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2013年1月8日火曜日

鯖の文化干し定食 小坪 魚佐次


鯖の文化干し定食 小坪 魚佐次

ここのお店を紹介してくれたのは小坪で黒ラブのヘンリーを飼っていたU氏である。だからこの店はジーニーとヘンリーが惹き合せてくれた事になる。今は亡きジーニーとヘンリーに感謝。

U氏は私よりずっと年上だがここ小坪では古くからの人である。近くに同名の家があるので親戚であろうと推測される。そしてU氏の本業は地主業である。こんな職業があるかどうかは別として親から受け継いだ不動産を上手く活用して生活の糧としている職業である。

私の知る限り生粋の地主というのは本来、贅沢ではない。堅実な生活をしないと中々続かないからだ。誘惑も多いだろう、だから必然的に人を見る目が肥えてくる。これは多くの真っ当な地主に共通する。

私達が小坪に通うようになったのは丁度今から20年前である。子供達も幼かった。飯島公園に行くと多くの愛犬家が集まっていた。私達もそんな仲間に加わることが出来たのも本当に犬のお陰である。

私達はそれまで角の魚屋で魚介を買うことが多かった。この辺りの別荘族が多く利用している店だった。私達が魚を物色しているとヘンリーの父上が目配せするのである。
よく見てみると小坪産と手書きで書かれた発泡スチロールの箱に焼津漁協と書かれている。

 それ以来、ここではあまり買わなくなった。替わりに魚佐次に行くようになった。お刺身の類は例にもれず、アジフライ、カマスフライ、とんかつと揚げものも大変美味しい。そして鯖の文化干しは絶品である。
 はっきりいって湘南にもM鯖なるブランド鯖が存在するが、こちらの鯖は負けてはいない。香ばしく焼かれた鯖はふっくらとしていて脂がのっている、醤油を垂らすとさっと引いてしまうような焼き加減抜群の鯖は最高である。

私は歳を取ったのでご飯を少なめにしてもらっている。その代わり、クリームコロッケをひとつ追加で注文する。とにかくこの店の料理は何を食べても美味しい。ただし、夜の部はないので昼に行くか、予め注文しておく必要がある。今年息子たちが20名近く我が庵で合宿した際にも、ここのお弁当が活躍したそうである。彼らの予算は一食千円である。その中で彼らを満足させたこの店の実力は相当なものである。あなたがもし運良ければマグロの切り落としやあん肝を購入することが出来るかもしれない。それでつくるヅケは言うまでもなくほっぺたが落っこちる程美味である。魚が食べたくなったら迷わず魚佐次に向かう。私のGPSは間違わないのである。





うなぎクライシス2


うなぎクライシス2

 私の育った街は川に囲まれていた。家のすぐ裏手には渡良瀬川が流れていた。当時は悪名高い足尾の鉱毒こそ流されなくなったものの、様々な生活排水が流れ込み綺麗ではなかった。魚といえばハヤ(私達はそう呼んでいた=ウグイ 鯎)や毒魚のギギなどしかいなかった。それでも少し足を延ばし支流に行けば山女や岩魚をとることもできた。
両親の友人一家が引っ越していった郊外の住宅地にも小さな川が流れていた。その川にはイモリやうなぎがいた。うなぎといってもお腹に斑点がある八つ目うなぎである。この八つ目うなぎを獲る時に使う魚篭(びく)は入口に返しがあり、魚が逃げない工夫がなされていて、その一番奥に石で潰したタニシを布に包んで入れていた。一晩経ってその魚篭を上げてみるとまんまとうなぎや川ガニが入っているという訳である。私はこの八つ目うなぎを一度も食した事がないし、たぶんこれからも食すことはないと思う。生活に近すぎた食材というのはこんなものである。
話は変わるがうなぎの卵が遠く北マリアナ海溝で見つかったとテレビで放映されていた。うなぎは稚魚(シラスウナギ)を河口で捕り、これを養殖させるわけであるが、うなぎの生態は未だ詳しくは解明されていない様子である。また近年、天然の稚魚が激減しているという。稚魚の値段がうなぎ昇りだと。うなぎが食べられなくなったら困るので研究の一早い実用化を望むところだ。
私が幼いころ、本当に偶にであるが、両親がうなぎを食べに近くの店に連れて行ってくれた。その店は家からそう遠くない(当時の私にはとても遠く感じたが)ところにあった。群青色の暖簾に白抜きで「うなぎ」と書かれていたその店のうなぎは本当に旨かった。
うなぎが好きな人と嫌いな人が分かれると言う。あの姿が苦手だと言う人もいれば、美味しいうなぎを食べたことが無いという人もいる。直木賞をとった四国出身の男性作家は後者で大人になって初めて美味しいうなぎを食して好きになったと本に書いてあったが、私の場合は少し違う、つまり原体験は美味しかったのだ。子供にうなぎの味が分かるはずもないと叱責されそうだが、あのうなぎは確かに美味しかったのだ。
上京してうなぎを食す機会が無かったわけではない。しかしながら貧乏学生、薄給のサラリーマンの食べられるそれはどれも身は硬く骨っぽく、表面には水飴の様なベットリしたものが付いていた。かくして私は暫くうなぎからは遠ざかることになったのである。
関西は腹開き、関東は背開きという。私にはどうでもよい。それより、うなぎを蒸すか蒸さないかは重要であった(過去形)
私はつい最近まで関東風の蒸した柔らかい鰻が好きだと思っていた。東京で食べるうなぎの殆どがこの作り方であるからだ。ところがある御仁からそれは関西風の美味しいうなぎを食べた事がないからだと指摘された。味のわかるその御仁のご高説もっともである。ならばと、娘の住む岡崎に向かい駅至近の「はせべ」という店で食した。待つこと30分、運ばれた白焼きと鰻重を食べた瞬間、私の浅はかさを恥じたのである。旨い。外はパリッとしていて中はふっくら、タレも甘すぎること無く、完全に私の想像を超える旨さである。。それ以来、蒸す、蒸さないで判断することはしないことにした。
関西と関東の違いは何からくるのであろうか。色々な本で調べてみると、うなぎそのものが一番の理由だったようである。例えば産卵のために川を下るうなぎと上るうなぎではその肉身は違うであろうし、四万十川のうなぎと利根川のうなぎでは違う。そこで背開きや腹開き、蒸さないうなぎ、蒸すうなぎと調理方が別れたようである。地産地消が一番ということらしい。
しかしながら、江戸前の蒸すうなぎが嫌いになった訳ではない。それはそれで美味しい店がある。東京もさることながら鎌倉の由比ガ浜通りにある「つるや」、辻堂の分かりにくい住宅街にある「うな平」は三指に入る旨さだ。特に「うな平」の肝吸いは素晴らしい。
豊橋に「丸よ」という店がある。豊橋はどうやら関東風と関西風の境界らしい。この店のうなぎは特別に美味しいということから別品=別嬪、べっぴんと呼ばれ、時代と共に意味が拡大し美しい女性を別嬪と呼ぶようになったと聞くが、なんともうなぎが転じたとは面白い。ここのうなぎは裏返して並べられる。何でもそのほうがタレがしっかりと掛かっていると見えるということらしいが、やはり見た目も大切、私はこれには賛同いたしかねる。
一度だけ海外でうなぎを食べたことがある。日本式のうな重である。食べたのは高級ブティックが立ち並ぶパリのサントノーレ通り。お昼時を過ぎたそのお店は比較的空いていて私たち以外に数組の客がいただけだった。東麻布に本店があるその店はガイドブックに載っている有名店である。日本と同じように三十分以上待って恭しく運ばれてきたうなぎを食して愕然とした。まるでゴムのようである。噛み切れない。たれやご飯は普通に美味しいのにうなぎが全然違う。あたりを見回すと、金髪を肩のあたりまで伸ばして指には数カラットもあろうかと思う宝石を身に付けた日焼けしたマダムが何も言わず美味しそうに食していた。あとで分かったことなのだが、どうも欧州のうなぎは日本の物とは種類が違うらしい。
うなぎには綺麗な水が必要といわれる。うなぎの臭みを抜くために一、二日その綺麗な水の中で活かしておくことが必要らしい。老舗のうなぎ屋には必ず井戸があってその水が大切な役目を果たすようだ。三島は富士の伏流水が市内至る所に流れていてこの水を利用してうなぎ屋が多いことでも有名である。偶然にも銀座からこの三島に終家(居だけでなく事務所も)を移した弁護士の先生がいることもあり、三島に出掛けることがある。というよりこのうなぎを目当てに仕事を無理やりつくっていると勘繰られそうであるが、私は三島広小路の「桜屋」が好きである。ここのうなぎはふっくらしている。そして臭みが例によって綺麗に消されている。店の裏手を覗くとこれから調理されようとしているうなぎが水色のプラスチックの大きな籠の中で元気に動いている。それを若い職人が数匹選んで調理場に持っていく。
世の中に天然もの礼賛の流れがあるが、私はこれに異を唱えたい。既出の東麻布の店でもまた横浜の某店でも天然うなぎを提供するが、恐ろしく値段が高い割上に脂が無かったり硬かったりとバラつきが多い。
渋谷に「うな鐡」という店がある。今は区画整理され綺麗になってしまったが、井の頭線の出入り口に程近い大衆店である。私の様な薄給のサラリーマンでも何とか食べられる店だった。この店はうなぎを水に付けて焼く、それによって無駄な脂が程良く落ちて、よく蒸したうなぎに近い味の物を提供する。千円で食べられるうな丼、今はどうなっているのだろう。
うなぎ懐石なる店がある。フランスのタイヤメーカーのランキング本にはこの手の店が星を付けて載っているが私に言わせればうなぎはうなぎである。邪道以外の何物でもない。
数十年前に私の車の師匠でもある翁に帝釈天の参道にある「川千家」に連れて行ってもらった。焼き方、蒸し方、タレ全てが私の好みだった。一辺で好きになった。小一時間待たされるのはご愛敬である。
老舗のうなぎ屋の中には予約の中々取れない店もある。浅草にある店もそうである。予約が取れないのは仕方ないにしても、あの無愛想な電話の応対は如何なものであろうか。人柄の良いご主人が焼くうなぎは辛口でさっぱりしていると、かの作家も書いていたのに残念である。神田明神下にある店も食わしてやるという気持ちが見え見えである。ごめん被りたい。
本店は神田にある「菊川」も好きである。近いので用賀の店に行くことが多いが、この店は最初から「うちは味の不安定な天然ではなく吟味した養殖物を使う」と明言している潔さも良しとしたい。特にお薦めは白焼き。
あーあ、お腹が空いてきたまだ九時だ。今日は墨田区に行く所用がある。帝釈天も程近い、よしと思う横から今日は時間がないと言われた。言われれば言われるほど食べたい。それがうなぎである。曼の意味を持つ、「つやつやのふっくらしたうなぎ」こそ「うなぎ」=鰻なのである。
最後に私が幼かった頃食べていたうなぎは「蒸さないうなぎ」だったことを補記したい。


2015年9月改訂












雲呑麵 ワンタンメン 池尻大橋 八雲 浜田山 タンタン亭


雲呑麺 ワンタンメン 池尻大橋 八雲 浜田山 たんたん亭

私は学生の頃、井の頭線の浜田山駅近い場所に住んでいたことがある。当時、私は叔母が勤めていた某企業のグラウンドでアルバイトをしていた。家から自転車で5.6分だった。グラウンドは広大な敷地の中に広葉樹林を擁していて、当時でもクワガタやカブトムシが都内のこの場所で捕れること自体珍しかった。

私のアルバイトはテニスコートやグラウンドの整備の手伝いだった。もっともプールで監視員のアルバイトもあったが、一度その取りまとめ役と思しき男性から説明を受けたことがあるが、アルバイトの中でも学閥のような順位性をもった形式的な硬直した魅力のない考えに辟易して、そちらには近づくことはなかった。

アルバイトの中身は肉体労働である。最初のうちは家に帰ってくるとどっと疲れが出て倒れ込んでいたが、慣れてくると中々面白い。働いている人は皆中年を過ぎた人達ばかりで、よくよく彼らの働き方を見ると、メリハリを付けているのだ。つまり要領よく休むのである。そしてこのアルバイトのさらに良かったことは他人と話をしなくて済むことだった。この頃の私は体裁の好い会話は心底御免被りたかったからだ。

夜は近くの中学生の家庭教師をしていた。今でもその子には申し訳ないと思うが、いくら熱心な親であっても本人にその自覚がなければ勉強は身に付かないと最初に会った時に感じた。しかし、割のいいアルバイトだったのでそのことは口外しなかった。心のどこかでそんな事を感じていたので、教育実習や教職必須課目に忙しいと弁解して、早い時期にそのアルバイトを辞めたのがせめてもの良心の呵責かもしれないと今は思う。

この頃の私は幾分経済的には上向きになっていた。とはいえ一日千円の生活から千二百円に格上げされたようなものだった。

時折、駅の近くにあるたんたん亭に行った。いつも頼むのは決まってワンタン麺である。私は幼き頃から雲呑を「うどん」と読む変な癖がある。良く考えればワンタンとなるのだが、咄嗟にその文字を見ると「うどん」と発音してしまう。パブロフの犬宜しく条件反射のなせる技なのだ。吉田戦車の4コマ漫画に喫茶店に入って「うどんください」というあれと同じである。私はたんたん亭に入って「うどんください」と言った。いや言ったと思う。しかしながら出てきたのは正真正銘のワンタン麺だった。それ以来、暖簾をくぐる前に「ワンタン、ワンタン」と心の中で連呼して入っていくことにしている。

たんたん亭のスープは魚介系のあっさりしたスープである。ここで修業した人があちこちで独立しているので一度はこのタンタン亭流のラーメンやワンタン麺を食した人が多いのではないかと思う。かくいう私の事務所の近く(ちょうど池尻大橋と中目黒の中間地点あたり)にも八雲というこれまたたんたん亭出身の店がある。以前は隣のガソリンスタンドで洗車してもらっている間にここで食すことが多かったが、今やガソリンスタンドはなくなり、この頃は中々行けない。雲呑に八雲、中々ややこしくなってきた。

このところブログに写真がアップ出来ない。あとでアップします??

picasa webならアップ出来る??なぜ??



 



 



2013年1月7日月曜日

純粋な人 私の記憶

世の中には心がとても純粋で優しいのにこの世の中に中々受け入れられなくて静かにこの世から消えてしまう人がいると思う。

小川洋子の「ことり」に出てくる兄弟のように。

私も二人そんな人を知っている。

一人は父が焼きものを作る工場のあった足尾にいた。

家の隣(隣と言っても東京のように家が密集している訳ではなく4.5百メートルは離れていた)のいさちゃんが連れてきた子だった。みんながターボーといっていたので正式な名前も名字もしらない。

いさちゃんは私より3.4歳年上だったと思う。夏休みの間だけ街からやってきた私の事をよく遊んでくれた良い兄貴分だった。

工場とは別に町から無償で借り受けた土地に建っている山荘のあった場所が地元では「まむし沢」とよばれて誰も住まない場所だとこっそり教えてくれたのもいさちゃんだった。

私はこの沢で水泳を覚えた。今でも水中で目を開けた時の得も言われぬ恐怖はこの時に植え付けられたものなのかもしれない。

私が小学校の2.3年生だったと思う。悪ガキの頃である。

無人駅のホームの下の石積みに小さな穴がある。

電車は1時間に一本くらいしか走らなかった。私達のその穴に花火を仕掛けて中から魑魅魍魎が出てくるのを待った。

その夏5.6匹の蛇やトカゲを捕まえた。ほとんどはそのまま逃がしたが、誰が言ったのか今は忘れてしまったが一匹の蛇と大きなカエルをネズミ捕り用のかごの中に入れてカエルがどうなるのか見ていた。

翌朝見るとカエルの足が蛇の口から出ていて、蛇のお腹が大きく膨らんでいた。

人間と言うのはどこまで残酷なのだろうか。小さな子供をそのまま可愛い天使のように扱う大人を見ると、それだけじゃないんだよと教えたくなる。

そんなときターボーは耳を押さえ、目をつむって何か訳の分からない言葉を発して、私達を止めようとする。実際には腕を掴んだり、制止しようとしたわけではなく、全身を震わせて抗議していたのだ。

私が今でもホッとするのはこのターボーはいさちゃんがいたおかげで誰からもあからさまないじ゛めは受けなかったことである。

ターボーが怪我をしていた小さな鳥を見せに私のところに持って来た時に、アトピーで真っ赤になっていたその分厚い掌がとても優しく柔らかくその小鳥を包んでいた事が今でも思い出せる。

私は夏休みも終わり街に帰っていった。それ以来ターボーもいさちゃんも行方は知らない。

10数年前に同地を訪ずれた時には工場の建物もいさちゃんの家も跡形もなくなっていた。

もう一人は同じ小学校にいた。私が5.6年生になったころ、初めてその子が同じ学校にいた事を知った。

当時の私の通っていた小学校には特別学級というのがあって5.6人がそのクラスにいた。同じ教室ではないのでほとんど顔を合わせなかったのだ。

何故、高学年になって普通級に入ってきたのか分からないが、恐らく中学には特別学級のようなものがなかったので徐々に馴らすためにそうしたのではないか。

その子は花や虫が好きだった。自分より弱いものを愛していた。

男の子が花壇の花を踏みつけて目茶目茶にすると、そっと花を元に戻そうとその子は涙ながらに花を植え直した。制服も手も泥だらけにして。

ある子が蟻を踏みつけて殺そうとすると、自分の掌で蟻を守ろうとした。結局、掌ごと踏みつけられて蟻は死んだ。

赤くはれ上がった甲に着いた靴跡より掌で死んだ蟻を見て泣いていた。

その子は中学1年生の時に死んだ。もともと心臓が悪かったようだ。今でも葬式の時に写真に映っていたその子が天使に見えた事は忘れない。

そして誰の記憶からもその子はずっと消えていた。

優しさとは何だろう、強さとは何だろう。私はこの二人を見て自分より弱いものを慈しむ心だと思う。

ここまで地球や自然に傍若無人に振る舞ってきた側の人間が何をぬかすか、全くその通りである。

しかし、円安や株高に一喜一憂している日本を見ていて、どうしても年の初めにこんな事を書きたくなったのである。

今年は慈愛を少しでも持てたら・・・そう思う凡人である・・・だって私には天使にはなれそうもないから・・・・

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bloggerの写真がアップ出来ないので色々試したけど(coo keyの削除やアドオンの設定)駄目だった。アメリカのサイトで確認したら同様の事態が起きていた。internet Exからgoogle cromeにブラウザーを変更して入ってみたら簡単にアップ出来た。

ビッグデータの問題もそうだけどやろうと思えば簡単にその分野でシェアの大きい事を利用して何でも出来るのだ。それを利用者は注視しなければならないと思う。



2013年1月4日金曜日

1981年のコ゜ーストライダー capter2 Ⅵ


Ⅵ
 
洋一はホテルの部屋の天井を見ていた。

軽井沢に来る前に優子とほんの些細なことで言い争いをした。正確には言い争いではなかった。優子は来年就職の予定だった。美術大学で美術史を専攻していた優子は美術の教員になるか一般企業に勤めるかしか選択肢はなかった。優子の父は教員になることを薦めていたが優子は全くその気はなかった。もっとも、教職の単位取得は今からでは間に合わない。その優子が一般企業に勤めることもしたくないと言いだしたのだ。特に直接言われた訳ではないが、就職して嫌な人達と付き合うぐらいなら、洋一と結婚して家庭に専念するそんな気持ちがうっすらと優子から読みとれた。洋一は優子と結婚したくない訳ではなかったが、優子には一度、社会に出てほしかった。洋一は自分が就職で迷っていた時に恩師に言われた一言が今でも自分の背骨になっている。それは「まずモラトリアムを卒業して一般社会に出て、お金を稼ぐということは、どの社会にも属さず、そのまま自由に働き始めることとは大きく意味が違う。それは人間の一生の背骨になる。どんな組織でも組織を知らなければ所詮ひとりよがりのままで終わってしまう。だから、どんなに短くても、どんな会社でも良いから組織に入ること、これが君には必要だと思う」

洋一は優子にそのことをなんとなく伝えようとしたが、優子には上手く伝わらなかった。

逆に洋一は優子に好きでもない仕事をしていると批判された。確かに思っていた仕事とは違っていたが、洋一はそれなりに仕事を楽しんでいたし、全ての人が自分の目標通りになるわけでもない。そして物事は変化するのだからと考えたが、洋一は優子にそのことを話すことはせず、そのまま飲みこんでしまった。

洋一はホテルのメインダイニングで前菜を食べながらすでにワインを2杯飲んでいた。うっすらと顔が火照ってきた洋一の前にメインの子羊のローストが運ばれてきた。ミディアムレアに綺麗に焼きあげられている。皿には生のローズマリーが添えられていた。肉を切ると中からうっすら赤いものがみえるがすぐ消えてしまい、皿には落ちない。肉をほぼ食べ終える頃、洋一は麗子と会った今日の事、そして今頃麗子たちはどんな夕食を取っているのか気になった。今日、麗子の別荘の室礼を見た洋一だったので、最初頭に浮かんだ手の込んだフランス料理を押しのけて、ここに戻る前に別荘の書架に見つけた本に出ていた一品を想像した。料理は白州家の長女が執筆したもので次郎や正子の食卓によく出されていたシンプルな料理だった。

洋一はワインをもう一杯飲み干すと、明日この事を尋ねてみようと白いクロスをテーブルに置きゆっくりと席を立った。


2012年12月29日土曜日

鮨 日本橋 吉野寿司


鮨司 日本橋 吉野寿司

 以前にも書いたが蕎麦と寿司は私の天敵である。間違って入った店で好みでないものが出されたときには人生最大の失敗と嘆き悲しむからである。
 さらにこのところ勘違いしている店が増えている。どこかのタイヤメーカーの出している本に星が付くと、とたんに有頂天に浮かれて偉くなったように勘違いするのだから始末が悪い。こんな店はこちらから願い下げである。

 ところで日本橋のこの吉野寿司は友人のいきつけの店である。店の名前は知っていたが食したのはつい最近である。
 ひょんなことで築地の鮪の仲卸をやっている人と知り合いになった。その人がいうには鮪の中で本当に旨いのは赤身だそうである。何故なら、トロや中トロなど脂の多いところは舌が馬鹿になってしまうらしいのだ。だから上等とそうでないものも以外とわからないらしい。ところが赤身となると上物との差がはっきり出るのだそうだ。

 よい赤身は舌の上に乗せると包丁(ステンレスじゃないよ)の味がするといっていた。確かにここの赤身はその鉄分というかヘモグロビンというかその手の味がするのだ。
 赤身にコクがある。そして、もうひとつ良いのはすべて小ぶりなのだ。シャリが大きいのもご法度だが、ネタが大きすぎるのも困りものである。要するに口に入れた時のバランスなのだ。ここの寿司はそのバランスが実に宜しい。
 さらに食べている間に供されるつまみの類も最高である。多くの寿司屋では高級感を出そうとつまみに凝りすぎる。白子やウニ、アン肝などをこれでもかと調理する。しかし、私が食べたいのはもっとシンプルな物だ。寿司が生なので焼き物や炙りものがいい。ところが、そんなものをと言わんばかりに中々出そうとはしない。
 先日もここではげそを軽く炙って出してくれた。これが食べたかったというのが分かったようである。その時、妻は風邪で熱が38度近くあったが、私と同じく21貫食べたのは内緒にしておこう。
 

 


とんび岩



とんび岩
太一ことターボーの家と良平の家は直線距離にして500メートルしか離れていなかった。二人は学校から帰るとランドセルを放り投げるようにしていつも真っ暗になるまで遊んでいた。そんな二人のクラスに鈴木勝男が転校してきたのは小学校5年のときだった。
鈴木勝男は背が高くひょろっとしている。背が低いターボーとは対照的だ。勝男は埼玉から転校してきた、父親の仕事関係とか言っていたが、そもそもこの街の小学校で転校生は珍しい。小学校、中学校と学校は変わるが、生徒のメンツは変わらない。
クラスの担任が勝男の紹介を終えると、勝男を良平の席の隣に座らせた。先生は良平に宜しく頼むとポンと肩に手をおき、くるりと反転し黒板に向かった。良平はそう先生に言われたことが少し誇らしかった。
それから3か月が過ぎた。勝男は体育の授業では球技はあまり得意ではなかったが、駆足だけは早かった。今までクラスで一番早かった男子と競争した時も大差で勝利した。
勝男は痩せていたことでスイッチョンという渾名をもらった。この地方ではクツワムシに似た、ウマオイのことをスイッチョンと呼ぶ。ただし、勝男のそれはその駆け足の早さから「スイッチオン」をもじった訳でもあった。
3人は土曜日の午後、とんび岩に行く約束をした。とんび岩はその街の西に位置していた。周囲を山に囲まれているその街はどこへ出掛けて行っても山がすぐ追いつく。とんび岩はその山の中腹にあり、とんびが羽根をたたんでひょんと留まっている姿に似ているからつけられたようだ。良平は街を睥睨するようにその場所にあるその岩が好きだった。
3人とも小さなナイロンのナップサックを背負っていた。この街のはずれにある競艇場の開場20周年の記念に貰ったものだった。
途中の駄菓子屋で3人は飲み物を調達した。良平とターボーはグレープ味のチェリオを買った。勝男は透明のスプライトにした。
途中まで道は舗装されていたので3人は自転車でその小さな公園まで行った。公園に着くころには背中にびっしょりと汗をかいていた。山の稜線にそって3人は登り始めた。
途中、木の根っこが飛び出していて、足を取られそうになったが何とか半分辺りまでたどり着いた。さらに進もうと良平が二人を振り返ると、勝男が「変な虫がいる」と地面を指差した。ターボーがその虫を見る。それはオケラだった。勝男はオケラを見たことが無かったのだ。虫の好きなターボーがそのオケラを捕まえて、ビニールの袋に入れようとした。良平はターボーをたしなめるように、「オケラは明るいところにいると死んでしまう。目が見えない彼らは太陽の光をとても嫌うんだ。だから、持ち帰っても死んでしまう」ターボーは残念そうに袋からオケラを取り出し草むらに放した。
太陽が西の山に近づいたころ3人はとんび岩にたどり着いた。3人とも汗だくで疲れていた。岩は2段になっていて、丁度段と段の繋ぎ目が平らになっていた。そこに3人は腰を下し、持ってきた飲み物を飲んだ。眼下に自分たちの学校が見える。とても小さなその建物は模型を見ているみたいだった。こうして街を見てみるとあれだけ大きく広いと思っていた街も案外小さいものだと思った。この街から離れたことのない二人はこの街の外のことが気になった。どんな街があって、どこに続いているのか。漠然とした少年の気持ちはその後の二人の人生におおきく影響を与えることになる。