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2012年12月19日水曜日

車 ポルシェ911 カレラS


車 ポルシェ 911 カレラS

 
 私は2年前にポルシェを手に入れた。

 私に車を買うに当たってルールがあった。一つは50歳まではスポーツカーに乗らないという決まりだった。それは何とかクリアーできた。
もうひとつはその車にふさわしい男になっているかというかなり曖昧でかつ難しい定義であった。もちろん今でも自信など無いし、その証しにポルシェで出掛けて行く事を控える場面も多々あるのが実情であるからしてそのあたりはご容赦のほど喫してお願いする。

私には車の師匠が居た。既に他界されているが、日本の車の創世記から車を「いじって」いた。
日本で10番目の板金屋というのがその師匠の自慢で、取り立てた用事もないのに私のところに来て自動車の話をひとしきりしてから、帰っていくのが日課だった。

師匠は拘りの人だった。美味しい蕎麦屋や鰻屋もこの師匠に教わった。バーバリーのお誂えのコートは共地で帽子も作っていた。若い頃は足袋のコハゼに純金を使ったと言っていたから粋な江戸の職人だったのだろう。

師匠が「とにかく一度乗ってみな」と私にいった車がある。一つはロールスロイス。そう小学生の私が生まれて初めて恋した車である。このエンジンはロングストロークで独特のフィールがあると言っていた。エンジンはまるで体躯の強靭なアスリートの心臓のようで、力強く繰り出される血液は強大なトルクを発揮し、どこで乗ってもその余裕からジェントルに振舞えると。一度、横に乗せてもらったことがあるが確かにその通り、素晴らしい車だった。もちろん、買える予定も力もないのだが。

そしてもう一つがポルシェである。師匠は前者が公道を走れるもっとも豪華な車だとすれは、こちらは公道を唯一走れるレーシングカーだと比喩していた。当時のポルシェはまだ空冷で良く壊れたようである。下り坂はまだしもエンジンが後ろについていて、なおかつ後輪駆動なので上り坂では前輪が浮いてしまう。そのためボンネットの中に砂袋を入れることが流行ったほどである。私もこの時代のポルシェに箱根の山道を運転させてもらったことがあるが、ほんの少しのミスが命取りになるような車だった。

それから月日は流れ、私も歳を取った。新車が出るとほとんどの車(興味ある)を試していた。偶然、現行のひとつ前のポルシェに乗る機会を得た。実はここ数年ポルシェは大型化して、ファンの間では大きくなる前のそれをナローポルシェとして新車とは別に好まれていた。997型はさらに大きくなり私の好みではなかった。それがナローの様な顔つきに変わって登場したのがこの998型である。私はボクスターもケイマンも運転した。そしてカレラとカレニSを続けて運転した。はっきり言ってこの4台には値段がそのまま反映されている気がした。もちろんカレラSが必要かと言われれば必要ないかも知れないが、車の機密性、エンジンフィールどれをとっても911が上手だった。まず驚くのはフレームの頑強さである。「金庫の様な」という表現がぴったりとくる。さらに、車の後ろから押されるような独特の加速感は、あのブレーキによってピタリと止まる。ブレーキだけが高性能なのではない。車のバランスが優れているのだ。以前、アウディS6をチューニングして足回りを固め、大口径のブレンボを付けたことがあったが、エンジンが前についているためどうしても慣性モーメントが働く。これが大きな違いなのである。

それからさらに月日が経過した。飛ぶ鳥を落とす勢いだったポルシェはフォルクスワーゲンを買収するとまで囁かれたのに、結果は逆さまになった。ポルシェはワーゲンに買収されたのだ。つまりこれから発売されるポルシェは親会社フォルクスワーゲンのポルシェなのである。そんなメランコリックな気持ちで家の近くの国道を走っているとディーラーの駐車場にバサルトメタリックのポルシェが目にとまった。カレラSで走行距離はまだ数千キロである。もちろん保証付きだ。それに何といってもワーゲンになる前の固体だ。私の頭の中で昨日、税理士から言われた一言が反復していた。「中古車で登録より2.3年経過して、かつ値下がりの少ない車で走行距離の短いもの」。

ぴったりではないか。翌日、現金を持ってこのディーラーに向かったのは言うまでもない。

それから2年一緒に暮らして驚いた。全く壊れないのだ。壊れないどころかエンジンオイルは一滴も漏れていない。こんなことは今までの私の車には無かったことだった。そういえば天国の師匠が言っていたことを思い出した。「自分にぴったりと合った車は以外と壊れないものなのだよ。女房とおなじさ。良く壊れるのは相性が良くないってことだから・・・」この言葉を信じて良いものやら未だに思案中である。
 
 
 
 

2012年12月18日火曜日

1981年のゴーストライダー Caper2 Ⅱ



洋一は経営企画室に配属されていた。街づくりや広告の奇抜さが話題になっていた会社だけに傍目には地味なこのセクションに配属されたことは洋一にとって屈辱であった。
 
しかし、よくよく考えてみると派手な広告や宣伝の仕事も会社という大きな組織からすると末端の組織でしかない。いつでもその要素は還元されるし、変更もされる。それに引き換え経営企画室というのは組織を体に例えるならば、脳のようなものである。何をするにもその基底が必要となる。そう考えると配属先でうかれている同期の男達を冷めた目でみられるようになっていた。

洋一が軽井沢にきたのは業務命令だった。先に来ている上司と合流する予定だったが洋一は敢えて2日前に来ていた。洋一の会社は某流通グループに属していた。テレビでは同社のイメージ広告と言う手法がもてはやされ、「おいしい生活」なるコピーライターの作った言葉は流行語となっていた。グループのトップは学生時代左派に傾倒し、当時のグループの総裁である父から疎まれグループの基幹事業である鉄道事業を弟に譲られた経緯もあり、密かに弟が行っていたホテル事業への参入を狙っていた。

洋一は軽井沢の某所にその先鞭となる施設を建設するためその事前調査のために派遣されたのだ。

計画はあくまで好戦的にホテル事業を始めるのではなく、某社団法人を利用し、その厚生施設として建築し、相手の動向を見極めながらホテル化しようとするものであった。

数年前から関係先の社団法人にはそれなりの寄付をしている。また、自らの渋谷の施設にその関連する自転車ショップも開店させ、同時に二人の有力な選手のスポンサーとしてオリンピック出場に向け応援もしていた。

予定地は東雲という軽井沢の交差点を左に入った場所だった。駅から5.6分という立地だった。周りは別荘地で洋一でも知っているような著名な政治家や財界人のもの目立った。

洋一のフローリアンは上信越道のインターチェンジで一般道に合流し、軽井沢駅に向けて北上していた。軽井沢と言っても駅の南側にはその弟が経営するゴルフ場とホテルが広大な敷地とその威容を誇り君臨していた。それ以外は何もない。洋一は好戦的でないという言葉を頭の中で取り消していた。

洋一の車は東雲を過ぎ2泊だけ自分で予約したホテルの駐車場に向かっていた。木立の中を抜けると木造の瀟洒な建物があらわれた。車はザラザラとした未舗装の駐車場の一番隅に停められた。大きなメタセコイアの枝が洋一のフローリアンを隠すように日陰を作っていた。
 
 

小説と写真

今ここに一冊の写真集がある。いや写真帖か。

私は氏の「図鑑少年」を読んでからずっと気になっていた。「図鑑少年」に主語は登場しない。

どこまでも客観的に風景や心情を即物的に捉える。これが私には心地よいと思った。

この写真帖は1980年代の初頭にニューヨークのおもにイーストビレッジに氏が暮らしていた頃に撮り集めたものだ。

氏は私より一回りは違わないが先輩である。つまり27.28歳の女性が今のような治安ではない80年代にひとりNYで暮らしていたのだ。

ニューヨークの地下鉄は犯罪の象徴であり、きっとそんな街に一人で出掛けることはきっとかなりの覚悟が必要だったはずだ。むしろ覚悟というより諦念に近いものか。

私も体が覚えていることがある。危険な街の中に放り出されたらまず自分に出来る事は五感を研ぎ澄ますことだ。聴覚は鋭敏になり、匂いや光にも敏感になる。

きっと彼女はそんな諦念の中に自信を見つけて、街に出たのだろう。

写真を見ると分かる。氏がどこまでも存在をなくしていることを。まるで透明になったように。

そうすることでありのまま景色が違った意味を帯びてくる。

竹田花氏の写真集を思い出す。写真を撮ると言う事は極限まで自己を透明にして表現する事なのか、小説もまた自己を極限まで解体し再構築するのだとすれば、優れた文章にはこの共通する無為なものが必要となる。

私にはそのどちらもそのかけらも永久に見つけることは出来ないだろう。

パリの蚤の市を歩いている時に妙な緊張感が突然私の背中に走った。

妻は能天気に足取りも軽く喜び勇んでいたが、その直後、数人の子供達に囲まれライターで妻のコートの肩口に火を付けられた。

私が追い払うと逃げて行ったので大事には至らなかったが、その時の子供達のひそひそ声や大人の女の笑い声がスローモーションの映像のようにはっきりと今でも瞼の裏側にこびりついている。

あのときの緊張感こそが今の東京にはないものだったのかもしれない。

氏は私の大学の先輩でもある。当時の先輩達はこうして海外に出て行き貴重な経験をしてそれを豊饒な記憶と共に日本に持ち帰って来ている。

驥尾に付す。そんな言葉を思い出す。



2012年12月16日日曜日

月の光


月の光

その女の子は不思議な魅力を持っていた。万人からすれば決して美人の類ではない。しかし何故か男性を引きつける不思議な魅力を持っていた。コケティッシュという言葉がある。彼女の場合はその容姿や表情は決してコケティッシュと言うわけではない。どちらかというと都会的とは正反対の牧歌的で素朴な穏やかなものだった。ところが彼女が話し始めると人々は彼女の魅力に取りつかれていく。まるで魔法でも掛けられたように彼女の言葉とそれを裏付けるしぐさに陶酔するのである。

そんな彼女と初めて出会ったのは彼が大学3年の時だった。彼の親友から紹介されたのだ。当時の彼にはすでに恋人として付き合っている3歳下の彼女がいた。友人と彼女の会話や一連の動作はどうみても恋人たちのそれと同じで、だから彼は二人の関係をあらためて聞きただすこともしなかった。

それから1年が過ぎようとしていた。彼は相変わらず友人や彼女そして何人かの友達を加え、一緒に旅行に出掛けたり、お酒を飲んだりしていた。

ある夏の終わりに伊豆のペンションに6.7人で出掛けた。海水浴には遅すぎたが夏の名残を楽しむかのように12日で出掛けた。そのとき部屋の窓辺で彼は名前も知らない親友の友人とその彼女がとても親密に楽しそうにおしゃべりをしていたのを見てしまった。話の内容は分からないが、その姿はどうみても恋人同士だ。彼女の微笑み、髪をさわる仕草、そのどれをとっても恋人達のみせるものたった。彼は困惑した。

彼は親友と二人になったときに、親友に向かって「本当に君の恋人なの」と恐る恐る言葉をひとつずつ噛みしめるように尋ねた。すると親友は笑いながら「いや彼女はみんなの恋人なんだ。皆が彼女に恋しているのさ。君だってそうなんじゃないのかい。」「いや君が言いたいことは分かる。僕だって彼女を独占したいと思ったことはある。でも・・・」親友は言葉を繋げなかった。

それから3か月が過ぎようとしていた。彼は歌舞伎町近くの大きな書店を出て駅に向かう途中、道路を挟んだ向こう側に見たことのある女性を見つけた。彼の頭は混乱し、ロジックな答えを見つけようと幾通りの解法が頭の中で逡巡し、そして消えて行った。

いつも観ていた時の彼女はジーパンに白のシャツを着ていて、どちらかというとボーイーシュな服装を好んでいた。ブランド物を身につけていることはなく、胸元のティファニーの小さなペンダント程度だった。その彼女がまるで雑誌の特集ページの様なファッションで歩いている。

当時、ハマトラというファッションが流行っていた。ミニスカートにミハマのローファー、フクゾーのポロシャツ、キタムラのバック、それがお決まりのステレオタイプのファッションだった。誰もが同じ格好で、同じ化粧をする。まるで軍隊のそれのようだ。彼はそんな雑誌をときおり眺めて、そこに写る彼女たちの表情が欠落していることを感じていた。同じものを着ることで封印された個性。同時に全てを同質化することで迷彩される個人であるのだ。そんな恰好を彼女がするとは思ってもいなかった。

彼の頭がまるでCPUの処理速度追いつかなくなったコンピューターのようになりかけていたときに、反対側の彼女は繁華街の方向に歩きだしていた。彼女は彼の存在に気づいていない。

彼は書店の紙袋をブルーのディパックに押し込み彼女の後を追った。

表通りから細い路地を右に曲がり、グレーの古ぼけたタイル張りのビルに彼女は吸い込まれていった。

古ぼけたインジケーターに目をやると、エレベーターは4階で止まった。雑居ビルには看板もポストもなかった。ただ窓が全て外から見えないように完全に遮断されそれぞれの店の名前がけばけばしい原色で書かれていた。

4階には「月の光」と書いてあった。彼はそこがどういう店で彼女が何故あんな格好をしていたのかやっと理解した。

彼はその後東京の郊外に引っ越して、親友とも疎遠になり、一緒に会ってお酒を飲んだり、旅行に出掛けたあの人達の事も忘れかけていた。いや、忘れかけていたというよりそもそもほとんどの人の名前を知らなかった。

彼は大学を卒業し、中堅の商社に勤めてた。偶然、取引先のひとりの社員と名刺交換をした際に、あの時の一人だった事が分かった。相手も気付いて、暫くの間昔話に花が咲いた。別れ際、彼は彼女の音信を聞いてみたが、その人によれば、音大を卒業後、しばらく弁護士事務所で事務の仕事をしていたが、とある事件で依頼主の男性の耳を噛み切ってしまい、病院に送られてその後は音信不通だということだった。

彼はあの日の新宿での彼女といつも白いシャツで多くの人に囲まれていた彼女を順番に登場させ、幕間を下した。

それから10年が経過した。

彼が中野駅前にある開発されたばかりの大きなビルの横につくられた街路樹のある歩道を歩いていると、正面からジーパンに白いシャツをきた女性が二人の子供を連れて日陰を探すように歩いてくる。子供達は揃いの長袖のテーシャツに赤い野球帽をかぶっていた。女性は子供たちの笑顔と同じくらい、楽しそうな表情をして軽やかに彼の横を通り過ぎた。

喫茶店からドヒュシーの「月の光」が流れていた。
 
 
 
 

アメリカンクラブハウスサンドウィッチ 森戸海岸 デニーズ


アメリカンクラブハウスサンドウィッチ 森戸海岸 デニーズ
 

食に関する事を話題にしてきたのであるが、今回は断然人の話である。そのことを最初にお断りしておく。

私が友人S氏(ご夫妻・ご家族)と友達になったのは18年前である(たぶん)。

私が横浜に引っ越して間もなくしてジーニーというゴールデンレトリバーを飼った。もちろん飼ったというより買ったという表現が正しいほど、唐突に直情的にペットショップからもぎ取るように引き取ってきたのだ。ジーニーはディズニーの魔法使いから名前をもらった。私達に幸せの魔法を掛けてくれるように名前を決めた。ジーニーは家族の愛情を一杯もらって順調にすくすく育った。そんなジーニーの遊び場所になる空き地が当時は家の近くに多かった。三角と呼ばれるその場所は人家も少なく、地形的にも一方を崖地に囲まれフェンスで覆われたまさに犬を遊ばせるには最高の空間だった。

ある日、マスクをした紳士が私達の方を見ていた。すると以前から一緒に遊ばせていたゴールデンの飼い主の男の子が紳士のところに近づき、紳士に向かって「おじちゃん怖くないよ、入っても大丈夫だよ」と大きな声で促した。紳士自らも大きな体躯のハスキー犬を飼っていたのだが、実は犬は怖かったのである。その男の子の眼力は当たっていた。

その紳士こそ今回の話題のS氏なのである。その後、S氏も含めて犬を共通の話題とするその空き地の人々とは犬の名前を使って呼び合う間柄になった(当時は犬の名前は知っていても名字も職業も全く知らなかった)。

最初に犬抜きで(何か蕎麦の天抜きみたい??)合ったのは市が尾駅近くの相馬という焼鳥屋だった。2階に上がった私達は足の踏み場の無いという表現がぴったりのその空間にぎゅうぎゅう詰めで座してジヨッキを重ねた。当時は10家族いたと思う。

S氏が言っていたとおり、次第に集まるメンバーも決まり、また病気や引っ越しなどで離散してしまった人もあらわれ、結果的に5家族が残った。この5家族はいまでも事ある度に集まり祝杯(いつでも祝杯なのだ)をあげている。

S家には二人の秀娘がいる。私達が知り合った頃は長女のM子さんはまだ大学生だった。確かUCLAから東部のコーネルに移った頃だっと思う。そして次女のW子さんはその当時まだ高校生。やがて国際線のCAを経て、慶応のMBAを取るこの二人のその秀才振りはまたの機会にとっておく。

私が今までの海外経験をした知り合いを見ると、日本の学校になじめず親が無理をして海外の学校に通わせるが、周りには日本人ばかりで語学の学習は愚か日本での基礎的教養も教わることなしに過ごして来た人が多かっただけに、このお二人には正に目からうろこ青天の霹靂だった。

S氏の詳細はここでは述べることはしないが、ようするにこのお二人を育てた、国際人なのである。パロスベルデスで暮らした生活ぶりからもその人脈、経歴はお分かりであろう。

兎に角、日本人離れしているのである。そんなS氏とは一回り以上歳は違うが失礼ながら年寄りと感じたことは一度もない。ゴルフで飛距離が負けた時の少年のような悔しさたけではない。全てに前向きなのだ。2度の大病の手術の時にも大笑いした病室が語るようにその魅力は私だけでなく万人が感じるものなのである。

そんなS氏が大好きな場所が森戸のデニーズなのである。どこのデニーズでも良いというわけではない。森戸のデニーズで、出来れば初冬の今のような季節がいい。S氏に言わせれば「厚手のアランスゥエーター」を着こんで風のない昼間がそのシチュエーションにぴったりらしい。そして注文するのは「アメリカンクラブハウスサンドウィッチ」である。

どんな高級なクラブハウスサンドウィッチよりS氏の日本離れした話題とともに頬張るここのサントウィッチが世界一なのは言うまでもない。

 

2012年12月15日土曜日

PM1:00 Sunday


PM 1:00 Sunday

 男性の名前は山極浩一郎と言った。年齢は41歳だった。彼は一級建築事務所を個人で経営していた。設計士と言っても建物の構造計算をするのが主な仕事でクライアントの多くは他の設計士やゼネコンだった。

 近年では耐震偽装問題が大きな社会問題となり、浩一郎の仕事も新規の建物建築の構造計算に加えて、既存建物の再計算の仕事も増え、朝早くから夜遅くまで事務所にこもる事が多くなっていた。休みもここ一カ月ほとんどとっていなかった。

 浩一郎には16歳になる一人息子がいた。息子は都内の国立大学の付属高校に通っていた。いつもは電車で横浜の自宅から30分掛けて通学していたが、吹奏楽部の部長をしているため早朝の部活動や練習部屋の確保の時などは父親と一緒の車で来ることもあり、一緒に近くのファミレスで朝食を取ることも多かった。美佐子の店に現れたのはそんな早朝の一コマだった。

 浩一郎は7年前に妻を病気で亡くしていた。妻はすい臓がんだった。癌が見つかった時には既に手遅れであった。妻はその10カ月後息を引き取った。

 浩一郎は妻の死後、自宅を仕事場にして息子を育てながら生活していたが、子供が大きくなり高校に進んだのを契機に仕事場を自宅とは別に設けた。自宅での仕事は時間と場所の制約がないために、生活にメリハリが付かない。仕事にも悪影響である上に浩一郎の気持ちが萎えてしまう。それで仕事場を南平台近くの小さな建物の一室に移したのだ。

 浩一郎は窓際のテーブルに席を取っていた。テーブルの上にはつい最近イエール大学が出版したモダンアートの作家「CARO」の本が置かれていた。

浩一郎は視線を窓の外に向けていた。道路の向こう側に子供の手を引いた美佐子の姿が見えた。

紺色のオーバーコートを着た美佐子は笑って手を振っていた。浩一郎は老眼鏡をはずし、その眼鏡をこげ茶のハリスツイードのジャケットにしまい、小さく手をふった。駅から真っ直ぐに伸びる街路樹の桜の木々がうっすらと色づき始めた初春の麗らかな日曜の午後だった。


2012年12月14日金曜日

村上春樹にご用心 Ⅲ


村上春樹にご用心 Ⅲ


以前にも村上春樹氏が本の中でも明示していたように、作家は様々な経験を粉々に粉砕し、そして再構築する作業だと言っていたが、私の様に小心者は氏の作品を読むたびに、心の中に小さな皺が折り重なりそれが助長される。

「国境の南、太陽の西」の読後感の苦々しさは、単に青春の後悔では済まされない、人間の性を感ぜずにはいられなかった。人間とはなんと我儘で理不尽な生き物なのか、小枝を這うシャクトリ虫の方がさぞ生きている価値があるとしか思えない、心の中の闇。

その経験を通してしか優しくなれない、人間の愚かさは私を打ちのめす。

「回転木馬のデット・ヒート」の中で画廊の女主人はいう。

「自分自身の体験によってしか学びとることのできない貴重な教訓。それはこういうことです。人は何かを消し去ることは出来ない。消え去ることを待つしかないということです。」

人生と言う長い時間の中で灼熱焦炎の地獄の苦しみは現存し、私達を苦しめる。何故なら、決して私達によって解決されない命題だから。
 
今日もまた私はまたひとつ解決不能の命題を作りに二つの月の出る街に彷徨う。