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2013年12月19日木曜日

イカ人参と阿左美沼

私の生まれ育った街は内陸で海や大きな湖、運河があるわけではないのに競艇場があった。恐らく全国でも沼でボートレースを開催しているのはここくらいではあるまいか。その沼を阿左美沼といった。

私の家からは橋を渡り隣町にあるその沼まで徒歩では30分以上掛かる。沼の淵には葦が生い茂り冬になると渡り鳥もやってくる。沼には鯉や鮒、げんごろうや蛙もいて、子供には格好の遊び場だったが、何故か子供の姿を一人も見かけることはなかった。それもそのはず競艇場内で事故があっては大問題と官民挙げての厳しい規制線が引かれていたからだ。

私が高校に進学した頃、我が家は困窮していた。父のやっていた窯業が理由は分からないが取りやめとなって、作陶していた窯を追われた。その後に窯を継いだのは父の使用人だった。父は自暴自棄になるわけでもなく、他人を恨むでもなく、さっさと自らの好気の目を他に向けていた。よって父は家を空けることが多く、収入は不安定だった。
私が幼い頃、母は内職をしていた。織物の街らしく当時は刺繍の仕事もあったが、その頃には繊維業を斜陽になり、家にあった工業用の刺繍ミシンはとても安く買いたたかれて業者に引き取られていた。

母が競艇場に出納のパートの仕事があると聞いて通うようになったのはその頃である。当時、スイトウと聞いて、スイトウとは何ぞやと考えた。水筒では繋がらないし、何となくお金を扱う仕事だと感じていたが些細が分かるはずもない。
母まずカブを買った。蕪でも株でもない、ホンダのスーパーカブのことだ。母は雨の日も風の日もこのカブで競艇場に通った。ここはからっ風で有名な上州である。東京の北風なんて風じゃないと思われる砂埃の北風が渡良瀬川の上を吹き降ろす。商業高校のグラウンドの砂が高く舞い上がり、橋の上では視界も効かない。母はいつも手袋を二重にしてマスクの上にさらにマフラーと帽子をかぶって出掛けて行った。

そんな母がある日、競艇場から袋いっぱいの人蔘を持って帰ってきた。一畳ほどの狭い台所に母は立ち何も言わず何かを作っている。出来上がったそれは人蔘とイカだけの見た目はいただけない代物だった。母に聞くと同じ職場に通う、福島出身の人がこの料理を山ほど作ってきて皆で試食させたそうだ。母の口にあったのか、美味しいと言うと、人蔘を分けてくれたそうである。その人の嫁ぎ先は農家だったので人蔘には事欠かない。特に冬のそれが美味しいということであった。

イカ人蔘を食べるとなんともほろ苦いあの頃を思い出す。からっ風はないけどね。






2013年12月18日水曜日

肉々ひい肉 茄子の蒲焼き 仙台麩

肉じゃないのに肉であると主張する食材がいくつか存在する。私の育った隣街(戦前は中島飛行機の製作、戦後は自動車で有名になった)にはとんでもない、うな重が存在する。色形、匂いまで鰻そっくり、蓋を開けてもやや太めの鰻と見紛うものが重箱の真ん中にドーンと置かれている。箸をつけ持ち上げるとタレを含んだその身は鰻より重たい。口に運べばよく蒸した鰻のようではあるが、あまりにフニャフニャで柔らかい。噛んでみるとそれは鰻とは別物だ。だって茄子だもの。

我が家では筍の季節になると仙台麩を用いて煮物を作る。筍というヤツは季節が少しでもずれると市場から全くなくなるのに、その一時期には貰い物が集中する。色々なところから4.5本も頂くとエグみが出ないうちに調理しなければならないから大変だ。最初の頃は刺し身や若竹煮で崇められ食べていてもすぐ飽きが来る。そうすると我が家ではこの仙台麩とのコラボレーションの登場となる。

仙台麩は長い木に巻きつけ焼き上げる。焼き上げた麸を何と容赦なく油で揚げてしまうのだ。麸の神様がいたに叱られそうだが、この傍若無人の行為によって、麸は肉に変わるのだ。少し濃い目に味付けされた仙台麩はまさに肉である。肉より、肉々ひい肉・・





2013年12月17日火曜日

信念と情熱  訃報 馬場浩史氏に捧ぐ

「習うより慣れろ」という言葉がある。私の場合、ファッションもそうだった。勤めた会社では多くのお洒落な先輩やファッションそのものを商売とするショップマスターと交友する機会を得た。そのような環境で一番感じたのは世の中の流行りの服と自分の似合う服は別であるということだ。そして何より服に着せられている程カッコ悪い事はないと思った。
会社を辞めて恵比寿で飲食店の真似事をしているとき、馬場浩史さんを紹介された。最初、紹介してくれたのはトキオクマガイを当時展開していたイトキンの関係者だった。次にもう一人の人が同じく馬場さんを紹介してくれた。前の会社で公私ともに可愛がってくれたM先輩である。今となっては代表執行役員となり私など恐ろしくて近づけないところに上り詰めてしまった訳であるが、あの時は私の店のカウンターに3人で座り色々と話したことを覚えている。
会社を辞めてから本当に洋服がその人に似合っていると感じたのはこの馬場さんが初めてだった。今でも覚えているが洗いざらしの白の綿シャツに渋目のオレンジトーンのツィードのジャケットだった。ボトムはベージュのコールテン。本当に似合っていた。
馬場さんは雇われマスターの私に「もっと好きなことをやりなさい。儲けや人は後からついてくる」ときっと言いたかったに違いない。馬場さんと一つしか年齢は違わないのに世界を股にかけ色々と見てきた人と世間知らずの井の中の蛙ではその差は歴然すぎた。
馬場さんは恵比寿の事務所を引っ越し益子に移ったと聞いた。偶然にも移った先は私の父が作陶の手本にしていた民芸の発祥地益子である。縁を感ぜずにはいられなかったがとうとう益子に伺うことは出来なかった。
仕事とはなんだろう。時々思う。自分は思い切って好きなことをやっているだろうか。人の目や体裁を気にして中途半端な仕事をしているのではないだろうか。馬場さんのことを考えると特に自省してしまう。
私に影響を与えてくれた人がまたひとりこの世からいなくなってしまった。残念なことであるが、多くの人が馬場さんの死を惜しんでいる。そして馬場さんと仕事やプライベートを一緒にしたことのお礼と感謝をのべながら。きっと馬場さんのことそんな私たちを見て笑っていることだろう。同時に大好きなブランケットを持って新しい居場所を既に見付けているに違いない。合掌。






時間のたたみ代  経営者の時間

若い人は年輩者に比して時間の経過するのが遅い。これは誰かも同じようなことを言っていたが年齢が分母に来るらしい。つまり私の場合は生まれたての赤ちゃんの54倍で時間が過ぎて行くことになる。その数値が正確かは別として多くの人がそう感じているのではあるまいか。

若い頃はプライベートと仕事を区別して考えていた。ところがいざ自分で経営してみるとそんな事は言っていられない。その事を誰かに愚痴めいて話した時に言われた。それは君の仕事の仕方が下手なのか、時間の使い方が悪いのか分からないが、要するに自分の脳力の無さを他人に説いているようなものだと。それ以来、プライベートと仕事を分けることはしなくなった。その代わり仕事もブライベートも全力投入で楽しむ。嫌なものは最初から手を出さない。そして忙即閑、閑即忙である。この頃はそこに少しばかりのたたみ代を入れている。何かが起きた時でも対応できる糊代にあたる時間である。若い人はそれを知らずに時間を使っているわけだから、必ずどこかで皺寄せが来る。そんなとき年配のこのたたみ代が機能する。

ところが年配になっても中にはこのたたみ代を全く持たずに生きている人も少なくない。英会話、お茶、お花、ゴルフ、乗馬と習い事や愛好スポーツは全て取り入れ、またその余のイベントを次から次に仕込む。もちろんそれは個人の勝手であるから私は干渉しない。しかし、どんなに小さくても組織や集団に帰属しているならば自重しなければならない。それが人生の先達としての役目であるから。物事がうまく機能するのはこのたたみ代が必要になるからだ。

失敗を繰り返す人の多くはこのたたみ代を持たない。持てない性格なのか理解不能なのかは分からないが、動き続けるネズミのようにただ動いているだけである。これでは会社の艫綱を任せるわけにはいかないのだ。








2013年12月16日月曜日

サケ缶の思ひで

スーパーに並ぶ缶詰の中でも鮭缶は買わない。ツナ缶は買うのだが鮭缶は買わない。中には北海道のどこそこでとれた鮭とブランドをうっている高級品もあるが、別に味がどうのというのじゃないから、私は鮭缶を買わない。鮭缶を買わないのには理由がある。

小学校の頃、サカタくんという近所の友だちがいた。彼の家は私の家のような市から払いさげられた粗末な住宅ではなく、和瓦の立派な家だった。確かご両親は教師をしていたと思う(たぶん)

彼の家の庭には柿の木があり私達はよく登って柿をとったがその柿は渋くて食べられなかった。彼の家には猫がいた。何匹かいた。両親とも共働きで平日の昼間はサカタくんと猫達しかその家にはいなかった。主人のいないその家で一番偉そうにしていたのはサカタくんではなく猫達のほうだった。

サカタくんは猫達に食べ物をあげるといい、台所に立った。猫達は見慣れぬ不審者を暫くじっと凝視し、またフンとそっぽを向いた。

サカタくんが台所から持ってきたのは赤い鮭缶だった。こたつの上に鮭缶を置くと、猫達は集まってきて、その鮭缶を食べ始めた。

しばらくすると猫達は食べることに飽きたのか、こたつから身を翻し、引き戸の隙間から外に出て行ってしまった。するとサカタくんは残った鮭缶に指を入れ、鮭の身をつまんで口に運んだ。唖然として見ている私に「食べる?」と聞いてきた。

それ以来、鮭缶はどうしても買う気になれない。それとも思い切って鮭缶を購入し自らの手で口に運んで「食べる」と息子に聞き返してみようか。鮭缶に妄想が膨らむ。






2013年12月13日金曜日

茗荷の妙味


平松洋子さんが茗荷の事を書いていた。秋茗荷が終わったばかりなのに無性に茗荷が食べたくなった。

我が家の茗荷は家の東北にひっそりと植えられている。その出所は川越で生まれ、目黒の青葉台(昔は日向町といっていた)に引っ越し、そこで青春時代を送り、横浜の辺鄙な我が家に嫁いできた。茗荷が何故女の子かと問われればこれといった確証はないが、甘酢に付けて暫く置くと、仄かなピンク色に染まるその容姿がうら若い女の子を想像させるからとしておこう。

私の恩師にあたる人と海外旅行に行くことになった。その人は日本の地勢史を研究されていて前職もその編纂にあたっていたため、日本の歴史、地理については大変詳しい方であったが、趣味も仕事も同じとばかり国外に出かけるようなことはまずなかった。ましてや今回はハワイである。派手なことと時差ボケを心配し、当初二の足を踏んでいたこともあり、私はその方に少しでもリラックスしてもらおうと、空港に茗荷の甘酢漬けを持参したのである。何分、その茗荷の株はその方から頂いたのであり、正真正銘の里帰りである。

お酒を飲まないその方と空港のラウンジでやわら瓶を開け、つんとする酢と甘い砂糖の匂いが鼻先をかすめるころ、窓の外は夕暮れに染まっていったことを思い出す。

あれから5年、その方は戻らぬ人となってしまった。今は枯れて見る跡もないが、我が家の茗荷は春先になると濃い細長い葉を生い茂らせ茗荷が地中からひょこんと芽を出すに違いない。主がいなくなっても植物は毎年芽を出す。

手で摘んで、またあの甘酢付けをこしらえよう。そして墓前に供えて。






2013年12月12日木曜日

舌の表現者 平松洋子

この通りの健啖家であるからして食に関するエッセイを読むというより、片っ端から貪り食うている感がある。断っておくが決して美食家などではない、ただの食いしん坊それだけである。
売れっ子のK.Mさんという女流作家も食に関する文章を書くが、私には腑に落ちない。無理やり好きなふりをして書いているように感じるからだ。彼女は食より飲に興味があるのではないかしらんと思ってしまう。その女流作家が開高健氏のエッセイをべた褒めする。確かに氏のものは迫力もあり、氏の食に対する興味がヒシヒシと伝わってくるし、その博覧強記ぶりは知識の獲得という面では大層役に立つ。ロマネ・コンティ1935なんて飲んでいなくてもその素晴らしさがじわじわと伝わってくる。しかし、氏はゲテモノまで食の対象としているため、気とお腹の弱い私などはたじろいでしまう。
そこへいくと平松洋子さんのエッセイは庶民的だ。アマゾンやメコン川まで行ってナマズを食べるわけではない。神保町や須守坂で用が足りる。用が足りるからと言って彼女の食のアンテナが凡庸かと言うと違う。大変デリケートで敏感である。我が家では「寝る前の平松洋子」という決まり事がある。私同様食べることが大好きな息子は平松洋子の食のエッセイを読んでベッドに入ると何か幸せな気分になれるのだと言う。だから彼女のエッセイはすべて持っている。このところ食に関するエッセイ以外に本や物に関するものを書いていたが、最近また食に関するエッセイを発表した。題名は「ひさしぶりの海苔弁」である。挿絵は安西水丸氏。表紙一面の漆黒のイラストが興味をひき起こす。へそ曲がりで理屈屋の息子ではあるが仕方あるまい。中学生の頃より、ラカンやドゥルーズ、デリダ、西田幾多郎、和辻哲郎などを読んでいた早成であるからして、彼の真贋を見抜く目はこの老人をしても慧眼と言ざる得ない。村上春樹氏の小説も首を傾げる息子も、このエッセイは黙って二階に持っていき、彼のベットサイドに鎮座することになるであろうと密かに期待をしている。それにしてもヨウコさんというのはどうして食いしん坊で美食家で料理上手なのだろう。偶然とはいえ恐れ入谷の鬼子母神である。