展示してあった、方丈というオブジェが展示してありました。
ご存知のように方円器とは漢詩の「水随方円器、人随善悪友」から来ているものです。
水は器によって丸くも四角にもなるように、人間も友によって善人にも悪人にもなるという例えです。そのオブジェを見て、人の人生はその流れる水そのものだと思ったものです。それほど如何様にも変化することが出来るものなのです。
今息子はロサンゼルスに行っています。日本とは全く違う環境で、いつもの人とは違う人達と研究をしています。私にとっては研究の実成果よりこうして海を渡って、見知らぬ土地で生活し人と出会うことが彼のこれから成らせる大きな果実の養分になればと思っているのです。

そして水到渠成の言葉通りです。



ささやかな楽しみ



この季節になるとささやかな楽しみが増える。もっとも花粉症という難苦を替わりに背負うはめになるのだがそれでもマスクをして戸外に出て、小鳥のえさ箱にそっとみかんやパンの屑を置いてくる。
テレビでも紹介されていたが私と同じように小鳥が来るのを楽しみにしている人も多いようだ。
今の時期はメジロ、ヒヨドリ、シジュウカラだ。シシュウカラはかんきつ類より稗や粟を好む。みかんはメジロとヒヨドリの人気メニューで取り合いになる。取り合いと言っても大きさの違う2羽だからヒヨドリが居ない隙にメジロが食べるので、ヒヨドリの死角になるところにもみかんを置く。メジロは必ず2羽で現れる。低い茂みに身を隠し、そっとえさ場に近づいてくる。そこにいくとヒヨドリはえさ場から離れた止まり木でこちらのようすを窺っている。ヒヨドリも一羽ずつ性格が違うようだ。メジロがいても我関せずと食べ続ける鳥もいれば、一目散にメジロを追い払ってから食べるものもいる。そんなやつが別のヒヨドリから追い払われたりすると、これはまた面白い寸劇を見ているようでもある。
野鳥だから警戒心も強く、普通は人影が近づけば逃げるのだが、ある年の鳥は違った。そう2年前の震災の直後だった。私が戸外に出ても逃げないのだ。手から餌を取ることはしないが、宙に放り投げるとそれを直接キャッチして食べたのだ。それ以来、その年はずっと空中キャッチの連続だった。あれは震災で元気をなくした人間への哀悼だったのかもしれない。
私は幼い頃文鳥を飼っていた。最初の一羽はふつうの色をした文鳥だったが、2羽目は真っ白な文鳥だった。ピーコと名付けた。ごくありふれた名前のその鳥は頭が良かった。人の声を聴き分けられた。私と母が同時に呼ぶと必ず私のところにきた。私は誇らしかった記憶がある。文鳥は繁縷が好きだった。幸い畑でなく河原のそれは農薬の心配もなく、それでも綺麗に洗って文鳥に与えていた。手の中で眠るその鳥は暖かく、幼い子供の友達だった。母が余計な事をした。毛づくろいをする鳥を何か虫が付いて痒がっているのだろうとDDTをかけた翌日冷たくなっていた。
あれから四半世紀今でも動物が好きだ。でも籠の鳥はもう飼わない。可哀想だから。こうして自由にきままに遊びに来る鳥たちと楽しんでいる。