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2014年3月14日金曜日

わたしの3.11 その2 大衆心理

 東日本大震災から3年がたつ。私はあのとき比較的に多くの物事を俯瞰してみることができていたような気がする。何故なら、腰痛をブロック注射までして無理をした結果、背筋が肉離れを起こして動くこともままならなかったからだ。

 多くのニュースで日一日亡くなる人の数が増えていった。それはまるで何かのカウンターによって計られた機械的なもので人の死とは無縁のような形で。そして流言飛語、会社のスタッフには友人からメールが届き、千葉にある精油所が爆発してガソリンが足らなくなると真顔な話が流されていた。東電の幹部という人から聴いた話というのも流れていた。もはや、日本中が放射能汚染になり、国民はほとんど死に至ると。劇場化したマスコミもそうした話はすぐ取り上げる。実際に東京を離れて関西に移り住んだ人も多くいた。

 コンビニからカップ麺がなくなり、トイレットペーパーも、携帯ガスボンベも無くなった。私はその体だったので車が無ければ移動できなかった。それでも車を使ったのは震災から5日が経った時だった。ガソリンスタンドでは長蛇の列。出来るだけ燃料を使わないように意識した。スタンドの人に聞くといつも滅多に来ないような人がガソリンの針が一メモリが減ったからといって2時間も長蛇の列に並んでいるとのことだった。

 困ったのは停電だった。私達の生活の多くが電力に頼っていることが分かった。
ところが昨年の夏場のピークでも計画停電はなかった。停止している発電所が再稼働したというニュースを聞いたわけでもないのにどうして大丈夫なのだろう。もしかしたら当時の停電もパニック心理だったのではあるまいか。そう疑ってしまう。

 先日、大雪で3日間軽井沢に閉じ込められた。鉄道、道路とも完全に閉鎖され陸の孤島となった。運転手の多くは何とか行けるだろうと無理をして碓氷バイパスに集中した。まるであのときの都内の道と同じに車が一箇所に集中した。道路が開通していない事は分かっていても車を出発させ戻れなくなりレスキューしてもらった人もいた。コンビニからカップ麺はなくなり、パンも姿を消した。私はあのときの経験からなるようにしかならないと居を移さずじっとしていた。予定していた期間を大幅に超えたので予備の犬のご飯も残り少なくなった。開いている店を探して雪の中歩いて買い物に行こうとすると、見ず知らずの女性が分けてくれた。とても安心した。私達は毎日同じ料理を食べながらも、食にありつけ、暖かい寝床があることに感謝した。

 大衆の心理というものは極端になりがちだ。リスクを過度に感じたり、逆に鈍感であったりする。どちらも良くない。津波の災害を避難するような過急な場合以外は出来るだけ動かずじっとしている。それがあの震災から学んだことだ。昨日もラジオから大震災の際には車の使用を控える旨の放送をしていた。控える旨ではなく、強制的にも禁止するべきだと思う。軽井沢でも救急車が動けなかったのだから。


あの日もやってきたヒヨドリは私たち人間を見てどう思っているのだろう、いつか尋ねてみたい・・・






2014年3月12日水曜日

家族考

 この一、二年本当に色々なことが重なった。娘が嫁ぎそして出産し母になった。今はその家族と暮らす新居を建てている真っ最中である。娘自体その変化に驚いているようだがとても楽しそうだから何も心配はしていない。

息子も昨日家を出た。家を出たと言っても家出をしたわけでも仲違いをしたわけではない。彼のスタートとしてのレジデントが必要で我が家からは通えないからである。26歳になっているのだから私が家を離れた18歳に比べれば遅すぎるくらいであるし、戦地に赴く訳ではないのでこちらも心配はしていない。彼にとっての新しい家族との出会いを待ち望むばかりである。

 娘も息子も私たち夫婦に神様が与えてくれた宝物であって。私たちはほんのいっときこの宝物を育てる使命と幸福を与えられたのだと思う。

 私の周りにも子供を手放さない親が多い。いや、子供が出て行かないというがそれは誤りだ。知らず知らずのうちに親に洗脳されている事が多い。本音を言えば親としてはそれでもいいとあえていう。子供を手放すのは寂しいし、手足を引きちぎられる思いだから。

 しかしあえて子供のことを考えれば独立させなければならない。動物がそうするように子供を社会に戻し還元させなければならないからだ。そして自分の新たな家族を作り私達と同じように子供を育てる喜びを味あわせてあげたい。私達が先に死し、子供に見守られなから死んでいく幸せを同じように味あわせてあげたいからだ。

 家族とはそんな一時の屋根の下で暮らした追憶なのかもしれない。









2014年3月11日火曜日

わたしの3.11

 あの日私はソファに寝ていた。一週間前に痛めた背中の肉離れが治らず自宅にいたからだ。妻は京都に大学の研究の打ち合わせで出掛けている息子を除いた娘と私と三人の夕餉の支度をするために隣町のスーパーに買い物に出掛けていた。

 窓の外にはまだ風は冷たいものの春光と呼ぶに相応しい太陽の光が注がれていた。

 揺れは突然起こった。私の家には六メートル近い高さの本棚が壁一面に備え付けられている。大きく揺れる中、咄嗟にこの本で押しつぶされると感じた。幸い老犬の一匹は大きな頑丈な丸テーブルの下で眠っていた。ところがもう一匹は何か不安を感じたらしく私のそばに来て顔を見ていた。もはやこれまでと思いその犬を抱き寄せたが、揺れは数回続いたものの、一番大きな揺れ以上にはならなかった。それでもキッチンのカウンター上に吊り下げられた照明がアメリカンクラッカーのように揺れ続けていた。

 揺れが落ち着いてからテレビを付けてみようとしたが停電のためつけることは出来ず、電話も不通だった。

 備え付けの本棚だったことが幸いして本は一冊も落ちてこなかった。私は家の周りの様子を見たくても動けず、妻の帰りを待った。妻は丁度レジで精算を済ませようとした時に地震が来たと言っていた。結局、パニックになった見ず知らずの若い女性を介抱して何も持たず帰ってきた。娘が帰ってきたのは暗くなってからの事だった。

 ラジオから地震の規模や津波のことが伝えられた。電気が回復してテレビからその様子を見た時には末恐ろしさのあまり言葉を失った。9.11のときまるで映画のワンシーンかと思ったのとは違う、自然の脅威のあまり言葉を失ったのだ。

 大叔母は死んでしまったが、その子供たちが石巻で旅館や結婚式場をやっていた。大叔母は祖母や母、叔父が満州から引き揚げてきた時にとても親切にしてくれたようだ。祖母と大叔母は仲が良かった。現役を退いてからは祖母と歌舞伎を見るためにちょくちょく上京していた。そんな折、渋谷に勤めていた私のところに顔を出した。大叔母と祖母と私でお昼に稲ぎくの天ぷら定食を食べた。それが大叔母との最後だった。
大叔母の子供たちの家や店は海沿いにあった。一度、母と叔父と私で大叔母の周回忌に行ったことがある。磯の匂いと海風の湿気を感じる風光明媚な場所だったことを覚えている。

 それがあの津波で観るも無残な姿になっていた。私は暫く誰にも石巻の事を聞く気にもならなかった。義父が宮古の出身で同じような気持ちだったという。

 原発の事が報じられたのも同時だった。ところがいざ問題が詮らかになっていくと色々な事を言う輩が現れる。私が当時も今も最も腹ただしいと思ったのは、この国はもうすぐ人が住めなくなる、だから自分の子供たちは海外に避難させたという専門家と称する人種たちである。この人達は今何をしているのだろう。逃げようにも逃げ出せない多くの国民はじっと我慢して生きてきた。その事を思うと必要以上に国民に不安を煽り、風説を流した罪は重い。

 災害から一年以上が過ぎようとしていた時、尊敬する法律家から3冊の本を推薦された。その中でも最も心に残ったのが「3.11後の建築と社会デザイン」という平凡新書だった。奇遇にもこの本は会社の同期である三浦氏が執筆しており、私も読了したばかりだった。

 その後の政府や自治体が何もしなかったとは言わない。ただ、その本が示す通りのことが起こっているので私にはやはりこの国の指導者があまりにお粗末だと言う他にない。高齢化や少子化という災害とは別の潮流が当時より流れていることを無視した復興計画。公共投資が先行し、被災者の住宅復興に手が回らない日本の建築業の有り様。復興予算だけ取り敢えず貰っておこうとするビジョンのない自治体、そして右側に舵を戻し原発の存続を前提にした国民を無視した政府、何もかもこの国の現状だ。

 それでも被災者も生きている。これが唯一この国が誇れるものなのではないか。あの日不幸にも亡くなった全ての尊い命に向かって黙祷するばかりだ。







2014年3月10日月曜日

犬の幸せ

 先代の犬は7歳で早逝した。あの時はあまりに突然の事だったので家族全員大いに慌てふためいて感傷の涙に暮れた。今の子達はそれに比べると14歳と11歳である。ふたりとも随分長生きをしてくれた。本当に感謝している。

男の子の方は目もあまり見えないようで、自分で排泄のコントロールが出来なくなって久しい。女の子もこのところ足腰の老化が著しい。ソファに乗るのも一苦労だ。この歳だから仕方がない。私たち夫婦にとっての最初の介護になってしまった。()

幸いなことに2匹とも食欲はある。女の子はもともと食べないので小さな頃から手で食べさせていたので癖になってしまったのだが。

この子たちが天国に行く日は出来るだけ遠くであって欲しいと思うが、もし突然訪れてもそれも運命と思うことにしている。この子たちと過ごした時間は戻らないが、いつもこの子たちと最大限の愛情を持って接してきた自負があるから後悔はしない。

そうきめて今日も頭を撫ぜてきた。その日が来るまで出来るだけ一緒にいようねと。






2014年3月8日土曜日

リテラシーの欠如

 私より上の世代にはリテラシーの欠如をしている人を多く見かける。大方は定年間近かそれ以上の年齢層なのだが、彼らは若い時さほどリテラシーが欠如しているとは見えなかった。ところが最近になってそれが目につく。テレビやラジオの情報でさえ当てにならぬと思っているのに、平気で2ちゃんねるや週刊誌の情報を鵜呑みにする。私には不思議で仕方ない。そんな事を友人に話したら、その友人曰く、彼らはリテラシーを欠如したいのだよ。リテラシーをなくして自分の都合の良い、蛸壺に入りたがっているようなものさ。だから、彼らにはその情報が正しいとか、正しくないとか関係ないのだと。
なるほど、その意見には膝をたたかずには居られなかった。情報を眺めて逡巡することなど必要ないのだ。バラバラになった情報の自分に都合のいいものだけを集めて仕舞いこむ。

 しかしながら、人生の末期、甚だ寂しい話ではないか。自らの思想信条など椅子の上のホコリ程度の価値の無いものとして見放し、物事を諦観するようにしたと自戒の念を込めて思うのである。



2014年3月7日金曜日

和食について


 和食がユネスコの世界文化遺産に登録されたと聞く。なんだかしっくりこないのは私だけだろうか。
そもそも和食と言われて多くの人は何を想像するのだろうか。京料理に代表される懐石料理のことなのか、それとももう少しカジュアルな割烹のようなものか、はたまた江戸前の握り寿司を思い浮かべるのか分からないが、蕎麦やうどん、ラーメンやカレーだって言い換えれば和食なのだからその裾野はかなり広いと思うのだ。
海外に行って和食を食べようとすると似ているが和食ではない店が多い。今や誰もが口にしたことはあるカリフォルニアロールだって和食といえば和食なのだ。
パリで1つ星を獲った和食のレストランに息子が出かけた。その店の主人はパリの魚事情があまりに酷く、自分が魚屋をするつもりで流通ルートから開拓すると意気込んでいたが結果は京都の和食店には遠く及ばぬものだったらしい。結局壁を乗り越えられなかったということか。またもや和食の星は当てにならぬ事を証明した。
そもそもその壁の考え方が間違っているのかもしれない。日本の和食をそのまま持ち込むことが本当に素晴らしいことなのだろうか。その土地にはその土地の気候がある。とれる食材も当然違う。だからカリフォルニアロールだって生まれたわけだ。日本と同じ和食を海外でつくろうとする行為こそ、間違っているのではないだろうか。
私たちの舌はそんな狭量ではない。その時時に応じて食べ分けることが出来るのだから。
因みに我が社のT君は日本に帰るとラーメンが一番食べたくなると言っていた。



2014年3月6日木曜日

通洞駅

少年は折角の夏休みを足尾で過ごさなければならない事が毎年苦痛だった。友達は家族で海水浴やキャンプに行き、学校が始まると口々に楽しかった夏の出来事を話し始める時に少年の夏はいつもきまって足尾だったからだ。

足尾といっても少年の住む場所は街ではなく、集落もない場所だった。駅は無人駅で1時間に一本通過する電車以外、人影も見当たらない。町役場に手当された住宅と窯は質素で雨風がしのげる程度のあばら屋だった。駅から住宅までおよそ6百メートル程だったが、人家は2軒だけだった。

そんな少年が母に買い物を頼まれたことがあった。今では考えられないが当時はいい意味で鷹揚だったのだろう。買い物と言っても近所に店はない。お醤油を買うために一駅電車に乗って買い物に出掛けなければならなかった。決められた時間に駅につき電車を待った。実家からこの無人駅までは何回も乗車したので駅名も諳んじていえる程だったが、この先には行ったことが無かった。
電車に揺られて見慣れぬ光景を進んだ先に駅はあった。通洞と書いて「ツウドウ」と読む。鉱山用語だと知ったのはずっと後になっての事だった。少年は駅に降り立ち、母から渡された地図の方向に向かって歩いた。扉を開けようとしたが閉まっていて開けられない。小さな拳でノックするが誰も応答しない。仕方なく、他に店がないのかその小さな街を歩きまわった。
大人になれば大したことのない距離だったが、少年には永遠に続く道の様に感じられた。ある場所を通りすぎようとすると酒に酔った男たちの怒声が聞こえた。生くさいホルモンの煙の向こうに一升瓶を片手に大声で騒いでいる男たちが見えた。
少年は咄嗟に目線を逸らしたが遅かった。下着姿に腹巻きを巻いた男が立ち上がって「オイ、坊主こっちこい」と叫んだ。少年は無我夢中で後ろを振り返らずに必死で走りだした。駅についた少年は汗でびっしょりになった額を手で拭いながら、あの男がやって来はしまいかとブルブル震えて物陰に身を寄せていた。電車がやって来たのはそれから15分後のことだった。
駅の裸電球にスズメガの気色の悪い目玉のような模様がはっきりと映しだされていた。
今でもこの駅の名前を聞くとあの時の男たちの声が蘇る。