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2014年1月7日火曜日

SCORPION BAY 謹賀新年

SCORPION BAY 謹賀新年

明けましておめでとうございます。本年も昨年同様宜しくお願い申し上げます。

さて私の正月はといえば娘夫婦が年末から帰省し、また一族郎党にスタッフ家族も加わる恒例の新年会もありあっと言う間に松の内でした。そんななか、嬉しい事に万緑叢中紅一点、KさんがLAに帰る僅かな時間を縫って立ち寄ってくれました。戴いたオーストラリアの雑誌にはKさんの写真とともにその軽やかなステップをFANCY FOOTWORKと説明が添えられていました。同封戴いたフラッシュメモリーにも2013年のサーフシーンが撮りためられており、マリブはもとよりスコーピオンベイでのショット、さらにKさんを始めALEX KNOST、JARED MELLといった注目のサーファーも写っていました。

私も腕は別としてショルダーの張ったメローな波をクルージング出来るよう腰と風邪を直してKEEP SURFINといきたいものです。





2013年12月30日月曜日

初めてのスキー

幼なじみの女の子が近所の県営団地に住んでいた。鉄筋コンクリート造の4階建てのそれは平屋の粗末な我が家には憧れだった。何の変哲もないコンクリートの箱に階段が3箇所あって、部屋が左右に分かれていた。女の子で父親は中学の先生をしていた。そんな関係もあって水上温泉にある教員が泊まれる施設に連れて行ってもらったことがあった。施設の些細は覚えていないが、そのすぐ近くに私が初めてスキーを経験した鹿野沢スキー場があった。あの小さなスキー場が今もあるかは分からないが、ゲレンデのてっぺんに杉の木が一本ひょこんと立っていた。右側に長さは50メートルにも満たないロープトォがあった。
当時のスキーはベニヤ板のようなもので先だけ反り返っていた。つま先を固定する金具もただ長靴を引っ掛けるだけで動きもせず、後ろにワイヤーを回して、バッタンと前で止める代物だった。転んでも外れないし、突然外れることもあった。
暫くして、母は私を連れてスキーに行くようになった。電車しか利用できないので駅から近いスキー場に行った。日曜日の朝、早朝のまだ真っ暗な中、母に連れられて駅まで歩いていく、小学生の身には寒さと眠さが堪えた。両毛線に乗り、新前橋で上越線に乗り換える。電車はもちろん各駅停車、たまに急行に乗ることもあったがほとんどは各駅停車だった。上越線のスキー場までの駅名は全て諳んじて言えた。母は必ず焼きおにぎりを作っていた。理由は冷めても美味しいから。そう言われても冷たいものは冷たい、暖かいご飯が食べたいと思ったことを覚えている。
私は小說の雪国を読むずっと以前にあの文章の光景を見ていた。冬の清水トンネルは小說の描写そのまま、突然真っ白な世界に変わる。そこが好きだった。
よく行ったスキー場の一つが中里スキー場だった。駅前にお椀のような山がある。その山にいくつかのコースが作られていた。少し上手くなってくると山の後ろ側からまわる斜面が平坦すぎて面白くなくなった。
時折、岩原スキー場にも連れて行ってくれた。私はこのスキー場が好きだった。ゲレンデは扇形をしていた。上部には急斜面もあったが平均的には緩やかな斜面で広々していた。あの頃このスキー場にある芸能人のロッジが有名だった。そこでは私がまだ見たことのないような料理やワインが出されていたが、母とはそのロッジで食事をすることは一回もなかった。食堂に毛が生えたようなレストランでも私にはそれで十分だった。私はそのレストランのハヤシライスが好きだった。肉もほとんど入っていないソースにグリーンピースが3粒乗っていた。その横で母は朝の余った焼きおにぎりを食べていた。
何年かするとスキー靴は柔らかな牛革から革にプラスチックをコーテイングした硬い靴に変わったが、それもつかの間、全てプラスチック製の靴に変わった。ポールはだいぶ前に竹からジェラルミンに変わっていたが、ほどなくしてグニやっと曲がるジェラルミンからアルミに変わった。
初めて買ってもらったスキー板はオガサカのコンビネーションというブルーの板だった。当時、ヤマハのパラマウントやハイフレックスそして輸入品のクナイスルのホワイトスターが店頭の一番目立つところに飾られていたがいずれも高嶺の花だった。
小学校も高学年になるにつれて私は次第に友達たちとスキーに行くようになった。母とはそれ以来行っていない。いや、妻と結婚が決まった時、3人で志賀高原に行ったことがあった。30年近く前になる。渋峠の極上のパウダースノウを楽しんだのを覚えている。もうあんなには滑れないかもしれないが、久々に電車に乗って家族でスキーに行くのも悪くないかもしれない。





OVER SPEC

オーバースペック

日本の携帯電話は世界的に見れば不思議なものでその様相からガラバゴス携帯などと揶揄されています。でも、日本から出なければ特段不便なわけでもないし、利用者が困ることはありません。
ところが物の中にはそのもの単独で使うことは出来ず、全体との関連性が重視されるものがあります。そういったものをただそのものの性能を追い求めて作ってしまうと後で大変なことになります。
超大型戦艦の大和、武蔵の例は既知ですが、これはどちらかというと過剰能力というより時代錯誤的発想の愚の例ですが、同じ頃「島風」という駆逐艦が建造されました。この駆逐艦は時速40ノットを誇る当時の最速戦艦でした。ところが当時の駆逐艦の主な任務は輸送船等を護衛することが目的で結果他の船が遅いのにいくら速い能力を身につけても宝の持ち腐れとなります。また速いからといって飛行機には及ぶはずもなく、結局、1隻のみ作られただけでした。
こうした例は現在でも数多見られます。航空自衛隊の次期主力戦闘機(FX)の候補として挙げられているF35は設計の遅れにより導入時期の遅れが心配されていますが、アメリカにはこのF35以上に高性能なF22が既に存在しているのです。ところがこの機体は同盟国にも支給されず、アメリカ軍のみ使用する特殊兵器で、すでに生産は終了してしまっています。あまりの高性能ゆえ他国に持たせることが出来ないのです。こうなると各国との連携した軍事作戦は難しくなるばかりか、自国の作戦においても使いにくくなります。国防総省によると単独F22よりもF35等と組み合わせた方がより効率が良いと口を濁していますが、要するにその機体だけ飛び抜けていて作戦立案に不具合が生じる可能性があるということでしょう。
では国会で有名になった誰かの答弁のようにナンバーワンじゃなくても良いのでしょうか。最初から2番目を目指すことはもっと困難でしょうし、そのような目標設定では科学の分野でのリノベーションは起こりません。やはり大きな進歩にナンバーワンの発想は必要なことです。
このようなジレンマを解消するのにはどうしたら良いのでしょうか。ひとつは研究開発部分と実戦投入部分を切り離して考えることです。
白洲次郎が自ら乗っていたポルシェをトヨタ自動車にポンと渡し、これを研究してみろといったのは、その車体の何が優れていて、何がソグワナイのか勉強してみろということだと思います。それを知らないのにただ売れているからという理由でモノ作りをしていても何も残らないと考えたのでしょう。そう考えると今でも日本のモノ作り、特に工業製品においてはまだ発展途上、仏像に魂はまだ入っていないと言わざるえません。






2013年12月26日木曜日

饂飩ください

吉田戦車の漫画で喫茶店の入り口で店の人に向かって、何故か「うどんください」という作品が頭から離れない。良くも悪くも「饂飩」と言う漢字を頭のなかに刷り込んだのだから。

群馬県はうどん県である。小麦の消費が多いということだろうが、戦後、小麦は安価な食料だったのだろう。小麦を使った食品も多い。

今ではうどん、イコール讃岐のように、ツルツル、シコシコのあの讃岐うどんがうどん王国の代表として広く人口に膾炙しているが、私の生まれ育った街のうどんはそんな代物ではなかった。屋号の最初に番号のつく山本といううどん屋が市内にいくつもあった。稚心に暖簾分けという仕組みを初めて知った。番号が変わるから暖簾は使えないのにと思ったことを覚えている。そんな店で出されるうどんは製麺機で作った何の変哲もない中庸なうどんだった。味も覚えていない。ただ、「ひもかわ」という、のっぺらで薄く伸ばした別のうどんがあった。物心がつくかつかないかというころ水上の鹿野沢というロープトウがひとつあるだけの小さなスキー場に初めて連れていかれた。食堂で母に何が食べたいのか聞かれ私は「ひもかわ」と答えた(つもりだった)。しかし出てきたのは、きなこにたっぷりまぶされた「あべかわ」で、私はたいそうガッカリしていたそうな、そんな思い出もこの「ひもかわ」にはある。

私の家から徒歩3分、自転車で1分のところに次郎長といううどん店が出来た。小学校の高学年の頃だった。手打ちというだけあってコシがあり、ツルッとしていて今までのどのうどん店のものとも違っていた。それ以来我が家はここ次郎長のうどんが定番となった。
中でも私のお気に入りは力うどんだった。少し濃い目の東京風の出汁にほうれん草と天カス、そして焼き餅がのっていた。中学の時、あの厳しいバスケの練習を乗りきれたのもこのうどんのお陰かもしれないと今は密かに思っている。

長さ90センチもある麺棒、のし台、麺きり包丁も持っている。私は手打ちうどんに凝っていた時期がある(過去形??)。 コシを出すことはさほど難しくない、良い小麦を使い、塩と水の塩梅を加減し、しっかりと踏んでやればいいのだ。だから出汁がなければ麺としてほぼ完成したが、出汁となるとこれがまた難しい。いりこやアゴで出汁を取ってみるが中々、麺との相性が上手くいかない。この相性というのが曲者である。自分の打つ麺が何者なのか分からぬものに、それにあった出汁をひけるはずもない。このところ半ば諦め、用具一式は押入れの肥やしになっている。

そうそう喫茶店でのうどんの話。実は桐生にはうどんを売っている喫茶店がある。喫茶店やスナックでうどん下さいと言うと、ちゃんとうどんが出てくるのだ。ただし、それは出汁のない焼きうどんです。





2013年12月25日水曜日

音楽と酵母

テレビのニュースで酒蔵の杜氏が音楽を掛けながら仕込みをして熟成させると良い酒が出来ると言っていた。その時はモーツァルトだったと思うが、酒も人間が作るもの、人間が気持ちよくなれば良い酒も出来るのだろうとあまり深く考えなかった。

ところが最近この醸造と音楽の関係について科学的アプローチが試みられて結果を残したというのだ。ニュースによると音楽=ある種の振動が酵母に影響するのだという。そもそも酵母菌の中にはオスとメスが存在するものもあり、それらは性ホルモンのような物質で接近したり離れたりしていることが分かった。そこにある種の振動が加わると分子どうしがくっつき、空気を排他し、嫌気性の酵母の働きが活発になるというのだ。これは白眉である。確かに発酵というのは微生物の働きである。無機質ではない。だからこそ森羅万象に影響される。納得である。

音楽を振動ととらえればそれまでだが、考えてほしい。別にアイドルが嫌いじゃないけれど、セラー内に大音響で流されるヘビーローテーションによって赤ワインが美味しくなったと聞いたらどう?モーツァルトと行かないまでもピーターアップルヤードやコルトレーンの方が美味しく感じません??ただそれだけですけど・・






2013年12月24日火曜日

味の大関

子供の頃の私はいつも腹をすかせていたような気がする。あの頃はいくら給食をたくさん食べても放課後のバスケットの練習ですぐにお腹が空いていた。家に帰っても誰もおらず、その空腹を満たすのは煎餅だった。前にも書いたが、隣の家はパチンコ屋に景品を届ける仕事をしていた。時折、洗剤やらお菓子を頂いた。その中に煎餅が混じっていたのだ。煎餅の名前は忘れたが、袋には国定忠治と赤城山が描かれていた。醤油味のその煎餅は一枚でも十分な大きさだったが、空腹の子供には一袋食べるのは朝飯(夕飯)前だった。とっておきは冷蔵庫からバターを取り出して、せんべいに直接付けて食べるのだ。これが醤油の香ばしさと相まって最高のご馳走だった。ただ、母に見つからないように煎餅の跡のついたバターをならしてそっと冷蔵庫にしまっておかねばならなかったが。

家と中学校の中間あたりに商業高校があった。高校の前にインスタントラーメンだけを食べさせる店があった。店の名前は忘れたが、色々なインスタントラーメンの名前が壁に書かれていた。それぞれ料金が微妙に違った。当時、カップに入ったラーメンは発売直前でまだ見たこともなかった。暫くして同級生の一人がこのカップラーメンで家を新築したとクラスで公言していた。話によるとカップラーメンを発売したN製粉の株を持っていたそうで、株が値上がりして大変な儲けになったようだったが、株にも家の建て替えにも縁のない私はうわの空でその話を聞いていたのを覚えている。
その店で私が頼むのは決まって「味の大関」というインスタントラーメンだった。他のラーメンより10円近く安かったからだ。インスタントラーメンにも地方色があるということをこの時知らなかった。このラーメンはあまりメジャーではなかったようだ。たまたま工場が同じ県内にあり、輸送も簡単だったため流通していたのだろう。後になって東京の人に聞いても何それと知らん顔をされた。近年ではこのメーカーのカップ焼きそばが売れてテレビでもCMを流すようになり、その名前も知られるようになったが当時は無名のメーカーだった。
ラーメンの器にはラーメンとスープ以外何も入っていない。玉子どころかキャベツのキャの字も見当たらない素のラーメンだった。
時間まで働いている母を労るというより、己の食欲を満たすため少しでも早く夕飯になればと自分に出来ることはしていた。お米を研ぎ、水に浸し、そしてコメをざるにあげておく、味噌汁の出しまでとっておく。その程度まではいつも済ませていた。お陰で一人になっても自炊は苦にならなかった。

醤油味のお煎餅と味の大関、あの当時も私の胃袋の最強のリリーフピッチャーだった。










2013年12月21日土曜日

余白のある人間

日曜日の朝、何気なくテレビを見ていると二十代の男性三名の座談会が行われていた。ひとりは映画やドラマで大活躍のイケメン俳優、もう一人はこれまたテレビでもよくコメントをしている東大大学院の社会学者、そして三人目は史上最年少の直木賞作家である。
そんな若い三人の話題が「説得力のある人の何か」という話題になった。本当にそうかは別としてこの人が言っているのだから間違いはないだろうと思える、その何かとは何なのかということである。すると最年少直木賞作家は「余白」じゃないかなとストレートな答え。一同納得。しかしながら私にはその作家が3人の中で一番余白がなく見えた。そして俳優の彼が一番余白があるように。

幼い頃から私はこの余白が持てなかった。いや、余白があればどれほど楽だったろうと恨めしくさえ思う。いくら勉強して一生懸命説明してもこの余白が無ければ中々人を説得することは難しい。反面、余白を持った人は一言二言話すだけで、話題の中心にのぼり人々は彼の話を高説とばかり、固唾を呑んで聞く。
とある飲料メーカーの就職活動をしている時に4人が横に並んでいた。三人目まではごく普通の面接だった。しかし4人目は違った。前の人の面接が終わるとその男はすっと立ち上がり、袋から取り出した空き瓶を面接官に見せた。それはそのメーカーの販売している飲料瓶のとても古いものだった。ごく当たり前の面接はその男の行為によって様相が変わり、どちらが面接官か分からないほどその場は盛り上がり、その男は見事内定を獲得していた。
前述の例を出すまでもなく、こうした場を作る要素としての余白が世間では持てはやされている。多くの人はそのことを知らない。たとえ知っていたとしてもそれが自然に出来るというのはもはや才能以外にないと思わせるフシがあるので諦めている。
しかし考えていただきたい。余白のある人間は確かに説得力がある。でもその説得力の効用はずっと続くのだろうか。もちろんきちんとした知見と教養に裏打ちされたものなら問題はなかろうが、単なる余白だけとなると風船の空気がしぼむ如くあっという間に消えてなくなってしまう。そう、単なる余白なわけですから。

そうこう考えると、余白がなくても精一杯情報を吐露し、説得しようとした愚かしい行為のせめてもの慰めになればと思うのである。