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2012年12月21日金曜日

串かつ 梅田 松葉


串カツ 大阪梅田 松葉

我が家のモットーは人には向き不向きがあるから何でも出来るようにならなくて良いという、一見すると出来ない事を肯定するような甘い親の口癖のようなものなのであるが、これには些か説明を要する。

私はどちらかと言うとスポーツ万能だった。バスケでは1年生からスタメンに入れられて試合にも出させてもらった、上の学年に進級してからはキャプテンも務めた。水泳だって個人メドレーの選手だった、小学生の時は一番上のクラスだった。コロコロだった小学校の低学年は別として背が伸びた頃には短距離も、走り幅跳びも、マラソンも体操もそこ以上にこなした。

ところが妻は全くの運動音痴。水泳は唯一得意だったらしいが、そのせいで真っ黒に日焼けしていたからその姿かたちだけでリレーの選手に推薦され辛酸を味わったと言っていたから、相当駆け足は遅かったようである。そんな二人の間に生まれた娘と息子と言えば、娘はごく普通の運動能力で飛びぬけたところはなく、中の中と言ったところだった。ところが、長男はイケナイ。公園に逆上がりの練習に行けばそのまま脳天から落ちるし、キャッチボールをすれば顔面でうける有様だった。水泳だけはなんとか教室に通わせたが、運動は彼にとってこれ以上と無い責め苦のようであり、私は息子が運動で活躍する夢はさっさと放棄したのだった。

そんな家庭事情であるから運動で活躍する子供を見ると必要以上に応援したくなる。無い物ねだりの典型ではあるが、仕方ない、我が子にはその線の能力はないと判明したのだから。

リトルリーグから全国的に名前が知れていた友人の息子が甲子園に出た。周りの友人知人変人総出で応援に出掛けた。最初は春の大会だった。楽天で活躍する田中投手率いる駒大苫小牧に完敗した。そして夏の大会。甲子園で強くなるという話があるが、まさにそれだった。快進撃を続け決勝で同校と対戦した。そして優勝した。一緒に行った人たちは老若男女皆抱き合って喜んだのは言うまでもない。

そうした一連の甲子園に出掛けた時に、梅田の地下街にある松葉という串揚げ屋を生粋の大阪人に教えてもらった。前の日に一人1万円以上する梅田にある高級店の串揚げを食していたが、味も雰囲気も断然松葉の方が上だった。ご存知のように串揚げは2度付け禁止である。ソースが足りなくて手持無沙汰にしていた私に常連さんと思しき初老の男性が優勝のささやかな祝福として野菜の串揚げを一本ご馳走してくれた。食べ方も教わった。最初にどっふりと付けて余ったソースを小さな皿に貯める。そして足りなくなった時はその皿のソースを加えて食すのだ。これなら2度付けにならない。暖簾の汚れは美味しさの証という。昔は食べた手で暖簾を手ぬぐい代わりにそっと拭いていたようである。なるほど松葉の暖簾はその噂に違わない貫禄があった。




2012年12月20日木曜日

本緒子 堅田 魚清楼


本諸子(もろこ) 堅田 魚清楼
 

この諸子に至っては数えるほどしか食べていないし、その初体験だって50歳を過ぎてからであるから、このように文章にすること自体、滸がましいとお叱りを受けるのを重々承知でそろりそろりと書き始めている。

そもそも私は川魚を食べたことが無かった。母親方ははっきり言って魚嫌いである。魚とみれば生臭いといい敬遠する。幼き頃に食卓に上がったのは塩鮭と秋刀魚くらいのものだった。もっとも当時の北関東は海から離れていて、今のように陸上路が発達していなかったから海の幸にあり付けなかったのは当然と言えば当然かもしれない。ところがである街の外れまで自転車をころがせば嫌というほど川魚は捕れた。鮎、山女、鰍、そして渓流の王様岩魚までも捕れた。しかし、それらを食べたことはなかった。

何故食べなかったのか、切れそうなあやふい記憶の糸をたどりながら考えてみる。私の住んでいた家のすぐ裏手には渡良瀬川が流れていた。そう森高千里の歌に出てくるあの川である。当時の渡良瀬川は足尾鉱山の鉱毒はたれ流しされなくなったものの、生活排水はドバドバと遠慮なく捨てられていた。近所の屠殺場では豚の絶命の叫びとともに皮をなめす際に使われる溶液があぶくを立てながら流されていた。そんな姿を見たからなのか、川で捕った魚を食べようとは一度も思ったことはなかった。

そうは言っても人間と言うのは贅沢なものである。一度美味しいと味をしめればまた食べたくなる。私は若い頃赴任した岐阜で美味しい川魚に邂逅したのである。

長良川には皇室に献上する特別な場所があってそこでとれる鮎は絶品であった。脂ののり、身の柔らかさ、どれも今まで食べたどの鮎より美味しかった。特になんとも言えない肝の苦味も上品で奥が深かった、あの鮎以上のものには未だお目にかかっていない。郡上八幡近く美濃白鳥でごちそうになった雨子も最高だった。身は適度に締まっていて弾力があり口の中でかすかな甘みとともに爽やかな香りが鼻腔を抜けて行く、素晴らしい魚だった。最後には岩魚の骨酒ならぬ、雨子の骨酒である。

一昨年、妻から琵琶湖の湖岸に美味しい鴨と諸子を食べさせる旅館があると聞いた。その情報源は妻の友人であったが、その方のご主人は、ドクターでありながら日本の国際貢献のため世界中を飛び回っている賢者である。さらに奥様も同業であり、経済力と経験と言う力技と小技を取り交ぜたこのお二人の言う事だからと大いに期待して出掛けたのである。

京都駅から湖西線というローカル電車に乗り換える。文字通り琵琶湖の西湖岸を走るのである。日本史に出てくる大津京はここだったのかと思う間もなく、雄琴駅を通過する。世の男性の多くはこの2文字に特別な感情をお持ちかもしれないが、私は初めてこの駅を見た。(妻の手前などではありません。本当に)大都市近郊の観光地の例にもれず近年は訪れる人も少なく、一大歓楽街も今や風前の灯かと見紛う寂れ方であった。電車は堅田という駅で停車して私達はその駅で降りた。駅前のロータリーはどこにでもありそうなガランとしたものだった。タクシーで行先を告げるがまだ予約した時間には早い。一度店の場所を確認して辺りを散策した。このあたりは比叡山の荘園だったようで歴史のある寺が多く、対岸と行き交う橋の無かった頃にはその通行を荘園が管理し、徴税していたという。

店の隣には景勝地「浮御堂」がある。建物の基礎はコンクリートで補強され昔の名残はないが、近くに葦原が広がり、鴨が羽を休めて浮かぶその情景は千年以上前の平安人が見ていたそれとそうかわらないのかもしれないと一人感慨にふけっていると、隣で妻が「あの鴨食べるのかな」と言うので一辺で興が冷めた。

店は旅館であるが泊らないで食事だけすることもできる。平日のかつシーズンオフでもあったのでお客は私達だけだった。

浮御堂の隣の角部屋に通された。窓の外には先程の鴨が無数に浮かんで見えた。仲居さんが言うには鴨はここで捕って食べるわけではないらしい。契約している猟師さんに別の猟場で捕ってきてもらうとのことであった。一安心した。もっとも先程、鴨と言っていたのはカイツブリのことで、鴨ではなかったらしい。メインは鴨鍋なのであるが、先に諸子が運ばれてきた。

私が初めて諸子を食べたのは建仁寺に近い「丸山」という料亭だった。ここは豪快な日本料理を提供する。伝統的な日本料理ではあるのだけれど料理人の旬と同時に力を感じる料理だった。その時はあと2日もすれば蟹の解禁の直前ということでピンチヒッターとして琵琶湖の本諸子が供された。身は淡泊だが脂はのっている。軽くあぶった諸子を三杯酢で軽く締めてあるそれは絶品だった。一人に二尾の諸子はあっという間に胃袋に消えて行った。

仲居さんは慣れた手つきで諸子を軽く炙り、最後に頭を網に刺して焼いて行く。そうすると余分な脂が頭に落ちて、頭はカリッと香ばしく焼ける。いや絶品である。なにせこの貴重な本諸子を一人8尾も食べたのだ。大きさも形も公魚と似ているじゃないかと思っている方に申し上げる。全くの別物です。本諸子は本諸子、他に似た魚はありません。

鴨鍋ももちろん絶品であるのだけど最初にこんなウルトラ―スーパー難度の技を見せられると、後は霞んで見えるのはご愛敬でしょう。寒くなるとまた行きたくなるそんな店である。今度は10尾にしようと心に決めて・・・・
 

 

1981年のゴーストライダー Caper2  Ⅲ


Ⅲ

 チェックインの時間にはまだ少し早かったので、洋一は小さなボストンバックをホテルのフロントに預けて薄手の鐡紺のダナキャランのナイロンコートを羽織って道路に出た。

 この辺りの街路樹は常緑樹が多い。常緑樹と言っても一年中同じ色をしているわけではない。初冬のこの季節になると盛夏のそれとは緑の勢いが違っていた。しばらく常緑樹の続く小道を抜けると辺りが明るくなった。ここは洋一郎の会社で計画しているリゾートハウスの建設予定地にとても近い場所だったが、林に遮られその場所は直接は見えない。さらに進むと街路樹が広葉樹に切り替わる。既に木々の半分の葉が落ちていた。残っている葉は黄色とオレンジ色に奇妙に区分けされ力なく枝にぶら下がっている。
 そんな葉脈の向こうに小さな建物が見えた。建物はログハウスのようでもあったが、やけにガラスの部分が多く、そのガラスは手作りなのか湾曲しているように見えた。そのガラスの細い珊の間から中の様子が見えた。建物の中では女性が本を読みながら何かを飲んでいた。建物に近寄って見ると小さな木製の看板に「Michael」と描かれていた。昔からある喫茶店のようだった。洋一はガラスの嵌めこまれた木製のドアを押してその店に入った。
 店内は思っていたより明るく、落葉して明るくなった子楢の林に囲まれている。洋一は後で知ったのだが、この店は洋一の生まれる前から別荘族に愛されてきた喫茶店であった。先代のご主人はロシアから日本に移住し、結婚してここに移り住んだと聞く。そして誰もがここのロシアンティーと自家製のピロシキを愛していた。今ではそのご主人は亡くなったが、妻が後を継いでいる。洋一はピロシキと並ぶもうひとつの名物であるチーズケーキとコーヒーを注文した。

洋一はポケットから一冊の本を取りだした。

 チューホフの短編集だった。チューホフと言えば「かもめ」「三人姉妹」「ワーニャ叔父さん」「桜の園」などの戯曲が有名だが、洋一は短編集にあった「犬を連れた奥さん」という小説を読み始めていた。まだ冒頭の部分だったが、その犬がポメラニアンであることを頭にインプットしたばかりだった。洋一はページの中のポメラニアンという単語を探して、読みかけの途中のページに追いついた。

 数ページ読みおえた頃、コーヒーとチーズケーキが運ばれてきた。コーヒーは群青色の花柄が大きく婀しなわれ薄いブルーで縁どりされたカップに丁度良い分量の液体が注がれていた。コーヒーの表面から立ち上がる水蒸気が、わずかに揺れる湖面と朝靄のように見えた。

 チーズケーキはとても上品だった。焼いていないケーキの上にはブルーベーリーが掛けられていた。甘さは抑えられ、かすかにレモンの酸味が効いている。これならコーヒーでなくウィスキーとも相性が良いと洋一は思ったが、その考えは頭の中に戻した。

 窓の外に目をやると、リスが木々を駆け回っている。鎌倉で見るそれより一回り小ぶりで体の体幹にそって縞模様がある。洋一は目が慣れてきたのか、先程まで涸れ樹にしか見えなかった木々のあちこちにリスが居ることに気付いた。店内に視線を移すと、先程の女性が中腰になって、床を見つめていた。

 女性はグレーのフランネルのスカートにエンジ色のスウェーターとカーディガンのアンサンブルのニットを着ていた。落ち着いたその恰好からか洋一より年上に見えた。

 洋一はその女性に向かって何をしているのか声を掛けた。すると女性は洋一を見るでもなく床に目を見据えたまま、「コンタクトレンズ」とだけ答えた。洋一と麗子の出会いだった。
 
 
 
 

AM11:00 Sunday

AM 11:00 Sunday

美佐子を乗せた浩一郎のカーボンブラックのBMWは第三京浜を横浜に向かって走っていた。浩一郎はときに大きな図面を使うこともあり荷質の広いワゴンタイプの車を乗り継いできたが、この車も同様だった。浩一郎は慣れた手つきで左手で頭上のスイッチを押し、初夏の日差しを室内に取り込むようにガラスサンルーフを開けた。

雲が流れるように美佐子の上を通過していった。美佐子は浩一郎から昨年のクリスマスにプレゼントされたフォーナインの赤く縁取られた大きめのサングラスを掛けなおし、浩一郎の横顔をみた。浩一郎の横顔は40歳を超えるとは思えないほど無駄がなくシャープだった。それはやせ過ぎて頬が出て身が窪んでいるそれではない、ちゃんとあるべきところに筋肉が付き、大人の男の表情を作っていた。

車は横浜公園で高速を降りて横浜スタジアムを迂回するように港の方角に直進した。中華街に右折する車をするりと交わして浩一郎のBMWは地下の駐車場に車を停めた。

美佐子の息子はこの一週間姉のところにいる。美佐子が家を離れたのと同じころに姉は実家を出て結婚した。姉には息子と同じ年齢の女の子と男の子の双子が居た。姉は田園調布に暮らしていた。夫はもともとコンピューターのプログラムの仕事をしていたが、ふとあるきっかけで友人と一緒に起業した会社が開発した公開鍵暗号の特許を取得した事でマスコミの脚光を浴びビジネス的にも大成功をおさめた。姉は美佐子のことをずっと気遣っていた。

美佐子が前夫と離婚する際にも自分のことのように美佐子を守り保護した。美佐子側の弁護士は夫の同級生だった。そんな経緯もあり、浩一郎と付き合い始めた最初から、美佐子は姉に浩一郎を紹介した。

姉は紹介された自由が丘の洒落たイタリアンレストランで浩一郎を見るなり、リーデルのグラスに並々と注がれたシャルドネを飲み干し、美佐子にそっとウィンクして微笑んだ。ワインの銘柄はカリフォルニアのコングスガードの「JUDGE」というワインだった。
浩一郎と美佐子は駐車場の階段を出て表通りに出た。浩一郎と美佐子はマリンタワーの正面に建つ白い建物にドアマンに導かれて美佐子に続き浩一郎も軽く会釈をしながら入っていった。





2012年12月19日水曜日

車 ポルシェ911 カレラS


車 ポルシェ 911 カレラS

 
 私は2年前にポルシェを手に入れた。

 私に車を買うに当たってルールがあった。一つは50歳まではスポーツカーに乗らないという決まりだった。それは何とかクリアーできた。
もうひとつはその車にふさわしい男になっているかというかなり曖昧でかつ難しい定義であった。もちろん今でも自信など無いし、その証しにポルシェで出掛けて行く事を控える場面も多々あるのが実情であるからしてそのあたりはご容赦のほど喫してお願いする。

私には車の師匠が居た。既に他界されているが、日本の車の創世記から車を「いじって」いた。
日本で10番目の板金屋というのがその師匠の自慢で、取り立てた用事もないのに私のところに来て自動車の話をひとしきりしてから、帰っていくのが日課だった。

師匠は拘りの人だった。美味しい蕎麦屋や鰻屋もこの師匠に教わった。バーバリーのお誂えのコートは共地で帽子も作っていた。若い頃は足袋のコハゼに純金を使ったと言っていたから粋な江戸の職人だったのだろう。

師匠が「とにかく一度乗ってみな」と私にいった車がある。一つはロールスロイス。そう小学生の私が生まれて初めて恋した車である。このエンジンはロングストロークで独特のフィールがあると言っていた。エンジンはまるで体躯の強靭なアスリートの心臓のようで、力強く繰り出される血液は強大なトルクを発揮し、どこで乗ってもその余裕からジェントルに振舞えると。一度、横に乗せてもらったことがあるが確かにその通り、素晴らしい車だった。もちろん、買える予定も力もないのだが。

そしてもう一つがポルシェである。師匠は前者が公道を走れるもっとも豪華な車だとすれは、こちらは公道を唯一走れるレーシングカーだと比喩していた。当時のポルシェはまだ空冷で良く壊れたようである。下り坂はまだしもエンジンが後ろについていて、なおかつ後輪駆動なので上り坂では前輪が浮いてしまう。そのためボンネットの中に砂袋を入れることが流行ったほどである。私もこの時代のポルシェに箱根の山道を運転させてもらったことがあるが、ほんの少しのミスが命取りになるような車だった。

それから月日は流れ、私も歳を取った。新車が出るとほとんどの車(興味ある)を試していた。偶然、現行のひとつ前のポルシェに乗る機会を得た。実はここ数年ポルシェは大型化して、ファンの間では大きくなる前のそれをナローポルシェとして新車とは別に好まれていた。997型はさらに大きくなり私の好みではなかった。それがナローの様な顔つきに変わって登場したのがこの998型である。私はボクスターもケイマンも運転した。そしてカレラとカレニSを続けて運転した。はっきり言ってこの4台には値段がそのまま反映されている気がした。もちろんカレラSが必要かと言われれば必要ないかも知れないが、車の機密性、エンジンフィールどれをとっても911が上手だった。まず驚くのはフレームの頑強さである。「金庫の様な」という表現がぴったりとくる。さらに、車の後ろから押されるような独特の加速感は、あのブレーキによってピタリと止まる。ブレーキだけが高性能なのではない。車のバランスが優れているのだ。以前、アウディS6をチューニングして足回りを固め、大口径のブレンボを付けたことがあったが、エンジンが前についているためどうしても慣性モーメントが働く。これが大きな違いなのである。

それからさらに月日が経過した。飛ぶ鳥を落とす勢いだったポルシェはフォルクスワーゲンを買収するとまで囁かれたのに、結果は逆さまになった。ポルシェはワーゲンに買収されたのだ。つまりこれから発売されるポルシェは親会社フォルクスワーゲンのポルシェなのである。そんなメランコリックな気持ちで家の近くの国道を走っているとディーラーの駐車場にバサルトメタリックのポルシェが目にとまった。カレラSで走行距離はまだ数千キロである。もちろん保証付きだ。それに何といってもワーゲンになる前の固体だ。私の頭の中で昨日、税理士から言われた一言が反復していた。「中古車で登録より2.3年経過して、かつ値下がりの少ない車で走行距離の短いもの」。

ぴったりではないか。翌日、現金を持ってこのディーラーに向かったのは言うまでもない。

それから2年一緒に暮らして驚いた。全く壊れないのだ。壊れないどころかエンジンオイルは一滴も漏れていない。こんなことは今までの私の車には無かったことだった。そういえば天国の師匠が言っていたことを思い出した。「自分にぴったりと合った車は以外と壊れないものなのだよ。女房とおなじさ。良く壊れるのは相性が良くないってことだから・・・」この言葉を信じて良いものやら未だに思案中である。
 
 
 
 

2012年12月18日火曜日

1981年のゴーストライダー Caper2 Ⅱ


Ⅱ

洋一は経営企画室に配属されていた。街づくりや広告の奇抜さが話題になっていた会社だけに傍目には地味なこのセクションに配属されたことは洋一にとって屈辱であった。
 
しかし、よくよく考えてみると派手な広告や宣伝の仕事も会社という大きな組織からすると末端の組織でしかない。いつでもその要素は還元されるし、変更もされる。それに引き換え経営企画室というのは組織を体に例えるならば、脳のようなものである。何をするにもその基底が必要となる。そう考えると配属先でうかれている同期の男達を冷めた目でみられるようになっていた。

洋一が軽井沢にきたのは業務命令だった。先に来ている上司と合流する予定だったが洋一は敢えて2日前に来ていた。洋一の会社は某流通グループに属していた。テレビでは同社のイメージ広告と言う手法がもてはやされ、「おいしい生活」なるコピーライターの作った言葉は流行語となっていた。グループのトップは学生時代左派に傾倒し、当時のグループの総裁である父から疎まれグループの基幹事業である鉄道事業を弟に譲られた経緯もあり、密かに弟が行っていたホテル事業への参入を狙っていた。

洋一は軽井沢の某所にその先鞭となる施設を建設するためその事前調査のために派遣されたのだ。

計画はあくまで好戦的にホテル事業を始めるのではなく、某社団法人を利用し、その厚生施設として建築し、相手の動向を見極めながらホテル化しようとするものであった。

数年前から関係先の社団法人にはそれなりの寄付をしている。また、自らの渋谷の施設にその関連する自転車ショップも開店させ、同時に二人の有力な選手のスポンサーとしてオリンピック出場に向け応援もしていた。

予定地は東雲という軽井沢の交差点を左に入った場所だった。駅から5.6分という立地だった。周りは別荘地で洋一でも知っているような著名な政治家や財界人のもの目立った。

洋一のフローリアンは上信越道のインターチェンジで一般道に合流し、軽井沢駅に向けて北上していた。軽井沢と言っても駅の南側にはその弟が経営するゴルフ場とホテルが広大な敷地とその威容を誇り君臨していた。それ以外は何もない。洋一は好戦的でないという言葉を頭の中で取り消していた。

洋一の車は東雲を過ぎ2泊だけ自分で予約したホテルの駐車場に向かっていた。木立の中を抜けると木造の瀟洒な建物があらわれた。車はザラザラとした未舗装の駐車場の一番隅に停められた。大きなメタセコイアの枝が洋一のフローリアンを隠すように日陰を作っていた。
 
 

小説と写真

今ここに一冊の写真集がある。いや写真帖か。

私は氏の「図鑑少年」を読んでからずっと気になっていた。「図鑑少年」に主語は登場しない。

どこまでも客観的に風景や心情を即物的に捉える。これが私には心地よいと思った。

この写真帖は1980年代の初頭にニューヨークのおもにイーストビレッジに氏が暮らしていた頃に撮り集めたものだ。

氏は私より一回りは違わないが先輩である。つまり27.28歳の女性が今のような治安ではない80年代にひとりNYで暮らしていたのだ。

ニューヨークの地下鉄は犯罪の象徴であり、きっとそんな街に一人で出掛けることはきっとかなりの覚悟が必要だったはずだ。むしろ覚悟というより諦念に近いものか。

私も体が覚えていることがある。危険な街の中に放り出されたらまず自分に出来る事は五感を研ぎ澄ますことだ。聴覚は鋭敏になり、匂いや光にも敏感になる。

きっと彼女はそんな諦念の中に自信を見つけて、街に出たのだろう。

写真を見ると分かる。氏がどこまでも存在をなくしていることを。まるで透明になったように。

そうすることでありのまま景色が違った意味を帯びてくる。

竹田花氏の写真集を思い出す。写真を撮ると言う事は極限まで自己を透明にして表現する事なのか、小説もまた自己を極限まで解体し再構築するのだとすれば、優れた文章にはこの共通する無為なものが必要となる。

私にはそのどちらもそのかけらも永久に見つけることは出来ないだろう。

パリの蚤の市を歩いている時に妙な緊張感が突然私の背中に走った。

妻は能天気に足取りも軽く喜び勇んでいたが、その直後、数人の子供達に囲まれライターで妻のコートの肩口に火を付けられた。

私が追い払うと逃げて行ったので大事には至らなかったが、その時の子供達のひそひそ声や大人の女の笑い声がスローモーションの映像のようにはっきりと今でも瞼の裏側にこびりついている。

あのときの緊張感こそが今の東京にはないものだったのかもしれない。

氏は私の大学の先輩でもある。当時の先輩達はこうして海外に出て行き貴重な経験をしてそれを豊饒な記憶と共に日本に持ち帰って来ている。

驥尾に付す。そんな言葉を思い出す。