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2013年4月1日月曜日

顕教と密教


 
 断って置きますが私は原発反対派でも肯定派でもありません。それぞれ条件付きということですから誤解のないように。
先日も某大手新聞社の方が、私のところにいらして今のマスコミの凋落ぶりに嘆いておりました。以前申し上げた様にマスコミは確実に「劇場化」が進んでいるようです。何か話題になるような事が起こると検証もせず、その情報ソースに向かう。そしてそのまま掲載するといった体たらく。経済部や政治部は以前からそうした川上での情報取得は見られましたが、今では社会部までも同じような取材方法を行うと困惑していました。福島の原発問題に関しては、どのマスコミもその構造的問題を言及していません。ただ、反対だとか危険だとか、はたまた安心だとの二元論に終始します。そして大衆は其の事で逃げ惑う小魚の如くあっちへ行ったりこっちへ行ったりです。
数年前、ある事がきっかけで、丸山眞男を読み返しました。私達が大学に入った頃には彼ははっきりいってあまり話題に取り上げられるようなことはなかったです。もう旬が過ぎたといった感じでした。もっともその彼を紛糾していた吉本隆明などは旺盛な筆致でせっせと本を出していたので、こちらの方を目にする機会が多かったのです。ところがいざ読み返してみると、彼の言葉の裏側には今の日本人がこうなってしまった、いやこうなると予測していたのです。「古層」という有名な彼の言葉がありますが、彼は日本人の内在性についても看破していたのです。
中東の問題を語る時に、キリスト教徒はユダヤ人がいるから問題がこじれるとユダヤ陰謀論を唱えます。だから今でも9.11は彼らが起こしたのだと噂している。何故でしょう。きっと彼らにはユダヤ人が起こしたのでないと論理的に説明しても納得しない。何故ならも彼らは苛立っているからです。9.11の問題とはいわば南北間格差の象徴です。その原因を作ったのは彼ら自身でもあるのです。しかしながらそれを自分たちだと認めるのは都合が悪い、だから少しだけ外側にいるユダヤ人の性にする。これこそがまさにイデオロギー的幻想に他ならないのです。
原発も同じでしょう。高効率で安全なエネルギー、先進国だから出来る高い技術力そう言われてその恩恵を受けて来た。それが、一度事故が起こると全て原発機関や国の性にする。そもそも、だったら何故、その前に原発反対しないのか、省エネを心掛け原発エネルギーは使わないと表明しないのか、まさに内在性を無視しているのです。
そんな無知の国民を擁護する訳ではありませんが、もちろんそこには情報の質と言う点で大きな問題があります。
一般の国民は前述したように安全だクリーンだと言われてきました。これがいわば顕教です。国民は理論的な説明より、この安全だよという呪文が好きなのです。
一方も一部のエリートは原発が危ない、問題があると知っていたのです。しかし、これは絶対に口外しない。いわば密教のようなものです。
この情報の構造的違いを理解することが今日日本の諸問題を考える上で重要になると思いますが、これが大変難しいのです。
全ての情報を国民に知らせれば良いと言う方がいますが、私はそれも危険だなと思います。
例えば公務員の削減、多くの国民はこれを支持します。特に非正規雇用のフリーターは自分の境遇との違いに声を荒げてこの事を主張する人がいますが、小さな政府にするということはそれ以上に福祉の幅を狭めると言う事になるのです。福祉にはある程度の大きな国家が必要になるからです。公務員を削減すれば、正社員は削減され非正規雇用が増える当たり前のパターンです。つまり公務員を削減しろというのは自らの首を絞めているようなものなのです。
原発問題もしかりです。原発を廃止するそれはお題目としては良いでしょう。しかしながら原発を誘致した多くの自治体はもし原発を誘致しなかったら当の昔に破たんしていた、そんなところがほとんどです。莫大な補償金と雇用創出によって何とか首を繋いできたというのが現実です。
丸山眞男はこうした一人ひとりの意見は正しくても、全体としては不合理な結果となる事を「合成の誤謬」と言いました。今の日本はこうした各論賛成、総論反対がまたはその逆が多いのです。私の親戚も石巻にいました。義父の出身は宮古です。今回の震災で大きな被害を受けました。最初は多かったボランティアも少なくなり、忘れ去られるのではと不安視する声も聞かれます。彼らはただ待っていると言う事に我慢できなくなり、自らで前に進むと決意した人もいます。この点では震災は天災であり国がもっと早く将来のグランドデザインを示さなければならないのにぐずぐずしている。
一方、原発はこの問題とは彰かに違う。原発の導入の歴史を考えても、敗戦後の日本の国家的問題として進めて来たのは彰かでいわば国家戦略。これを変えると言うならその先の新しい日本のエネルギー戦略を指示してからアクションを起こさなければならないのに、どこかの首相は原発廃止と唯我独尊でマイクを手にした愚行。
私の同期の三浦展氏は東北の将来について、今までと同じものを、特に箱モノ的街づくりはナンセンスだと言っています。その通りだと思う。
日本は東京から名古屋、関西つまり首都圏の一部を除けば、過疎化が進んでいます。人口減少社会というのは確実なものとなっているのです。さらに先進国である我が国の所得が高い事は明白であり、産業労働力の移転は必ず起こるのです。そしてグローバル化とはそうした富のあるものから無いものへの移転であるとチョムスキーは言っています。
日本はもはや盛りを過ぎ超成熟社会には行ったことを認識するべきです。アベノミクスで一時的に証券や不動産が上がったとしても本当に成長が無ければ世界は日本を見捨てます。日本の債権は海外ではないから大丈夫と言う人がいます。何故大丈夫と言えるのでしょう。世界マネーはそんなに甘くありません。借金は借金です。御破算にする方法はデフォルトのみです。その時こそ今のお金は紙くず同然となります。それを避けるには地道に毎月毎年返していかなければならないのです。
私は近い将来バブルの崩壊と同様に大きな金融アクションが起こると考えています。何故ならグローバル化が進んだ世界マネーはそんなに甘くないからです。自らの判断と責任において円という通貨の価値を根底から見直すべきかもしれません。
この文章を書くにあたって法政大学教授の政治学者杉田敦氏の著作を大いに参考とさせて戴いたことを付記させて戴きます。アルママーテルの服の下に隠れた賢者に相談してみましょう・・・




2013年3月31日日曜日

1978  新宿 ミスターサマータイム


1978 新宿 ミスターサマータイム

あの年の夏は暑かった。1978年、70年代も終わろうとしていた夏。

焼けたアスファルトにワラビーのゴムソールがグチュグチュと嫌な音を立てていた。

若者が地上に出て向かったのは高野フルーツパーラーだった。建物の上階にワールドレストランという世界中の名物料理を集めた施設があった。若者はそこで生まれて初めてカネロニを食べた。その料理が旨いのか不味いのか判断する舌さえ持ち得ない初めての経験。新宿はまだ混沌としていた。

あの頃新宿にはコンパという安居酒屋があった。代官山に実家を持つ裕福な先輩が後輩を良く連れて行ってくれた。先輩がボトルキープしてある酒を飲んだ。酒は角瓶だったと思う。なにせオールドは高級品だったから。

その店はコンパエアラインと言った。店内はカウンターがいくつかあって、それぞれが別の航空会社の制服を模した洋服を着た若い女性がカウンターの中に入っていて、お酒を作ってくれた。私達はオニオンスライスを頼んでただ酒を飲んだ。私はSASと書かれたカウンターが好きだった。スカンジナビア航空の模倣。

当時はサラサラの長い髪が流行りだった。それに反してそのカウンターの女の子は短い内向きのカールしたショートヘアだった。何となく一時代前のような髪型に惹かれた。あの店は幻だったのだろうか。しばらくするとその女の子は店を辞めていた。体を壊して実家に戻ったと聞いたが、妊娠して休学したという噂が流れた。

東京はある意味物凄いスピードで変化していた。新宿西口の暴動も反戦運動も何事も無かったように消し去られ新しいものが作られていった。

キャンディーズは普通の女の子に戻りたいと解散した。普通と普通でない境界線、正気と狂気の境界線が曖昧だったあの頃、ミスターサマータイムがどこからともなく流れて来たあの夏。

若者の部屋には緑の植物が描かれた薄い化学繊維のカーテンが吊るされていた。目の前の道路を大型車が通るたびに地震のように揺れた。共同の台所で誰かが包丁を使って野菜を切っている音が廊下に響いた。

若者はこの穴倉から笹塚まで歩き新宿で乗り換えて四谷に向かう生活をまるで時計仕掛けの人形のように繰り返した。真田堀でテニスに興じる女子学生は自分とは違う生物だと思って睥睨していた。

若者は実家から通う学生が羨ましかった。思う存分食べる事の出来ないその辛さは若者には堪えたからだ。だが、実家には戻ろうとしなかった。それでも夏と冬は戻らなければならない。戻ると気持ちが弱くなった。出来れば東京には戻りたくなかった。電車が浅草に近づくにつれ気持ちを入れ替えた。鐘ヶ淵、曳舟と駅を通過するたびに若者は鎧を重ねた。

あの暑い夏は二度と来なかった。焼けつくような暑さと腐った果物の様な匂いが充満していた東京の夏。

秋になると若者の部屋の壁に貼ってあった小林麻美のポスターが剥がれおちた。テープの跡が日焼けしている。

若者の留守の間にテレビドラマの撮影で使われた部屋は整然としていた。ただ、お礼の手紙と中身が無くなってしまった空の菓子箱が置いてあった。

若者はその秋引っ越しをした。


1974 乾いた夏 正露丸とトマト


1974 乾いた夏 正露丸とトマト

少年はふらふらだった。夏休みに入ってバスケットの練習はさらに過酷になっていった。

体育館を使える日はまだ良いのだが、バレー部と入れ替わりなので外で練習する日がある。土で固められたコートはところどころ砂が混ざってとても滑りやすい。

少年のオニツカのキャンバスのバッシュは砂と埃で灰色になっていた。そのバッシュが滑る。体育館の様な訳にはいかない。

真夏の太陽の日差しが容赦なく照りつける。

少年は中学2年生だったが、ゲームでは先輩に混ざりスタメンに入っている。先輩の檄がとぶ。ルーズボールは地獄だ。それが3セット。腰に力が入らない。相手ともつれて倒れ込み膝や肘には無数の切り傷があった。

シュートにはスナップが必要だ。スナップを効かさないとゴールに嫌われてしまう。逆にスナップが効いていればザッという良い音がしてシュートが決まる。少年は手首を痛めていた。旨くシュートが決まらない。でも怪我のせいにはしたくない。遠くから打てないなら、ドリブルで突破してランニングシュートを決めようと焦っていた。焦れば焦るほどディフェンスがこちらの動きを読んで、目の前に立ちはだかる。

入道雲が真っ青な空にもくもくと湧きあがっていたあの夏。蝉の声が恨めしくなるほどの乾いた夏。親戚の実家で作っているトマトを持ってきた部員がいた。冷たい水で冷やしていたあのトマトの赤。

失敗するとランニングが待っている。校庭を1周2周と走らなければならない。
さらに時折上級生の雷が落ちた。ビンタを受けた事もある。1年生の中には気分が悪くなるものもいた。こんなとき正露丸を飲んだ。何が効くのか分からぬまま少年も飲んだ。今でも正露丸を飲むとあの夏を思い出す。

今だったらいじめでやり玉に挙げられただろうが、当時はそれが当たり前だった。
考えてみるとその後の人生であんなに乾いた夏は訪れなかった。夏に強いのはそのお陰だろうか・・





2013年3月29日金曜日

エピジェネシス


エピジェネシス

私は大人になるまで大方の大人は私と同じように好きでもない勉強つまり強制された受験勉強を乗り越えて何とか大学に入りそして社会に出る。程度の差こそあれ同じようなコースなのだろうと思っていた。ところが妻の友人の家庭は違っていた。親二人が医師である事もさながら、その父親(祖父)は裁判官、そして二人の子供も全員東大である。東大が偉いと言う訳ではないが、門外漢の私からしても日本の学問の最高府であることは間違いない。私には手の届くどころか志望校とさえ口に出来ない代物だった。確かに二人の子供の優秀さは窺い知ることは出来たので遺伝的要素と言ってしまえばそれまでである。
ダーウィンの親戚フランシス・ゴールトンはその事を「遺伝的天才」と言う本の中で、人間の能力は生まれつき決まっていると書いている。
しかしながら反対の事を言う人もいる。孔子先生は其の書の中で犁牛の例えを説いている。ご存知であろうが犁牛とはまだら牛のことで、その牛でも立派な牛になる事から、人は家柄や身分で決まるのではなく、その後の人生であると言っている。またバラス・スキナーというアメリカの心理学者も人間の能力は教育と環境が全て決定するという同じように学説している。どうなのだろう、どちらが正しくてどちらが間違っているのだろう。
こんな二つの例がある。
一つは経済力、教育環境の優れた家庭にやってきた養子の話。生まれて間もないその子の実父は麻薬中毒で刑務所に入り、母はすでに疾走し、施設に預けられていた。実夫は養育を放棄し、NPOが里親を探していたら、子供の居ない大学教授の夫婦が手をあげもらわれていった。子供は其の夫婦に何不自由なく育ててもらった。物語は残念ながらハッピーエンドではなく、その子は20歳を待たずして、人を殺害し父親と同じ刑務所に入ったという話である。
もうひとつは貧しいニューヨークのスラムの環境に暮らし、乞食同様の生活をしていた子供が独学で勉強し、見事大学に入り輝かしい研究成果をあげて、数学界のノーベル賞と言われるフィールズ賞を受けるという話だ。
極端な話であるがこの話は前述の意見がどちらも正しくかつ間違っていると言う事になる。つまりは遺伝的要素も環境的要素も関係するということになる。
友人の脳外科医に聞いた話だが、脳には可塑性というものがあるらしい。どこか一つが壊れても他の別の場所が補完し、失った能力をカバーしようとする。
それと面白い事を言っていたのは時々脳というのはこの可塑性がオーバーランするらしいのだ。何かを欠いたことで別の何かが特別に強化される。
確かに天才と呼ばれる人の中にはこうした一つの特別な能力が強化された人がいる。他の事は出来ないのに特別の能力を備えた人だ。現代社会になってこうした人は天才と言われるようになったが、昔はどうだったのだろうきっと差別の対象だったのではないだろうか。
話を先の東大の家庭に戻そう。彼らは決して何かが出来ない天才ではない。何でもできる秀才なのだ。そうジェネラリストだ。そうしたジェネラリストの秀才はどうして作られるのか。
ある夏休み、日焼けしてハワイから日本に戻る機内で妻がこんな事を言っていた。あの家庭では夏休みに九州に行くらしいというのだ。何のためかと聞くと、子供に阿蘇の外輪山を見せたいということらしい。さらに、裁判官を定年で退官した祖父母は事あるごとに孫に虫や観天望気の事を細やかに話すそうだった。
私の中でパチンと音がした。決して血管が切れた訳ではない。()そう、環境はやはり大切なのである。もちろんある程度の遺伝的優秀さがなければこれとて旨くはいかない。
エピジェネシス、この言葉は簡単に言ってしまえば環境が遺伝子の発現を制御するという意味だ。この言葉を知った時には溜飲が下がる思いだった。つまり、元々の遺伝的優秀さも何もしなければ100%開花することは難しい。花壇の花のように必要な時に必要な分の水やりが欠かせないということ。つまり環境は遺伝的能力を開花させる触媒のようなもので、細胞内のプロモーターのような役割なのだと。大切なのは時期、方法、強度である。時期を間違えれば根が凍る。やりすぎれば根腐れする。多すぎても同様である。
で結果はどうだったか。それは言わない事にしよう。





2013年3月28日木曜日

オーセンティック(真正性)


オーセンティック(真正性)について

この頃この言葉を気にする。ネットワーク社会が広がり始めて個と個の結びつきは脆弱になった。その代わり仮想空間でやりとりされる情報は増え、情報の受け手としてその真贋を見極める目が必要になった。当然嘘は排除される。帰結として正しいものだけが残る。
私が初めて目黒通りにインテリアショップを導入しようとした時に、とある家主がそれは無理だと言った。あれから20年、その手の店が林立し今ではマーケットで言う回周り性が向上した。私が先見の目があったとは思わない。あの時、ただマーケットの声に耳を傾けただけなのだ。私も昔は企業にいた。企業は利潤追求が目的だ。その結果効率性が求められる。ショッピングセンターのような箱の中でも同様だった。ところがそうでないものもあらわれる。渋谷の雑貨を集めたSCを作る時、店子に言われた。そちらは3.4年で古くなるとお考えのようですが、私達は10年いやずっと愛される店を作るのです。そういって普通の倍の厚さのコンクリートで床を作った。それはサザビーだった。
先月、ロスアンゼルスに行った。シルバーレイクにあるFORAGEというレストランに行った。何の変哲もない白い平らな建物だった。季節外れの寒さの中、コートの襟を立てながら多くの人がシンプルなプレートランチを食べていた。野菜は裏庭でとれるようだ。
鉄道ファンから聞いたのだが、鹿児島空港からほど近いか嘉例川という無人駅が話題らしい。なんでも個数限定で売られる駅弁が人気でほとんど乗降客のいなかった駅に休日には200人を超すファンが詰めかける。売られている駅弁は特別に贅沢な材料が入っている訳でもない。ただ、全てが安心できる手作りの本物だ。
これだけ聞くと本物なら何でもよいのかと思うかもしれないが、そこにはネットワーク時代だからこその妙薬が隠されている。つまり、それらを真正な情報としてマーケットに伝えるとうことだ。
知り合いに素晴らしい椎茸を作っている農家がいる。どう見ても手間を掛け、他のものより美味しいのに市場では評価されないと嘆いていた。当たり前である、市場では作り手の個人的な情報は割愛されてしまう。需要と供給による価格メカニズムが優先されるからだ。
必要なのはその椎茸にどれだけ手間が掛り、美味しいのかと言う個の情報発信なのだ。
街づくりにも同じ事が言える。私の居る中目黒は幸いな事に大資本にいまだ食い物にされていない。隣の代官山や恵比寿を観る限り、こうしたマーケットのオーセンティク性を欠いた開発は街を活性化しない。中目黒は小さな商店主が駅から胞子の手を伸ばすが如く少しずつ開発されていった。20年前と比べるとその広がりは雲泥の差である。
ニューヨークに行くと分かるが、よりニューヨークらしいものが光っている。あそこにあるイケアほど似つかわしくないものはない。恐らく日本から行く観光客でイケアに行く人はまずいないと思う。何故なら、ニューヨークらしくないから。
私は一緒に仕事をしている建築士に言う。一番カッコ悪いのは少し前に流行って廃れたもの。だから普通の物を作ってほしいと。赤プリが出来た頃、ネオパリエという新建材が盛んに使われた。いかにも大理石風と言う手合いの物。大嫌いだった。カーテンウォールがもてはやされた。さほど大きなビルでもないのによく使われた。今では漏水の温床になっている。建物はその制約から来る面白さを最大限に生かせばそれでいい。そして化粧は出来る限り薄く。もっとも蜑戸を良しとする私だから経済的制約も大きい。これが結果、オーセンティックになる。
おそらくオーセンティクというのは座り心地のよい代物だと思う。邪魔にならず、周囲にすっと溶け込んで違和感のないそんな真正性。偉大なる商店を目指す当方としては無視する訳にはいかないのだ。






2013年3月27日水曜日

最後の晩餐


最後の晩餐

友人(私よりずっと先輩で東大法学部出身の博覧強記のS谷さんの事を敢えて友人と呼ばせて戴く)と一緒に食事をしている時に、突然、最後の晩餐は何を食べたいか聞かれた。これはもう先制攻撃以外の何物でもない。1ラウンドの金が鳴ったと同時に左フックを食らったようなものである。さらに三食挙げよとの命令である。炊き立てのご飯、納豆、お味噌汁・・そこまでは答えられたが次が出てこない。いや、出てこないのではなく、この陳腐な頭のCPUがある事を思い出させた。それはフランスかどこかのシェフだったと思うが、「あなたが食べたものを聞けば、どんな家庭に育って、どんな考え方を持っているのか全て分かる」と言うくだりだった。尤、平民平素の私の生い立ちなど既に先刻ご承知で今更逡巡するなど愚かな行為であることは分かっていたが、結局のところ浮かばなかったのである。
凡人が述べるまでも無く、食通の開口健がこんな事を書いている。
「味覚は一瞬のうちに至高に達し、それを展開するが、しばしば一生つきまとって忘れられない記憶ともなる。幼少時に覚えた味となると、それはもうどうしようもない一瞬の永遠で、たとえオニギリにオカカだろうと、弁当のすみっこの冷たいタラコだろうと、めざしのほろ苦い腹わただろうと、これには易牙やエスコフィエなどの料理の天才諸氏も歯の立てようが無い。だから幼少期におぼえた味というものは、手術後の一杯の水や、山で食べるヤマメや、飢えの一歩手前でありついたカレーライスなどと同じように料理として取り扱っていいものか、どうか。広義としてはこれらも料理のうちに入るのだろうけれど、むしろ超越的な天恵と考えなければならないのであって、いくら他人に説明したところ通ずるものではなく、ただ黙っていつくしみ愛撫するしかない決定的瞬間である」
ここで開口はその代表がおふくろの味と言っている。
私の場合、母の味と言うのはあまり記憶がない。いや、母の名誉のために説明すれば、当時の私の住んでいた北関東の外れの砂塵舞う街では新鮮な魚が手に入らなかった。関越自動車道が開通するずっと前の事である。輸送手段も限られ、魚屋の店頭に並ぶものは既に化石のように硬くなった干物や塩鮭程度だった。そんな街での食卓にはまず魚は並ばない。
肉屋はといえば、鶏肉、豚肉、牛肉と一応揃ってはいるが、牛肉に関しては奥に鎮座し申し訳程度に見え隠れする神格化されたものだった。
私が住んでいた住宅は祖母が満州から引き揚げた後に市から譲ってもらった平屋建ての粗末なものだった。粗末とはいえ、あたり一帯同じようない家だったので貧しさを感じたことはなかった。家の右隣は自転車にお菓子やらティッシュを満載してパチンコ屋に卸す仕事をしていた。左隣の家には玄関を開けるとそこは土間になっていて、小さなカウンターがあった。玄関には赤い提灯が下げられ、おでん” “お酒と書いたあったが、客がいた事を記憶していない。
問題なのはもう一件右隣である。家の一階は食堂に改築され、白い暖簾に中華料理と書かれていた。東京の大学に通っていた息子が家業を継ぐと言う事で帰ってくることになり、父親は張り切って店を改築したのだろう。
この店は中華と書かれてはいるが、何でもある街の食堂だった。ケチャップいっぱいのチキンライス(チキンライスと言ってもチキンは入っておらずハム)に透けて見えるような薄い卵焼きのオムライスが好きだった。中には必ずグリーンピースが3粒入っていた。私の洋食好きはここに天恵を得たりなのだ。
もうひとつ腹ペコの私に必要だったのはバターである。隣の家からこっそり分けてもらった醤油せんべいがいつもあった。何も無い空腹を紛らわすのにこのせんべいだけでは飽きてしまう。そこでせんべいをストーブで軽く炙りバターを削り取るようにして口に入れるのである。今ならいつでもジャーの中に白いご飯ぐらいはあるだろうが、当時は保温出来ず、さすがに冷や飯にバターとは行かなかったのだ。と言うわけで卑しい私の口の出所を説明したので本題の最後の晩餐のメニューである。
    炊き立ての白いご飯
    納豆(くめ納豆・・小粒でなければならない)、白ネギ、青葱、和からし、醤油
    明太子
    味噌汁(玉ねぎとジャガイモの味噌汁 味噌は信州味噌)
    おつけもの(野沢菜と茄子の浅漬け)
    ベーコンエッグ(ベーコン2枚と玉子2個 玉子は半熟 キャベツの千切り)
    ハンバーグ(妻が作る煮込みハンバーグ これは絶品)
    ソースかつ丼(ヒレ肉を丼の中に4枚 志多見屋風)
    鯛茶漬け
    餃子(焼き餃子)
    シャリアピンステーキ
    海老マカロニグラタン
    牡蠣フライ
    ピーマン炒め
    オムライス

これじゃ最後の晩餐じゃ済まないだろう?いいんです。朝昼晩三食分ですから()それでも足りなければ翌日に・・