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2014年2月12日水曜日

小說考

男性女性を問わず様々な小説が世に送り出され消費されてゆく。このところ女性の作家に優れた作品が多いように感じる。
小說にはマクロ的に読ませる小說とミクロ的に細部に拘り、深く潜行して表現される小說がある。もちろんこの二つの混在型もあるが、多くの作品は何となくぼやけてしまっている感じがする。
前者の小說は全体が劇のようでもあり始まりと終りがある。そして作品中に抑揚が付けてあり、読み終えると一定の満足感を覚える。歴史小説のたぐいの多くはこちらである。
一方、後者は何気ない日常の表現の中に様々な要素を織り交ぜる。文中に出てくる人間の感情や感性、日常的時間軸の中における非日常性などを散りばめる。
こうした表現はやはり女性が得意なのかもしれない。私の好きな作家は見事にそれを表現する。時折、そんな作家のブログを読む。すると作家の空気感のようなものを感じられる。益々、その作家の作品が読みたくなる。何故なら彼らは文章の達人であって、たとえブログの中でも陰影を忘れないのだ。



もし参考になればと私のよく読む山崎ナオコーラ女史のブログとHPである。






2014年2月7日金曜日

絵画教室

母は素っ頓狂なところがある。貧乏で食べるのもやっとなのに小学校に上るや否や絵画教室に通わせた。家からだいぶ離れた場所にあったその教室は6.7人の生徒に絵画を教えていた。先生は年齢にして30才前後、どこかの学校で教えていて、副業をしていると言うわけではなく、東京の美術大学を出て理由は分からないが実家に戻ってきてこうして子供たちに教えるようになったそうである。

私には赤ん坊の時に死んでしまった叔父がいる。中学生の頃より肺結核を患い若くして他界した。私が幼かったこともあり、離れた山里の療養所で生活していた。覚えているはずもないのだが、優しい口調で絵本を読んでくれたその膝の感覚。先生はその叔父に似ていた。

先生は生徒のやりたいように描かせた。時折、相談に来る生徒には一言二言付け加えるだけで決して生徒の絵を否定しなかった。

私が一番年端のいかぬ生徒であったが心から楽しかった。
絵画教室の行き帰りも楽しい。すぐ近くにパン屋さんがあって中にレーズンが入っていてくるくる渦巻きになった砂糖でコーティングされたパンがあった。初めてそれをデニッシュというのだと知った。そのパンを母に一つ買ってもらうのが楽しみだった。
何ヶ月か通ううちに家計が苦しくなった。私はそんな内情を察してか知らずか、自分から行きたくないと母に告げた。本当に行きたくない訳ではなかった。その月で絵画教室を辞めた。

その後も絵を書くことは好きだった。ところが中学校に入って。美術の先生は型にはめた絵を描かせようと生徒たちに強いた。線がどうの、遠近がどうのと煩かった。一度、あまりに頭にきたのである有名な写真家の一枚を模して提出した。するとその時だけは二重丸の評価にあがった。馬鹿らしくなって絵を描くことも嫌になった。

今でもレーズン入りのデニッシュを見ると、あの時の絵画教室のことを思い出す。小さな家だったが庭には色とりどりの花と実をつける木が植えられていて、近くの山から野鳥が飛んできた。

そんな声を聞きながら無心で絵を描いた。あの光景はずっと今も心の奥に座ったままだ。




2014年2月6日木曜日

ハンバーガーとの和解

私と同じ年齢の人でも東京や大阪など都会に住んでいた人と北関東の外郭の街に住んでいた私のような人間とでは年月にして6.7年、時間にして6万時間も遅く現代(イマ)がやってくる。流行語にもなった「今でしょう」だってシンコペーションのように一呼吸置いてやってくる。どうりで福島生まれの細君の祖母と話があうわけである。だが、こうして現代とズレた人間を一般には田舎っぺというそうだ。この歳になれば田舎っぺ大いに結構、それだけ昔の時間を長く体験させてもらったのだから有難いというべきだ。

私の家が水洗トイレになったのは小学校の高学年であったし、薪の五右衛門風呂がガス式に変わったのは中学生になる頃だった。よく雀が煙突に間違って巣を作ってひなが落っこちてきた。洗濯機が自動になったのはもっと後のことで、ハンドルを回してクシャクシャの洗濯物を干すのも一苦労だった。
ファションにして都会で流行っている垢抜けた洒落感を出そうと思っても、田舎の質実剛健、長持ちが一番が顔を出す。何かしら都会のそれとは違う。
食べ物だってそうだ。ハンバーガーと初めて邂逅したのはミミズクという高校の正門近くにあった自販機だった。サラミソーセージのような薄っぺらな肉が中途半端暖められたフニャフニャベトベトのパンの中に見えないように入っていた。ただ、有無を言わさず辛子だけが異様に沢山入っていた。

こんな風にハンバーガーとの出会いが悲劇的だったから、その後もハンバーガーとの相克は続いた。何故、美味しいのか分からない。だから、上京してからもハンバーガーショップには目もくれず、ひたすらガツン系の食堂に足が運んだ。

ハンバーガーと和解したのは結婚して2.3年後だった。娘を始めて海外に連れて行ったグァムでのことだった。タモンビーチにバドワイザーのロゴをでかでかと車体に入れたトラックがハンバーガーを売りに来ていた。数枚のドル紙幣でハンバーガーを2つ買った。お腹が空いていた事もあるのだが、牛肉に変な手を入れずただ炭火で焼いたシンプルなそれは太平洋の夕陽のように私のお腹を満足させてくれた。

それ以来、ハンバーガーとの仲は不仲ではなくなった。時折、何千円もするハンバーガーなのに美味しくないものに遭遇することがある。そんなときはあのミミズクのハンバーガーの霊が財布の淵当たりにうろついているような気がする・・




2014年2月5日水曜日

書評 大竹昭子

「図鑑少年」というこの作者の本を読んだ。ごくありふれた日常の描写なのだがその精緻で綿密な企みに惑わされた。筆者の目は文学者の目ではなく観察者のそれであり、マクロ写真のようでもある。文章に描かれた玄関横のヤツデや中が歪んで見えないようなガラスブロックは私の頭のなかで勝手に近くの「有村医院」に仕立てられる。

彼女は写真もとる。撮るというような表現よりむしろ風景を剥ぎ取ると形容したい。乱暴なまでの描写は性別を超え、人種も超える。ニューヨークの犬さえも喋り出す。
そんな彼女が永井荷風へのオマージュとして散歩を薦めている。荷風は東京の崖の上を散歩した。崖は二つの世界をつくる。下の世界と上の世界。崖の端でしかこの二つの異界を感じることが出来ない。

本郷台地の端から見る東京はオレンジ色の靄の中にある魔界都市か。いや、崖の上こそ魔界なのかもしれない。
湯島の怪しげなネオンが霞んで見える立春。





2014年2月4日火曜日

二葉の年賀状

毎年戴く年賀状の中で特に楽しみにしている年賀状が二葉ある。一葉は顧問の弁護士先生からの年賀状である。先生とはお付き合いしてもう十年になるであろうか。
そしてもう一葉は私より一回り先輩から戴くのものである。

この二葉はとても似ている。年賀状に絵や図柄のかわりに極小の文字で、今自分が考えていることや体感していること、そうした事が丁寧に綴られている。読む方は虫眼鏡必須であるがこれがとても楽しい。

そんな文章の中に二十年前の昔の自分と今の自分が和解したというくだりが書かれていた。時代は違うのに私にはとても共感できた。誰もが学生時代の自分は愚かでちっぽけで青臭いと背を向け生きてきたのではないか。ところが艾年も過ぎるとその根っこはあの頃のものとちっとも変わっていないと気づく。友人は和解したそうだが、私は和解どころか今なお二つの自分がせめぎ合っている始末だ。誰かに調停をお願いしようかと考えたくもなる。

そうそう、偶然にもこの二人共淡青の大学の同じ学部の卒業生でもある。




2014年2月3日月曜日

好きなものの見つけ方

子供の頃から何事にも飽きやすかった。いつもまわりの大人に一つのことをずっと続けなさいと言われた。忍耐が足りないとも言われた。でも私にはどうでもいいことの基準が違っていた。
北関東の外れの街には小さな動物園があった。キリンや象もいた。子供たちは躯体の大きくて目立つ動物の前で画用紙を広げてスケッチをしていた。私は暗い日陰の小さな檻の前である動物を眺めていた。その動物は猫くらいの大きさで昼間は巣穴の中に閉じこもっていた。時折、暑さを凌ぐためかコンクリートで出来た四角い無機質なプールに淵からするっと水に入り、一周りしてまた巣穴に戻っていく。魚臭いその場所は人気がなく、檻の前にいるのは私だけだった。水生動物のぬるっとした湿った質感が気に入っていたのだろうか、今でも何故好きなのか分からない。戦前、毛皮用として日本に持ち込まれたヌートリアが野生化している。一度、近くの川で見たことがある。葦の水辺から顔を出したヌートリアはつぶらな瞳でこちらを見ていた。
4.5年前、苔に夢中になった。苔のことについて書籍を買い求め色々と調べた。苔の種類も千差万別で本当に興味深い。水生動物と同じように苔の持つ質感に惹かれた。芝生の緑とは違う、毒々しいまでの緑色。私はスコップとバケツを持って人気のない神社の境内に行って苔を拝借してきた。ところが自分で繁殖させようとするととても難しい、ほとんど育たなかった。もう無理だと思い放っておいたら、花壇のまわりが苔だらけになってしまった。
好きなものを見つけるともっと知りたくなる。それは人間の本質的欲求ではないか。ひとつのことを深く掘り下げ研究することも大切だと思う。研究には時間と経験が必要だからだ。一方で新しい知識というものは最初ほど吸収が良いように感じる。そう、乾いた砂漠に水が吸い込まれるように自身に取り込まれていく。
昨日、東大紛争の裏側を当時の人達が証言するドキュメンタリーを見ていた。紛争のずっと後になって大学生活を逢える私たちはあの紛争が何だったのか知ろうともしなかった。むしろ知ることが憚られたのだ。しかし、学生たちが大学に突きつけた「何のために学問をするのか」という問は今も生き続けている。
今の大学は良い職業につくための専門学校のようだと言われている。学問とは明治の頃から「いつ役立つかわからない。そんな程度のもの」として甘受できる大きな風呂敷が必要なのではないかと思う。




2014年1月31日金曜日

視座の転換


 以前にも視座の転換が重要だと言ったことがある。私の仕事、コンサルテーションとは言わば聞き役である。間違っても自分の意見を押し付けてはいけない。聞いて、聞いて、そして聞いて相手が満足した所で暗喩のように相手の考え方や行動が間違っていると感じたら視座の転換を図ることを勧める。それでも多くの人は視座の転換をすることは出来ない。
ある人の言葉を思い出す。事業を失敗した人に次はない。あったとしても同じように失敗する。確かに多くの人は自分の再起を図るとき、一定の愚行については理解はしているが全てではない。特に視座の転換が出来なかった自己に気づき修正できる人はまずいない。これは自戒を込めいつも心にしている。

これは視座の転換が出来た稀有な例である。

 首都圏の地方都市で小さな進学塾を経営していたその男は、生徒の母親に向かって、少子高齢化と景気のあおりを受け、大手の会社も含め教育関係のところはどこも厳しい経営が迫られているとマスコミ評論調の愚痴をこぼしていた。するとその母親は自分の周りにも働きたくても働けず、働けたら子供を塾に通わせたいと言っている人が多いという。その母親は看護士をしていたが、両親と同居で子供の面倒は祖父母が見ていた。病院の勤務は夜勤も含めて24時間制で子供が預けられなければ子育てと仕事の両立は難しいらしい。その話を聞いた男は保育園の実体を調べ始めた。すると母親が言っていたとおり、潜在的な勤労意欲のある母親がいても、保育園がなく働くことの出来ない母親が多いこと。そして、病院側も慢性的人手不足に悩まされていることだった。

その男は次に現状の保育園についての問題を抽出してみた。一番は保育士の確保である。保育士は過酷な労働に比して賃金が安い。そして社会的地位も低い。では労働条件を改善し、ステータス性をもたせるにはどうしたら良いか考えた。
まず、保育園を開園する場合の土地や建物の建設コストが経営に大きくのしかかる。それを克服するのはオフバランスの経営である。土地、建物を相手に提供させ、オペレーションに徹することだった。

もう一つはその保育園をオープンなものにするのではなく、ある特定の利用者に限る経営手法だった。その意味では有名な大学病院を保育所にすることは好都合であった。こうして経営方針を固めているうちに規制緩和の追い風が吹いてあちこちから保育所運営の話が舞い込み、急成長したということである。

もちろん地域に根ざしオープンな経営で質の高い保育を実践しているところもあるのでどちらがどうという話ではない。

色々な経営者が業界や景気の話をする。景気が悪ければ業績は悪化し、良くなれば回復するものだろうか。そんな事はない。考えてみてほしい、白黒の丸が並んだ大きな紙面を見て遠くからグレーだという人がいたとしても、実際にひとつ一つは白と黒なのだからつまり景気もその企業によって違うのが当たり前だ。

ある経営者は景気の話をしない。それよりもどんな時に聞いても「ぼちぼちでんな」としか言わない。その経営者は中々のものである。絶えず感度の良いアンテナを張り巡らし、視座の転換を図っている。そうそう、りんご箱だけがどうして真鍮の大きなホッチキスで止めなければならないのか、その事に疑問を持った彼は独自の梱包箱を開発してしまったそうだ。視座の転換を図るにはまず些細な事に耳を傾けることではないか。