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2012年11月22日木曜日

Schneewächte


Schneewächte
橋本は冬山の支度を終え最後にもう一度荷物の点検をしながら、小学校の時、母と父と3人で登ったアルプスでの登山を思い浮かべていた。
 
橋本は高校の時から登山を始めた。もっとも山好きの教員であった父のお陰で小学校の低学年から日本中の夏山を登っていた。小学校を卒業するころには登った山の数はアメリカの州の数を上回っていた。橋本にはそのほとんどが過去の記憶となって断片のみがかろうじて存在するのだが、珍しく残照が結節をもって繋がる記憶があった。それが母も参加したある年のアルプスを登山した記憶だった。母膝を痛めたこともあり父との登山にはほとんど参加しなかった。母は家で専ら橋本と父の話を聞く係だった。そんな母が行きたいと唯一言ったのはその夏のアルプスの登山だった。何故母が行きたいと言ったのか今になっては真相を知る由もないが、途中にある地名が母の名前と同じ紀美子だったからなのかそれとも単なる気の迷いか分からない。たぶんにそれは聞き役だった母が自分の目で確かめてみたいという、生きていることへの挑戦でもあり欲求であったのかもしれない。
一家は上高地から梓川を上流に向け歩いて行った。橋本はある程度高い山ならどこの山でもある一定のところからがらっと植物の相が変わることを知っていた。専門用語ではこれを限界森林と呼ぶそうであるが、ここも同様だった。暫くは雑草と笹に覆われていた登山道が急に明るくなる、木々がそれまでと彰かに異なったものに変わる。さらに稜線を登るとそれまで登山者を覆っていたその植物さえ視界から離れ背の低い這松だらけになる。
父は母と山で出会ったといっていた。父の最初の言葉「よい天気ですね」だったらしい。母はその言葉を聞いた時に今にも雨が降りそうで下山の支度をしている最中に変な事を言う人がいると思ったそうである。結局、その日雲は北に流れて雨は降らずに太陽と並走する下山になったようだ。
その山登りは母の体調を気遣いながら進められた。母の前には槍ヶ岳がくっきりと姿を現し遠くには立山も見えた。
上高地にあるそのホテルは、父がここは山男には分不相応といっていつもは目もくれなかったものである。そのホテルに父が急に3人で泊ろうと言いだしたことが橋本には驚きだった。今でも実家には大きなマントルピースの前で少し顔を赤らめた母と父が橋本が仲良く映っている写真が飾られていた。
母が亡くなったのは翌年の11月だった。悪性の腫瘍と診断された3か月後だった。
 
橋本は胸騒ぎを感じていた。先月登った時にもルートの途中にある雪庇がふだんの2倍ほどの大きさになっており、いつ稜線から雪崩が起きるかもわからないと地元のガイドが心配そうに言っていたからだ。高校からの山仲間の隆三と恵子は合計4人のパーティでその同じコースを2日前からトラバースしていた。橋本は仕事の都合がつかず出遅れていたが、出掛けの恵子の電話が気になっていた。出掛けにアイゼンの歯が欠けたのだと言うのだ。鋼鉄製のアイゼンは滅多なことでは壊れない。何ともなければ良いがと胸騒ぎを一端、心の奥の方に畳みこんでザックを背負った。
 
 
 
 
 
 

原理的な人

巷には原理的な人が多くなった気がする。丸山眞男が「古層」で述べた日本人の意識は高度経済成長と自由と平等の毒薬を徐々に飲まされ変容してしまったのか、それともその宿瘂を引きずりながら今もなお成長し続けているのだろうか。

原理的という言葉はよく耳にする。しかし、原則的とどこが違うのだろうか、いや根っこは同じだと思う。

つまり、物事への柔軟性がないのだ。そして白黒をはっきりつけたがる。

原発廃止、原発存続そういう類である。

原発事故の時に多くの母親が子供を原発から遠くに避難させたり、食べ物に異常なほどに気を使うようになった。子供を守る母親として当然と言われればそれまでだが、その内の何人が原発や放射能の事を理解していたのだろう。

つまり彼女らの多くは、こうあるべきという原則を打ち出している。いや、原理かもしれない。

その原理の前では如何なる理論的説明も説得も用をなさない。

原理に置いて行動する人ほどやっかいなものはない。

ここまでくると丸山眞男の言葉を思い出す。「潔きことを重んずる日本人」である。彼はいう、「潔きこと」の前ではすべての論理的説明は太刀打ちできない。

日本が戦争(太平洋戦争)に突入した原因は軍部の独走とそれを止められなかった政治の責任ということをよく耳にするが、先般読んだ書籍にはこれにも増して国民の中に「潔きことをしよう」という感情が突き動かしたと記されていた。

この「潔きこと」を望む日本人が増えれば、原理が全ての論理や関係性を打ち消し、一人で盲目に歩いていかなければ良いがと思う今日である。

カツカレー


カツカレー 恵比寿 山田ラーメン

カツカレーはカツ+カレーと思っている人はもう一度初等科で基礎勉強されることをお薦めする。カツカレーは一つの食べ物である。間違ってもカツとカレーの間に句読点を付けるべきではない。そんなことしたら折角の美味しさが半減どころか無くなってしまうのだ。私は無性にカツカレーが食べたくなる。カツカレーは家で食べることはまずない。いや絶対に食べないと断言しておこう。もしこの禁苦を破ったならば皆さんの前でひれ伏せてカツカレーの神様にお詫び申し上げることにしよう。
 カツカレーのカレーはカツカレーのカレーでなければならない。巷ではこのカレーの事をルウと呼ぶそうだが、ルウはルウである。カレーではない。そもそもカツカレーのルウは小麦粉で延ばされた優しい味を纏わなければならない。香辛料の効いた外国臭いルウは禁物である。あくまでカレーはcarreyではなく、カレーなのである。
 一方、カツが問題である。普段はヒレかつを好む私もこの場合にはロースかつでなければならない。ヒレかつのカツカレーなど言語道断、お茶の子さいさいである。
 そしてもうひとつこのカツは揚げたてでなければならない。冷めていたらもう全てが台無しである。いわよくば揚げたてのカツにカレーがじゅるじゅると音を立てて供されるものが最上である。
 私は恵比寿に長いこといた。恵比寿はご存知の通り下町なのである。駒沢通りはオリンピックの時に拡張され、それまで走っていた路面電車はなくなり、涼しい顔した街並みに姿を変えた感もあるが、どっこい今でも街並みのあちこちに看板建築も残り下町風情を探すことが出来る。
 私のいた事務所の斜め前に山田ラーメンなる店がある。赤い暖簾に札幌西山製麺特製ラーメンと記されている。もちろんラーメンは特有の腰があり、旨いのだが、私はここのカツカレーが大好物である。この店は寡黙なご主人が一人で切り盛りしている。手伝うのは家族と思しき人たちが総出で客をあしらう。決して媚びるでも尊大でもなく、ちゃきちゃきと客をさばくのだ。しかしである。
 もしあなたがここで必ず食したいと思うなら相当の覚悟が必要だ。何しろ昼間の2時間半しか店が開いてないのである。司法試験を受けるご仁が運だめしのつもりでここで食すと言うからお分かりいただけるかと思うが、そのぐらい難関なのである。狙い目と言えば11時半の暖簾が掛けられるのと同時に入るのが賢明である。もちろん今日もそうした訳である。あふれんばかりのキャベツを落とさずにカレーと混ぜながら綺麗に食べることが出来たならばあなたは既に上級者の仲間入りだ。
 
 私が支払いを済まそうと席を立つと見たことがある人が入ってきた。もちろん相手は私のことを知らない。駒沢通りに黒塗りのフーガを待たせて一人で入ってきた人はミスタービーンに似ているが眼光の鋭いルノーの人だった。彼は座るや否やカツカレーを注文した。

私は目の前の皿をみながら口元から笑みがこぼれた。



2012年11月21日水曜日

オニオングラタンスープ 代官山シェ・アヅマ


オニオングラタンスープ シェ・アヅマ

寒い時期には誰もが暖かいスープを求める。東海岸ならボストン風のクラムチャウダーがいい。南部に行ったならばオクラのたっぷり入ったカンボスープか。犬友のK井ご婦人のつくるそれは素晴らしい。一家はニューオリンズで暮らしていたというから味は本場仕込みで黒人たちの労苦まで織り交ぜて深い味になっているようだ。私にとってはタンシチュー同様、これを食さないと年が越せないそんな代物である。

私が初めてオニオングラタンスープを食したのは1987年の11月の土曜日だった。

この日のことは今でも良く覚えている。何故なら翌日大韓航空機が日本赤軍にハイジャックされ一面この報道で埋め尽くされていたからだ。

車で134号線を松波を右折し逗子に向かった。逗子の渚橋のファミレスで少し早目の昼食をとることにした。その時、生まれて初めてオニオングラタンスープを頼んだ。スープにはパンが切って落とされてその上にチーズが溶けている。器も熱々になっていた。

人生において食べる機会のなかったものというのがある。私の場合、食べることは生命の維持を図ることが第一目的であり、その他の物はずっと後になってついてくる。オニオングラタンスープもそんな仲間だった。

一口飲んで体中の細胞に滋味が行き渡ることが実感できた。寒さで縮こまっていた細胞が復活するように。それ以来、美味しいオニオングラタンスープを探し求めている。

事務所からほど近い並木橋の袂(これが袂という言葉がぴったりの場所)にシェ・アヅマがある。シェフは鉄人にも出演していたベテラン料理人である。席数のそう多くない店内はいつも美味しい逸品を求める老若男女で犇めいている。

私はビストロが好きである。レストランとは違うビストロである。辻静雄氏の著作にはビストロの語源はコサックの兵隊がパリの料理屋で「すばやく済ます」という意味が転じて呼ばれるようになったと書いてあったと記憶する。(当時は外で食事することは禁止されていた)だからビストロの料理はだらだらと遅いのでは困る。皿数もそう多い必要はない。ただし、念入りの仕込みが肝要である。鴨のコンフィに至っては食材と火入れの妙が大きくものをいうし、子羊のナヴァランは丁寧な下処理が大切である。断っておくがもしあなたがこの店で子羊のナヴァランがメニューにあったならば(いつもあるわけではない)迷わず注文することをお薦めする。私の少ない経験ではあるがここのナヴァラン程バランスのとれた逸品は食べたことがない。至福の極みである。

話はオニオングラタンスープに戻そう。ここのそれはまさに看板メニューである。客のほとんどが頼むと言っても過言ではあるまい。オニオングラタンスープといえばただ長くオニオンを調理すればいいのかと言われればそうではない。きちんとしたタイミングで鍋からオープンに移し玉ねぎの甘みを生かしながら調理する。経験がものをいう料理なのだ。

今日も熱々のスープを口に運ぶ。口福とはまさにこの一瞬である。熱チィ・・・しかし火傷必至である・・・・・・・・。我が家は暫く寿司屋でお節を注文していた。しかし、ある年のお節は冷蔵庫に入れていたのだが元旦までもたなかった。それ以来、その寿司屋には行っていない。今年はここシェ・アヅマにお節を注文することにしよう・・・
 


 

拘泥と束縛

30年近く会社の代表をやっていると色々な人に出会います。

そんな経験からある経験則を持つようになりました。

それは私の人を見る基準とでもいいましょうか、まあ、ほとんど外れないのであります。

困った人たちの第一は個人商店なのに大企業病の抜けきらない経営者です。

こうした人のほとんどが大学を卒業して実家の家業と関連性のある業種の大企業に就職して、実家に戻り後を継ぐ人達です。

もちろんそうでない人もいますから、全てが全てと言う訳ではありませんが、個人経営の中に大企業のシステムをそのまま使おうとしている人達です。

私は60人以下の会社は全て個人商店だと思っています。何故、60人かって?それは従業員の仔細を詳しく理解するにはその人数程度が限度だからです。それ以上の場合には個人商店とは呼べませんので今回は論外です。

こうした人の共通点は従業員と自分は違うという特別な意識を持っています。そしてそれは経営者と従業員に垣根を作り、結果、会社は円滑に進まなくなります。

もうひとつ困った事にこうした人達は何かの劣等感を持っており、それに拘泥するあまり的確な判断が出来ない病に陥っている事です。

今放映しているキムタク主演のプライスレスというドラマでも、社長(藤木直人)がキムタクに強烈なライバル心=劣等感を持っているためにあり得ないようなミスジャッジをしています。

それと同じように自分に何かが欠けているという意識が知らず知らずのうちにそれを埋めるような判断をしている訳です。

自分が効率的な判断をしていると思っている人がいたら大間違いです。人間万事塞翁が馬、禍福は糾える縄のごとし、思うようになることの方が少ないのです。それに効率的って何を持って言うのでしょう。

出来る限りそうした閉塞的意識による物事の拘泥や束縛を解き放つことこそ、未来に向けた一歩なのですが中々いないんですよね・・・残念ながら・・・

2012年11月20日火曜日

Oscar Emmanuel Peterson オスカー・E・ピーターソン

ジャズファンてなくてもオスカーピーターソンの名前は聞いたことがあるだろう。

代表曲「酒とバラの日々」は名曲である。彼は超絶技巧で有名でもあり演奏には全ての鍵番を使ったとも言われている。それにより「鍵番の皇帝」の異名をとった。いやはや大そうな名前である。

今や国産ピアノメーカーに吸収されてしまったが、かの有名なベーゼンドルファーを愛用していた。

ジャズピアニストでは珍しいかもしれない。

彼のアルバムをいくつも持っているが、1980年代に発表された一つのアルバムがある。

それがこの「night chaild」

私はレコードを持っていたが引越しの時になくしてしまった。

それ以来CDになるのを待っていた。

しばらく前にやっとCD化されたので購入した。

アルバムはそんなに長くはない。実験的な試みとして電子ピアノで演奏している。それが今聞いても古くない。

真夜中にこのCDを聴くと、夜のしじまにすうーっと吸い込まれて行く。そんなアルバム・・・

嫌いなはずがなかろう・・・・・






1981年のゴーストライダー Ⅹ



優子の父親は50歳を少し過ぎた物静かな男だった。若い時はラクビー部の主将を務めた程のスポーツマンでその体躯はがっしりしていて背広を着ていなければサラリーマンとは思えない容姿だった。父親は金融機関に勤めていたが、金融機関というのはもっぱら「早上がり」と呼ばれるように定年よりもずっと前に本体の金融機関の子会社など出向させられることが多い。優子の父もご多分にもれず、その金融機関の融資先の建設会社に出向させられていた。この建設会社はバブルのころは海外のリゾート開発を進めるなど大きく手を広げたものの、その後は多額の負債を抱え複数の金融機関主導により再建中の建設会社であった。

洋一は優子の家の居間の時計に目をやった。その時計の針は秒間をチッチッと音をたてスキップしている。クオーツ式の時計だ。洋一はこの手の時計を見るたびに連続した時間を無理やり分断し、無理やり繋ぎ合せ自分の生きているこの世界とは違う世界を再構築されている気が落ち着かない。時間が連続しなくなったならばそれは何を意味するのだろうか。

洋一は得も言われぬ恐怖を感じた。

しばらくすると玄関のチャイムが鳴り、父親が帰ってきた。洋一は自分の家に帰るのに何故チャイムを鳴らすのか分からなかった。しかし、その儀式が外界と内界を結ぶ儀式の一つだと知ったのはずっと後のことだった。

父親が着替えに二階に上がっていると、母親が料理の準備を始めた。洋一に向かって「お腹空いたでしょう?何か飲む?」と優しく話しかけてきた。

 優子の母親は父親より一つ年上のいわゆる姉さん女房というやつである。趣味のテニスのせいか一年中日に焼けているのは優子と似ていた。ショートヘアでいつも小綺麗にしていてとてもその歳には見えなかった。洋一にはいつも優しかった。

 洋一は母親にお父さんが席に着くまでは飲み物を遠慮するとやんわり断りながら、居間に飾られた家族の写真を眺めていた。その写真はどこかに旅行に行った時のもののようだった。家族4人がお決まりのピースサインをして笑っている。優子はまだ小学生だ。父親も若い。写真の後ろに岩肌と煙の様なものが見えたが、山の形が以前写真で見た外輪山にそっくりだったのでその場所は阿蘇かもしれない。

 もう一枚の写真には洋一が見たこともない人が写っていた。ずっと年上のその一は女性だった。着物を着ている。洋一は着物について詳しくはなかったが、その着物が高級品である事は分かった。その着物は浅黄色をしていて微妙な光沢があった。凛としたその女性の目鼻立ちは優子に似ていた。洋一は優子から聞いていた祖母のことを思い出した。脚が悪くなる前は茶道の師匠をしていてお弟子さんも多く抱えていたと聞いたことがあった。

その証拠に優子の家には今では物置になってしまった茶室がある。炉は閉じられ使われなくなってしまったが、その室礼は紛れもなく茶室である。

 父親が二階から降りてきた。父親は洋一に軽く手を挙げ何か飲むかと尋ねた。洋一は自分が車で来ていることを告げ遠慮したが、父親は一杯だけならと言って琥珀色のビールの栓を抜いた。テーブルには母親が作ったと思われる料理がところ狭し並べられていた。洋一が好物といったハンバーグはいつもの通りだが、今日はそれに海老フライ、ポテトサラダ、お刺身、ローストビーフそれに父親が大好きな枝豆が添えられていた。

 父親は洋一のグラスにビールを注いだ。泡が多くなりすぎて調整しようとしたが旨く出来ず、結局、泡だらけの白いグラスで乾杯した。父親は左手に枝豆を5.6本持ちながら器用に豆を口に入れ、ビールを流し込むように飲んでいた。突然「今日の豆は塩気が足らんな」といひとり言のようにつぶやいた。母親は「塩分の取りすぎは体に良くないらしわよ、このくらいでいいのよ」と相手を見るわけでもなく、料理の飾り付けをなおしながら会話している。こうしたときに優子は会話に加わらない。今日もテーブルに置かれた新聞の広告を眺めていた。

 父親は上機嫌だった。いつにもなく饒舌だった。優子の家族は洋一の就職活動が一段落し、内定をもらったことを知っていた。今日はその内祝いのようなものかもしれない。1週間前から今日は開けておくように優子に言われていたのだ。

 母親の作るハンバーグ本当に美味しい。この味ならお店が開けるのではと思うほど美味しいハンバーグである。普通のハンバーグのように鉄板で焼いたものではなく、一度焼いたハンバーグをスープの中で煮込むのだ。和風と洋風があって和風は醤油ベーススープに大根おろしが添えられている。洋風はトマトスープにブーケガルニで香りづけしてある。洋一はどちらも好きだった。

 父親は洋一と話す度に笑顔を見せるがその笑顔はどことなく寂しそうだった。優子は洋一と同じ年齢だが一浪しているので学年は一つ下である。来年、4年生になる優子であるが今はアルバイトを時折しながら、家から学校に通っていた。学校はお茶ノ水にあり、優子の家からは時間が掛った。優子は出来るだけ授業をまとめた日に受けるように工夫し、だから学校に行かない日はほぼ丸一日スケジュールは空いていた。

 食事が終わり、父親と洋一はテーブルからソファに場所を移した。父親はテレビを付け、チャンネルを巨人対阪神の試合が行われているプロ野球にセットした。父親の出身地は兵庫県の夙川である。もちろん熱烈な阪神ファンである。洋一は阪神ファンではなかったがアンチ巨人という点では一致していた。