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2013年4月12日金曜日

赤座海老 


赤座海老

30年近く前になるが岐阜に住んでいた事がある。私の住んでいた借り上げ社宅は毎日3時頃になると香ばしい匂いがたちのぼってきた。私の部屋のすぐ下がフランス料理店だったからで、落語の世界なら匂い賃をよこせと言われそうであるが気のいい店主は最後まで言わなかった。私達は娘が生まれたばかりで、おいそれとは外食は出来ず、あの頃は妻がレシピ本を見ながらせっせと夕食を作っていた。妻の名誉のため今でこそ料理を作らないと思われているようだが、あの頃は作っていたのだ。

そんな中、クリスマスだったと思うが娘を寝かせてから3人でこの料理店に出掛けた。メニューの中から手長海老のオーブン焼きを注文した。暫くして供されたそれは赤く染まった身の上にチーズがふりかけられ見事な姿だった。確かに長い手がついていた。

それから20年が経過し荘厳な内装の青山のイタリアレストランでメニューにあったザリガニのオーブン焼きを注文した。

供された料理に目をやると、子供の頃湖沼で良く捕まえたザリガニではなく、例の手長海老がのっている。ウェイターに確認すると「ザリガニ」ですとそっけない答えが返ってきた。それ以上ことさら追及することはせずそのまま食事を楽しんだ。

それからさらに10年、娘の嫁ぎ先である愛知県の三河地方に行った時だ。ご両親が私達のために蒲郡クラシックホテルで食事の予約をしていた。蒲郡クラシックホテルは小津安二郎の映画にも登場する歴史あるホテルである。その後、某鉄道グループが所有するが今はまた別会社が運営している。そのホテルに行く途中、娘の旦那が運転する車の中からふと蒲郡の市内を見渡すと、ところどころにのぼりが立っている。そこには「アカザエビあります」の文字が見えた。恥ずかしながらこの時まで赤座海老がどんな海老でどんな味がするのか知らなかった。

横浜に戻って赤座海老を調べてみた。何と蒲郡で多く水揚げされるとある。この海老は深海に住んでいて大型船で捕獲されるらしい。日本の固有種で駿河湾や三河湾の砂底に住んでいると書かれていた。写真を見ると想像していた海老と違う。でもどこかで見た事がある。そう、岐阜で食べた手長海老、青山で食べたザリガニのそれではないか。

よくよく調べてみると日本の手長海老は汽水域に住んでいて全くの別物のようである。この海老には鋏がある。つまりザリガニの仲間である。青山のウェイターはあながち間違っていた訳ではなかった。

今度、娘を送っていく時にでもこの産地である西浦温泉に逗留して、たらふくこの海老を食べてこよう。30年来の謎解きが分かったのだから・・・


 


2013年4月11日木曜日

Convivialite


Convivialite

妻の友人が私の一押しの京都のイタリアンレストランに行ったが本人が期待した程ではなかったと言う。彼女が行ったのはランチで決められたコースをチョイスしたようだったのだが。
私が八坂のこの店に行ったのは娘が嫁ぐ前日である。イタリアン好きな彼女だということもあったが、家族で記念になる食事を味わいたいと1カ月前に予約を入れた。

私は辻静雄氏を敬愛する。彼の料理に対する情熱は料理人としてのそれに文化人としての枠閾をなぞって余りあるものだ。その辻氏もさらに彼の後輩でもある山本益博氏もよく使う言葉にコンビバリティというフランス語がある。直訳すれば「皆でテーブルを囲み、楽しい時間を共有する」といった意味だ。
そのために何が必要か?それはその料理とサービスそして時間を繋ぐホストの存在であると山本氏も言っている。子供にメニューを決めさせるような日本では食に対する真摯な対応が難しいし、このホストが不在の場合が多い。ホストに求められるのは単なる知識の詰め込みではなく、料理人やサービスマンへの気配りである。欲を言えば彼らがやる気になるような労いも必要である。

ワインも同様、全てソムリエに任せるのは無難な方法だが、どんな料理とこのワインが合うのか想像する楽しさを捨ててしまっている。
例えば5月下旬の初夏の様な陽気の時には、「今日の様な暑い日に鱸のパイ包み焼きにあわせてさっぱりだが力強いワインが欲しい」と言ってみる。我前、ソムリエのやる気が変わってくる事請け合いである。
難しいことではない。自分の心境を吐露すればいいのだ。

白金台にある三ツ星フレンチに行った時である。料理のレベルはもちろん高く、一切の妥協なき料理はこれならばと、三ツ星を納得するものであったが、その料理を繋ぐソムリエがまた素晴らしい。料理にあわせて次々に出てくるワインはこの料理にしてこのワインの手本のようだった。ふた皿目の貝類にあわせたワインは年代物のブルゴーニュでミネラル分が多くそのワインのテロワールが感じられ目の前にはワイン畑が見えるようだった。そして最後は抜栓したばかりのカリフォルニアのシャルドネだった。デザートと併せてまるで私達をジャッジしてくれとばかりだった。これには降参だった。

もうお分かりだと思うが、素晴らしい店を作るのもまた客なのだと山本氏も言っているがその通りだと思う。その素晴らしさを引き出すのは客なくして出来ない。そして一流の料理店には一流の客がつくものなのだ。料理との出会いは一期一会、そしてその先にいる料理人やソムリエとも一期一会であることを肝に銘じるべきである。私達は美の食の国に生まれたのだから



2013年4月10日水曜日

Car Wash Machine!!!!!!


CaR Wash Machine!!!!!

昨日は酷い目にあった・・まあ自分の好奇心がそうさせただけなので他人のせいではないが、とにかくまずい外食をした日は落胆する。
こと美味しいとか美味しくないとかという他人の指標は信じないことにしているのだが、昨日はほんの少し他人の誘惑に載せられもしたのだ。
信念の無い店は駄目だと書いたばかりなのにこの体たらくでは失笑の的となってしまうが自分の責任である。自業自得。
元来、山国生まれの私は新鮮な魚とは縁遠い存在である。美味しいと思った寿司は上京してから叔父が連れて行ってくれた荻窪の寿司屋が初めてで、それまで禄な魚は食べていない。身銭を切って食べられるようになっても美味しいと思った寿司屋は五本の指より少ない。

だから外食で寿司屋にはほとんど行かないのだ。

もっとも数少ない私のお気に入りの店もある。友人の贔屓の吉野寿司はそのひとつ、何と言ってもネタもさることながら、その大きさが良い。さっとつまんで口に入る。これが寿司の鉄則。養殖物のハマチがシャリの上にだらっと垂れていたらもうお手上げである。こんな店は二度と行きたくない。

マグロは舌の上で鉄の味がする。鉄の包丁があれば試してみると良い。舌の上に包丁を乗せてみる。間違っても刃を下にしては血生臭い流血事件となってしまうので慎重に。吉野寿司ではそれと同じ味(包丁の)がする赤身が旨い。

駄目な店は駄目な人がやっている。当たり前だが道理。でもこの狭い日本なのにこんな店にも贔屓の客がいるのだ。でも客も駄目だから仕方ない。

私も昨日はその一人。自業自得、身から出た錆、自縄自束、the natural consequence of my act


ところで皆さんは洗車機どう思います。このところ私の車は洗車機に入らない車なので残念なのだが、実はあの洗車機、私は大好きなのである。これは間違いなく三指に入る好物だ。我が家に車がやってきたのは中学になってのことだったので、その前は東京に住む叔父がガソリンスタンドで給油するときにこの洗車機を使っていた。

ぐるぐると回るブラシ、勢いよく飛び出してくる水流、ゴシゴシと泡だて洗うその様は私にとって至福の時間だった。最後に物凄い勢いで水滴を吹き飛ばす風なんてもう感激以外の何物でもない。最高のひと時を味あわせてくれる。

そのためだけに車を買おうかとさえ思う。それだけ私は洗車機マニアなのだ。
断っておくが、柔らかスポンジは駄目。車体にナイロンの髭が残るようにゴワゴワしたブラシでしゃきっと洗ってもらいたい。そうでないと気持ちが悪い。

誰かの小説に「雨の日に洗車をしよう」という素敵な題名の短編があった。もう題名だけで蕩けそうである。洗車機マニアにとってこの言葉は禁句だ。

ラジオのパーソナリティもやっている畠山美由紀さんとう歌手がいる。気仙沼の出身で素敵な歌声の持ち主だ。その彼女が新しいアルバムを出した。誰もが知っているポピュラーな唄を集めている。そのアルバムもお薦めだが、冨田ラボとフューチャリングしているこの歌も最高だ。何と言っても洗車機だからね。




2013年4月9日火曜日

成熟した街


成熟した街

暫く前になるが事務所の近くの古書店で辻静雄氏の初版本の著書を購入した。辻静雄氏はご存知のように日本のフランス料理の黎明期に活躍した人物である。今も関西に彼の名を冠した料理学校があるので名は人口に膾炙していると思う。
其の書の題名は「パリのビストロ」だった。すぐさま悪食大食漢の私は読了しパリの街角の美味しさと楽しさを目で味わったものだ。
ある日、私の中の調べ虫が騒ぎだし突然その本に掲載された店が今もあるものかと興味を持った。インターネットの発達する昨今ではこうした検索は事欠かず可能である。するとどうだろう、恐らく7割近い店が現存するのである。もちろんオーナーが代替わりし、経営が別の人に渡ったものもあろうが、そこに掲載されている店名は存在するのだ。
彼がこの本を出版したのは1971年ということだから、ざっと42年前である。その店がパリには現存するとは驚きである。
一方、日本はどうだろう。昔から食べ物と曲者には興味のあった私は多くのこの類の本を読んだ。読んだと言えばおこがましいので卑下して言えば眺めた程度であるが、その走りはなんと言ってもグルマンこと山本益博氏だった。彼は80年代に多くの著作(共著も含めて)出版している。私はまだ駆け出しのサラリーマンで氏の著作を読みながら多くの飲食店を行脚した。山本氏は私より一回り年上である。その先輩が経験した貴重な情報を得て、なるほど、ほうほうとしたり顔で面相していたのである。
当時の氏はかなり辛辣な評価をしていた。ところが最近の彼はめっきりそれを奥にしまって毀誉褒貶の前段はしなくなった。彼に言わせると幾ら指摘したところで店主の志が変わらなければその店は変わらないというのは尤である。私もそれ以来、師の教えに従い毀誉はすれど褒貶はしないと決めている。
これもまた古書店から取り寄せたわけだが、彼の1980年代の彼の著作を取り寄せた。以前、愛読していた本であるが、多くの書籍同様行方不明になってしまったものだ。その著作には当時、氏がこれはと思った店が数多く評価されている。懐かしい名前が見受けられる。
そう私も良くかよった青山のキハチも出ていた。青山墓地地の手前のあの店は懐かしい。熊谷氏の料理は私の大のお気に入りでワタリガニや甲殻類と相性抜群のキハチスパイスは今となっては私の料理のDNAに取り込まれている。
ところがどうだろうそこに掲載している店で現存する店が少ない。よほどの名店であっても今はその姿を残さない店が多いのだ。前述の辻氏の著作に登場するパリの名店と比べてその無くなった店の多い事が分かる。
食べると言う事は人間の基本的要求であると同時に文化の成熟度を表す鏡だと思う。父や母から伝えられた食と言う文化を自らの子孫に繋ぐ行為は文化的行為であり、多くの先進国ではその指標は高い。されど日本は国民の多くが新しいもの、珍しいものに飛び付く。正当なものを供していてもすぐ飽きられてしまう。すると店の方も手を変え品を変え客に媚びを売り、その結果、築き上げた信用と歴史を台無しにしてしまう。
こういうと店が悪いように聞こえるが、その大罪の大方は客である私達にある。山本氏の敬愛する京都の「千花」で氏が大将と交わした鯛の刺身に対しての食べ方はそのまま客側の食に対する啓蒙の欠如という危機感として現れている。
私はユニクロが嫌いである。妻はそう公言する私をユニクロで買っている人の事を非難しているようだと詰め寄るが、嫌いな物は嫌いなのである。人の批判ではなく私の問題である。洋服も食べ物も安いから、人が買っているからという発想自体が嫌いなのだ。何を食べるか、何を着るかはその人の価値観の表意であるからそのような事を一事が万事として扱う事は私には出来ないのだ。
私がユニクロを嫌いな理由は、その商品に思想が感じられないからだ。
飲食店でも全く同じ。作り手の思想が感じられない店には行く気がしない。
先日、家の近くの中華料理店にいった。お世辞にもお金を掛けたとは言い難い、前の店舗(和食店)の内装をほとんどそのまま使った店であったが、その料理には思想が感じられた。某有名中華料理店の調理人がその三分の一程度の値段で同じ味を提供している。恐らく彼は旧元でもっと安く多くの人にその味を提供したいと思ったのだろう。
全ての料理にそれが感じられた。おそらくその店が続く限り私は通う事になるだろう。
世の中、流れに掉さしていただけでは疲れるし風当たりも強いのは分かる。長い物にまかれるというのも世の常であろう。だけど、そんな世の中だからこそ、食べ物と着るものくらい自分の拘り持っていいのではないだろうか。こんな頑固おやじが一人くらいいても世の中悪くないと思うのだが如何であろう。山本氏のフェイスブックを覗くとまだまだ食に対する興味と関心がかの年をしても窺える。先日もナパのフレンチランドリーにっ行った記事が掲載されていた。全米一、予約の獲れづらい名店は同時にしっかりとした思想を持っているのだ。
昨年、京都のイルギォットーネに行った。娘が嫁ぐ前日である。多くの客が薦められるコースメニューを頼む中、私はアルカルトで注文した。すると店の奥から別の女性が現れ一品ずつ調理法を私に相談した。もちろんその全ては私を満足させた。恐らく私の気持ちがホールの人に伝わり、そしてその気持ちが調理人に伝わり、それが料理となってブーメランのように戻ってきたようだった。翌日、老眼鏡を忘れた私に心のこもった文章が添えられその老眼鏡は戻ってきた。以心伝心。





2013年4月8日月曜日

生命のバトン


生命のバトン

友人と約束した事がある。それは病気と孫の話はしないというものである。私は大いに共感し眷族を増やすべく周りに吹聴していたのだからこの約束は守らなければならないのだが、実は日曜日に娘が男の子を出産した。つまり私もおじいちゃんの仲間入りを果たしたのである。そこで私が体験した不思議な感覚の事だけはどうしてもお伝えしたいとこの禁を破り敢えて書かせて戴きたいと願うのである。

まわりの諸先輩方は皆口を揃えて孫は可愛いというのである。もちろん否定はしない。
ただ、私が感じた感覚は可愛いと愛おしいというものより、もっと不思議なものである。丁度宙に浮いたような感覚である。別に二日酔いしているわけではない。娘や義理の息子たちの事を廊下の空中からふわっと俯瞰しているそんな感じだ。

考えてみると自分の子育ての時期には年齢的にも経験的にも周りの事など見渡せなかった。ただ、自分の子供と妻を見ているだけだった。それが孫となると違う。俯瞰していると書いたが丁度ガラス越しに直接手だしの出来ない作業を見ているようで実感が無いのに繋がりを感じるそんな感覚だ。世の女の子を持つ父親の多くは恐らく娘の出産の時にこの不思議な感覚を持つ事になるのではないか。

娘も息子も大学の入学式には出席した。安藤忠雄氏に言わせればこんな親がいるから自律出来ず駄目なんだと言う事になろうが、私はあの入学式は親のリリースの儀式だと思っている。そう子をリリースする儀式だ。だからその後の行事には関わった事もないし、興味もない。

リリースした後は子供が考え決めて行く。それでいい。そして次の親離れは社会に出て働く事だ。そしてその次に自分の家庭を持つ事。そして最後が子供を育てることである。もちろん諸事情があってこの通りに行かない場合もあるだろうし、病気のため子供が出来ないと言った切実な問題もあるだろう。しかし、こうして親業を卒業していくのではないかと私は自分に言い聞かせている。

私の父は私の長女が幼い時に他界した。日頃の不摂生がたたったのだから自業自得と言えば言えなくもないが、ひとつだけ私が父にしてあげられたことがあった。それは孫を見せる事だった。そうは言っても孫と接する時間が長かったわけでもなく、数回あった程度だったが、父が娘を見た時の安心したような穏やかな顔が何故だったのか今なら少しわかるような気がする。

生物は子孫を残し、順繰りに死んでいく。これが一般的な摂理だと思う。ところが私は知り合いの言葉を思い出す。その人の子供は出産の時に脳に障害を持って生れて来た。とても一人で暮らすことは出来ない。両親はもちろん兄弟姉妹でその子を支えている。そんな人がポロッと一言「子供を残して死ねない」と言った。そう生命摂理とは順序が違うことを望んでいるのだ。その寂しさや悲しさはとても私には理解できるものではないだろうが、それ以来ずっと私の心にこの言葉は住み着いている。

父があのとき見せた柔和な顔は安堵の顔だったのではないだろうか。
父親としての自分をどう考えていたかしらないが、生物としての命のバトンを繋げたことを父はあの時俯瞰して見ていたのではないだろうか。

人は生まれる時多くの人の笑顔によって迎えられ、そして多くの人の涙で送られる。これが素晴らしい人生だと聞いた事がある。その通りだと思う。
所詮この世の事の起こった事は一瞬の幻のようなものでどのような名声もあの世では関係ないし、すべてが混沌とした中に埋もれて行く。

どんな子になるか皆目見当もつかない。親がどんな子にさせたいと思っても自由になるようなものではない。子供は子供の人生なのだから。ただひとつ親より長生きをして子供を親に見せてほしい。それが唯一のお願いである。勁草のように強くしなやかでなくても、韋駄天のように脚が速くなくても良い。ただ、親より長生きをして生命のバトンを繋いで欲しいそれが私の願いである。











2013年4月5日金曜日

初めてのハンバーガー


初めてのハンバーガー

こんなに悪食なのにハンバーガーにはてこずる。どうやって食べたら良いのか分からないのだ。もっともペッチャンコの一口で食べられるような代物はそのままパクリと大口を開ければいいのだろうけど、これ見よがしのベーコンだのアボガドだのが幾層にも積み上げられたハンバーガーにはもう降参である。一度、順番に上から食べた事があるのだが、まあなんていうかハンバーガーではなく、ピクルスはピクルスで酸っぱいし、ベーコンはベーコーンで油っぽい、パンはパサつく別の物を食べているようで美味くなかった。
もっともこれも元をたどればハンバーガーなるものを食べた原体験にあるのかもしれない。
私の育った北関東の街はあの当時は東京より10年は遅かった。水洗トイレになったのは私が4年生のときだった。薪の風呂からガスに変わったのは中学になってからだった。
おしなべて万事がそんな塩梅であった。(私の家だけかもしれないけどね)
そんな事情もあってマクドナルドが出来たのはずっと後だった。今調べてみたら50号線の街道沿いと郊外のショッピングモールにあるようだ。いずれにしても私の高校生までは無かった。
初めてハンバーガーを食べたのは高校1年の時だった。高校の校門を出て右手(たぶん)に自動販売機があった。そこをミミズクと呼んでいた。その自動販売機の一つにハンバーガーがあったのだ。
確か100円だったと思う。100円をコインの投入口に入れると、チャリンとした音と同時に透明のガラスケースの一つの箱からハンバーガーが滑り落ちてくる。
ハンバーガーを包んでいる紙は油で滲みて、ほんのり暖かいパンと潰された肉は何の味もしなかった。ただピクルスの酸っぱさだけが際立っていた。食べようと思えば10個は食べられる年齢である。量は少ないし高ければ買わないのだから下火になっていつしかボックスから消えていた。
近接する商業高校の横にはインスタントラーメンを作って食べさせる食堂があった。
壁には味の大関、サッポロ一番、サッポロ一番味噌ラーメなどとメーカー名で書かれていた。50円程度だった。味噌ラーメンが少し高かった記憶がある。
もっとも繁華街(当時は)にあった、コタンという札幌ラーメンの店は私達の餌食になっていた。大盛りを食べるとただになるという情報が行き渡り、お腹を空かせた16歳の男の子が押し掛けていた。店主もそこで一考しそのチャレンジは平日の昼間の時間に限定した。しかし私達にとってそんなハードル朝飯前だった。授業を抜け出し店主の前に現れた私達はしたり顔だったと思う。結局、暫くしてそのサービスは無くなり、店も無くなった。この店を潰した一人は間違いなく郷里にいる脳外科医のSであると断言する。
話を戻そう。実は先日立石に行った。もちろん昼間だから名物の居酒屋や焼き肉と言う訳にはいかなかった。簡単に食べられる物を探していると奇妙な看板を見つけた。どうやらハンバーガーを売っているらしい。御世辞にも綺麗とは言えない建物であるが、そこには、なんとハンバーガーの自動販売機と書いてある。37年前のミミズクの自販機バーガーがフラッシュバックした。
早速オーダーをしてお金を入れるとなにやらその箱の後ろで人が動いている。完全人力自販機である。私はハンバーガーをもらい、車のドアを閉め、おもむろに包みを開けた。そして一口食べたその味は37年前のミミズクの味だった。立石に行かれたら見つけてください。無くなる前に・・




2013年4月4日木曜日

檸檬 画翠


檸檬 画翠

少年にとっての都会の入り口が浅草だったならば、その道程はお茶ノ水だった。
高校1年生の夏休みに予備校の夏期講習で上京した時の事だ。
叔父の家は杉並にあった。多くの下職を使いながら建築関係の仕事をしていたその家は朝から晩まで人の出入りがある賑やかな家だった。二人の子供はまだ幼く少年とはだいぶ歳が離れていた。
少年はひと夏叔父の家に居候させてもらった。少年はその叔父の家から予備校まで毎日通った。叔父の家は五日市街道沿いにあり少年は近くのバス停からバスに乗り中野駅に向かった。街道は区画整理の前で、大きなバスは軒先をかすめながら猛スピードでカーブを曲がっていった。関東バスの運転が荒いのは有名だった。
少年は夏休みに入る前に担任の国語教師から言われた事がずっと気になっていた。
本を読まないものは自分の言葉しか持たないものと同じで、入試に出るような文章を理解できるわけが無いといって30冊近くの小説の名前をあげ生徒に指示した。
少年はそのほとんどが読んだことが無かった。
予備校の入学手続きを終えた少年はお茶ノ水の大きな書店で20冊の文庫本を買った。
予算はそれ以上でもそれ以下でもなかったから。
少年は20冊の文庫本を抱えて、駅前の喫茶店に入った。少年は初めて檸檬をレモンと読むことを知った。大きな黒い鞄やイーゼルを持った美大生と思しき人たちで店内は一杯だった。少年はアイスコーヒーを頼み、クリームを一杯に入れてかき混ぜもせず、またたくまに飲みほした。少年はもちろんパリいったことも見た事もなかったが、パリには学生で賑やかなカルチェ・ラタンと言うところがあり、さしずめこの辺りが日本のそれだと友人から教えられたことがあった。
賑やかな学生たちを見ていると何となくそんな気がした。
少年はその揺れるバスの車内で吊皮につかまりながら行き帰りで1冊の本を読み終えようと決心した。最初は全然できなかった。それより今考えるとよく車酔いしなかったと不思議である。それでも1週間もすると目が慣れてきて1冊を読みおえる事が出来るようになった。
授業が終わったある日、誰が誘った訳でもなく仲間とすずらん通りのパチンコ屋に入った。しばらく球の行方を追っていると、一番背の低い仲間が警官から質問を受けていた。歳を聞かれても正直に言わないように暗黙の了解をしていたつもりだったが、警官から干支を聞かれあっさりばれてしまった。結局、仲間全員、交番に連れて行かれた。
当時は東京の警官はさすが機転が効くと驚いていたが、学生運動のさなか高校生が煙草を吸い遊興所に出入りすることが多くなり、警察全体でそうしたことが一つの決まり文句として一般化したと後で知った。一人の警官の機転ではなかった。
その夏はあっと言う間に過ぎ去った。夏期講習の午前部は色々な学校の生徒がやってくる。少年の様な田舎の県立高校生からみれば麻布や開成といった高校は全く別次元だった。
授業のテストで難問の数学の時間があった。クラスの最高点は確か30点だった。もちろん満点は100点である。隣の麻布の生徒の答案は25点だった。その生徒はこれでは親に見せられないと苦虫をつぶしたような顔をしていた。
少年の点数は7点だった。その夏、理系へ進学することは諦めた。
夏期講習を終わり実家に戻る頃には幾分涼しくなっていたが、少年の腕には日焼け跡が残っていた。何故なら休みの日は叔父の建築の仕事を手伝っていたので結構日焼けした。
自由が丘の現場だった。公園の横の瀟洒な家だった。叔父たちと一緒に大木の根を掘り起こす仕事で球の様な汗を噴き出しながら泥だらけで仕事をしていた時の事だった。施主のトイレを借りようとしたら、施主から汚いからと断られた。
少年は大人の事が少しわかったような気がした。
電車が新桐生の駅につく頃には少年は大人になっていた。その秋、バスケットの部活を辞めた。仲間ともほとんど交際しなくなった。そして翌年の春2年生を迎えた。